17 泪 その4-1
17 泪 その4-1
「開けろ!」
武具が収められている建家に殴り込みか突撃をかける様に飛び込んできた克と部下の形相に、番兵たちは一様にギョッとして身を引いた。
実際、焔の館となった鴻臚館に飛び込まんと水を頭から被っているせいで、克の背中からは熱気がじゅうじゅうと音をたてて蒸気となって登っているのが見えるほどだ。一廉の猛者も戦かずにはいられぬ迫力だった。
「投石機を出すぞ!」
「は? は、はい!」
克の怒鳴り声に番兵は自分を取り戻すと返答もそこそこに、頷きあって扉を開け放つ。
「お前たちは戦車部隊が来たら誘導しろ!」
「はい!」
番兵は崩して保管ある投石機を載せる為の戦車部隊を、此方に呼び込む為に走っていく。その間に、克たちは投石機に蟻のように群がる。
「隊長殿! 置石式か人力か、何方を用意すればいいんだ!?」
「阿呆か! あれだけどでかく燃えているんだ! 飛距離も正確さも、へったくれもあるか! 置石式だろうが旧式何だろうが関係ない! 使える物は全部引っ張り出せ!」
「はい!」
「誰か一人、産屋に走れ! 郡王陛下と学陛下が水を用意して下さっているはずだ!」
再三、克を雁字搦めにして止めだてしていた男が、では私が! と立ち上がる。
「投石機は産屋と此処から最短で交わる地点に設置する! 誘導して来い!」
「はい!」
部下が飛び出すと、今度は建物外から声が上がる。
「戦車部隊の方々がお見えになられました!」
おっしゃあ! と克は叫びながら両手で頬をビシャリ! と叩く。
「皆! 気合を入れろ! 俺たちはあの大洪水さえも押さえ込んだんだ! 水を制したんだ! 今度は炎を制してやろう!」
おう! と呼応の声と共に部下たちの頬もビシャ! と鳴る。
そして、拳が天井に向けて突き上がった。
★★★
苑の先導で、泉の水は妙薬なり、と讃えられる神泉に到着した。
「此れは……」
豊かな水量を湛えた泉を前に、戰と杢は絶句した。
「此れほどの水量を誇りながら、溢れる事はないのだな」
「この泉に宿りし神霊の、御霊の御加護の賜物に御座います」
厩に繋がれている馬全ての飲み水としてもまだ、猶予を見る程の膨大な水量だ。溢れる寸前に再び地中深くに姿を消しているのだ、と祝が誇らしげに戰に伝えた。
「成る程。では、神の加護を鴻臚館に巣喰う悪鬼悪霊を破邪退魔する為に生かさせて頂くとしよう」
戰と、水を組み上げる為の桶を手にした杢は、ざぶり、と迷いなく飛び込む。
泉と銘打つには不釣り合いな、滝壺に近い深さがある。体格に恵まれている杢ですら、腰を上回るまで水に浸かる。
秋の風が吹いている。
盛夏と違い、水底から沸く生まれたての清水はその透明度に違わぬ凍てつきを有し始めていた。針のような鋭い冷えは、容赦なく身体を針刺して責め苛んでくる。やっと疵口が塞がったばかりである杢は、錐の束で痕を突かれるような痛みに耐えながら、戰に続いてさぶさぶと中央に進む。
皆の先頭にたち此処まで導いてきた苑が、懐から錦に包まれた七子銅鏡を取り出した。
面を陽に向けて掲げる。
戰と杢が歩いた後の反響を示す波紋が披帛のように緩やかに波打つ水面に、跳ね返った光りが瞬く中、両の手で水を掬い上げた戰が宣言する。
「准后殿下が天帝より賜りし御加護が泉に乗り移った! 皆、水を汲み出せ!」
戰の号令を待っていたとばかりに、一殿侍や兵仗だけでなく、禰宜や祝までもが泉に飛び掛る。
身分立場の差なく、一斉に水を汲み出しにかかった。
二人と同様に泉に飛び込み、組み上げる者。
桶を受け取り、先に待つ戦車まで回し合う者。
戦車の荷台に据えられた巨大な甕に水を注ぎ込む者。
最後に、空になった桶を両手に泉まで走る者。
杢の的確な指揮を得て、順に順に、水が送られていく。
いや、苑の銅鏡が与えた光に大いに士気を鼓舞された彼らは、何も言わずとも自然と役割が出来上がっていた。
「陛下、甕が満杯になりました!」
「よし、行け!」
一陣目が、戰の許しもそこそこに、砂埃を上げて駆けていく。
「腕を止めるな! 克殿から鎮火の報が届くまで続けるぞ!」
「陛下、杢様」
水を汲み出しつつ声を張り上げる杢の背に、静かな声が沁みる。
声の先には、いつの間にか蔦が佇んでいた。
「蔦殿、例の物か?」
「あい、幾つか仕上がりましたので」
言うなり蔦が腕を上げると甕よりも2周り程大きな容量の袋が、ばさり、と広がった。只の袋ではない。煤黑油が塗られた耐水性のある帆布で出来ている。以前、珊が雨避けの外套に仕上げた事のある例の布だ。
杢はさぶさぶと水を掻き分けて岸に寄り、手にした桶の水を波波と注ぎ入れた。蔦が口を縛るようにして持って上げてみるが、縫い目から水が漏れてくるような事はなさそうだった。
「良き調子のように御座いまするな」
「なに、多少漏れた処で此れだけ大きな袋だ。構いはせん」
戰は袋の口を持って、バン! と音を立てながら引っ張って張り具合も確かめる。
「よし、杢。此れを甕に変えるように指示してくれ。それから蔦。袋はどれだけあっても困らぬから、どんどん縫うように伝えてくれ」
「はい」
「あい、お任せくだしゃりませ」
蔦がふわり、と風に舞う木葉のように姿を消すと、戰はざば、と水を滴らせて泉から上がった。
「私も投石機の元に行き第一投目を見届ける。杢、後は頼んだぞ」
「は」
短く答える杢に、戰は頷きを残して駆け去って行く。
戰と蔦が居なくなると、おずおず、といった様子で苑が杢に近付いてきた。
「准后殿下? 如何なされました?」
笑い掛ける杢を、泣きそうな笑いそうな、奇妙な面持ちで苑は見詰める。
「杢様……私……」
「はい?」
「私、此れで本当に良いのでしょうか……」
「……殿下?」
「私は、国の為に何をして良いのかがどうしても解らないのです。望まれた事を懸命にこなす努力はしております。けれど、幼い我が子が王として、年若い娘の椿が辛い身に鞭打つように努力しているというのに、無益な役立たずのままであるなんて……」
銅鏡を胸に抱き、作業に没頭する男たちや神職にある者たちを眺る苑の双眸には、苦悩の色が宿っている。
「私は子を案ずる只の母親以上に、なれそうもありません……」
――皆様、一丸となっておられるというのに、私だけ……。
国難の極地にありながら、一人蚊帳の外であるという途轍もない孤独感に苛まされている苑の手首が、ひやり、と濡れた。
驚いて身を引きかけると、杢が泉から出て立ち上がっていた。手にした銅鏡に大きな掌が当てられており、滴る水が伝い落ちて触れていたのだ。
「何が悪いというのです」
「……え?」
「只の母。宜しいではありませんか。古来、国母という言葉があるように、国に住まう全ての母の気持ちがどの様なものであるのか、准后殿下にはお解りになられる。素晴らしい事ではありませんか」
「……」
「和子様であらせられる国王陛下に、母君として、何をして差し上げたいと思われるのか。その美心のままに動かれれば宜しいのです」
「……杢様……」
「其れは恐らく、この国の、母として生きる全ての方々が願ってやまない事です。母親であられる御身に、もっと自信と誇りをお持ち下さい」
言いたい事だけを吐き出してしまって胸の痞えが下りたからか。
それとも長舌がらしくないと思ったのか。
杢は直ぐにくるりと踵を返えして、どぷり、と泉に飛び込んだ。
そしてこの場から動いたことなどない、とでも云うように部下たちや禰宜たちを時に叱責しまたは鼓舞しつつ、素知らぬ顔で命令を出している。
呆気に取られて杢の背中を見つめている苑の傍に、おどおどしつつ鈿がそっと近寄ってくる。
「……あのぉ、大宮様ぁ……?」
「鈿、戻りますよ」
「え? えと、あの……?」
「事が収束した時の為に、皆が安心して心と身体を休める場所の用意を致しましょう」
「は、はい?」
「忙しくなりますよ」
貴女も手伝って、と笑う苑に、はい! と鈿は少女らしい高い声で返事をした。
★★★
産屋に向かってひた走る克の部下は、雲海のような砂埃が此方に迫って来るのを見付けた。
「おぉ! 水か!?」
「はい! 陛下の命にて! 陛下と杢様が自ら泉に入り指揮しておられます」
「陛下と杢様が?」
朗らかで笑顔を絶やさぬ隊長の克と違い、無骨一徹で寡黙な忠義者そのままの杢の姿が、男の容易に脳裏に思い浮かぶ。
流石、と思いつつ、こっちに来てくれ! と男は腕を振り招く。
来た道をその数倍の速さで駆け戻る男の後を、荷台に満杯の甕を山と積んだ戦車が負けじ続く。
その男の背中に、まるで先に投石機で放たれたかのような勢いで走り寄って来る怒濤の影があった。勿論、ずぶ濡れの戰だ。
「へ、陛下!?」
「投石機は!?」
「は、はい! 隊長、い、いえ克殿が指揮を取られております!」
「そうか。行くぞ! 案内せよ!」
「はい!」
郡王である戰に直接声を掛けられて、感激に声を詰まらせつつも回れ右した男の脚は止まらなかった。
「隊長! 水です!」
三台目の投石機を組み立てている最中の克の耳に、部下の声が届く。
「おお! 水が来たか!」
殺気立って騒然とした現場に、うおお! と感動の響めきがあがる。思わず声の方向に駆け出した克は、見た。部下が、荷台一杯に水甕を積んだ巨大な戦車と共に土と砂利を蹴立てて此方に迫ってくるのを。
「水だー! 水が来たぞー!」
吠える克に、戦車側からも哮り立つ声が返って来た。
「神殿の水を此方に開放している! もう心配はない!」
自ら戦車を押して来た戰が、腕を高々と掲げて宣すると、更に希望に満ちた悲鳴に近い奇声があがる。
出会い頭に、がしり、と手を取り合いながら、戰と克は叫ぶ。
「陛下!」
「克!」
水を頭から被った克は舞った煤と投石機を組み立てた際の埃でどす黒いが、濡れた戰の衣服はそれと同じ程、土埃に汚れて澱んだような色合いに変色してしまっている。
「皆! 実によくやって呉れている! が、礼を言うのは水を消し止めてからにさせてくれ!」
「陛下が来て下さったぞ! やれる! 俺たちはやれるぞ!」
「――おお!」
必死さと決死の覚悟溢れる戰の姿に、男たちの胸は殆ど感動で塗り潰されている。
呼応する部下の雄叫びを聞きながら、泣き出したい気持ちを克は必死で押さえ込む。
――畜生! 泣くのは火を消し止めてからだ! 俺の糞大馬鹿野郎め!
口汚く自分を罵り倒す事で鼓舞しながら、克は投石機を組み立てている地点へと戰を案内した。
★★★
戰と克が設置地点に到着すると、投石機が組立終わった後だった。
速さと飛距離と移動時の扱いの容易さ等の兼ね合いから、置石式をありったけ引き摺り出してきている。
「どうだ!? ぶっ放てるか!?」
「条件なんぞ付けなくとも直ぐぶち放てます!」
戰が居る事実も消し飛んで、克も部下たちも、いつもの口調に戻っている。
「よし! 甕を運べ! 此処で水を零すなよ! 一滴も無駄にするな!」
荷台から大の大人が軽く入れそうな巨大な甕が掛け声と共に下ろされる。
重さととしては、水の重さだけでも大人の女性一人程もあり、甕の重さも加えれば関わる人数には荷が勝ちすぎる筈であるのに、掛け声を掛け合う度に甕はするすると投石機へと近付いて行く。
頑丈に蓋が閉めてあるとはいえ、まるで宝物を運ぶかのような丁寧さでありながら、運び出すこの早さはどうだ。
正に『火事場の馬鹿力』だった。
「よし、設置しろ!」
「克、この距離を飛ばせるのか?」
迷いなく指示を出す克に、戰が眉を寄せる。
「はい、重りとなる岩の重量を増せば増すほど高さと飛距離を稼げます」
此処からか、と戰は鴻臚館の方角を睨む。
明々(あかあか)と空を焦がす炎まで相当な距離がある。此処から、届くというのか。
「炎の先端の位置が高い。克、距離も大切だが高さも必要になる。出来るか?」
克の肩に手を置きつつ、炎の紅みに顔の半分を照らした戰が素早く問うと、お任せ下さい、と克は間髪入れずに答えた。
「箱に入れる置石の重量を最大にまで上げるぞ!」
「おう!」
小気味よい返事が上がる。
この死地に近い退っ引きならぬ瀬戸際に在りながらも、克と彼の部下は何処か明るい。
――頭から、迷う事なく真の策を信頼しているのだな。
祭国と剛国の間で持ち上がった騒動の時、3日係らず見事に真をこの王城にまで送り届けたのは、この克だった。
剛国王・闘の向こうを張って決して怯む事も引く事もせずに真っ向から立ち向かい見事に退かせた真の姿を唯一間近で見届けたのは、克だ。
あれから2年。
克は、あの時に見た真の姿を忘れずにいるのだろう。
不意に、克が別の男に向けて何かを命じている。
走り去り、戻ってきた男の手には何か長い紐状の物と子供の握り拳大の石が握られていた。
「克、其れは?」
「は、投石紐です」
「ん?」
「戦場ではこういう投石紐で甕を割ってやる事があるのです。油壺を投石機にて敵陣にぶち込むのと同じ要領だとすれば、あの甕を空の高い位置で割ってやるには、此れが一番有効です」
成る程、一理あると思っていると、投石機側で声が上がる。
甕が放てるように固定が終わった旨を告げるものだった。
「隊長! 何時でも命令をどうぞ!」
「陛下!」
克が眸を輝かせて振り向く。
反射的に、戰は令を発していた。
「よし! 放て!」
戰の命を受けて、克が部下に腕を上げた。
「投石機、準備はいいか!」
「おおっす!」
「投石紐用意!」
「おいさぁ!」
よし、と深呼吸する。
「先ず一投目に投石機で甕を放つ! 続いての号令で投石紐で甕を割る! いいな!」
部下が了解を示す雄叫びを上げると、克の怒号による命令が響き渡った。
「投石機! 放てー!」
「うおぉっす!」
紐が落とされ、ばねが跳ねる。
――ぎゃおおおぉぉぉっ!
生物めいた軋みの音を撒き散らし、先端に巨大な甕を設置されていた板が唸りを上げて撓る。
鴻臚館目掛けて、巨大な巌のような甕が飛んでいく。
鴻臚館の上空真上目指して飛ぶ甕にむけ、克が再び命令する。
「投石紐! 撃てぇー!」
「おっしゃぁ!」
「行けぇっ!」
幾筋も放物線が描かれ、一瞬の静寂が生まれる。
喉仏を激しく上下させながら固唾を飲んで行方を見守る戰と克、彼らの部下たちの目の前で、巨大な甕が竜の爪にかかったように爆ぜて割れた。
――どばきゃ!
――どうっ!
甕の断末魔と共に傘状に開いた水が、一気に鴻臚館を焼く炎へと降り注ぐ。
「成功だ!」
「うおっしゃあ!」
「やったぞおぉ!」
焔などよりも熱い雄叫びが上がった。
★★★
鴻臚館が炎の腕を周辺に着々と伸ばしていく。
刻々と姿を変貌させていく。
幾ら砂をかけようが、木々を手折り、大極殿を守る為に歴史の重みのある回廊を壊そうが、駄目なのか?
このまま、数多の戦においても消える事なく鎮護の礎として立ち続けた王城は、消えるのか?
「もう駄目だ……。……幾ら必死になったって、こんな大火に太刀打ち出来るもんか……」
誰か知れぬ一人が、絶望感から手を休める。
すると、まるで紙に墨が一滴落とされたかのように、その絶望感は音もなく伝わっていく。
次々と手がとまり、だらりと垂れ下がる。
今度は、じり、と沓音がする。
後退る音だ。
じり、じり、じり、と砂が鳴る。
彼方でも、此方でも。
じりじりと、大火の熱で焦がされた砂が踏みしめられ、鳴り続ける。
――……逃げよう……
何処からか、言ってはならぬ、禁忌の、其れ故に甘美な言葉が上がる。
わっ、と一斉に爪先が鴻臚館から反対の方向へと向く。
其処へ。
土砂降りの雨が鴻臚館に降り注いだ。
一瞬、灰と煙により雨雲が生じたのか、と誰もが水にうたれる鴻臚館の姿に、ぽかんとする。
しかし、其れは雨ではなかった。
不均等な間隔をあけて、空を鳴動させては爆ぜ、滝の様に注がれる大量の水が飛んできているのだ。
「水だあぁ!」
「水だぞぉ!」
次々と注がれる大量の水が、鴻臚館の劫火と対峙しあっていた。
一進一退、互いに譲らぬ接戦だった。
しかし、生命の水の登場に、鎮火作業の現場にいる人々の心は逆に燃え盛っていた。
そんな彼らを見守りつつ、真は長く息を吐き出した。
――間に合った、のですね。
彼らを鼓舞するように、別の声が上がった。
「そうだ!」
一斉に振り返った先に、戰が神殿の方角を指差していた。
皆が注視する中、大甕が空を切って飛んできた。
空の頂点に達する否や投石紐からの石に射たれ、満たされた水が一気に放たれる。
おお! と声が上がる。
轟音に近い響めきを背に、戰は真の元に歩み寄った。
「戻ったよ、真、有難う」
差し出された手に手を重ね、いいえ、と真は頭を振る。
「戰様、どうか、彼らに言葉を」
真に促され、戰は笑顔をつくった。
「皆、聞くがいい! 祭国の御社たる神泉を、学国王が天帝に成り代わり開放した! 護国の御霊の依代たる泉の水が、なんの、この程度の炎に負けるものか!」
「霊験宿りし聖なる泉です! 旱天の慈雨となり、必ずや、この焔を鎮めて下さいます!」
戰が拳を高々と天に突き上げる。
「火を消すぞ!」
――消すぞ!
――消そう!
――消してやろう!
「そうだ! 俺たちの手で火を消すぞ!」
和する声に、希望が宿っていた。
★★★
「真殿! 水をぶっかける位置は此れでいいか!?」
土煙をあげて、克が走り寄ってきた。
何処か珊の口調に似ていて、真はこんな時だというのに笑いが込み上げてくる。
「大丈夫です。しかし出来るのでしたら、八方からぐるりと囲むようにして、対角線になるような位置から水を打って欲しいのですが」
「よし、分かった。戦車の荷台にはまだ投石機がある。まわさせよう」
「お願いします。戰様、水は? 何方が組み上げの指揮をとっておられるのですか?」
「杢に任せてきた」
「しかし、この勢いで水を掛け続ければ何れ炎は抑えられようが、先に甕が無くなるぞ。このままぶっ放し続けたらまずいぞ。どうするつもりだ、真殿」
克の懸念は最もだった。あの様な巨大な甕は、何分、数に限りがある。
勢いに任せて放ち続けていれば消火は早まる。
が、甕の方が先になくなってしまえば其処で御終いだ。
童子でも解る道理だ。
だからこそ、真は蔦に巨大な袋を縫い上げるように頼んだのだ。
「真殿には何か策はあるか?」
「はい。ですから蔦に煤黑油を塗った帆布で簡単な袋を作るように頼んであります」
「私が此方に来る直前に、蔦が件の袋を持ってきてくれた。今頃、甕と切り替えられている筈だ」
「おぉ! そうか、その手があったか!」
克はまた、珊のように手を打ち合わせる。ただし、巨大な柏葉のような手の平だ。バン! とどでかい音が響き渡る。
「煤黑油を塗った帆布は水を弾くからな。この程度の時間であれば、水を零して無駄にする心配もなく空に飛ばせるな」
「ですが袋ですので、甕のように落下に合わせて投石紐で甕を壊せば水がかけられる、というわけにはまいりません」
「おっ……おぉう、そうか、そりゃそうだ……」
幾ら張り詰めるように水が入っているとはいえ、布が相手では丸い石は跳ね返される恐れもある。やってやれない事はないだろうが、何度も試していては破って水をあける前に落ちてしまう可能性の方が高い。
「ですので、袋に目掛けて矢を放って水を放つように仕向けて欲しいのです」
矢、という真の言葉に克が反応する。
きらりと一瞬、目を輝かせて周囲を見回し、こそこそと寄ってきて膝を合わせるようにして腰を屈めると、そっと耳打ちをする。
「真殿、例のものだが……。確かめる前にこの騒動になってな。どうやら芙殿も見つけられなかったようなんだが……」
構いません、と真は頭を振った。
「この大火の熱で、残されていたとしても判別出来なくなっているでしょうし、此れが放火であるならばもしもの時を考えて、とうの昔に回収もされているでしょう」
「ぬ、確かに」
「今は、火を消すことこそが勘所と覚えていて下さい」
よし、分かった、と克は立ち上がる。
腕を振り回しつつ、弓の用意をしろぉ! と怒鳴りつつ駆け戻っていく。
怒鳴り声ばかりの命令だが、潰れない喉を持っている克は天晴れと言えるかもしれない。
「真、私も弓を引きに行く」
「はい。戰様が共にあるとなれば皆の意気も上がります。是非。――ですが戰様」
「なんだい?」
「帆布を射貫き破くのは、相当な腕力と胆力を弓技を必要としますが」
何処か悪戯小僧のように目を細める真に、戰が笑う。
「吉次が揃えて呉れた矢尻だ。何物をも貫き通すさ」
こんな時だというのに、何方からともなく笑い声が上がる。
戰は片膝を付いて真の前に腰を下ろした。
静かに招くように、真を肩から抱き寄せる。
既にその瞳は笑ってはいない。
「真」
「はい、戰様」
「この大火の原因を作り出したのは、真が見立てた三人の中にいると思うかい?」
「いえ……流石に何の情報がなければ……。鴻臚館に入った、芙が何を見たかにもよりますが……」
そうか、と戰は鴻臚館の炎を睨んだ。
克の指揮の元、水が掛けられ続けているからか、炎が勢力を落とし始めている。
「戰様、今は矢張、鎮火こそが重大事です。お行き下さい」
「……分かった。この問題は、また後に」
我が弓を持て! と戰が叫ぶ。
そして戰は、克の部下が引いてきた戦車の方へと去って行った。




