17 泪 その2-1
※ 今回、残酷描写を含みます
17 泪 その2-1
「やっ、こわい!」
地鳴りに身体を揺さぶられ、薔姫は恐怖から小さな叫び声をあげた。手にした椀を放り投げて、真の胸の中に飛び込む。真は薔姫の小さな頭を抱えるようにして庇いつつ、音の尾が消えるのを待った。
不気味な揺れが収まってから真は立ち上がろうとして、ぐら、と前のめりになった。酷い耳鳴りのせいで、並行感覚が真面でない事をすっかり失念していたのだ。
「きゃあっ!?」
「うわっ!?」
叫び声を上げて倒れかけた真を、薔姫が必死になって支えた。
お互いにお互いの肩を掴んで均衡を保ち、何とか転ぶのを回避する。何方からともなく、ふぅ~……と長く息を吐きあった。
「済みませんでした、姫」
「うぅん、いいの、でも……」
施薬院でも、地響きというか地鳴りの音に気が付いた者が飛び出して騒ぎ始めているようだ。恐怖に騒然とした気配は、中途半端な聴力しかない真の耳にも届く。
正面を向かねば声が聞き取れない真は、薔姫を引き寄せて顔を突き合わせる。
「姫、音は何処の附近から聞こえてきたか、分かりますか?」
打撲による熱からくる膿んだような思考力の停滞もだが、耳鳴りからくるふらつきからくる音を正確に拾える方向が限られている為、何処からどの位の距離がはなれているものなのか、全く皆目見当もつかない。
自分の身体が思うに任せぬもどかしさを、真は、嫌になるほど実感させられていた。
真の勢いに幾分気圧されつつ、薔姫が答える。
「う、うん……た、多分、鴻臚館の方から……」
「鴻臚館?」
「――見て! 我が君、彼処!」
それまでおずおずとしていた薔姫が、悲鳴を上げて鴻臚館の方を指差す。
その小さな指が指し示す先には、濛々と立ち上る灰と黒い煙が混ざり合ったものが見える。
それは、炎の片鱗だった。
薔姫に肩を借りながら、真は呆然と鴻臚館に上がった火の手を見詰めた。
――あの地鳴り……。
地面ごと、持ち上げて揺さぶりをかけるような、あの巨大な力量を持つあの地鳴り。
あんな事が出来るものの存在など、一つしか思い浮かばない。
――あの地鳴りは!
いやしかし、そんな馬鹿な、と真は己の考えを必死になって否定する。
本来のどかんは、あのように強い延焼力はない筈。
だが、この距離まで届くあの爆裂音、地を揺るがすあの爆発力。
どかんのそれとしか思えない。
――ですが何故どかんが鴻臚館に……。
鴻臚館、という自らの呟きに真は、まさか……、と蒼白になる。
――まさか……仕人の子が!?
思う前に、真は叫んでいた。
「芙! 芙、戻っていますか!? 居てくれるのであれば来て下さい!」
叫ぶ真の横に、ひゅ、と疾風が寄り添ってきた。
芙だ。その耳に、一言二言囁きを授けられると、芙は頷き、覆面で顔を覆った。
「鴻臚館へ! お願いします!」
私も直ぐに向かいます! という真の叫び声を背に受けながら、芙は既に駆けていた。
★★★
芙が鴻臚館に到着する頃には、炎は轟々と音をたてながら盛んに粉を撒き散らしていた。文字通り、気炎万丈だ。
周囲を見れば、克の指導の元、必死の火消しが行われていた。
が、此処までの乾燥した空気のせいでが火の手の周りが早い。しかも、秋がぐっと深まるこの季節は、北風が強くなる。折からの強風も無駄に手伝い、克たちの努力を嘲笑うか如くに炎は益々気勢を上げ、瞬く間に鴻臚館を包み込んでいく。
「克殿、ご苦労様です」
す、と克の背中側に回りつつ声をかける。
おう、と短く答える克の頬には、流れる汗により煤が大量に張り付いていた。新たな汗が流れ、そしてまたその上にすすが上書きされていくのだ。
「克殿は、気がついているか?」
「ああ、これはどかんによるものだ、と思う」
熱気が辛いのか、ふぅ、と克は息を継ぎ、顎から滴り落ちかける汗の粒を手の甲で拭い取る。頭部の傷の手当の為に珊が巻きつけた包帯は、灰色を通り越し既に真っ黒になって焼け焦げた異臭を吸い込んでいた。
「しかし真殿も気にしておられたが、どかんにしては火の勢いが強すぎます」
「それは俺も感じている。この火の回り方は明らかにおかしい」
「では例のものは?」
「まだ未回収だ。というよりも、回収する為に此方に出張ってきたら、此れだ」
「火元は?」
「それが、王城に入る事をまだ許されておらん子供らに割り振られている部屋あたりらしい」
克の答えに、芙は目を眇めた。
子供たちに割り振られている部屋、それはつまり、例の仕人の子供が居る部屋、ということだ。
「鴻臚館全体の避難状況は? 例の子供は?」
「良くない。というよりも分からん。いや、祭国側の鴻臚館付きの端女や下男たちは避難しているようだが……」
「分からない?」
「施設団の者たちは勿論、例の子供はおろか、公婢たちの脱出状況も何も、禍国の奴らはまるで把握しとらん。祭国出の役人たちも、動きがのろま過ぎて使えん。俺が把握していないだけならば良いが」
もしくは逃げ遅れて誰にも発見されずにいるのか、とは答えられない克に、芙も沈痛な面持ちで眉を潜める。
実際、目の前で動いている克の部下たちは無駄な動作は極力省いている。
元はといえば、彼らも禍国の民だった。
祖国の民の緊急時、しかも大火に遭遇していて全力で助けに走らぬわけがない。
だがそれでも、足りないのだ。
元々の祭国出身の領民で形成されている組織の意識の甘さと脆弱さが、こんな形で露呈するとは。
しかし、助けられる方にも問題があった。
「使節団の奴ら、此方を格下と思い云う事を聞かんのだ」
仏頂面で、克は唸る。
真面に云う事を聞いて避難したのは、身分の低い者たちばかりだが、彼らとて、上官に阻まれて脱出出来ていない者の方が圧倒的に多い。
禍国は、祭国の宗主国であるが故に、国としての格が違う、と先ず民は思い込んでいる。
祭国の民はそのように思ってはいないが、禍国の民は違う。
己たちの方が、『人種』として『上』であると本心から思い込んでいる。
そして禍国からの使者は、基本、郡王に罪を問う為にやって来ている。
属国の、しかも咎人が治める国の民の言葉を何故聞き入れなければならない、という驕り歪んだ思想が、彼らの首を絞めていた。
いや、自分で自分の首を絞めるだけなら良い。
身分の低い者まで巻き込んでいるから、質が悪いのだ。
舌打ちを懸命に堪えている克に、芙は目を細めた。
「克殿の身分を盾になされて下さい」
「俺の?」
きょとんとした顔付きで芙をまじまじと見つめ返してくる克に、芙は笑った。
「俺の身分などで何がどう変わる?」
「克殿の身分は、禍国相当に直されれば右丞と遜色ありません。それに、前年の句国の戦においての戦勝を決定付けた功労者のお一人、奴らは素直に従います」
「……まるで、真殿のようないい口だな」
寄り目をしつつ唇を尖らせる克に、芙は覆面をしたまま笑い声を零した。是、という意味だと受け取った克は、そうか、と後頭部をぼりぼりと引っ掻いた。
「分かった、やってみよう」
「お聞きしたいのですが、例の子供の部屋は?」
「見取図なら俺のを使ってくれ」
芙は有難う御座います、と答え克から図面を受け取ると、一瞬、表面を舐めるように眺める。
「有難う御座います、叩き込みました」
持ち主に図面を返すと、芙は直様、気配を消していた。
★★★
濛々と上がる煙の中を、芙は進んだ。
地図は既に頭の中に描ききってある。
と言うよりも、草として仕事をせねばならぬ以上、絵図面などを一目見て脳裏に焼き付ける能力は皆、ある程度身につけさせられる。
――仕人の子供らが使っている部屋は、この奥の筈だが。
覆面をしているのと、此れまでの鍛錬のおかげで無駄に煙を吸い込む事はないが、それにしてもこの視界の悪さは度が過ぎる。克や彼の部下と違い、芙を始めとして彼の仲間はこの焦熱に晒されてもさほど汗はかかない。熱波や寒波、身体に及ぶおよそ考えつく限りの痛みに対して馴れるまで徹底して仕込まれるからだ。
矢張おかしい、と思いながらも芙は廊下を進んだ。
火元と思しき箇所は、子供たちに割り振られた部屋だと克は言っていた。
もしも例の仕人の子供の部屋が火元だとして、そしてどかんが原因だとするならば、この火の手の上がり方は逆におかしい。
堤切りの際に、実際に目にした自分たちには分かる。
契国で伐が齎してくれたどかん、あれはどちらかというと爆音と風圧による威力の方が強く、火力は火付けのもの程度だ。だがこの状況は、明らかに火炎の威力の方が優っている。
――どういう事だ?
目を細めたまま、芙は奥へと進む。
と、脚を止めて耳を欹てた。
子供の泣き声がしたように思えたのだ。
いや、違う、確かに聞こえる。
助けを求めるというか、細い泣き声。
だが、もう助からないのだという絶望に押し潰され、痛みに染まり、悲嘆に暮れた、悲しい泣き声が確かに訴えてかけてきていた。
芙は声を頼りに白煙の中を進む。
ほんの5尺ほど前の距離ですら、真面に見えないような猛烈な煙の立ち具合に辟易しながらも、芙は等々、部屋の入口を発見した。
「誰か居るのか? いるのであれば、声を、声が出せぬのであれば、何か音を、唸るだけでもいい、目印となる音を示せ」
芙が部屋の奥に声をかける。
実際に、この白煙があがった部屋に人がいたとしても見えないだろう。
まるで、入道雲が詰まっているようだ。芙は覆面を外した。モヤ、とした猛烈な熱気と共に物が焼け爛れていく強烈な悪臭が同時に顔面を襲うが、少しでも耳が音を拾いやすいように、と敢えて顔を晒して立つ。
煙と熱波が、待っていたと言わんばかりに顔面と身体を容赦なく嬲りに来るが、構わない。目を閉じて、じっと耳に意識を集中する。
――……こつ……
何かで床を叩く音が、芙の耳に届いた。
――……こん…………こつ……こつん…………。
不規則で、耳を澄ましても聞き取れるかどうか程度の微かな、申し訳程度の音だ。だが、確かに聞こえた。拳か踵か、何処か身体の硬い箇所で、床か壁を叩いている音だ。
覆面をし直すと、芙は音の方へと走る。
音は、二つ先の部屋の更に奥、寝室から聞こえてきている。
迷いなく、芙は煙で真っ白になった部屋と入った。
部屋の中に入ると、煙はより分厚い層となって芙の行く手を阻もうとする。
火の手もさることながら、煙の量が半端なく、全く何も見えない。誰か残されているのか、気配すら感じ取れない。
しかし、耳が拾った音はこの部屋だった。
注意を払いつつ、芙は床を這うようにして進んでいく。どうせ、音を出している者も、倒れているのだ。この方が見つけやすいというものだ。
果たして、部屋の隅に吹き飛ばされたと思しき人影があった。頭を此方に向けて俯せの状態で倒れている。足で壁を蹴って、音を出していた。
例の仕人の少年だと勘付いた芙は、安心させる為に声をかけつつ駆け寄った。
「もう大丈夫だ」
静かに、抱き上げ――目を、見張った。
★★★
芙は覆面を外すと少年の顔に巻きつけた。自分は代わりに、袖を落として開き、顔面を守るように巻きつける。
これ以上煙を吸わせてはならないという判断からだが、しかし少年にとってはもうどんな処置を施したとしても手遅れだろう、という事実もまた、芙には分かってしまっていた。
何も言わずに少年を横抱きに抱き上げて、煙と熱波からの脱出を始める。
腕の中の少年は、芙の体温を移した覆面に覆われながら、呻いていた。
呻くしか、出来ないのだ。
顔面を守る為に咄嗟に両腕で庇ったのだろうが、そのせいで腕はほとんど肉が剥がれ落ちて白い骨が見えていた。逆に言えばよくぞまだ肩からぶら下がっている、という状態だ。
そのくせ、そうまでした犠牲を払いながらも、少年の愛らしい顔は――元の顔がどうであったかなど判別出来ぬほど、ぐずぐずの肉の塊になっている。皮が剥がれ頬の肉が顕となり、唇はめくれあがり歯肉ごと剥き出しとなり、鼻は刮げ落ちており、瞼ごと潰された眼は落ち窪んで次から次へと溢れる血の溜り場となっている。
首から下も、着物はほぼ身体の正面は着物が吹き飛んで千々に乱れている。折れている骨が胸を凹ませているし一方で突き出してもいた。腹にも、どうやって傷がはいったのか、深い裂傷からは腸が飛び出していた。
――よく生きている。
全く力のない少年の体温がまだ冷えていかないのは、いっそ奇跡だ。
床に転がっていたのが幸いしてか煙を吸ってはおらず、そして炎の餌食にならずに済んだ為、ぎりぎりの処で命を繋いで来られたのだとしても、少年が生き延びたいと思う気持ちが有ればこそ成し得たのだ。
――……よくぞ音をたてられたものだ。
生きたい、と願うこの子の思いに応えてやらねば。
涙を堪えながら、芙は最短距離を選びつつ外を目指す。
覆面を少年に与えてしまった為、袖を落として作った簡易の覆面では煙が鼻の粘膜を熱波は喉を刺激してくる。顰め面をしつつ芙は走った。そして走る度、その微弱な振動ですら、少年の命を削っていっているのが、腕を伝わってくる。
――死ぬな。
死なせたくない。
だがもしも助からないのであれば、せめて、虚海か那谷か、何方かの診察を受けさせて人間らしく扱った上で、芙はこの少年を死なせてやりたかった。
★★★
――矢張どうにもおかしい。
しかし走りながら、芙は違和感の元に気がついた。
真の言葉によれば、仕人の少年はどかんを施薬院から盗み出して、それを隠蔽しようとその効力と威力を知らずに火をつけた。
少年の部屋の惨状を、そして少年のこの悲惨な姿を見れば分かる。
少年は、灯りか何かの火にどかんが何であるかも知らずに投じ、吹き飛ばされたのだ。
――だがそれならば、煙と火の手があがる箇所が何故この坊主の部屋以外にもある?
克との会話を思い出す。
例の物は未回収だ、と。
――つまり。
走りながら疑問を確信に変えて眉を顰めていた芙は、場違いな殺気を感じ取った。ぞわり、と全身の産毛が逆立つ。その毛を、熱波は焦がすように触手を伸ばして嬲りにくる。
触手と触手を繋ぎ合わせて猛威をふるいだした火の手から逃れる為にも、脚を止めるわけにはいかない。しかし、止めねばこの殺気は間違いないく背中から自分を襲ってくる。
どうする、と逡巡する間も惜しい。
――素直にやられてたまるか。
瞬時に判断を下した芙は、脚の動きを止めると、ザッ、と煤と炭化した壁などが靴裏で鳴る。
狙いすましたかのように、芙の顔面を目掛けて鏢が飛んできた。咄嗟に栗を片腕抱きにし、腰に帯びていた匕首を抜いて鏢を叩き落とす。が、鏢は地面に落ちることなく、再び飛んできた方向へと去って行く。
視線で鏢の動きを追う。
槍の鋒のような鋭い芙の視線の先には、同じような姿、覆面をした人物が鏢を手にして身構えて立っていた。鏢が、その者の手に戻っていった理由が分かった。細い縄のようなものが、結わえ付けられており、それを鞭のようにしならせて鏢を操っていたのだ。
――成程、鏢を自在に出来るわけか。
目元だけを出した姿で、互いに睨み合った。
腕の中の栗少年の命の炎は、この鴻臚館を包む炎の勢いに反してどんどんと弱まっていっている。
――どうする。
今、こいつとやり合っている暇はない。
思う間に、再び鏢が飛んで引き、引いてはまた飛びして襲いかかる。
しかもまるで、手に握って放っているかのように急所を的確に狙ってくるのだ。両手が使えるのであれば、縄を掴んでやるのだが、生憎と仕人の少年を抱いている。下手に落とせば鏢は少年を傷付けかねない。そこまで計算して己を狙ってくる切先を弾きながら、じりじりと芙は後退していく。今は、相手の間合いから少しでも逃れるのが肝要だ。
此れで何度目か。
キン、と金属音がして、鏢が叩き落とされ、縄がしなり対峙する者の手元へと戻る。
お互いに、剥き出しになった目尻を怒らせて闘士を漲らせつつ睨み合う。が、相手の方が、ふ、とその力を抜いた。
「やめじゃ」
短く呟いた声は、高い。
女のものだった。
驚き目を剥きつつもも、迂闊だった、と芙は舌打ちしたくなる。身構えるその者の腰の位置が低く、太腿が丸みを帯びた太さを有し、そして足首の締まり具合から、女の其れと知れようものを。
脱力した女に習い構えを緩めるようにみせて、その実、隙なく出方を伺う芙に女は僅かに目を眇めた。
くく、と喉の奥で笑う音が、面を覆う布越しにも伝わる。
腕力、体力で劣る分を、離れて攻撃するこの武器で補ってきた此れまでから、この人物は相当自信を持っているのだろう。
が、芙に悉く躱された。しかも、誘いにすら乗ってこない。
であれば命じられた目的を果たした以上、対決し己の矜持を態々と傷付けられる行為を繰り返す必要はない、と云いたげに相手は喉をくつくつと鳴らしている。
「お前、名は」
突然の芙の問いかけに、女の喉が激しく上下した。頤をはね上げて、哄笑しているのだ。
名乗り合いも、己の主を晒すのも、死を覚悟してすらなしてはならぬ。
其れが影から闇へと飛び交い草の間を駆ける自分たちの生き様だ。
そんな影と闇と汚泥に塗れて者に何を、と言いたげに笑い続ける。
えずくように笑い続けていたが、何処かで木片が爆ぜる音し、それを契機にぴたり、と笑い声がやんだ。す、と姿勢を正すと芙に向き直る。
「ないわ」
抑揚のない、女の声が答える。
「おのしこそ、名はなんじゃ」
「芙」
続けて問われた言葉に、芙は間髪入れず短く名乗る。ふふん、と女は鼻先で嘲笑った。
「儂ら如きの身に余る、随分と、お綺麗な響きの高尚な御名を名乗っていることじゃな」
「お前の名は」
「……ひき……いいや……」
もう一度問い掛ける芙に、女は一度言葉を飲み込んで嘲笑う。
「土蜘蛛、とでも覚えておきや」
土蜘蛛? と芙は眉を寄せた。
確かに女が使う武器の縄の動き、あれは蜘蛛が糸を放ち獲物を捉えるのに似ているかもしれない。
だが、女の名に土蜘蛛とは。
そんな醜い、名にもならぬ名を与えて女の生を縛るとは。
言い知れぬ怒りと、名付けた女の主に侮蔑の心が沸き立つ。
芙が意識を反らした間を、土蜘蛛、と名乗った女は見逃さなかった。
じり、と僅かに後退りした瞬間、さっと踵を返して芙とは反対方向へと走り去っていった。
分厚い煙と熱波による空気の歪みは、直様、土蜘蛛の姿を消して追えなくしてしまう。
芙は、匕首を仕舞うと栗を抱き直して出口目指して駆け出した。
土蜘蛛を追うよりも、今は、この少年の命を少しでも大切に扱い、苦痛を取り除いた上で、今生との別れをさせてやることの方がより重要だった。
【 鏢 】
忍者が持つ苦無のようなもの、とご想像下さい……




