15 弔鐘 その2-1
15 弔鐘 その2-1
風に乗って、重々しい音が耳の奥底で響いていた。
――いや、な、耳鳴り……。
椿姫は、眉根を寄せる。
早く消えて欲しいと願っているのに内側で、ごぉん……ごぉん……、と低く低く、唸るように鳴り響くそれは次第に存在感を増していく。
いや、やめて、と頭を振ろうとすると、耳鳴りを打ち破る勢いで盛大な赤子の泣き声が、被さるように鳴り響いた。
――星……?
子の名前を呟いたとたん、椿姫の中の母が目覚める。
「星!? 星が泣いているの!? 何処!?」
一気に覚醒した椿姫は、掛けられていた薄上掛を、ガバッ、と跳ね飛ばす勢いで飛び起きた。
苑に抱かれた我が子が、顔を真っ赤にして泣き叫んでいる。いつもなら、抱かれれば直ぐに泣き止んで満面の笑みを見せる星が、ぐずぐずどころか全身全霊を使い、泣いている。
「あ……あぁ、星……」
椿姫が目覚めた事に気がついた苑が、火がついたように泣きじゃくる星をあやしつつ椿姫の隣に腰掛けた。
「お義理姉様……」
「あんなに大好きな乳母たちの手に抱かれても、私が抱いても、泣き止んでくれないのです」
お母様に勝るものはありませんね、と苑に促されて椿姫は静かに我が子に腕を伸ばす。と、星は小さな握り拳を振り回しながら、苑の腕の中から母である椿姫を求めて身を乗り出してくる。
途端に、胸元が大きく騒めくように張りをみせ、ふわり、と暖かいもので濡れるのを感じた。星の泣き声に、仕草に、内なる母が、乳が、反応したのだ。
さあ、と苑に促され、椿姫は胸元の襟を開ける。ほろり、と転び出た白い乳に彼女の息子はむしゃぶりついてきた。
無我夢中で母の胸に埋没するように抱かれて乳を吸う姿に、椿姫の視界が涙で揺らいだ。
耳鳴りだと思っていたのは、弔鐘の音だった。
低く、低く。
決して高らかに鳴ることのない鐘の音。
空を揺らし、天帝へと死者の最後の声を届ける為の鐘の音が、耳の奥で震えていたのだ。
誰の為の弔鐘の音かなど、聞かずとも解る。
――お父様。
何を意図して、あのような言葉を口走ったのか。
戰と自分との間に生まれた星を、子の子、孫と呼んだ星を、何故、疑ったりしたのか?
――お母様が、お兄様とお義理姉様との間を引き裂かれようとして疑いかけたのとは、違う。
この疑念は、下手に知れ渡れば祭国の王室を、踏み潰された蟻の如くに無残な姿へと容易に変貌させる、危険なものだ。国を束ねる国王・学の叔母として、国を預かる郡王・戰の妃として、許すべきではない。
いや、それ以上に。
――お父様に、私は、そんなはしたない娘であると思われていたの……?
戰という良人がいながら。
他の男の胸に飛び込み快楽に身を委ね、他人の種を受け入れながら戰の子だと笑顔で顔で偽り、皆を欺いていたと?
――私は、そんな酷い娘だと思われていたの……?
問い質す機会は此れで永遠に失われてしまった。
人の心に重い石を投げつけ、醜い波紋だけを広がらせておきながら。
自分は、さっさとこの世を去って全ての労苦から逃れて、永久の眠りについて安穏を得るとは。
――本当に、最後まで、何て身勝手なお父様……。
「……お義理姉様」
「なあに?」
寝台に横座りしながら椿姫に寄り添い、背中を摩りながら苑が優しく答える。
「有難う御座います、学を……学に、私たちがお義理姉様へ犯した至らぬ仕打ちを、何一つ言わずに育てて下さって」
父の不甲斐なさからくる不幸を恨みに変えずに、と言わなかった。
言えなかった。
亡き母・萩は、苑と学の血筋を疑い、認めぬまま儚くなった。
父・順もまた、母同様に二人を認めぬ言葉を残したまま、今また世を去った。
――どんなに、お辛いか。
そして父に、言われた一言。
我が子、星の血を疑われた一言が、まだ、耳鳴りのような弔鐘の音にも負けず残っていた。
まるで膿んだ屍肉のようだ。
内側から、じゅくじゅくと心を潰していっていく。
熱を持ち、発酵し、爛れ、腐臭を放ちながら広がっていくのがわかる。
――こんな、荒む気持ちをおくびにも出さないで。
学を、お兄様の御子として素直に育てて下さっていたなんて。
行幸の際、初めて学と苑に逢いに行った時。
受け入れて貰えなかった事を密かに哀しみ、そして苑の固くなさを幾らかでも恨んだ己を、椿姫は恥じた。
自分は、何て浅はかで、世間知らずで、無縫天衣に振舞う愚かで嫌な娘だったのだろうか。
ただ、愛情だけしか見てないと明け透けに誇示する事が、どんなに人の心を鞭打ち傷付けるのかを知らなかったばかりに。
一人、兄の思い出に縋って生きていた苑を何れ程深く傷付けたか。
苑が、すんなりと認められぬのも、当然ではないか。
はらはらと涙を流し続ける椿姫の心の闇の暗さは、苑には分からない。
己が後主へと転落せしめた父・順の訃を耳にし、優しすぎるほど優しい性根のこの義理の妹は、此れまでの父の所業すら許して悲しみ沈んでいるのだ、としか思っていない。
苑は椿姫の背中に当てていた手を、そ、と静かに肩へと滑らせた。そのまま、星に乳をやる義理妹を抱き締める。
「……いいのよ、今は。今は、好きなだけ、泣きましょう……」
「お義理姉様……」
「ただ、泣きましょう。……ね?」
自分こそが赤子に還ったように、我が子に乳を与えながら、椿姫は、苑に抱かれて泣きじゃくった。
★★★
調度越しに愛しい妃の嗚咽とそして我が子の寝息を聞きながら、戰は、同じように泣いていた学の背中を押して促した。
「君と准后殿へのせめてもの誠意を、と、辛さを堪えて椿は後主の最後を看た。君は、椿の意思に応え、聞く義務があるだろう」
こく、と小さく顎を引いて学は頷く。
ぐ、と袖を使って涙を拭うと、キッ、と正面を見据える。
「……郡王殿」
「何だろうか?」
「不思議ですね、私は、御祖父様の事など何一つ知らないのに。何故、こんなにも悲しいのでしょうか?」
「……恐らく、それが血縁というものだからだ」
戰の言葉に、学は再び浮かんできた涙を湛えて微笑んだ。
「ならば、私は、喜ばねばならないのでしょうか?」
「――何を?」
「此れで、母上を苦しめる者は、永劫にこの地上から去ったのだと」
少年には不釣り合いな言葉に、戰は声をかけられない。
確かに、苑を苦しめ続けてきた因は、此れで全てが絶たれた。彼女を責める者は、もう何人たりとも存在しない。
「御祖父様がお亡くなりになられて、確かに悲しいのです……。でも、それ以上に、もう此れで終わりだと、ほっとしている私は……。酷い、子供なのでしょうか……?」
いや、と戰は語気を強めて頭を振る。
「私が学の立場でも、きっと同じように思うだろう」
戰の言葉に慰めを得たのか、学は僅かに頬を持ち上げる。
――愛憎に苦しめられる立場の女性は、その何方か一方の死を以てしか、心の平静を得られないのだろうか?
私の母が死に頼らねば、父帝と祖国との呪縛から永遠に逃れられなかったように。
――そしてそんな母を見詰める子は、己の無力さに何れ程泣くのか。
「学、そんな風に思うのは、君だけではない」
「……はい」
有難う御座います、と項垂れるように頭を下げ、そして学は椿姫と苑の元へと静かに去った。
見送る戰の背後に伸びる影の中に、いつの間に戻ったのか蔦がふわりと音もなく立っていた。
「陛下」
「蔦、どうだ?」
「あい、此処な産屋は杢殿が守られておりますよしにて。王城の守りも、杢殿の命が飛んで行かれました故、ご心配なされませぬよう。鴻臚館と施薬院は、虚海様をお送りする克殿が、仕切られるとか。なれど……」
「どうした?」
「台獄に向かわれました真様と、仕人の守りを命じられましたる芙との連絡が、未だに」
真が? と鋭い視線を向けると、明らかに蔦も焦りをみせている。
「台獄に行く。蔦は杢と共に椿と星、学と苑殿を守れ」
「あい、お任せくらしゃりませ」
命じながら、既に戰は走り出していた。
戰が産屋を出ると、椿姫の体調が崩れた時の為に奥で薬湯の用意をし始めていた珊が、ひょこり、と顔を出してきた。
下唇を突き出し気味にしている。声に出せば椿姫の耳に入ってしまうことを気にして、口を噤んではいる。が、心配で堪らないよぅ! と叫びだしたい顔付きをしていた。
一座の中で最も年若い彼女に向けて、主人である蔦は、ここ一番に見せる艶っぽい笑みを見せてきた。
安心して任せなさりませ、と言われるよりも信じられる蔦の堂々たる嫣然一笑に、珊もこく、と頷きながら奥へと引っ込んでいった。
★★★
真は脚を止めた。
膝ががくがくと笑っている。
何度も前のめりに転びかけてはその度に脚を止めているのだが、その感覚が徐々に狭まってきていた。
ぜいぜいと鳴る喉の奥からは、血の味がせり上がってくる。
心の臓は、口から転がり出るかと思われる程の速さで打ち続けていた。
――こういう時、己の体力の無さが恨めしくてなりませんね。
目が回り意識が朦朧としかけているのを自覚し、そのまま気を失うよりは、と大きく深呼吸を繰り返した。
気休めにもならないかと思ったが、新鮮な空気を肺の腑全体に行き渡らると、僅かにだが手足の先に気力が満ちたように思えるから不思議だった。
――まだ、走ることが出来る。
変にしくしくと痛む脇腹を抱えるように身体を折り曲げて、真はよろよろと台獄を目指した。
こんな調子では、仕人の少年を保護した芙あたりが先に台獄に到着しているかもしれない。
――しかしそれでも良い。
この眸で、兄である鷹の姿を直接確かめねば気が済まなかった。
城の南西の方角にある台獄への入口は、それと分からぬように南天燭の植込みで隔離されている。
大罪人は即ち穢に満ちているという考え方から、南天燭にて邪気を払うとされているのだ。だが元々、半地下となっている入口は更に人目に着きにくい造りにはなっている。
息を整えながら静かに近づいていく。かさ、と踏みしめられた落ち葉が、靴裏で鳴った。守っていた兵仗の一人が音に気が付いて振り向き、真に向かって背筋を正してきた。
「兄に変わりありませんか?」
「はっ」
実直に答える兵仗に、嘘はないだろう。
ほっ、としながら兄に面会する旨を告げようとすると、兵仗は密かに身体を擦り寄らせてきた。お耳を、とぼそりと呟く。何だろうかと、嫌な予感に身を浸しつつ欹てる真の耳に、予想通りの言葉が降り注いだ。
「先程、右丞様の御元に子供が一人、密かに訪ねて参りました」
「子供?」
眉を顰める真に、兵仗は、申し訳無さそうな眸をしてくる。
「仕人の少年ですか?」
「は」
兵仗は、少年が台獄に忍び入ろうとしていると気が付くと、敢えて姿と気配を消したらしい。
右丞の元に招き入れる為だ。少年を泳がせて、右丞に足掻きもならぬ失態を犯させるように、と杢と芙が目論んでいたからである。ちらり、と台獄に視線を巡らせると、兵仗はまだ中に少年がいる、と軽く顎を引いて答えてきた。
「何を話しているのか、わかりますか?」
「申し訳御座いません、其処までは……」
知られたくない事柄は筆談で済ませているのは、矢張今回も同じらしい。
そうですか、有難う御座います、と礼を伝えるのももどかしく感じる。
一瞬、息を詰めながらも真は、台獄の扉を開けて下さい、と兵仗に命じた。矢張、軽く顎を引きながら男は静かに台獄への入口を開けて、真を誘ってくれた。
有難う御座います、と頭を下げながら、態と低く作られた入口へと、腰を屈めながら向かう。途中、肩越しに兵仗を振り返った。
「私が中に入った後でもしも仕人の子が一人で出てきたら、そのまま逃がしてあげて下さい」
「はい」
「それと出来れば、芙か杢殿に連絡を願います」
「は、お任せ下さい」
そして真は、今度こそ台獄へと姿を消した。
★★★
出来るだけ足音を忍ばせて、台獄の奥へと進んでいく。
出来るだけ、というか、真としては最大限の努力は、しているつもりでいるのだ。
が、とても芙や蔦のようにはいかない。衣が擦れる音や沓が何かを踏み砕く音をたててしまい、結果、台獄を根城とする鼠や蜥蜴などを驚かせて飛び出させてしまう。
気配を消す以前の問題だった。
――全く、頼りのない事ですね。
自分で自分の不甲斐なさに呆れてしまう。
しかし、気持ちの入れようのお陰であるのか、兄・鷹と少年仕人にはどうやら気がつかれていないらしい。奥からは完全に聞き取れないまでも、明け透けな厭味と侮蔑とが綯交ぜになった声が漏れ聞こえてくる。
途中、静かに寄ってきた舎人に視線で座を外すように促すと、彼は何も言わずに下がっていった。
見届けてから、口を窄めるようにして、呼吸音にすら気を遣いながら更に進む。
そうして、漸く鷹が拘留されている部屋に着いた。
一応、半地下の部屋とはいえ、明り取りの窓もあれば居室と寝室とに分たれてはいる。厠と手水用の間は部屋とは仕切られており、衛生面でも最低限の気を遣われているようだ。
台獄に拘留された拘囚人如きに破格の扱いだが、廊下にも窓の外にも、堅強な格子を組んで脱走などできぬようになっている。扱いがどうであれ、何処までいっても罪を問われる拘囚人であることに変わりはない。
格子の扉部分を握ると、ひたり、と掌に吸い付いてくる。地下の湿気を吸ったそれは、変に冷たくそして黴臭く、異様にぬるぬるとした感触があった。
眉を顰めつつも、真は微かな音もたてぬよう、細心の注意を払いながら格子を開ける。逸る気持ちを抑えながらのそれは、妙に呼吸と心の臓の鼓動を乱す。
やっと、身体を滑り込ませるだけの隙間を開けると、真は矢張、じりじりと摺り足気味にして中に入った。
――蔦や芙は、よくもまあ事も無げに出来るものですよ。
冷汗をたらり、と顳に一筋流しながら、真は兄・鷹の声の方へと近づいていく。
ボソボソと聞こえてくるそれは、怒りのおもむくままに罵詈雑言を並べ立てているようだ。
「だが流石に大令様だ! 私を引き立てて下さっただけの事はお有りだ! 目の付け所が違う! なあ、そうは思わぬか!? 椿姫の子は郡王の胤でないと、よくぞ見抜かれたものだ! なあ、思わんか、あぁん!?」
真は、大きく目を見開いた。
――いま……なん……と?
何と言った?
兄は、何と言った?
呼吸する音も。
心の臓が動く鼓動の音も。
半地下の濁った空気の流れも、兄が喚きたてる唾の飛ぶ音も。
何も聞こえない。
一瞬で、無音無色、そして闇の世界の中に、真は閉ざされた。
茫然自失を軽々と飛び越えて一切皆空の存在となったのでは、と戸惑う事すら出来ない。
――星皇子様を。
戰様と椿姫様の大切な御子である、星皇子様の存在を、兄は何と言った……?
何と言って汚した!?
兄の言葉が、脳内で駆け巡る。
『椿姫の子は郡王の胤ではない』と。
そう言ったのだ。
――何という……!
やっと、全身に血が戻りだした。
怒り、という血が。
いつの間にか握り締めていた拳が、力が入りすぎて真白になっていた。
言葉が浮かばない。
何も言えない。
代わりに、悔し涙が浮かぶ。
部屋に飛び込みそうになるのを必死で堪える真の足元を、殺気に戦いた仔鼠の群れが、ちゅ、ちゅ! と叫びながら、ちょろちょとろ逃げ惑う。
しまった、と思った時には遅かった。
「あ~? 其処に居るのは誰だ? あぁ~ん?」
酔って荒んだ心そのままの、ざらついた声がよろよろと近付いてきた。
★★★
のろのろと、伸びた影が此方に侵食してくる。
真は覚悟を決めて、顔を上げた。
今更逃げた処でどうする事も出来ないし、誤魔化しもならないのは明白だ。ならば、と堂々と胸を張り、対峙する姿勢をとる。
しかし、兄である鷹の方は、覚悟も糞もない。予想外、どころか想定する方がおかしい相手の登場に、呆けた顔になる。
拳が緩み、手にしていた瓶子がゆっくりと床へと落ちる。
地面が剥き出しのままの、黴臭い床に瓶子は真っ直ぐに落ち、盛大な悲鳴を上げて割れた。
いや、悲鳴を上げたのは少年だった。
まさか、自分以外の誰かがここに下りてくるなどと思ってもいなかったのだろう。見逃されているからこそ、此処に居るのだと少年は、考えもしなかったのだ。
「兄上」
「……真、貴様ぁ……!」
真の呼びかけに、鷹が顔をぐしゃ、と顰める。
鷹の事を、兄上、と呼んで真は気が付いた。
初めて、真面に目を見て向かい合った。
初めて、兄上、と自分の方から呼んだ。
20年以上の人生の中で、鷹を、兄上と呼ぶ事どころか話しかける事も、また、兄たちが元服してからは、顔を上げて直視する事すらも許されたことはなかった。
側妾腹の自分は、一門にとっては同族の者ではない。
ただの、『所有物』でしかないのだ。
許しを得たとしても、先んじて話しかける事も目を見て話しかける事も許されない。そんな人生の中で今初めて、『兄と弟』として自分たちは向き合っている、と真は思った。
異様に眼光だけをぎらぎらとさせて、鷹が前屈み気味の姿勢をとった。次の瞬間、爆ぜるようにして、鷹が真に体当たりを喰らわしてきた。
吹き飛ばされた真は、肺の腑に収まっていた全ての空気を吐き出す程、壁に強か身体を打ち付けられた。
「……うっ……!」
打ち付けられた音が駆け巡っている後頭部を抑えつつ呻き声を漏らし、身体を海老のように折り曲げて激痛をやり過ごそうとする。
そんな真の身体を、どか! 何かが更に吹き飛ばす。
「がっ!?」
「貴様! 烏滸がましくもどの口がこの私を兄と呼ぶのか、ああっ!?」
正しくは、腹の上に兄・鷹が踵を入れるように横腹に蹴りを入れてきた。真が倒れると、間髪を入れずに、腹、胸、腕、喉元、を容赦なく蹴り続けてくる。
予告なく押し潰された臓腑が悲鳴を上げ、それはそのまま、真の喉から吐き出された。身を守ろうと身体を屈めると、今度は背中や腰の辺りを蹴ってくる。片腕で顔面を庇いながら、もう片方の腕で脚を払おうとするが、逆に爪先で払われてしまう。せめて、と掌で先を受け止めて塞ごうとするが、先んじた鷹の沓底が真の喉元をぐりぐりと押し潰してきた。
「うっ、ぐ、あっ……」
「苦しいか!? あぁ、苦しいのか!? 巫山戯るな! 貴様如きが! 所有物如きの貴様如きが! 一丁前に人間様ぶって苦しがるな、この滓が! 私こそ貴様のせいで、何れ程の辛酸舐めたと思っている!? あぁ!? 答えろ! 答えてみろ、真!」
鷹は口の端から酒混じりの涎の泡を飛ばしながら叫び、叫びながら真の顎を蹴り飛ばした。
頭部を激しく揺さぶられて意識が朦朧とする中、其れでも鷹を止めようと腕を彷徨わせていた真は、今度は壁に左耳から叩き付けられる。打ち付けられた姿勢のまま、ずるり、と滑り落ちる真の身体を壁に押し込めるように、鷹は鳩尾に蹴りを入れ始めた。
鷹の白目は血走り、鼻息も荒い。
既に正気ではなくなっており、手加減など微塵もない。
掠れて行く視界と、異質な雑音混じりで薄れる音の中、真の意識は加速度的に混濁していく。
そんな中であっても、少年が、じわじわと扉をすり抜けようと身体を密かに移動させているのだけは、何故か感じ取れていた。
意識が混濁して行きかけているというのに、頭の隅だけは冷静な部分が残っているのが、我ながら奇妙だと思った。
――はや……く、逃げ……。
どうやらこの場には、兄と少年以外は誰もいないようだ。
それならば、此処から逃れれば恐らく直ぐに芙か杢が少年を保護してくれる筈だ。
鷹の視線に少年が入らないように、真は四つん這いになって奥へと逃げるふりをした。すると、腹の隙間に脚を突っ込んで真を蹴り上げる姿勢をとった鷹は、入口に背を向ける格好になった。
視界の端、兄の背中の向こうで、少年と目が合った様に思えた。
そしぼやけていく視界の中で、扉を抜けて、とうとう外に向かって走り出す事に成功した子供の姿が映る。
――……よ、かっ……た……。
兵仗に見逃せと言ってしまった事が悔やまれるが、直ぐに芙か克が見付けてくれる筈だ。
あの子はきっと大丈夫だ、と気を抜いた真は腹に蹴りを喰らって台獄の更に奥へと転がっていく。
「はーっはっはっはぁ! いい格好だなぁ、あぁっ!?」
鷹は高笑いを台獄内に反響させながら、真の胸倉を掴んで引きずり上げた。
腕を大きく振りかぶり、固めた拳で真を殴り掛かりに来た。
「思い知れぇ糞がぁぁっ!」
真の襟首を掴んでいた鷹の手が、ぶるぶると震える。鷹の大袈裟な動きに、真は僅かにだが、呼吸を整える間を得た。
蹴られ続けて痺れた腕を持ち上げて、鷹の手を払う。
同時に、勢いよく首を捻って、鷹の鼻頭を狙って頭突きを喰らわせた。父・優の鉄拳をもものともせずに耐え抜く、岩盤の如き石頭が繰り出す頭突きだ。
真の額の最も硬い部分が鷹の鼻を叩き潰した。
その証に、ぐじゅ、と何かが拉げる音が鈍く壁に当たる。
「うひぎゃあああああ!?」
どさ、と間の抜けた音がして、自分の身体が床に転がるのを、真は感じた。
受身などどても取れなかった為、また、体重分の衝撃が身体全体を襲った。反撃があるかと、それでも身構えたが、盛大に吹き出た鼻血まみれの鼻を両手で押さえながら、鷹は真から離れていく。
ひぃひぃと泣き叫びながら床をのたうち回り、手に纏わり付く粘り気のある鼻血の量に腰を抜かしてまた叫ぶ。
「ち!? ち、血、血ぃぃっ! 血がっ、血がぁぁぁっ! し、しん、真、貴様! 貴様、よくも、よくもぉっ……!」
口の中も切れているのか、剥き出しになった歯も血で染め上がっていた。
何かを怒鳴りつけたいが、言葉が浮かんでこないのか、痛みが勝るのか、口をぱかり、と開けた間抜けな状態のまま、鷹は真を睨んでいる。
涎と混じりあった血が一筋、ぬら~……と、顎を伝って床に落ちていく。
しかし、筋が地面に落ちる音は、突然響きだした不気味な鐘の音に掻き消されて、真の耳には届かなかった。




