15 弔鐘 その3-1
15 弔鐘 その3-1
真の兄である右丞・鷹を、芙は縛り上げて拘束した。
この位はしても当然だ、とばかりに、縛り上げる紐に力を入れてやっている。その為、右丞は常に悲鳴をあげ続けている。痛みのせいで床に腰を下ろし、壁に背を預けた姿勢のまま、真は何処かぼんやりと定まらぬ視線で、芙の手の動きを見ている。
その、三人の間を、低く、低く、のたうち回るかのように、鐘の音が流れていった。空気を震わせ、戦慄き、轟いている鐘の音に、芙はこの時になって漸く気が付いた。
彼にしては珍しい。
というよりも有り得ない。
戦いや命令を遂行している最中に我を忘れる事は、即ち死に直結する。
自身だけでなく、仲間をも巻き込む恐れがある。
草としての行動を起こしている最中は、徹底した冷静さと、そして極限にまで高めた集中力をもって挑め。
蔦の教えを此れまで大きくはみ出した事がない芙は、自分のこの失態に眉を顰めた。
★★★
芙に兄を任せ、真は気力を振り絞って立ち上がった。ずるすると背中を壁にすり合わせると、土がすれて床にぼろぼろと砕け落ちていく。
土埃色に染まった背中のまま、真は蹴り飛ばされた木簡の方へと歩いて行った。気が付いた鷹が、暴れ出す。芙が猿轡を噛ませらようとしている最中だった為、鷹の罵倒の言葉は、潜もって間抜けた音にしかならない。しかし、ありったけの穢れた言葉を投げつけているのは、布越しの振動で伝わってくる。
真が背中を向けている事を良いことに、芙は舌打ちしつつ、縄を殊更に口角にめり込ませてやった。鷹の抗議の悲鳴を無視しつつ、芙は、耳に意識を集め、鐘の音に注意して聞き入った。
「この音は……弔鐘……?」
何故、弔鐘などがこのような時に。
――まさか。
いや、有り得ない。
だがもしも、と暗い予想と打ち消しが、交互に浮かんでは消える。
こんな不吉な考えなどは頭から消え去れ、とばかりに頭を激しく左右に振る芙は、珍しく鷹への注意を怠り手を緩めた。その隙を、生に執着する鷹は見逃さすはずがない。奥歯と頬と顎の動きを利用して猿轡を外しにかかり、身体を捩って芙の拘束下から逃れでる。
しまった、と芙が己の失態に臍を噛みつつ舌打ちする頃には、鷹は逃げ出さんと出口側に身体を移動させていた。
「ひゃ~っはっはっはぁっ! とんだ間抜けた部下を抱えていたもんだな真、ええ、おい!? この私を捉えたといい気になっているからだ、この糞頓馬!」
鷹の哄笑が、台獄内に谺する。
ひゃ~っはっはっはっは! と勝ち誇って笑い、真と芙を罵倒し続ける鷹の背に、冬の雨よりも冷たい声が突き刺さった。
「右丞」
その場の空気が、凍てつく真冬の寒風もかくやと思われる冷ややかな声音に、ぴしり、と凍りつく。
いや、凍り付いたのは、右丞・鷹のみだ。
「右丞」
再び、冷気のような声が、鷹の耳朶を打つ。
「答えるがいい。真は何を思い知らねばならぬというのか」
鷹は、ぎちぎちと軋んだ音がしそうなほど、ぎこちない動きで振り返る。
動きが止まった途端、鷹は恐怖心の塊となり、絶叫した。
台獄の入口には、殺気の塊となった戰が立っていた。
★★★
「戰様……?」
驚いた様子の真の横を素通りし、戰は鷹に迫った。
「芙」
「は」
「囚獄を呼べ」
冷たく言い放つ戰に、はい、と芙は勝ち誇って熱い返事をする。
囚獄。
禍国における、台獄の拘囚番の最高役職の事である。
彼らは独特の特権を有しており、今回の右丞・鷹の例で行けば、主である戰に背く姿勢を微塵でも見せたならば、己の意思一つで拘囚人に拷問を与えても良いとされている。無論、その拷問が元で拘囚人がどうなろうとも、罪には問われない。
今回、右丞である鷹が使節団に共に祭国に下って来ている。
無論の事、大令・兆が右丞である鷹に己の存念のままに権力を行使できるようにと配慮したのだろう。が、その囚獄は、今、当の鷹を裁くために職務に就けと命じられようとしていた。
あられもなく泣き叫びつつ、真に腕を伸ばして鷹は助けを請う。
だが、芙の膝蹴りを喰らって前歯がぐらつき、数本折れて隙間が出来ている為、その叫び声は腑抜けた音となっている。
――醜い奴だ。恥という言葉を知らんのか。
芙は鷹に、明白な侮蔑の視線を送りつつ、舎人たちに鴻臚館より囚獄を呼び寄せるよう、指示を出した。
ふと、無言で立ち尽くす真の表情が気になった。
何処を見ているのか。
何に注意しているのか。
深い戸惑いの色に揺れている。
左耳に手を当てては離しを繰り返し、何処か虚ろな目をしているのだ。
――真殿……?
心の中で首を捻りつつ、芙は真に注視する。
常の彼であれば、戰の命令を止めに入る筈の真が、動こうとしない。
よしんば、命を実行させるにしても、真自らが舎人たちに命じるだろう。
真ならば、そうするだろう。
なのに。それが、どうだ。
呆けたようにつったっているばかりで、戰の言葉にも芙の動きにも、そう――まるで気が付いていないようだ。
戰も真の異常に気が付いたのだろう。
眉を顰めつつ真に近寄り、声をかける。
「真、どうした」
「……」
しかし、返事がない。戰と芙は、顔を見合わせた。
「真?」
「真殿、どうされた?」
二人揃って声をかける。が、矢張、真は無反応だ。
戰が更に歩み寄り、左肩を掴むようにして叩く。抑えられていた手が外れ、身体が大きく傾いで戰の方を向く。
「真、どうした、何かまだ気になる事でもあるのか?」
途端に、真は目を剥いて飛び上がらんばかりの驚愕の表情で、戰を見詰めた。
「せ、戰様……? 芙、も……?」
「真、どうしたというんだ?」
「そうです。このような時に気を散らするなど、真殿らしくもない」
戰が流石に心配げに眉を寄せる。
芙も、腕を後ろでにされて部屋の奥に連れて行かれる鷹を見張りつつ、真の様子のおかしさに顔を顰めた。
しかし、真は戰の口元を見上げつつ、首を捻るばかりだ。
「戰様……今、何か……おっしゃられ、ましたか? 芙も……なにか、喋り……ましたか?」
「……何?」
「真殿。このような時に、何を冗談など……」
冷や汗を顳に感じつつ、戰は真に近付いた。真の顔色は、まるで紙のように真白になっている。
「真」
「……聞こえ、ない……のです……」
「真……?」
「聞こえ、ない……というよりも、聞き、取れない……のです。戰様の声も……芙の声も……。耳が……何か、塞がったような……潜もったように、なって……。……急に、聞き取れなく、なった、のです……。……うっすらと、聞こえている……音も……。酷く、ざわざわと……した、音に、紛れ……て、しまって……」
言葉を切りつつ、懸命に絞り出すような真の告白に、戰も蒼白となった。
★★★
自分の声すらも聞き取れていないのだろう。
一言、一言、確かめるようにゆっくりと話しているのが、その証だ。
戰は、しっかりしろ、真、と肩を掴んで揺さぶりかけた。が、真の左耳から、微かにだが血が滲んでいるのが見え、動きを止める。
左耳の奥からの出血で、急性の難聴になっているのは明らかだった。どのような動きがどういった刺激となり、真を苦しめるか分からないのだ。
ゴクリ、と芙は喉を鳴らした。
――何時、こんな?
思いかけて、少年仕人の言葉を思い出した。
自分から気を反らす為に、態と乱暴を受けに行っている、と言っていたではないか。まさか、その時に? と芙は呆然となる。
「真」
「はい……」
「ゆっくりと、話す。落ち着いて、私の、口元を、よく見て、聞いてくれ」
「は、はい……」
「耳は、何方が、より痛む?」
「はい……左耳の方が、得に……耳鳴りも酷く、痛みます……」
出血している方だから当然だが、耳垂れのような、溢れるような粘着く出血でもない。下手に抑えて余計に症状を悪化させるよりは、と戰と芙はこの出血には自分たちは手を出さない、と瞬時に決めた。しかし不快感は抑えねば、と芙は懐から晒を出して真の左耳に充てがい、そして面体を覆っていた布を外して包帯代わりとした。
すいません、と頭を下げかける真を、こんな時に、と芙はひと睨みして止める。
「では、右は、まだ、聞こえている、のだな?」
「はい……。いえ、しかし……」
「しかし?」
「右も……たいして、聞こえは、良く……ありません……が、左よりは、聞こえているような、気も、する、という程度で……」
そうか、と戰は嘆息した。
真も突然の変調に戸惑い、自分の身体の事なのに把握しきれていないのだろう。
しかし、耳の奥を傷付けて聴覚を失うものは得てして、平衡感覚を狂わせて正常に歩けなくなったり、喋る事すらも困難になったりする。が、今の真の様子からして、何かの衝突で一時的に耳の力を失う程傷がついてはいるが、会話が成り立っているのだ。
であれば今後一生、耳癈となるような怪我ではないだろう、と戰と芙は、無理矢理自分を納得させた。安堵するとまではいかなくとも、まずは音が拾えているのだ。
大丈夫だ、と思い込まねば辛さに顔が歪んでしまいそうなのは、戰も芙も同じだった。
「芙、真を施薬院に連れて行ってくれないか?」
「はい、お任せ下さい」
芙は真の腕をとって、肩に回した。
すいません、芙、と苦笑する真に、何を、と芙は呆れつつ首を左右に振った。出口へと向かうそんな二人の背中に、鷹の蔑みの色に染まった叫び声が突き刺さる。
「は! そんな簡単に治るものか! 聾唖者の真、か似合いではないか! 身分不相応でありながら、鼻高々に王城に出入りしていた今までが可笑しいかったのだ! これで本来の日陰者の身に戻れるなあ! 黴の臭いの染み付いた書庫に篭っていろ、それがお前には似合いだよ、真!」
芙が怒りのままに背後を振り返ると、生木が打たれるような音が響いた。
戰が、右丞を殴り飛ばしたのだ。
痛みにより、獣のような声で泣き喚きながら、鷹が床でのたうち回る。
先に芙により砕かれた歯が更に減ったようで、赤い血混じりの涎が糸を引いて垂れた先には、白っぽい小さな塊が数個、転がっていた。
「囚獄を呼べ! 早く!」
恐る恐る覗き見ていた殿侍たちは、芙の一喝に、ひゃ! と場違いな悲鳴を残して去っていった。
★★★
芙が殆ど担ぐようにして真を施薬院に連れて行くと、克が目を剥いて飛び出してきた。
真の頭の左側は覆うように布が巻き付けてあり、衣服が擦り切れて土埃で薄汚れている。剥き出しなっている腕や首筋、顎などには擦り傷や青痣がある。広範囲に及ぶそれは、決して転んで出来たものではないし、武人である克が見抜けない訳がなかった。
「真殿!? 一体どうした!? 何があった!? 右丞の馬鹿がやったのか!?」
やられた、とひと目で分かる姿をしているが、こんな時に、こんな大声で、こんな風に、直截な言葉で一直線に聞いてしまえるのは克ならではであり、また彼だからこそ許されるのだろう、と芙は苦笑する。
芙だけでなく真までもが苦笑していた。克の言葉が聞こえている、というよりは口の動きから想像しているという方が正しいのかもしれない、と芙は思った。その証拠に、真は笑いつつも何も答えない。
し、静かに、と芙が声を潜めて咎める。ぐったりした様子で芙の手から離れ、縁側に腰を下ろす真を見て、克はやっと成を小さく窄めて失態を恥じ入った。
「虚海様をお呼びしてくれ」
「あ、ああ……」
真の左耳に当てられた晒から、微かにだが血が滲んでいるのに気がついた克は、表情を引き締める。しかし、奥に向かってまた叫んだ。
「福! 床を敷いて診察の用意と、それと湯と着替えも頼む! 虚海殿! どこだ、何処にいる!?」
沓を脱ぐのも忘れて縁側にあがりかけ、いかん、と頭を小突きながら脱ぎ捨て、どすどすと診察室の方へと早足で姿を消した。
克が奥へと消えるのと入れ替わるように、産屋に届ける薬を作りに戻ってきていた珊が、騒ぎに気が付いて奥からぴょこん、と顔を出しえきた。
「え? なに? 何かあったの?」
その珊の視界に、芙に手を借りて漸く縁側に腰を下ろした真の為体が映る。
珊は、手にしていた擂鉢を落として割ってしまった音よりも、盛大な悲鳴を上げた。
「し、真!?」
尚も叫びかける珊に芙は、口元に人差し指をたて、しっ、と静まるように促した。う、うん、と頷きつつ珊は擦り寄るように芙に寄る。
「芙、真に何があったんだよう?」
「右丞の奴にやられた」
「えぇっ?」
「一方的にやられている間に、耳の奥を傷付けられたようだ。今の真殿は、殆ど聞き取れない、耳の力がない状態だ」
「そ、そんな?」
ばたばたと這いずるようにして真の元に寄った珊は、晒を外しかけた左耳からの血を見て、息を飲んだ。
だが真は、珊が、ああ、真……、と声を漏らしても気が付けなかったらしい。あの最初の擂鉢の割れる音にも叫び声にも気が付けなかったのだから、当然かもしれない。
しかし、珊独特の気配で気がつけたのだろう。
暫しの間をおいて、ゆっくりと珊の居る方へと振り返えった。
にこり、と珊に笑いかけてくる。
だが何時もの、珊が好きだった、真の優しさがない笑みだ。
何処か取り繕った空虚なもの、そう、音を感じていない真の内側を感じて、珊はぞっとした。
「芙……し、真の耳、大丈夫なの?」
「ああ。耳の痛みと地鳴りは酷いようだが、特定の方向からゆっくりと話しかければ、今の所、何とか聞き取れているようだ」
「ほ、本当? なら、まだ良かったよぅ。で、でも、元通りに聞こえるようになるの?」
「それを虚海殿に診て貰いたいから連れてきたんだ。早くしてくれ」
切羽詰まった状況でも、一応、耳が聞こえていると知って、ほっとしたのだろう。珊の目尻が下がり、じわ、と涙が一気に浮かんできた。
生まれた時から蔦の元で育ってきた芙と珊は、お互いを見る目と思う気持ちは兄妹のそれに近い。小さく嗚咽をしつつ、ずず、と鼻をすすりかける珊に、芙は、しょうがない奴だな、と口では悪態をつきながらも、そっと晒を差し出した。無論、珊の泣き顔も晒も見えぬように、身体の影に隠して、だ。
聞こえずとも珊と芙の話題が、自分の耳に関する事だとわかるのだろう。
真は、困ったように悲しげに、視線を伏せた。
★★★
克に背負われて、虚海が呼ばれて来た。
一日の間に、何度もあちこち振り回されて疲労の色を濃くしている。そもそも、虚海自身が、死ぬまで薬の手放せぬ障りを背負った身なのだ。
それでも尚、呼吸を荒げる事もなく真の元に現れたのは、医師としての誇り故だろう。
「どないしたんやな、真さん」
克の背中から滑る落ちるようにして、真の前に腰を据える。
床の上に、ぴっちりと膝を揃えて座っていた真の手首を虚海はとった。普段の、のんびりとした口調で、何時ものように脈拍を計り始める。
克は、珊の横に腰を据えた。真の診察を見届けるつもりのようだ。
「……名誉の……負傷、ですよ……」
「ほうか」
大凡の真の症状や様子は、芙が伝える。
最後に、虚海の助手として動く為に背後に回った珊が、ゆっくり話したら聞こえるから、と伝えると、虚海は何時もより更にのんびりと真に話しかけた。
「耳は、どないな、感じ、するんや?」
「はい……酷い……耳鳴りが、します……。特に、左……が、酷いですね……。痺れた、ように、別の、不快な、ざらついた音が……、耳の中で、ふたをしてる様で……」
「は~ん、ほんで?」
「……全く、聞こえ……ない、という、訳では……ない、のですが……。耳鳴り、と一緒に……頭の、側面……から奥……に、かけて、今まで、感じた事のない……痛みが、つねに、走って、いまして……」
「は~ん、ほんならな、どないな、痛みか、まぁちっと、詳しゅう、言えるか?」
「どん、な……? そう……ですね、奥から、ひびく……ような、脈に……のって、疼く……ような……」
紙縒りを作りながら、ほうかほうか、と虚海は真の話に頷く。
紙縒りが出来上がると、血が出ている左耳の耳孔内で、くるり、と撫でる様に優しく回した。周辺にこびり着いていた血を拭いとると、ちっとの間、我慢せえよ真さん、と虚海はじりじりと真に躙り寄った。
「嬢ちゃん、蝋の光、呉れんかいな?」
「うん」
珊が燭台に火を灯し、真の傍で掲げるようにして持つ。
虚海は、左耳朶を軽く持ち上げるようにして引っ張り、耳孔の奥を覗いた。
痛むのだろう。黒目だけを動かして虚海の言葉を待つ真は、眉根を寄せて深い溝を刻んでいた。虚海は、すまんの、と言いつつ慣れた調子で真の左の耳の奥をじっくりと診た後、今度は顎の痣に手を当てた。痛みを堪えて眉を顰める真の様子と顎の怪我を、交互に、じ、と睨むように虚海は診る。そして顎に手を当てたままゆっくりと左を向かせると、今度は右の耳の奥を覗き込む。
鼻の下を伸ばして覗いてくる虚海は、何処か滑稽だ。
しかし、流石に今の真には、いやこの場にいる全員、笑うような余裕はない。
「どう……で、しょうか……?」
なかなか診断を口にしない虚海に、遂に真は痺れを切らして尋ねると、心配せんでも、大丈夫や、と虚海は手桶で手を洗いながら答えた。洗いたての晒で手を拭きつつ、真に向き直る。
「血も、止まっとる、ようやしな。ちゃーんと、薬、飲んでな、暫くの間、大人しゅうして、大きい音、なるべく、聞かんよぉに、しとったら、ま、半月位で、良うなる、やろ」
「半月……ですか……そうですか、それなら……」
半月ならば、ぎりぎり、禍国戻った時には治っているかどうかという計算になる。
虚海の薬の効き目は、誰もが認めている。正に、霊験並だ。
この分なら大丈夫だろう、と真が明白に安堵した表情になると、虚海は、ギロ、と睨みつけてきた。
「真さん、勘違い、したら、あかへんで?」
「……は?」
「良うなる、ちゅうのんは、な。完全に、元通りになる、ちゅう意味や、あらへんのやで?」
「……」
「何とか、傷が塞がってくれるやろ、ちゅう、単なる、希望的な、目安に過ぎへん」
「……はい」
「本当、やったらな。強い薬、なんちゅうんはな、使うのは、少ない方が、ええに決まっとるんや。無理せんと、ゆっくり効く薬、使うてな。のんびり、じっくり、時間かけて、養生する。どんな病気でも、怪我でもな、此れが、一番良ぉ効く、薬、なんやで?」
「……はい」
すっかりしょぼくれている真の前で、珊が虚海に、さっ、と木簡と筆を差し出してきた。すっかり虚海の診察の呼吸と動きと手順とを、珊は心得て自分のものとしまっている為、いまや診察を行うのに彼女はなくてはならない存在となっていた。
ありがとな、嬢ちゃん、と言いつつ受け取った虚海は、さらさらと薬湯の処方を書き付けると、再び珊の手に押し戻す。
「真さん」
「……は?」
「身体も、診してみぃ。打ち身のが、実は、しんどいんやろ、ん?」
「……はい」
真は素直に、お願いします、と衿を緩めて開け、上半身を晒した。
克や杢、芙など普段から鍛え抜いている彼らと比べれば、真の躰つきははっきりと貧弱だ。相応に胸板もあるが、元が色白である分、今回うけた擦り傷や痣の色が目立ってしまい、余計に貧相に見える。
虚海は、指の腹を押し付けるようにして、擦り傷に芥が入り込んでいないか、一つ一つじっくりと診ていく。空気に晒されると、痛みを凍みるように感じるのだろう。ぶる、と真は身体を震わせる。
「骨折はしとらんみたいやな。打ち身・打撲、そんなもんやな」
「はい……」
「骨は、まぁ、運良く、折れとらへん、みたいや。けど、ゆうて、安心してまったら、あかへんで? こんだけ、打ち身と打撲、しとったら、数日は、熱が上がるんは、覚悟、しとくんやで? ええな?」
明白に安堵の表情を浮かべた真を、虚海はギロ、と睨んだ。首を竦める真に、小無ないの、と虚海は苦笑いする。
「けど、ようもまあ、こんだけ徹底してやられたもんやな、真さんらしいで」
再び珊から木簡を受け取って、書付に付け足し始める。書き付け終えると下男に渡す。直様、煎薬を処方している薬房へと下男は駆けていく。
「嬢ちゃん、紫のと赤いのと、それから黄ないの、取ってんか?」
「うん、分かった」
虚海に言われた珊は、克に処方したものと同じ練り薬と、紅花と黄檗を、同様に胡麻油と蜜蝋で練った薬を差し出してきた。それぞれの練り薬を、虚海は箆で乳鉢に取り、丁寧に練り合わせる。綺麗に薬を混ぜ終える頃には、珊が手際よく程よい大きさに折りたたんだ晒を差し出してきた。
「擦り傷と、打ち身にな、良ぉ効く、薬や。やでな、滲みても、ちょっとの間や、我慢せぇよ、真さん」
「はぁ……」
脅された真は、しかし逆にくすぐったそうにしながら、次々と塗り薬を施されていく。
腹部や背中、腕へと、虚海は其々の傷にあった薬を盛った晒を順に宛てがって処置をし、的確な強さで包帯を巻きつけいく。
全て終えると、おっしゃ、仕舞いや! と、小さく叫んで虚海は大きく息を吐き出して脱力した。ごろり、と床の上に横になる。やりきった、と全身で訴える虚海に、有難う御座いました、と真は眸を伏せた。
ええで、ええで、此れが儂の仕事なんやで? と虚海は腕枕をしながら笑い、あいた方の手をひらひらと振った。
「諄いようやが、何度も、言うとくで? ええか。無理は、したらあかん。厳禁や。身体がな、辛いとな、治りが悪ぅなる。この位、大丈夫や、ゆうて、勝手思うて、無理したら、あかんで? 絶対、やで?」
「はい……」
「身体も、やがな、耳はな、本当、大事にせな、あかん。な? な? ええな? 真さん、な?」
「……はい」
お爺ちゃん、諄いよう、と珊が使い終わった薬や道具を手際よく片付けてながら笑う。
「阿呆やな嬢ちゃん」
「ん? 何が?」
「こんだけ言うといても、す~ぐ都合よう忘れてまって、言う事なんざ聞かへん、何時もの頭の良さを、こういう時だけどっかやって馬鹿になってまうのが、真さんちゅうお人やろが」
「そだね」
やっと笑い合う余裕が出てきた虚海と珊が、真を茶化す。
ぶー! と遠慮なく克は盛大に吹き出して大笑いし、芙も顔を横に背けつつ、肩を震わせている。完全には聞き取れていないのだろうが、何となく普段の自分を誂われているのだと、雰囲気で感じ取ってか、真も曖昧に笑っている。
暫く、和んだ空気の中、笑い声が上がり続ける。
しかしそれが自然と止むと、真は表情を引き締めて虚海の方へと、膝を進めてきた。
『椿姫の子は郡王の胤でない』
酷い頭痛と耳鳴りの中。
兄の忌まわしい言葉が、反響している。
あの言葉は、果たして兄だけが口にしたものなのか。
あの言葉に、誰かが乗せられてはいまいか。
――確かめねば、なりません。
【 耳癈 】
聾の古語のひとつです。
※ 注意 ※
今回の覇王の走狗内において差別的用語を使用しておりますが、あくまでも身体的特徴を言い表すための表現です。
決してその立場におられる方を揶揄するためのものではありません。
ご了承ください。




