2 宵 その2
宵 その2
蔦は椿姫の部屋を訪れた。常ならぬ手段で密かに告げようとすると、蛙が荷車に潰されたかのような悲鳴があがった。慌てて部屋にするりと入り込むと、肩を怒らせている椿姫が――
否、椿姫に化けた珊が、ぜいぜいと喉を鳴らしながら乱れた夜着を整えている所だった。彼女の肩越しに、俯せになって尻を突き出した格好で、意識を遥か彼方に飛ばして気絶している天が、白目を剥いている。
「あん、主様」
「妙な声をお出しでないよ、珊。まさかとは思いまするが、此れなるをなされましたのは?」
「あたい。やっちゃったよ、主様、どうしよう?」
蔦に気が付いた珊は、どうしようと言いつつも、全く悪びれた様子もみせず、ちろりと舌を出している。
肩を竦めてけらけら笑う少女に、やれやれと蔦は首を振った。彼にしては珍しい。
「違いまするよ、珊。此れなるをなさったのは、椿姫に御座いまするよ。それを間違うてはなりませぬよ」
「でも、主様、気持ち悪かったんだもん」
夜着を整えながらむくれる珊をそれでも厳しく窘めながら、蔦は天に無造作に近づく。目に手を当てて静かに目蓋を閉じさせ、だらしなく開いた口からはみ出した舌を口内に仕舞い込む。
「王子様や王女様ってのはさ、美形って決まってんじゃないの? なんだってこんな、不細工な変態野郎が皇子様を名乗れるのさ? 間違ってるよぅ」
「何の話で御座いまするか?」
「蓮才人様のお部屋で読ませてもらった草紙には、戰皇子様みたいな王子様と姫様みたいなお姫さんしか出てこなかったよ?」
「それは絵物語の中だけのお話に御座いまする。実際には糞豚王子様もいらっしゃれば、醜女王女様もいらっしゃいまする」
「やだよぅ、そんなの」
むす、と頬を膨らませている珊に、蔦はもう一度やれやれと首を振った。
「珊、宜しゅう御座いまするか?」
「な、なに、主様」
す・と蔦の姿勢が伸びる。淵に碧を帯びた瞳が、まるで瑠璃の刃のように冷ややかな輝きを放った。珊は、此れまでの一座での生活から、本能で蔦の冷酷な瞳の色に恐怖し、震える。
「宜しゅうおわしゃりますか? 今、此処にあらしゃるは、中華を旅に旅する芸能一座の軽業女の珊に非ず、祭国の新たなる女王として即位を待つばかりにあらしゃる御身大事の姫御前・椿姫様にあらしゃります」
「う、うん……」
主人である蔦の言葉使いが一段変わる。本気で怒っている証拠だった。薄絹で眸から下を隠して表情を伺い知らしめないのも、怒りの為だ。背筋に冷たいものが幾筋も流れていくのを感じつつ、珊は項垂れた。
「身が危ううならしゃりはったのは、致仕方あらしゃりません。御身を守らせ給いしは正しなる御判断にて、もの言わずにおりゃしゃりましょう。なれどもそちゃが、しゃっしゃりましたは此れ全て、椿姫様の行いにあらしゃいますのや。肝に銘じあらしゃれ。此れでは、そちゃを推挙ならしゃった真様に、いかな顔を向けしゃっしゃるおつもりや?」
蔦の瞳の色以上に冷たい言葉に、珊は小さくなった。
その通りだ。椿姫を逃す為に、彼女に化けたのであれば此処に居るのは珊という護衛を兼ねた侍女風情ではなく、真に椿姫本人なのだ。幾ら暴虐無道な行いをしてきた変態から逃れる為とはいえ、椿姫ではないと勘ぐらせるような行いをせずに止めねばならなかったのだ。
それでこそ、見込んだ甲斐があるものだと、思って貰える絶好の機会であったのに自分の愚かさで潰してしまった。
あぁん、もっともっと、変幻自在の術を学んでおくんだったよ。
そうしたらあたいだって、お姫様そのものになりきって、拒……ん?
「……主様」
「どうしゃっしゃりましたいな?」
「あたい、凄く大切な事に気が付いたよ」
「なに言わしゃるおつもりや? 言うてみなしゃれ」
「本物の椿姫様だったら拒みきれずに、あっさり押し倒されたまんま、最後まで行っちゃってるよ! それはまずいよぅ! やっぱり、あの変態糞豚色気狂をぶっ飛ばしてやるしかなかったよぅっ!」
「……珊」
「なに、主様?」
「それはそれ、これはこれ、に御座いまするよ」
珊の叫び声に毒気を抜かれた蔦が、肩を揺らして笑い転げた。
しかし笑ってばかりもいられない。
蔦は、懐から包を一つ取り出した。黄色の衣の包は手のひら程の大きさだ。
「珊、香炉を持ってきておくれ」
「はいきた、主様」
蔦の言葉に、素早く珊は動いた。手には龍の彫り物を施した流麗な細工模様の小さな香炉がのっている。満足げに頷くと、蔦は包を開いて、中の薄茶色い粒を香炉にくべた。忽ちのうちに紫煙が上り、天がぶち割った酒瓶の酒の臭気を消し去り、ふわふわと妖しくも甘い香りで部屋を満たしていく。
「主様、此れは何?」
「ああ、あまり近寄って匂いを嗅いではなりませんよ? 此れは、鵜片と言って心を惑わす魔障の薬になりまするので」
「ひいっ!?」
「夢現にさせる妖しの薬、鵜片とも阿片とも言うのですよ。まあ、深く吸い込まねば、この程度の分量なれば心配せずとも大丈夫に御座いまするよ」
「え、ええ?」
「療薬も劇薬に成ろし、に御座いまするよ。少しであれば睡眠薬に、量を増やせばこの様な使い様もありまするし、大量になれば魔障となりまする」
「ぬ、主様の意地悪ぅ。心の臓に悪いよぅ」
軽い仕置であったのだと分かり、珊が唇を尖らせた。ふふふと笑いつつ、蔦は香炉を未だにのびている天にかざした。
「それでどうするの、主様」
「これで、貴方が『ぶっ飛ばした』記憶を曖昧にさせまする」
「へえ?」
「まあ、都合の良いように、思い違いをして頂くので御座いまするよ」
「へええ?」
躙り寄って膝を付いて座り、蔦は赤い唇を皇太子・天の耳元に寄せて何事かを囁き始める。耳を傾けていた珊は、だんだんと瞳を輝かせて、同じように躙り寄って蔦の言葉にふんふんと楽しげに聞き入り始めた。ちらり・とそんな珊の様子を盗み見て、やれやれに御座いまするな、と蔦は首を振った。
★★★
明り取りを兼ねた灯炉の火が落ちかかるのを機会に、戰は手にしていた木簡から視線を外した。礼を丁寧に畳んで机の隅に置くと椅子から立ち上がる。炉にくべた薬缶からは、しゅんしゅんと音をたてて湯気がたっていた。
円卓の上にある茶器用具に視線を走らせ、熱い白湯でも飲むかとも一瞬思ったが、やめた。独りで飲んでも、楽しくともなんともない。
真と知り合ってから、誰かと何かをしている時間が増えすぎた。
すっかり、独りだけで何かを成すのはひどく詰まらないものだと感じるようになってしまっている、自分自身がいた。
窓辺に寄ると、あと一夜で満月となる月が、美しく煌々と輝いている。
今日の宴は、珍しく貴妃・明の腹出である兄皇子・乱の声掛りだった。皇太子である天と事ある毎に衝突する乱の音頭というのは含みがあり過ぎて、正直、断りを入れられるものなら断りたいところであった。が、祭国郡王として禍国を離れる自身と椿姫の即位を祝して、身内の諍いを此れにて退けようではないかと言われれば、何も言えない。
真に相談を入れたところ、やはり良い顔はしなかったが、「断るわけにはまいりませんね」と頷いた。
「乱皇子様は、正直申し上げて、未だに掴みどころがないのです」
真が言うように、兄である天を追い落とし、皇太子となるべく虎視眈々と狙らっているのは分かる。が、天も陰湿な方であるが、乱は更に上回って内に篭る性質だった。その為に、何を考えているのか、さっぱりわからない。
事実、宴の最中に何度も表情を伺ってみたが実に能面のようなのぺりとした表情を崩そうともしなかったし、舞師の蔦を始め楽団の美女たちが、どれだけ秋波を送っても眉一つ動かさなかった。
乱兄上は、一体何を目論んでおられるのか?
そもそも、乱兄上は、あの様な堪え性な方であったであろうか?
事ある毎に皇太子である天兄上とそして私を目の敵にして、態々衝突を起こしてきていた。それが、3年前の椿姫の事件から、逆に全く動きを見せない人物になった。到底、同一人物とは思われない程の様変わりだ。その辺を目の当たりにしていない為か、珍しく真にも、余計に得心が行く答えを得られないでいるようだった。
「しかし、動かないのも手立ての一つですから」
真は、袋小路に陥るくらいであるならば、下手に探るよりも動くのを待つ辛抱こそが肝要だと言ってはいたが、戴冠式を控えたこの時期に奇妙な動きを取られる事は、心を漫ろ乱されてならない。
何時の間にか、考え込んでいて俯いていた。
苦笑いをしつつ、戰は格子をはめ込んだ窓からの、美しい月を貼り付けた夜空が切り取られて見える様に視線を移す。
椿姫が女王として即位すると決意してから二ヶ月分の季節の深まりが、宵の空には感じられた。
ふと、戰は目を眇めた。
小間使いに使役する舎人たちはとうの昔に下がらせている為、この部屋には自分ひとりだ。自らの手で格子戸を引く。そもそも、王宮に誰かが忍び入るなど不可能し、たとえもしもの事態に陥っても、逆に独りである方が気を使わずに思う様戦える為、戰は庭に護衛の為の殿侍すら置いていなかった。
冷たくなった夜気が、ひゅう・という夜啼き風と共に、部屋の中に入り込んで来る。
「誰だ」
庭に出る。
明るい月夜でもあるし、灯篭にも火は入れてあるが、夜半を過ぎている。暗さはひとしおだ。
そんな中、がさ、と何か気配が動いた。一瞬、父である皇帝・景の後宮妃が飼っている猫か何かが忍び入ったかと思ったが、違う。
夜風にのり、類稀なる麗しい乙女の香りが漂ってきたからだ。
「……椿?」
信じられない気持ちで、思わず香りの主である、その名を口にする。
まさか、こんな処に。
彼女の部屋からこの部屋まで、どれだけ離れていると思っている。
しかも、この様な闇の中を。
椿姫の性格を知る戰には、到底、彼女とは思われない理由ばかりが脳裏に浮かぶ。しかし……この香りは、確かに。
思わず沸き起こる得体の知れない期待感を打ち消す為に、ぶるぶると激しく首を左右に振る。
宴を共にした事は数多あるが、近々に彼女を伴っては初めての事であった。
袖が触れ合うばかりの距離に、体温すら漂う距離に、息遣いすら手に取れる距離に、豊かな髪が衣擦れのような幽き音が聞こえる距離に、彼女は数刻前まで確かに居た。
その事実が、ここまで人間を惑わせるのか。
いかん、それだけの事にこの様に、香りの幻を感じるまで興奮しておるのか、私は。
戰は真を真似てか、爪をたててがりがりと髪をかきあげる。くるりと踵を返した戰の広い背中に、仔猫の鳴き声よりもか細く心許無い声がかけられた。
「……み、皇子様……」
その途端、戰は弾かれたように庭に走った。真直ぐに、凍えた声の根元に駆け寄る。
がさり、と植木を掻き分けると、其処には正しく迷子の仔猫のように震える椿姫が居た。
★★★
「皇子様ぁっ」
戰の顔を見て、安心したのだろう。ぼろぼろと涙を零して、わっと椿姫が植込みから立ち上がり様に抱きついてきた。
「つ、椿姫っ……」
何があったのか、と尋ねようとして戰は目を疑った。
抱きついている椿姫は、肌が透ける程の薄い夜着の上に何も羽織らずにいる上に、脚は片方だけ室内用の靴を履いてはいるが片方が脱げて失われてしまっている。足首まで泥と擦り傷にまみれて縋り付いてきた椿姫は、呼吸が熱く激しく、乱れていた。走り、そして身を隠しながら必死になって此処まで辿り着いたのだろう。
全身の血の気が、音をたてて引くのを戰は聞いた。
無意識の内に上着を脱いで椿姫の肩に掛けつつ、細い身体を抱き寄せた。
「どうしたというのだ、何があった、姫」
「こ、皇太子殿下が、皇太子殿下が……へ、部屋に御出ましになられて……」
「兄上が!?」
「ど、どうしましょう、皇子様……わ、私の身代わりに、珊が部屋に、部屋に……」
泣き吃逆で言葉を詰まらせながらも、必死で答えていた椿姫であったが、それ以上は最早言葉にならなかった。
しかし、それでも椿姫の姿からよもやと腸を煮え滾らせる処だった戰を落ち着かせるには、充分だった。
珊の主人である蔦は、軽業の芸を持つ珊という少女は、其処らの男など束になってかかって来たとしても、軽く一捻り出来る技を持っていると確証してくれている。そんな彼女が、兄・天を相手によもや遅れを取るとは思われないし、思うままに手篭にされるとは到底思われない。
ほっと安堵すると、「大丈夫だ、大丈夫だから」と呪文のように何度も唱えながら、戰は椿姫の背中をさすった。泣き吃逆が落ち着き始めると、今度は自室へと誘う。
椿姫を椅子に座らせる。
汚れている手足が気になるだろうと、寝台の傍に用意してある晒を手渡して拭うように促すと、椿姫は頬を赤らめながらも、小さくこくりと頷き返してきた。
「私は外の様子を伺ってくるから、ゆっくり清めるといい」
言いおいて、戰は格子戸を素早く開け閉めして部屋を出る。
注意深く、渡殿や庭に潜む気配がないかを探る。自分に与えられた敷地内は兎も角、此処まで誰にも咎められずにたどり着いたのか?
戴冠式を控えた大事な身体である、椿姫が一人で?
――そんな事が可能か?
気になる。引っ掛かる。
「皇子様、もう大丈夫です」
椿姫の声が、落ち着きを取り戻していた。
戰は、慎重に後ろ手で格子戸を引いて閉めた。椿姫は乱れた夜着をすっきりと整えて、戰の掛けた上着を丁寧に纏いなおしており、汚れた晒を丁寧に畳んで胸元に仕舞う所だった。声だけでなく、先程と比べて落ち着きを取り戻してきている様子に、自然と戰の頬も緩む。
ゆっくりと近づいて、戰は跪くようにして、少女の手を包み込むようにしてとった。それでもまだ、びくりと魚のように跳ねてみせる椿姫に、戰は安心だけを与えようと、優しく微笑んでみせた。
「大丈夫だ、姫。珊は手練だ、自分の身は自分で守る自信があるからこそ、貴女の護衛を買って出てくれているのだ。だから安心しなさい」
「……でも」
「貴女を守りたいと思う人の力を信じてあげなければね。信じる事も、また相手の力になるものだよ」
「でも……」
「ああ無論、私の事も信じて欲しいのだが」
「でも……」
「それともそんなに、私は情けないかな? まあ確かに、頼りになるぞとはちょっと言い難いかな?」
「……皇子様……」
少し戯るように言葉を楽しませる戰に、漸く、椿姫の心も温まってきたらしい。ほんのりとだが微笑みが頬に浮かんできた。ぽんぽんと、重ねられた椿姫の手の甲を軽くたたくようにして、うん、と頷きながら戰は立ち上がる。
灯炉に焼べられていた薬缶は、まだ熱い湯が湯気を吐いている。
円卓の上に整えられていた茶道具から伏せられていた碗を、戰は二つ、表に返した。傍に置いてあった壺に匙を入れ、琥珀色の粘着性のある液体を掬うと、碗の中にひと匙垂らす。その上から薬缶の熱い湯を注ぐと、甜い芳香が柔らかく漂う。高価な蜂蜜を、湯で溶いたのだ。
戰は、碗の一つを静かに椿姫の手に握らせた。
碗を両手で包む椿姫の手を、戰の大きな掌が更に包んだ。その温もりに、椿姫の凝り固まった全てが解れていくように思われるのが、戰には嬉しかった。
「落ち着いてきたかい」
「はい……」
「では、一緒に飲もう。身体が温まって、もっと気持ちが安らぐ筈だ」
「はい」
素直に頷いて碗に唇を寄せ、湯気を吐息ではらう椿姫を、戰は静かに見守る。
「飲んだら、少し休むといい。私の寝台を貸すから」
「……皇子様」
「ん?」
「あの、起きていては、いけませんか? 何か、お話をして」
眠りに付けば、戰が蔦や珊と連絡を取り合う事くらい、椿姫も察しがついている筈だ。
それでも言い募るのは、独りになるのはまだ怖いからだろうと戰は悟った。
その証に、椿姫の細い肩が僅かに震えだしている。優先順位的にみれば、早いところ椿姫を休ませて、蔦と連絡を取り合うべきだ。
しかし、今の彼女を放っておけるほど、戰は物分りがよくない。
「いいとも。何を話して過ごそうか?」
「何でも……。皇子様の事なら、どんな事でも良いですから」
もう一度、両手で椿姫の手をとると、戰は安心させる為にも力強く頷いた。
戰は「何から話そうか?」と、思案を巡らせる。ふと、見上げてくる椿姫の憂るんだ瞳と、流した涙によってほんのりと薄紅に染まった頬に、心が揺さぶられる。
ああ、彼女を守りたい。自分一人の手で守りたい。
激しく、そう思った。
虫の音にのって、戰と椿姫の楽しげな笑い声が、庭に届く。
彼らの様子を、妖しく見守る何かがある事に、戰は朧げにであるが、確かに感じ取っていた。
★★★
夜明け近くになって漸く、椿姫は疲れから眠りに着いた。
抱き上げて寝台に移すと、今度は戰が、ドッと疲れを感じてへなへなと縁に座り込む。腕に抱いた椿姫は、とても人とは思われない程軽く細く、それでいて柔らかく嫋かで、戰の心を妖しくさせ平常を保つのを厳しくさせるのに充分過ぎた。
寝台の上の椿姫は、横臥しつつ手足を丸めて嬰児のような体勢で寝入っている。椿姫の頬にかかった髪を手の甲で押し上げて肩の向こうに流してやると、姫は微かに身動ぎし、くしゅんと小さく嚔をした。
「いかん、これでは如何にも寒いな」
幾ら自分の上着を着せているとは言え、薄絹の夜着でいるのだ。おまけに、灯炉の火も落ちている。寒くないわけがない。
はっと我に返り、慌てて暖かい上掛布団を椿姫の肩が隠れるまで引き上げる。
背の高い戰の布団は掛布団も敷布団も特別に大きい。椿姫は、まるで埋もれるようになって眠っている。
思わず、揺れる睫毛に額を寄せて、椿姫の寝顔を間近で見入る。まだあどけなさの残る横顔は、安堵感に包まれているように穏やかで、此方まで満足感に満たされる。
戰はそのまま暫く、椿姫の肩に手を当てて眠りを見守っていたが、多少のことでは目覚めない程深く寝入っていると確信を得ると、立ち上がった。
再び格子戸をからりと開ける。
「蔦か」
「はい」
戰の呼掛けに、蔦の声のみが答える。姿は見せない。
先程の妖しく感じた視線は、やはり蔦だったのだと安心する。しかし流石だと感心する。
虫の音を止めぬ程に気配を消していながらも、戰には己の来訪を感じ取らせつつも、一体どこに潜んでいるのか、確実は掴ませない。今もまた、蔦の声は上から降って沸くようでもあり、床下から響くようでもあり、広い庭の何処かに潜んで風にのせているようでもある。
「椿の部屋に押し込みを掛けた痴れ者はどうした?」
「ご心配なく。珊が見事に『ぶっ飛ばして』御座いまする」
「ぶ、ぶっ飛ばす?」
「ふふ、まあ、言葉の綾に御座いまする。痛い思いをして頂いて、思い知って頂きましたので御座いまするよ」
「……ま、まあ、お前を信じているが。しかし、天兄上をどうしたものか?」
よもやそのまま、椿姫の寝所に置いておく訳にもいかない。すると、ふふ、と科を含んだ蔦の笑い声がした。
「ご心配なく。皇太子様は御自身の御敷地内より、一歩も御出でになられてはおられませぬ故」
「うん?」
「言葉通りに、受け取って下さりますよう」
つまりは、蔦は天兄上は部屋から出ておらぬ、椿の元へ行ったのは夢の中の出来事であったと、何か技を用いて思い込ませたという事か。蔦が言うのであれば、それは天兄上の中では、もはや真実となっているのだろう。
では、そちらの心配はもうすまい。しかし……問題は、椿姫の方だ。
「蔦」
「はい」
「蓮才人に連絡を入れてくれぬか? 明日の朝、薔姫と『椿姫』を伴って、私の元に朝の挨拶に来て欲しいと」
「はい、然と」
「後は、真に使いを出してくれ」
「はい、然と」
「頼むよ」
返答の代わりに、一陣の薫風を残して蔦の気配は消えた。戰は苦笑いをしつつもぞっとする。
最後の最後まで、自分には蔦の所在が掴めなかった。もしも蔦が味方ではなく敵であったのならば、間違いなく自分の命は危いものとなっている。
否。
とうの昔に、儚い存在となっている事だろう。
「得がたい人材です」
そう薦めてくれた真の慧眼にこそ、戰は得難いものを感じていた。




