表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
覇王の走狗(いぬ) ~皇華走狗伝 星無き少年と宿命の覇王~  作者: 喜多村やすは@KEY
六ノ戦 落花流水

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

154/369

17 泪 その3-2

17 泪 その3-2



 那谷の後に続き、下男たちに両脇を支えられて真は鴻臚館を目指した。

 那谷と真の後ろには、福を始めとした鴻臚館で働いている娘たちや薬師、下男たちが大きな包を背負子で背負ってついて来ていた。

 何しろ、前代未聞の鴻臚館での大火だ。

 逗留中の使節団の人数もさる事ながら、あの猛火による負傷者の人数はいかばかりとなるのか。

 考えるだに恐ろしい。

 しかし、被害を最小限に留めらるか否かは、正しく今鴻臚館に向かっている施薬院の働き如何にかかっている。

 皆、重責からくる緊張に無口になっていた。



 ★★★



 一歩近づく間に、鴻臚館は姿を無残に変えていく。

 冷たい筈の秋風が台風のそれよりも熱く、空を雲を焦がす事を目指して舞っていた。煙が生んだ雲の黒い影が、高く澄みきった秋の天を塗り替えんと渦を巻いている姿は、何と禍々しいのだろうか。

 施薬院に務めている者は、那谷が連れてきた者も祭国で雇い入れた者も、皆若い。見た事も聞いた事も、まして遭遇などしたこともないこの戦場に近い異様な光景に、全員、ごくりと固い息を呑んで立ち竦んだ。

 唯一、平静を保っているのは戦場の経験者である真のみであり、那谷ですら気圧されている。

「那谷、しっかりして下さい」

 真に叱責されて、漸く那谷は自分を取り戻す。

 二人して現場の指揮をしている者を探す。

 ぐるりと巡らせた視線の先に、この場を収めんと飛んできた戰が腕を振るって指示をしている姿が、直ぐに発見できた。


「陛下! このままでは御使殿方の大切な荷が……! 一体どうすれば!?」

「荷だと!? 荷がどうだというのだ!」

「はっ……? い、いえ、ですが、宗主国の方々の絢爛な御支度品です。当然、代帝陛下のお声のかかった品々も……」

「焼失したのであれば買い直せば良いだけの事だ! どうという事はない!」

「し、しかし陛下、今此処で禍国に言い掛かり的な難癖を付けられるような行いは、避けるべきで……」

 凄む戰の剣幕に、たじたじとなりながらも男は叫び返す。

 遠巻きにしながらも、勇気を振るって戰に意見した男に、その場にいた誰もが賛同の意を込めた視線を送る。禍国への対応を少しでも誤れば、この地を郡王として預かっている戰の責任になるのだ。

 そもそもが、禍国の使節団は彼を咎める為に祭国に下ってきたのだ。

 赤斑瘡あかもがさを祭国にいれたという、彼らにとってみれば謂れのない責を郡王である戰に問われて鴻臚館に閉塞させられていただけの事だ。此れまでも散々っぱら居丈高に振舞われ煮え湯を飲めと押し付けてきた彼らが、禍国側が、この事態を有効利用せぬ訳がない。どのような針小棒大の指摘のしてくるか、容易に想像出来てしまう。

 ともあれ、禍国には付け入らせぬのが得策だ。

 為にも、今は公奴婢のような品位すらない者を助ける手を荷を守る方へと回すべきだ、と尚も男は主張する。


「陛下、何卒お考え直し下さい!」

「人の命は亡くせばそのままだ! 物のように買い求める事など出来ん!」

「陛下!」

「私にとって只の物品と! 領民たちと! どちらがより大切か分からぬと云うのか!」


 更にしつこく食い下がろうとする男を戰は叱り飛ばす。

 男は二の句が継げず、ぐ、と言葉にならぬ息を飲み込んだ。

 確かに、此れまでの郡王としての戰の治世はそれを実践してきた。

 だからこそ皆、心から敬い、慕い、従ってきたのだ。

 だがしかし宗主国相手では訳が違う。

 禍国は、戰のこの振る舞いこそを敵意有りと見做す。

 それが解らぬ彼ではあるまいに、この固くなさはどうだ?


 戸惑いを隠せぬ男の背後から、別の悲痛な声で追い打ちがかかった。

「陛下! 鴻臚館が焼け落ちます!」



 ★★★



 声の主に戰は、ギリ、とした睨みを効かせて吠えた。

「建物などどうでも良い!」

「なっ!? そ、そんな乱暴な! こ、この鴻臚館は、伝統と格式と様式美を兼ね備えた祭国の深き歴史をいにしえから今に伝える、大切な心の拠り所の一つなのですぞ!?」

「だが所詮はただの建家だ!」

 戰が答えるより先に、呆気に取られて二の句が告げずにいる男の背中から、別の声が答えた。


「そうです! 焼け落ちたのであれば、もう一度立て直せば良いのです! そんな事を気にしている場合ではないでしょう! 」

 


 戰が勢いよく振り返ると、那谷と、薬房で働く下男たちに肩を借りている真が居た。

「真!?」

「し、真殿!?」

 何故、此処に!? と声を失うのは事情を克から聞いている兵仗たちだ。だが、姿を認めると途端に顔ばせに力を得たもの特有の和みが生じる。

 真が居てくれさえすれば大丈夫だ、と信じているからだ。

 しかし戰は、僅かに表情を曇らせた。

 もっと自分を大切に、動いてはならない、来るんじゃない、と願いつつも、真は来てくれるのだ、と頭の片隅で信じきっていた自分がいた事に気が付いてしまったからだ。


 ――結局、私は真に頼らねば何も出来ぬのか?


 微かに苦味のある思いが、チクリと戰の胸を刺す。

 しかし、真が傍らに居てくれると思うだけで、常以上の力と考えが浮かぶと思える、この根拠のない自信はなんなのだろう?

 そんな逡巡している戰を飛び越えて真は声を張り上げている。


「克殿と芙は!? 出来るだけ多くの人を救い出して下さいとお願いしてあるのですが!」

「既に救出は終わっております!」

「使節団の方々は彼方の棟に避難されておられます! 出来うる限りの事はしておりますが、如何せんお医者がおらぬので我らでは如何とも!」

 戰と真、そして那谷が率いる施薬院の面々に気が付いた克の部下が声を張り上げる。鴻臚館に使われている太い柱が大きく爆ぜ始めており、怒鳴るのが常になってきていた。


 那谷が細いを更に細くさせて、きり、と表情を引き締める。

「では何人か先に行って下さい! 私が其方に行くまでの間に怪我人の方々を解放している建物で、冷たい水の用意を! 竈では薬湯用の湯を沸かし始めて下さい! 釜はどれだけあっても多すぎるという事はありません!」

「はい! 今直ぐに!」

「目で見て重症の火傷と分かる方は、応急の処置などよりも痛がろうが叫ぼうが心を鬼にして、水を掛けたり桶につけたりして冷やして下さい! 火傷による水膨れは、私たち医師が診るまで決して啄いて破かないように!」

「分かりました!」

「兎に角、治療には一にも二にも水が必要です! 井戸水の汲み出しを命じて下さい!」

 那谷が命じると、これで助かる! と言わんばかりの涙目になりながら、男は怪我人たちが収容されている棟にむかって駆けていく。

 那谷と顔を見合わせて真は頷きあい、真は自ら地面へと滑り落ちるようにして腰を下ろす。


「真殿。其れでは私は一旦怪我を負われた方々の診察に参ります。どうか鴻臚館の今後を」

「はい。那谷、早く行って下さい。そして一人でも多くの人を助けて下さい」

「分かっております。真殿、重ねて言いますが無茶はいけませんよ? 決してこれ以上、無理に歩かれてはいけません。宜しいですね?」

「はい」

 真が短く答えるより早く、お早くと、部下の一人が急かす。那谷は克が用意した介護用の建物へと、福たちを引き連れて導かれていった。


 腰を下ろした時のまま姿勢を崩せない真に戰が寄り、膝をついて背中に手を当てて支えた。

「有難う御座います、戰様」

「……いや」

 今は迷っている時間も、自分の不甲斐なさを嘆いている間も惜しい(・・・)

 頼らねばなんともならぬというのであれば、一刻も早くこの自体を打開するように、共に尽力しよう。


 ――済まない、薔。暫らく大切な真を借りるよ。



 ★★★



 負傷者たちの診療に向かった那谷と入れ替わるように、克が二人の処に駆け寄ってきた。

「おお! 陛下! ……と、う、お、うおぉっ!? し、真殿、も!?」

「克、状況は?」

 よもや、真がこの鴻臚館へと出張ってくるなどと思ってもいなかったのだろう。真と目があった克は、頓狂な声を上げる。しかし厳しい詰問口調になる戰に釣られて、克も顔面を険しくして首を左右に振る。

「良くありません。と言うよりも悪くなる一方です。このままでは類焼が――王城に炎が飛び移るのは時間の問題です」

「分かった」

 理由があり、たまたまであったとはいえ現場に一番早く駆けつけ、そして力の及ぶ限りを尽くしてきた克の沈痛慷慨の表情を見た戰は、そうか、と短く答えた。


 真の背を支えていた手を離し、戰は、すっ、と立ち上がった。

「王城の建家の一部を壊す!」

 げぇ!? と息を呑み立ち尽くす祭国出身の兵仗たちの前で、克が部下に向かって怒鳴った。

「戈を持って来い! いや、戦棍を持って来い!」

 本来、戦車部隊が使用する戈であるが、城攻の折には城壁を打ち壊すにも使用する。それで回廊などの壁や屋根を叩き壊して延焼を防ぐのだ。が、禍国出身の克の部下は兎も角として、祭国の出の者は皆一様に遅疑の様相を隠せない。


「いや、し、しかしっ……!」

「し、し、城までも……! そ、そんなっ……!」

 克の部下を阻むように、兵仗たちは動揺の色を隠さずに立ち竦んでいる。

 祭国の城は確かに脆弱だ。

 大国である禍国と比べれば、見た目にも規模も、貧相な城ではあるのは否めない。

 が、長き歴史を誇るこの祭国の城を喩え一部であっても、自らの手で壊すなど、愛国心の強い祭国の人々の心として、躊躇せぬ方がおかしかった。

 しかし今は迷っている暇はない。

 炎の熱の勢いにより、秋の空気は旋風を呼び覚まし始めているのだ。

 このままでは城も全焼失となっても不思議ではない。

 一瞬の躊躇が一生の後悔を産むかもしれないのだ。

 それでも、根っから性根が座らず定まらぬ祭国の民に、狼狽するな尻込みするな、瞬時に一大決意せよ、と迫る方が無理というものだった。


 纏まりのない、雑駁な集団として兵仗たちが右往左往しかけたその時、戰の怒号が澱んだ空気を破った。

「祭国郡王・戰として命じる! 祭国の王室の玉体である国王・学とその生母である准后じゅこう・苑殿下を守らんが為だ! 王城の棟の一部と回廊を壊す!」

「克! 梢子棍しょうしこんを使って下さい!」

 戰の命と真の助言に、おう! と克は目を輝かせる。

 梢子棍しょうしこんとは、克が句国の戦の折に使用した殻竿からさおを元に虚海が考案した武器だ。確かにあれならば、殴打力により戈やよりも広範囲を効率よく、そして棍よりも安全に打ち壊しにかかれる。

 何よりも、克の部隊の者は身体の一部として扱える程に、使い込んでいる自信と自慢の武具だ。


「急ぎ用意しろ!」

 克の怒号に部下たちの身体には、強い感動が生む痺れに似た衝動が走った。

 郡王である戰の命令は、誰もが二の足を踏むものだ。

 だが、その命令を受け実行する事に迷いを見せず実行に移す克の果断さを、部下たちは信じた。

 は! と一声残す間すら惜しみ、男たちは一斉に武具庫へと走った。



 ★★★



 克の部下が梢子棍しょうしこんを手にして武具庫より戻ってくる間も惜しんで、現場に残った者だけで火事を消し止める為に飛び回る。


「おかしいですね……?」

 真は首を捻った。建家に水がかけられている様子が見られない。

 戰もとうに気が付いているらしく、珍しく焦りを滲ませて叫ぶ。


「水はどうなっている!? いくら何でも少な過ぎるだろう! 建家を壊すといえど、先ずは鴻臚館の火を消し止めねば話にならない!」

「そ、それが……」

「どうした!?」

 兵仗が、言いにくそうに口をもごもごとさせる。

 この期に及んで言い淀む兵仗に苛つきを隠そうともせず、克が怒鳴る。

「い、井戸が破壊されておりまして……」

「何!?」

「なっ……!?」

「つまり、水がない、ということかっ!?」

「は、その、全てが、というわけではないのです。水脈の細いものは幾らか残っているのですが、鴻臚館の為の太い井戸は、尽く……」


 ――水がない!

 戰と真が額に汗を浮かべて顔を見合わせる。

「糞ったれが! 何故それをもっと早くに言わんのだ!」

「は……は、その……」

「この馬鹿野郎どもが!」

 克の怒号に兵仗は小さくなりながら言葉を濁す。こうなるのを恐れて、誰もが口を閉ざしてきたのだ。


「このような時に己を可愛がって一大事を秘すなど何事だ! えぇい、糞! それならば一番近い王城の井戸から融通を利かせろ! 近場が駄目なら遠方だろうと何だろうとありったけの水を持って来い! 頭を使え! この馬鹿野郎どもが!」

「は、はい……」

 項垂れる兵仗に、克は鬼の形相で再び罵声を浴びせかけようと身を乗り出しかける。その間に真は、ずい、と身体を乗り出して割って入った。

「城の水は駄目です! 先程、那谷が言っておりました! 火傷の診療と薬湯に水は不可欠だと! 鴻臚館に逗留中だった使節団の人員数を考えれば、城の水は彼らの治療に使うべきです!」

「う、ぐっ……! な、なら、どうすりゃいいんだ真殿! このまま炭になるまで指を咥えて見てろとでもいうのか!?」

「誰もそんな事は言っていません! 炭化した処に砂をかけて下さい! 燻りだけでも止めねばなりません!」

「分かった! 急げ!」

「出来るなら、植木を切り倒して下さい! 生木を燃やしてはいけません! その煙を吸い込むと目と胸をやられます!」

「おう!」

 真の言葉を助けとし、克が、其処らの砂利を掘り上げろ! 鉈を鎌と鋸持って来い! と怒鳴る。兵仗は返事もそこそこに飛び上がり、一目散に駆けていく。


「畜生!」

 煤だらけの顔を真っ赤にして、まるで克が今や紅蓮のほのおの住処と化した鴻臚館を睨む。

「克殿、今のうちに投石器の準備をし始めて下さい」

「投石器!? そんな物を何に……」

 言いかけて克は、はっとした。

 水が調達出来た場合、手桶で連携してかけていても、鴻臚館全てが焔に包まれた今、もはや埒が明かない。

 しかし投石器ならば。

 巨大な甕に水を満たして鴻臚館に向けて投じれば、一気に水を打つことが出来る。それに投石器の扱いにおいて、克と杢が鍛えた部隊の腕は既に堤切りで実証済みだ。

「分かった。真殿の言う通りだ。用意させてこよう」

「水は必ず用意させる。克は投石器の指揮を頼む」

 戰の命に、は、と克は短く答えて走り出した。



 克の背中を見送りながら、戰と真は鴻臚館を睨む。

 必ず何とかするとは言ったが。

 水。

 大量の水を一体何処から調達するというのか。


 ぎりぎりという戰の歯噛みの音が、木が爆ぜる音にも紛れず唸っている。

「真、どうしたらよい」

「戰様、一つだけ思い当たる場所があります」

 一瞬の間の後、戰は真の肩を掴んだ。


「何処だ!? 真、其れは何処だ!?」

「……神殿です」

 真の答えに、戰は言葉を失った。



 ★★★



「医師様がおいでになったぞ! 気をしっかりもて! 助かるんだ! 助かるんだぞ、皆!」


 克の部下に誘われた棟に入った途端、此れまで、多様な怪我人病人を診てきて一廉の腕を持つに至ったのだと自負していた那谷は、いきなり鼻っ柱をへし折られた気分になった。

 まるで、医学を修める前のひよっ子に戻ってしまった気分にさせられ、立ち竦む。

 其れ程、目の前で呻く人々の形相は凄まじく、且つ又助けを求めて伸ばされる手の平の蠢きは那谷を震撼させた。

 一斉に這いずりつつ迫り来る響めきに、ただただ、圧倒される。

 ――逃げたい。

 本能的な、産毛までが総毛立つ恐怖に那谷は仰け反りかける。


 しかし、文字通りに煤に塗れて黒山となった人集ひとだかりの隅に、見知った人の後ろ姿を発見して踏み止まった。

 今まで、蔦の一座の者だというその青年と、さして親しくして来た訳ではない。それでも蔦と居る時に視線があって会釈をすれば先んじて、ぺこりと頭を下げてくるし、施薬院で働いてくれている珊には気を払ってくれていた。

 真とは別の意味で掴み所がなく、つっけんどんな処がある男ではあるが、言葉を交わす間柄ではなくとも良い仲間を持っているお人なのだな、と思っていた。

「……芙……ど、の……?」

 語尾を上げて、その自分より幾分年上のその青年に恐る恐る呼び掛ける。

 しかし那谷に、芙、と呼ばれた男の背は反応しない。 

 誰かを抱いているのか、背中が丸く前屈みになっている。

 後ろから仲間がどやどやと入って来た為、饂飩や蕎麦が湯に突き出されるように那谷は自然に流されて、芙の傍に押しやられた。


「芙殿?」

 思い切って、那谷は芙の背から彼の手元を覗き込む。

 芙の腕には、少年が抱き抱えられていた。

 少年は、血塗れだった。

 何かの圧を受けて破裂したのか目はとなっており、鼻も削がれ頬の肉ごと唇も裂かれて歯の根が見えている。

 見れば、抱いた腕の隙間から血が滴り広がっており、彼の座る周辺は赤い座が出来上がっていた。既にその少年の血は流れ尽くしてしまったのか、血溜りのは徐々に塊となっており、全体に茶褐色に変色し始めている。


「芙殿!」

 一気に那谷の中の医師としての矜持が覚醒する。

 叫ぶなり、那谷は芙の腕に抱かれた血塗れの少年を奪い取って診察をしようとした。

 しかし、芙の固い腕に阻まれて出来ない。

 ――芙殿!

 と怒りを含んで怒鳴ろうとして、那谷は思いとどまった。

 やっと触れた芙の腕の中の少年の身体は、冷たくなっていたのだ。

 とう(・・)の昔に、事切れていたのだ。


「……ふ、う、どの……」

「俺は、この子を助けてやれなかった」

 少しでも、生前の姿に戻してやりたい、という気持ちなのだろうか。

 那谷の前で芙が、熱によりちりぢりに巻いてしまった少年の前髪を撫で付けた。

 指が軽く触れるだけで、髪にこびり付いていた血が、ざりざりと耳障りな音をたてて削がていく。まるで、細石さざれいし木端こっぱのようにのように、ぽろぽろと落ちていく。

 芙は那谷に目も呉れず、只管ひたすらに少年の縮れ髪に絡んだ塊を落とす作業に没入する。

「医師ではない俺には、助けてやれなかった」

「……」

「だが、那谷殿は違う。那谷殿には助ける腕がある。一人でも多くの子を助けてやってくれ」

 俯いて少年の額に手を当てたまま、頼む、と細々と呟く芙の背中が揺れていた。涙を堪えきれていないとすら、気が付いていないのだ。

 那谷は芙のように涙を流せなかった。

 虚海から、涙を流すのは両の手に抱えきれぬ眼前に縋り来る全ての人を救ってからにしろ、と戒められているからだ。


 ――お医師はな、那谷坊、泣いたらあかんのやで。


 布団の上に肩肘をついて寝転んで瓢箪型の徳利を傾けつつ、ふとした折々に虚海は呟くのだ。

「ええか、那谷坊。お医師はな、駄目やった、言うて後悔と悔悟の涙を見せたらあかんのや」

また(・・)ですか、お師匠様」

「ほうや、また(・・)や。ええで、聞いとき」

 医師の悔恨は誰も救わない、救われない。

 後ろを見て、己を恥じて涙を流す、そんな暇があるのなら。

 黙って己の腕を切磋しろ。

 同じ過ちを繰り返さぬ為に。

 虚海は、口を酸っぱくして那谷に繰り返し繰り返し、言い含めた。

 施術方法や薬となる薬草の種類を教えるよりも、余程諄く、叩き込んだ。

 煩い、と思う程に。

 しかし、今ならば解る。

 虚海が師匠として、自分に何を伝えたかったのか。

 技よりも知識よりも、何を大切にせねば医師という業の深い職を全う出来ぬのかを。


 ――人は医師に絶対無二の天帝と同じ技を欲する。

 何があろうともれなく救う、巨大な手を。

 その期待を生涯背負う決意なくして医師を名乗ってはならないのだ、と虚海は伝えたかったのだ。


 那谷は、袖で目元を二・三度擦ると、立ち上がって声を張り上げた。

「皆さん! 絶対に助けます! 私を、施薬院の医師や薬師たちを信じて下さい!」

 その場に、助けを求める合唱が起きる。

 巨大な釜でぐらぐらと油が沸くかのような不気味なそれに、那谷は一歩踏み出した。

 まだ少年を抱いたまま離さない芙の肩を優しく摩ると、那谷は一番の助手である福を呼んだ。



 ★★★



 宣言通り、重症の火傷患者は全て那谷が診療を受け持った。

 患者の治療の合間にも、どうしたら良いのかと指示を仰ぎにくる仲間は入れ代わり立ち代わり、那谷の傍に座り込んでくる。


「那谷殿、どうやら灰を吸い込んでいる人が多そうなのですが。どうしたらよろしいでしょうか?」

「煙を吸い込んでいる人は、兎に角、鼻と喉をすすいで奥に入り込んだ煤を吐き出させて下さい」

「喉は分かりますが……鼻まで?」

「煤に炎の熱が乗り移っていた場合、それで口腔内や喉の奥を火傷するのだと以前お師匠様から教えて頂きました。鼻から管を使って水を入れて、冷やしつつ煤を出してあげて下さい」

「分かりました」


「那谷殿、彼方にかたまっている方々は、見た目に火傷を負っているようではないのですが、全身、発熱ではない赤みがあります。矢張火傷でしょうか?」

「鈍い赤みは、浅い火傷の場合があります。熱がある場合はしっかりと冷やして差し上げて下さい」

「有難う御座います、今直ぐに」


「那谷様、痛みの強い火傷を伴う裂傷の場合、軟膏は何が効くでしょう?」

「紫根と当帰の軟膏はもう直ぐ使い切ってしまいそうです。蘆薈ろかいと金車と甘草を混ぜた物を使って下さい」

「はい」


「誰か! 施薬院へ使いに行って下さい! 軟膏と晒を追加して欲しいのです!」

 叫びつつ必要な薬を書き上げた木簡を那谷から託された下男は、すわ、と立ち上がった。


 すると、手に握られていた木簡が、背後からするりと抜き取られた。

 驚いて振り返った那谷と下男の耳が、俺が行こう、という声をとらえた頃には、声を発した主は風となって姿が見えなくなっていた。

 




※ 注 ※


那谷が示した 蘆薈・金車・甘草入りの軟膏は、現在入手可能な『 養膚膏 』を参考にしました


【 蘆薈ろかい 】 = アロエ

【 金車きんぐるま 】 = ウサギギク


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
このランキングタグは表示できません。
ランキングタグに使用できない文字列が含まれるため、非表示にしています。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ