17 泪 その3-1
17 泪 その3-1
――ど・おぉぉ……ぉんん……。
産屋に戻る途中、地面を揺るがすような低い地鳴りが戰を襲った。
耳朶を、いや臓腑の奥、骨の髄までを叩く重い音が響いてくる。
――ぐぉぉ……うぉん……づぉぉ……うぉん……。
地鳴りに一歩二歩遅れて、空気と地面ごと、戰の巨躯が身体が揺さぶられる。
――何だ!?
視線の先では、産屋が丸ごと揺すられているのが見て取れる。
台風の時に建家が揺さぶられた時とはまた違う、不快な揺れだ。
産屋を守る為に居並ぶ全ての者が蹲り、小さく叫び声をあげている。巫などは、その場に蹲る者さえいた。
しかし、戰は仁王立ちをしたままだ。
弔鐘のそれとは違う音は、だが本来は違う音をしているのだと戰はほんの数週間前の自身の体験から勘付いたからだ。
――鴻臚館!
カッ、と目を見張り、音がした方角に振り返る。
嫌な汗が一気に顳に浮かび、伝い落ちていく。
――椿! 星!
思わず産屋に向け駆け出した戰が屋内に飛び込むのと、青白い顔付きで、学が椿姫と星の居る部屋から飛び出して来るのと、同時だった。
★★★
「郡王殿、この音は!」
「学、君にも聞こえたか」
はい、と答える学も戰と同じ方角に目を向けたが、少年王は呆然とした面持ちだ。
「この音は、いえ、地鳴りは……」
そうだ、と戰は応じる。
「どかんだ。どかんが炸裂した音と揺れに相違ない」
「でも、何故? あの堤切りを行った時にどかんは使いきったのでは!?」
学の疑問は尤もだった。
どかんの製法には、木炭と硫黄、そして硝石が必要となる。
硝石は薬にもなるが、今の薬学では薬師たちは余り好んで処方しない。虚海が時に頼んで仕入れていた為に施薬院にはあったわけだが、あの堤切りの折に全ての硝石を使い切ってしまった筈だ。
つまり、もうどかんは精製しようにも不可能なのだ。
――残っていない筈ではなかったのか?
疑念に、学と戰は鴻臚館を睨む。
どかんが残された、もしくは新たに作られていたとして、だ。
どかんが施薬院にあると、何処から知られた? 何処から漏れた?
どかんは誰の手により盗み出され、鴻臚館へと運び込まれた?
どかんを知る者は、この王城では限られている。
一体、誰の仕業なのか? 誰の指示なのか?
二人の間に、疑問と疑念がぐるぐると回る。
其処へ、青い顔をした祝が飛び込んできた。
「どうした?」
「恐れながら申し上げます。鴻臚館より兵仗殿がおみえになられまして、郡王陛下御自らの御指示を賜りたいと……」
分かった、と戰は祝の言葉を遮った。
今は、疑念に足を止めている場合ではない。
鴻臚館に逗留しているのは禍国の使節団だが、仕えている者たちは戰にとって祖国の民でもある。疎かになど出来ようはずがない。
「鴻臚館に向かおう」
「しかし、郡王殿」
指揮を執る為に鴻臚館へと向かいかける戰を、学は止めた。
学にとっては、鴻臚館に留まっているのは宗主国の御使なのだから、それを慮れば学が動いた方が後々、要らぬ嘴を挟ませずに済む。
だが、気持ちを衰弱させきって倒れ臥せってしまった椿姫の容態の事もある。彼女を思いやれば、出来るだけ長く戰は椿姫の傍に居た方が良いに決まっている。
しかし戰は、いや、と頭を振った。
「確かに、学が行ったほうが良いのかもしれない」
「はい、ですから……」
「が、西宮が動かぬと断言出来ない」
戰の言葉に学は、あ! となった。
祖父である後主・順が身罷ったが故に忘れていた。
西宮にて何か事が起これば、事情によれば祭国の王族ではない戰は手出しができない。宗主国の郡王として命ずなりとごり押しは出来るだろうが、しかし禍国の使節団がいる目の前で、双方の不穏な空気を露呈してやる事はない。
「……分かりました、私は此処に残ります」
「済まない、学、宜しく頼む」
はい、と学は表情を明るくした。
「後は心配なく、お任せ下さい」
「頼む――特に、私の妃を、子を――椿と、星を」
「はい」
一瞬、椿姫が我が子と休む部屋の奥を切なく見詰めた戰だったが、学に目配せをすると、祝を跳ね除ける勢いで産屋を後にした。
★★★
戰が産屋の外に出ると、かっかっ、と小気味よい音が寄ってきた。振り向けば、杢が緊張した面持ちで近付いて来ていた。
「陛下、あれをご覧下さい」
杖を両脇に抱えた杢は指し示す事が出来ない。しかし、彼の視線を戰は追って、目を見開いた。
戰の視界の中では、鴻臚館が轟々と音を立てて火の粉を踊らせている。
炎の柱は秋の空を焦がし、濛々と立ち上る黒炎で空気を嬲り、熱波で周囲を滲ませている。
さながら、鴻臚館は火炎が終の棲家と定めたかのような様相となっている。
凄まじい。
としか言い表しようがない。
「陛下。あれはもしやどかんでは?」
「杢も、そう思うか」
忌々しげに紅蓮色に染まる鴻臚館を睨む戰に、は、と杢は頷く。
「しかし、それにしては炎の勢いが強すぎる」
「はい、私もそう感じております」
戰の疑問に、杢も同感の意を示す。
産屋に入る前までの鴻臚館はどかんに吹き飛ばされたとはいえ、堤切りを行った時と同じく火炎の被害は見えなかった。それが今はどうだ。濁流が空に向かうが如きに火が舞い上がっている。刻一刻と姿を変える炎の勢いは、決して弱まることはないではないか。
河国の戦にて真が紅河の上で放ったどかんは硝石がなかったが為に契国にて伐たちが示してくれた威力には程遠く、戦の決定打としては大いに疑問が残った。その為どちらかというと炸裂による風圧の勢いでの破壊というよりは、水面に流した柴油に着火目的で爆発させた。
だが本来のどかんの力とは、火炎よりも炸裂と爆裂の勢いにて対象物を破壊するものだ。堤切りの時は、正に面目躍如といえる威力を発揮してくれた。
今回のこの威力は、明らかに前者のように二人には思われた。
「先程の揺れは、明らかにどかんが炸裂したものだ。だが」
「はい、この火災は違います。別の手によるものでしょう」
だとすれば、答えは一つ。
鴻臚館に潜んでいた禍国からの手が動いた。
「杢、産屋の護りを頼む。この後、西宮と組んだ敵がどう動くか。更に事あらば、学も産屋から出て指揮を取らざるを得なくなるだろう。椿と星、そして准后殿を頼む」
「は、どうかお任せを」
俯くように頭を垂れる杢に、頼む、ともう一度言いおいて戰は兵仗に導かれ鴻臚館へ向かって駆けていく。
その背中を暫し見送ると、杢はくるりと背後を振り返った。
集結し始めている殿侍たちに、腹の底からの声を掛ける。
「見ての通り、鴻臚館にて大火が発生した! 王城に備わる歴代々の王を祀る貴い霊廟、そして国王である学陛下! 及びこの産屋におわす妃殿下並びに禍国帝室に名を連ねられる皇子・星殿下! そして今上王の御生母であらせられる准后殿下! 祭国の尊い四柱の玉体を決して汚してはならん! よいか、王城の大極殿とこの産屋、何としても守り抜くぞ!」
は! と呼応する殿侍たちに、杢は強く頷いた。
★★★
――……今のは……なに……?
怪しげな揺れに、横になっていた椿姫は目を覚ました。
いや、覚まされた。
地震のような妖しい地鳴りを伴うその音は、震撼・という言葉がぴたりと当てはまるものだった。
ゆっくりと目蓋を開けると同時に、地鳴りの根元から発せられている鐃鈸が割れるような振動音が、空気を鈍色に燻ませて耳に届く。
――星!
生まれて間もない、愛しい人との間に授かった我が子は無事なのか?
この禍々しい韻に、拐われてはいまいか。
言いようのない恐怖と慄れに、椿姫の意識は一気に覚醒した。
がば! と身体を起こす。
慌てて我が子・星を探し求めると、息子は全く気が付かなかったのか、傍らですやすやと健やかな寝息をたてていた。大物の片鱗を見せている息子に、思わず頬を和らげながら椿姫は指先でちょん、と啄いた。星は唇の先を尖らせて、ちくちくと物欲しそうに2~3度動かしたが、直ぐにまた眠りに落ちていった。
星の眠りが深い事を確かめると、椿姫はそろそろと寝台から降りた。
――どの位、眠っていたのかしら……。
開けかけた衿を整えてゆっくりと立ち上がる。
すると、起き出してきた気配を察した苑が静かに現れた。
「椿、大丈夫ですか?」
「……ええ、お義理姉様……」
有難う御座います、と続けかける椿姫の耳が、動揺を隠しきれない足早な足音が産屋を後にしていくのを捉えていた。彼女の良人である、戰のものだ。訝しみ、首を傾げる椿姫の元に、今度は豊が飛んできた。
「あらあら、お目覚めになられました? ご気分は? およろしいですか?」
「豊……ええ、有難う。大丈夫よ」
「そりゃあ良かった。さあさ、お乳をあげてそのまま寝入ってしまわれたのですからね、お腹がすいて喉も乾いておられるでしょう?」
そう言って、豊が山羊の乳と蜂蜜をかけた団子を差し出してきた。
確かに、喉がからからだ。礼を言って山羊の乳で満ちた椀を取ろうとすると、産屋の外が騒然とし始めた。
――何? ……なのかしら?
椀を傾けて中身を味わいながら少しづつ飲み干していく椿姫の疑問溢れる顔ばせに、苑と豊は顔をちらりと見合わせた。それを見逃す椿姫ではない。
「豊」
「は、はぁいぃぃ!」
椿姫の鋭い声音に、豊は些か間の抜けた返答を返す。
「私は身体を揺すぶる、地震のような音に目が覚めました。あれは……一体何なのですか?」
豊は大きな胸を擦りながら、苑に救いを求めるように目配せする。
「豊、答えなさい。あの音と振動は何なのですか?」
「ひ、妃殿下……」
逃げ腰の豊を逃さない、と言いたげに椿姫は言葉を重ねる。そんな椿姫を、これ、と苑は諌めた。
「其のように、詰問口調でいてはいけませんよ。貴女はまだ、身体が戻りきっていないのですから。血の道が上がって、また倒れでもしたらどうするのですか?」
肩に手を当てようとした苑手首を、椿姫はぐ、と強く握り締めた。
「ではお義理姉様。どうか隠さずに、そして偽らずに教えて下さい。あれは何なのですか?」
「椿……」
「私はこの祭国を治める郡王・戰の妃にして、今上王・学の叔母です。准后殿下、同じく祭国の民に尽くす一族であるならば、教えて下さい」
椿姫の真摯な瞳の色に、苑の心が揺らぐ。
自分とても、あの音の正体を知っている訳ではない。
しかし、学と蔦が何時の間にか姿を消しているのだ。
途轍もない重大事が起こったのだ、それも、自分では計り知れぬ程の。
生まれたばかりの乳飲み子を抱え、そして父親をあの様に亡くしたばかりの、まだ娘の年齢の義理妹に憶測揣摩だけで伝えられよう筈もない。
――どうすれば。
不意に苑は、自分が何故、覺の妃として相応しくない者として椿姫の母后であった萩に厭まれたのか、理解した。
――私は、政治という世界がどうしても解らない。
覺への想いは本物だ。
が、覺を慕い、互の愛を乞うだけしか出来ない自分は、結局人を助ける為に人の上に立つ彼らの気持ちに添い、手を携える事は出来ない。どうして良いのか、解らない。
わかるのは、今、目の前で戰と学と生まれたばかりの星の為、国の為、身を挺そうとしている義理妹のようにはなれない、という事だ。
何れ程、どんなに身も心も、女として人として傷付けられ、嘆きの闇に囚われていたとしても。何事か重大事が起これば人の為国の為に先ず尽くさねば、と瞬時に魂を挿げ替える事など出来ない。
――椿。
この子は、国を、人を、何よりも大切だ思う心を決して忘れない、失くさない。
王として人の上に立ち、手を携え国を導く良人と共に歩むこの義理妹の域に達することなど、私は出来ない。
いや、出来る出来ない以前に、考えられない。
――何処までも、私は只の女でしかない……。
覺様を妻として愛し、学を母として愛する、只の女にしかなれない。
――椿、貴女が羨ましい……。
真摯な眸で見上げてくる椿姫を苑は、ぎゅ、と音を立てて腕に抱きしめた。
苑が椿姫を抱きしめていると、使えている巫が遠慮がちに声をかけてきた。
「どうしました?」
「はい。あの……其れがその、国王陛下が妃殿下と准后殿下にお会いしたいと……」
椿姫と苑が顔を見合わせ、そして頷きあう。
「お入りなさい」
苑が声をかけると、学が心配そうな面持ちで覗き込むようにおずおずと部屋に入ってきた。そんな様子は、まだ邑での生活の頃を彷彿とさせる只の9歳の少年に過ぎなかった。
「何があったのですか?」
椿姫の質問に、学は言葉なく、長姉と慕う彼女の手を取った。
そして母をも促して、部屋の続きとなっている奥の間へと導く。其処から取られている小さな格子窓から、外の様子が伺えるからだ。
椿姫と苑は、悲鳴をあげ、息を呑む。
小さな少年の指で指し示されるまでもなかった。
煌々とした赤みに、鴻臚館の方角の空気が侵されていた。
★★★
杢の指導の元、王城と産屋への延焼を防ぐ為に殿侍たちが額に汗を光らせながら走っていた。
しかし実の処、王城に学はいない。この産屋に秘されている。
居るもの、として指揮を求められても困るがさりとてこの産屋に身を潜ませているのだと知れても困る。
――どうしたものか。
火達磨となりつつある鴻臚館を見上げるようにして睨む。
回廊でつないである、王城の離れの一部を壊せば王城への延焼は防げる。子供でも解る道理だ。現場では恐らく命令が下されているだろうが、それにしてもこの炎の勢いは尋常ではない。
――柴油、とまではいかんが、矢張何か別の手が入っているな。
消火作業には恐らく既に『例の物』を探りに行った克殿が当たっているのだろうが。
しかし克が指揮を取っているにしては、作業が難航しているようで、風向きが変われば産屋にまで火の粉の一部が届きそうな程にまで、火力はぐんぐんと強まっていく。
――それともまだ何か問題があるのか?
人々を嘲り笑うかのように勢力の旺盛さを見せつける炎を歯噛みしつつ睨む杢の元に、禰宜の一人が緊張に頬を強ばらせて杢に近付いてきた。
「杢様」
「おお、禰宜殿。丁度良き処へ来てくれた。この様子のまま炎の勢いが増すばかりであれば、此処も安全とは言えぬ。産屋におわす星殿下、妃殿下、准后殿下を別所にお隠しあるよう計らってはもらえまいか」
禰宜が、杢の言葉に眉を顰める。
「其れはお許しを与えかねます」
「何!?」
「天涯の主たる天帝の御力を宿せし我らが御印を、この産屋の邪気を祓った神勅を、愚弄し穢す行いに御座います」
この場に居もしない神がこの大火より尊き貴人を守るか、と怒鳴りかけて杢は漸く堪えた。
祭国では、自分たちの常識が通用せぬ深遠がある。その深き想いを蔑ろにしては後々、国王である学と郡王である戰の二王体制に亀裂が入りかねない。
とは言え、どうすべきなのか。
――学陛下の御心を知りたい。
だが、国王である学は産屋に居る。
現場の指揮を執るために産屋の外に出てしまった己の迂闊さを、杢は呪いたくなった。事情を知らぬ禰宜に指揮をとっている処を見付かってしまった以上、おいそれと産屋に入る訳にはいかない。神職に就いている彼らの目から見て怪しまれぬように入らねばならない。
――正面から入るに限る。
要らぬ取り繕いの嘘で糊塗するよりも、堂々としていた方が後々の拗れは少ないだろう。
「禰宜殿。星皇子様と妃殿下、そして准后殿下の御身の安心を確かめたい。産屋に入る事に許しを貰いたいのだが」
「分かりました。この非常時です。宜しいでしょう、特別に祓いの場を授けます」
「何!?」
「杢様の御怪我の穢を祓う為、斎戒沐浴を行いますれば。此方に」
地を叩く杢の杖の先が、そんな糞呑気に悠長な事をしている場合か、と言いたげにカツカツと苛立った音を立てた。
★★★
怒りを押さえ込みつつ、杢は禰宜たちの求める作法を黙々とこなした。
ようよう産屋に入ると蔦が、すわ、と駆け付け杢を迎え入れた。
「杢様」
「蔦殿、先程の地鳴りは耳にされておられますか?」
「はい、火の手の回り様が尋常一様ならざる様子と見受けまして」
とうに蔦も確認していていた。
だが、彼はどかんの威力を目の当たりにしていない。腹の底ではこのような絶対勝利を呼び寄せる代物を、兵器として自軍のものとした戰と真を流石と思っているのかもしれない。
が、現状、この祭国を襲っているのは、そんな生易しいものではない。
下手をしなくとも、対応を一歩謝れば城は焼け落ち禍国に攻め滅ぼされる口実を与えてしまう。
「学陛下と話がしたい。宜しいか?」
切羽詰まった杢の言葉に、蔦も緊張した面持ちで頷く。ほぼ同時に、学の方から姿を現した。
「陛下、礼拝を捧げぬ非礼をどうかお許し下さい」
短く頭を垂れる杢に、いいえ、と学は首を左右に振った。
「鴻臚館へは郡王殿が向かわれました。ですが見た処、火の手の勢いが余りにも強すぎます」
「はい、あの火炎気流では近付くのも至難の業となるのも時間の問題となります」
「消し止める為の作業は、克殿が当たられておられる筈に御座いまする。なれどあの火の勢いを見るに、難航されておられるご様子にて」
「何故? 克殿と彼の部下の手腕は堤切りの時にはっきりとしております。そんな、動きが足りなくなるような方々ではありません」
少年らしい一本気に頬を紅潮させて、学が杢に食ってかかる。
「あの御様子では、何か不測の事態が起こったのでしょう」
「不測の事態? ……一体、何が?」
「一番考えられるのは、水が足りぬ、という事です」
水が足りない。
余りにも当たり前すぎる杢の指摘に、学はあっとなる。
言われてみれば、あのような大火となっているのだ。火消しが間に合わぬ以前に間に合わせきれなかったと見る方が考えやすく、そして火炎が一向に衰える様子をみせぬ処からは水が足りぬのだと思いつかぬ方が当然だった。
「このままでは何れ王城にもこの産屋にも火の粉が舞うやもしれませぬ」
学が少年らしい悔しさを隠しもせずに、頬を青ざめさせる。そんな学に、蔦は追い打ちをかけるかのように静かに、だが重々しく告げる。
「どうすれば……。いえ、せめて今少し火消しの為に水の融通がきけば」
そこまで言って、学は、ハッとなる。
視線を上げた少年王は、己を見守る大人二人の期待を込めた瞳の色に力を得て頷いた。
鴻臚館から一番近く、そして太い水源を持つ場所。
「あります! 泉がこの先に!」
ある。
この先にある――神殿に。
「泉を開放するように私が王として命じれば」
はい、と杢が眸を伏せつつ其れこそを期待しております、と答える。
殿侍たちだけでなく、禰宜や祝たちの総力戦で水を運べば何とかなるかもしれない。
いや今は、『此れで何とかなる』という心理を作り出す方が重要だ。
あの紅蓮の炎の勢いに、神職にある者たちは大火から大過を連想して及び腰になり始めている。
つまり天涯を治める天帝より、この祭国に災禍を生む禍獣が棲みついていると見限られたが故に起きたのだと、祭国が大過ある国であると見捨てられたのだと思い始めている。
それが証拠に、周囲の神職にある者たちは、おろおろと顔を互いを伺うばかりで自らを励まして動き出そうなどと皆無だ。先ずは彼らを静め、そしてこの行いにより天帝の怒りを鎮める得るのだと、決定つけ納得させる何か《・・》が必要だ。
「どうすれば――」
自分の考えの及ばなさに項垂れる学の背中に、陛下、と優しい声音が降り注ぐ。
振り向いた学の前に、長姉と慕う椿姫と彼女の腕に抱かれた星が、母・苑に支えられながら佇んでいた。
★★★
「妃殿下」
杢が跪くと椿姫は首を左右に振りながら、にこりと微笑んだ。
「今はその様な事に時間を割いている場合ではないでしょう」
「……は」
それでも姿勢を崩そうとしない杢の肩に、細い指がかかった。
苑のものだ。慌てて飛び退りかけ、生憎と杖に頼らねばならぬ身の上だと思い出し杢は眉を寄せる。嫋かな手に支えられつつ、申し訳がたたぬ、と全身で打ち明けている。
蔦が、つぃ、と優雅に裾を捌きながら頭を垂れると、椿姫は常と変わらぬ彼を頼もしげに見詰めて、微かに微笑んだ。
「蔦、頼みがあります」
「妃殿下におかれましては、何をお望みなのでありましょうや?」
この事態を打開する策を秘しているのか、とこの場にいる誰もが期待を込めて、皇子・星を腕に抱く椿姫を見上げている。
「戰の元に使いを出しては貰えませんか? きっと、戰と共に真様もおられます。そしてこの事態を打開する為の策をお持ちの筈。その策を戰と学とに、どうか、と」
蔦は思わず、眸を大きく見開いた。
芙から真の身体の状態が如何なるものであるか、聞き及んでいる。
――今、真様にお頼りできるのか……。
椿姫様は、真様のお身体が常ならぬとお知りにならぬ故、このように仰られるのだ。
しかし。
――真様なれば。
陛下の御元に駆け付けられる筈。
何があろうと、必ず。
確かに椿姫の言うように救いの一手を授けて呉れることだろう。
「分かりました。この蔦が、陛下と真様の御元に参りましょう」
言うなり、蔦はふわりと優雅に裳裾を蹴り捌く。
まるで舞う木葉のように蔦の細い身体が踊ったと思う間に、彼の形をした薫香をおいて姿が消えていた。
蔦の姿が忽然と消える様に慣れぬ学は、呆気に取られて空虚となった間をぽかんと見つめている。
まだ純真無垢な子供らしさを失わぬ少年王の前に、椿姫は星を抱いたまま片膝をついて静かに頭を垂れる。
「国王陛下」
「――え?」
「我が愛する祖国を助ける為に。そして我が良人の治領を援ける為に。お力添え下さい」
どうか、と伏せた椿姫の双眸には珠の如き涙が宿っていた。




