15 弔鐘 その1-2
15 弔鐘 その1-2
ゆらりゆらり、と揺らぐ意識が、徐々に形あるものへと変貌を遂げていく。
――……つばき。
優しい声音に、椿姫は思わず摺り寄っていった。
何でも良いから、縋りたかった。
甘えていたかった。
ただ、守られていたかった。
「椿、気が付いたか?」
「……戰?」
しかし自分を取り巻く世界は、それを許してはくれない。
自分が執り成さなければ父は、兄・覺が后にと認めた女性である苑も、兄との間に産まれた王子であり、この国の正統な血の継承者となる継次の御子である学をも、認めてはくれない。
――……お父様……。
そうだ、しかしその父・順はどうしたのか?
どうなったのか?
気を失う前と後の記憶は、ざらざらと乱れるばかりで一向に繋がりのあるものとして思い出せない。
思い出せるのは、血の海の中に倒れている男たち。
そして、父が自分に投げつけた恐ろしい言葉だけだ。
――心配なのは、御子の、その胤ぞ。
気を失う直前に父の口から発せられた言葉が、椿姫の心を粉々に砕く。
一気に目が覚めた椿姫は、戰の逞しい腕からよじ登るようにして迫った。
「戰、何がどうなったの!? お父様は!?」
「椿、落ち着いてくれ」
戰の腕を掴んで揺さぶりながら、いや! と叫ぶ椿姫の頬が、ぺち、と小さくなった。はっ、とした表情で椿姫は戰から飛びのき、音がした頬に白い指を這わせる。ほのかに、じんとした痺れが、震えとなって細い指先にも伝わっているような気がした。
打たれた頬の痛み、それ以上に、唇を固く結び合わせた戰の顔ばせが椿姫の胸を打つ。
椿姫は、おずおずと、戰の胸に戻った。
そして、自分の頬を打った戰の手を両手で覆うようにして、胸に引き寄せて握り締める。
此れまで戰は、何があっても自分に怒りを顕にした事がなかった。声を荒らげた姿も、乱暴に事を進めようとする姿も、見た覚えがない。そんな彼が、言葉が耳に入らない位動転した自分を落ち着かせる為とはいえ、手をあげたのだ。
――優しい戰、が、手を挙げるなんて……。心が、痛まない筈が……ない――のに。
ぽろ、と涙が一筋、頬を伝っていく。
「……ごめんなさい、戰……」
「いや、いいんだ」
落ち着いたかい? と尋ねる戰に椿姫は、こくん、と頷いた。
「私が気を失っている間に、何があったの……? お願い。話して、戰」
「いいかい、椿、落ち着いて、よく聞くんだ」
はい、と頷く椿姫の瞳の色が、普段の彼女のものになっているのを確かめてから、戰は静かに話出した。
貧血を起こして意識を失った直後の自分共々に、父・順が命を狙われた。
自分は無傷であったが、父は背中に矢を幾筋も受けて大怪我を負った。
あわや、という処で戰が駆けつけて呉れたお陰で、自分は助かった。
しかし、父の背に突きたった矢尻には、毒が塗られていた――
戰の口から、残酷な事実を知った椿姫は、全身を青ざめさせた。
「そ、そんな……! それで、それで、お父様の具合は!?」
「今、施薬院より医師を呼んでいる」
言葉を濁され、くら、と再び貧血を起こして椿姫はふらついた。
普段から鍛錬を怠らず、そして戦場を幾度も疾駆してきた戰の目から見ても、相当に危険な状態だと分かるからこそ、迂闊な事を口にして下手に希望を持たせまい、としていると分かってしまったからだ。
頼りなく、か細い椿姫の身体を、戰はしっかりと支えた。戰の腕の中で、う、と声をくぐもらせながら椿姫が手を口元に当てているのは、目眩からの吐き気が強くなったせいだろう。背中をさする戰の胸に、椿姫は仔猫のように縋ってきた。
「戰……どうして……どうして、こんな事に……お父様……お父様……」
譫言のように繰り返し父を求める椿姫は、そのまま儚くなりそうな程弱々しく痛ましい。
椿姫の背中を抱き締める戰の背中に、陛下、と遠慮がちな声が掛けられた。
「克か。どうした?」
鴻臚館へと向かった筈の彼が、何故、この西宮に居るのか?
答えは一つしか考えられない。
克が虚海を守って連れてきたのだろう。
「はい、陛下。後主殿のお怪我の処置が終わったと、虚海様が」
克の言葉に、きらり、と椿姫の眸に力が宿った。
「克、お父様は!? 虚海様は助けて下さったのでしょう!?」
それまでの、憂いに沈んだ表情が、希望に一気に輝く。しかし克は、それが、と言い淀んだ。
「……どうしたの?」
「姫様、よく聞いてよ?」
克の後ろから、音もなく寄ってきた珊が椿姫の手を握った。
じっとりと汗ばんだ珊の手の平に、異様さを感じ取った椿姫の眉が曇る。
「……珊? 何が? どうしたの? ――まさか」
「その、まさか。姫様のお父さん、助け、られなかったんだ」
「嘘!」
珊の言葉を皆まで聞かず、被せるように叫ぶ。
手を振り払い、戰の腕の中も抜け出て、椿姫は部屋を飛び出していこうとした。しかし、脚が縺れて転びかけてしまう。前のめりになり、あっ、と悲鳴を上げた椿姫を庇ったのは、珊だった。先程の克ではないが、彼女の下敷きになって庇ったのである。
「……いひ、ひたた……」
強か後頭部を床に打ち付けて痺れるのか、軽く頭を左右に振りふり、珊は呻く。一瞬、珊の胸に顔を沈めて気を失っていた椿姫だったが、珊の呻き声に正気を取り戻した。
「さ、珊? どうしましょう、私……!」
「ねえ、姫様、ちょっと落ち着きなよ」
顔色を無くしておろおろとするばかりの椿姫は、2年前、祭国から当時国王であった父・順からの知らせを受けたばかりの頃に戻ったようだ。
落ち着いてなんて、と涙ぐむ椿姫に、もう、と珊は大きく頬を膨らませて肩を上下させる。そして、ぷっ、と唇を尖らせて息を吐くと、椿姫の両の頬を、ぱん! と挟み込むようにして叩いた。
戰も克も、驚いて目を丸くする中、珊だけが、キッ! と眼光を鋭くしている。
「いい加減にしなよ! 姫様、何を何時までもお嬢ちゃん気分でいるの!?」
「……えっ?」
「いい!? 姫様はねえ、もう皇子様のお妃様なんだよ! 御子様だって生まれたんだ! 何時までも後主の娘姫じゃないんだよ、もう姫様自身がお母さんなんだよ!?」
腹の上に椿姫を乗せたまま、珊は声を張り上げる。
「それなのに、お父様、お父様って。巫山戯んじゃないよ! 自分がお父ちゃん恋しで暴れてる間、大事にな旦那の皇子様や子供の御子様はどうなってんだか、気にしてるの!?」
「珊……」
「姫様にとって、大事になのはどっちなのさ? 散々っぱら糞迷惑ばっかかけてる阿呆な親父!? それとも、何があっても耐え抜いて守った御子様と信じて待ってた皇子様!?」
「……」
流石に言い過ぎだ、と克が背後から声を掛けかけて珊を宥めにかかった。
「お、おい、珊」
「煩い! 傷禿げ持ち野郎は黙ってな、馬鹿!」
しかし、珊に咬みつく様に睨みを効かされて、う、と間抜けにも動きを止めてしまう。
よ、と腹の筋を使って上体を起こした珊は、そのまま、椿姫の肩をすっぽり包むように抱きしめた。ぽんぽん、と赤子をあやすように、軽やかにそして慈しみを込めて、気持ちが伝わるように、と背を叩く。
「ねえ、姫様。あたいさ、小さい頃に主様に言った事あるんだ。『良い事、楽しい事、素敵な事だけを、数珠玉みたいに繋げて暮らしていけたらいいのにね』って。そしたらね、主様は笑って教えてくれたよ」
「蔦は……なんて……?」
「『この世は、佳い事二つと無いからこそ倩しゅう御座いまする。人の世の麗なるものを続ける糸は、雲のように儚く脆うて、繋げば端から端から、糸は切れて朧となって霧散してしまいまする。なれど、繋げられないからこそ人は、妍しく妙なるものを心から大切にして、日辰を重ねて行くので御座いまするよ』って」
「……」
「ねえ、姫様。姫様が本当に数珠玉の糸につなぎとめておきたいものって、何? 繋いだばっかりに糸が切れるのだとしたら、手から零れていっちゃうのだとしたら、姫様はどれを大切にしたい? 意地悪で言ってるんじゃないよ。姫様が好きだから、真剣に考えて欲しいから言ってんの」
「珊……わたし……」
「もしも姫様がさ、どうなったって構わない、阿呆親父も一緒に糸に繋ぎ留めてたいってんならさ、あたいももう、これ以上何も言わないよ。けどさ、それ言っちゃったら、皇子様と御子様がどれだけ傷ついて哀しむか。ちゃんと、考えてからにしてね?」
珊が、両手に包んだままの椿姫の顔に自分の顔を引き寄せた。
額と額とが出会って、ごつん、と鈍い音がする。
「姫様がさあ、こんだけ、お父様、お父様、って言えんのはさ、皇子様が姫様を大切してくてれるからだよ? 気が付いてんでしょ? 皇子様に甘えてばっかりだっての。ねえ、ちょっとは恥ずかしくなんない?」
「……珊」
静かに眼蓋を閉じながら、ええ、恥ずかしいわ、と椿姫は呟いた。
「御免なさい、珊、嫌なこと……言わせて」
「ん~ん、いいんだよう」
珊は手を振りながら、でもちょっとまだ頭痛いかな? と、躍けてみせる。椿姫の顔ばせに僅か、であるが笑みが戻る。
しかし、それも束の間の事だった。
直様、表情を引き締めた椿姫は、良人である戰を見上げる。
「後主を筆頭と認めぬ、と断を下した者としての責を全うします。私は祭国王室正統なる血を継ぐ長者の一人として、後主・順との面会を求めます」
その声は、普段の、戰の妃としての彼女のもとなっていた。
★★★
改めて、後主・順が虚海から手当を受けた部屋へと四人で赴く。
戰に肩を抱かれながらも、椿姫は自身の足でしっかりと立っていた。
「お師匠」
「お、皇子さんか」
戰に守られるように部屋に入ってきた椿姫に、一瞬、虚海は顔を顰めた。が、ぼりぼりと音を立てて、簾状に傷痕が入った額を爪をてて引っ掻いた。
背後を振り返った戰が克に目配せすると、何も言わずに克は頭を垂れて引き下がる。珊は椿姫を心配してか、まだ去りがたい様子を見せて項垂れていたが、克に袖を引かれて、もう、引っ張んないでよ馬鹿! と唇を尖らせながら奥へと引っ込んでいった。
「お師匠」
「こっちゃ来ぃや」
くいくい、と指で来るように示しながら、虚海がごそごそと横から大きな包を取り出してきた。
「其れは?」
「後主さんの背中に刺さっとった矢尻やな」
包の分厚そうな布越しにも漂う血肉の腐臭に、ひっ、と小さく椿姫が息を飲む。
くら、と身体が傾きかけるが、戰の腕に支えられてふらつきは最小限に止められた。が、顔色は一気に真白になっていた。
「お師匠、椿に分かるように、説明してくれますか?」
戰の願いに、本当は言いたかないんやがなぁ、と首を左右に振りながら、虚海は呟いた。
「後主さん、自分で手遅れにしはったんや。……暴れ過ぎたんや。奥の方に入ってまった矢尻に肉が巻いてまってな。なかなか抜けんくなってまってな。そんでもな、此れでも努力はしたんや。切開して何とか全部抜いた事は抜いたんや。けどな」
「けれど……?」
「……処置しとる間もな、そらもう、大暴れしより続けよってなあ。いや、身体の方を悪うする傷やったら、何とかなったかもしれへん。幸いにも、言うべきなんやろな、心の臓にも肺臓にも、毛筋程の傷もあらへん強運やったんやでな。……けどあかんかった」
「とは?」
「皇子さんも、気がついとるやろ? その矢尻には毒が塗ったる。暴れまわったせいでなあ、毒の回りを早めてしもたんや。しかも、やな。この毒はなあ、脳の方にな、回る毒やったんや。いや、こんでも、傷から毒は出来るだけ出したんや。毒消しも使うた。けど、間に合わへんかった。あれはもう、正気には戻られへんやろ」
「そんな、馬鹿な……」
「皇子さんは見とるやろ、後主さんの身体に毒が回ってく様子を、ん?」
虚海に思い出せ、と促されるように語尾を上げられて、戰も記憶を呼び起こす。
確かに矢は身体に埋まり、一気に心の臓の動きを止める致命傷ではなかった。
毒ではなかった。呂律が回らなくなり、手や足の動きが侵されていた。強い痙攣と、そして呼吸困難を起こす麻痺のようなものだったのだ、と冷静になると分かってくる。
「こういう毒もある、ちゅうこっちゃ。後はもう、命が失われてくばっかや。今日中に後主さん、儚くならはるやろ」
「……お師匠」
「何やいな?」
「あの時、私がもっと早く処置を命じていたなら、違った結果になっていたのでしょうか?」
――私のせいか?
舅である後主・順を疎んじるあまりに、知らぬ間に、見捨てたいという気持ちが働いたのか?
私は。
私が。
――椿の大切な親を、奪った・のか?
戰の表情が固く強張るのを見て、皇子さんのせいやあらへんで? と虚海が首を左右に振った。
「皇子さんのせいやない。こんなもん、素人さんがぱっと見ただけで見極められるもんやあらへん。後主さんがせめて大人しゅうしとってくれたら、結果は違うとったかもしれへんが……。こればっかは、天帝はんが定めた天命やと思うしかないのや」
両手を胸の前で組み合わせながら、椿姫が虚海の前に進み出た。
「虚海様、お父様と……」
「ん?」
「お父様と、話す事は、できますか……?」
椿姫の思いのほかしっかりとした声音が、今は逆に胸を痛ませる。
いんや、と虚海は首を横に振った。
「やめとき。もう後主さんは、姫さんと会っても誰の事か分からへん」
でも、と椿姫は目を伏せた。きゅ、と小さく手を握り締める。
「一目で良いのです。学と、お義理姉様に、伝えねばなりませんから」
「お姫さん、そら……」
「父は、学もお義理姉様も認めようとはしておりませんでした。でも、二人には父の最後を知る権利があります。最後を看取る権利もあります。私はそれを伝えねばならない、義務があります」
両手を組んで、会わせて下さい、と祈るように懇願する椿姫と彼女を抱く戰とを、虚海は交互に見やり、小無ないの、と肩で息を吐いた。
★★★
戰に抱き抱えられて椿姫が産屋に戻ってきた。
当然、産屋は戦中宛らに騒然となった。すわ、とばかりに控えていた女医が彼女を取り囲み、奥の部屋へと連れて行く。
大切な珠を預けるように戰が蔦に、椿姫を頼む、と託すと、彼は一瞬息を止め、胸を掻き毟るようにし、目を伏せた。
「お任せくだしゃりませ」
言葉少なに、そして静かに去る蔦を見送ると、入れ替わりに殿侍たちに守られた学と、そして背後に添うように苑が現れた。二人共、何処か浮き足立っているように見えるのは、西宮での様子を知らされていないからだろう。
だが、産屋に戻ってきた椿姫の姿を見せられては、気引き締めざるを得ない。学は一度、きゅっ、と唇を固く結んだ。
そして、大きく一つ、深呼吸をし、戰を見上げた。
「郡王殿、妃殿下の御身に一体何が?」
そうだな、と躊躇を見せかけたが、今の椿姫は話せるような状況ではない。
まして、自分を見上げてくる学の視線は痛いほど素直だ。しかもその素直さは、子供としてのそれではなく、為政者として真摯に向かおうという姿勢のそれだった。
戰は覚悟を決めた。
順序だてて、此度の事態を全て、学に話して聞かせた。
――順が、戰と椿姫の間に誕生した御子こそが我が孫であるとし、面会を求めた事。
――椿姫は、父に学と苑の存在を認めて欲しくて、自ら後主の住まいである西宮に赴いた事。
――最中、何者かに後主が狙われた事。
「其れで、後主殿は」
御祖父様は、とは学は問わなかった。
「最後、椿と共に見舞ったが」
「――が?」
「最早、人ではなかった」
戰の表現に、苑が、ひくり、と身体を震わせ息を飲む音が産屋に小さく響いた。
★★★
椿姫は戰と共に、虚海が処置した部屋に入った。
其処には。
嘗て、人で、あった成れの果ての、物・が、転がっていた。
目は虚ろに光を失い焦点があわず、端から涙がだらだらと流れていた。
いや、流れているのは涙だけでなく、膨らんだ鼻孔からは鼻汁が、歪んだ形に半開きとなった口の端からは涎が、無様というより滑稽なほど大量に垂れていた。
細い声で、あうぅ、だの、おぉう、だの呻いているようにも吠えているようにも聞こえたが、最早、人語ではない。
笑っているのか。
何かを、蔑んでいるのか。
それとも、哀れんでいるのか。
いや、嘆いているのか。
頬が、いや顔全体の筋が弛緩していた。
時折、ひくひくと頬骨のあたりや顳の太い血管に緊張が走りもするが、それだけだ。
大の字になり、手も脚も、力なくだらりと投げ出されている。自ら取り繕う事もなく己の身体を放置する無様な姿から、処置を終えた後に、放り出されたままなのだろう。
既に何度か失禁しているのか、股間周辺には端が茶色に縁どられた黄色い滲みが広がり、屎尿の強い臭いが漂っている。
それが、血糊と汗から発した毒素の臭気と混ぜ合わさって、更に酷い悪臭として部屋に充満していた。
汚臭が漂い淀む部屋の中で、血塗された包帯に全身を拘束された状態を晒して横たわっているのは。
嘗て、この国の王であった男、後主・順、その人に間違いなかった。
――顔だけで、判断すれば。
「それ、で、妃殿下は?」
「舅殿に声を掛けた」
気丈にも、戰の腕を自ら外して椿姫は父・順に歩み寄った。
「お父様」
張りのある声には、父への気遣いがある。そして、自分の声に応えて欲しい、という希望も。
「お父様、私です、椿です。貴方の娘の」
せめて一筋の瞳の光を此方に向けて欲しい。
そして、あの言葉を、どうしてどういう思いで口にしたのか、それだけでいいから答えて欲しいと願いつつ、椿姫は必死になって、何度も呼びかける。
「お父様、お願いです、あの言葉の意味はなんなのですか?」
――心配なのは、御子の、その胤ぞ。
何とか返答をもぎ取ろうと、尚も椿姫は食い下がる。訝しげに椿姫に視線を落とす戰の前で、椿姫は滑稽な程、言葉をかけ続けた。
「お父様、お願い、答えて下さい」
しかし、奇跡は起こらなかった。
どれほど待っても後主・順は、精神を崩壊させたまま全くの無反応のままだった。震えながらも立っていた椿姫の身体が突然、ふら、と傾いで頽れかけたが、駆け寄った戰によって抱きとめられた。背後から回された腕に、椿姫は全身を預けて言葉を詰まらせる。
「……椿」
「……お父様……答えて下さらないのなら……何故、あんな事を仰ったの……?」
大粒の涙をぽろぽろと零しながら戰の胸に縋って泣き崩れ、そのまま、意識を手放してしまった。
「どうする」
戰は、学を見据えた。
学の身長は、戰の胸の辺りまでしかない。
戰は強く顎を引いて学を見、反対に学は頤を跳ねる様にして戰を見上げている。
「どう、とは?」
「此度の仕儀に、私は口出し出来ない。事は、祭国王室内で修めるべきだと思う」
「はい、私も同様に思っております」
「では、此度の後主の仕儀。祭国国王として、学よ、如何にすべきであると思っているか、答えて欲しい。祭国王室の姫を妃とした私には、存念を知る権利があると思う」
戰の言葉に、はい、と学は答えると、ちらり、と母・苑を見やった。が、それも僅かな間の事であった。
「後主・順は、西宮にて蟄居屏息隠遁を命ぜられた身でありながら、此度、許しもなく椿妃殿下へと御使を遣わせただけでなく、国王たるこの私を王室の血と認めなかった。その罪、万死に値します」
学の言葉を遮るように、元気な赤子の泣き声が聞こえてきた。
乳母が、必死になってあやしている気配が伝わってくるのだが、何時もは素直な星が、何故かなかなか泣き止まない。
苑が、す、と立ち上がり、隣室へと消えていく。母の背を見送ってから、学は続けた。
「ですが、我が叔母にあたり長姉と慕わせて頂いております椿妃殿下のお命をお守り参らせた事も、また事実。評価せねばなりません」
郡王陛下、と学は戰を見詰める。
「後主・順は、西宮にて静かなる死を得る。それ以上でもそれ以下でもなく。ただ、死を得るのみ」
「……学、君は其れで良いのか?」
私は、と初めて学は言い淀んだ。
「祭国国王、として判断致しました」
そうか、と戰は学の肩に手を置いた。
ただ、死を得る。
聞こえは良いが、死にゆくに任せよ、救いの手は差し伸べるな、という事だ。
天帝より死地を賜った人間は、その夜の間、盛大な送火の元、魂を天涯へと返す儀式を施される。
家門は一同上げて、夜が明け白むまで笛を吹き続け、悪霊を絶つ。
錦灯籠を飾り尸童として悪鬼を呼び込み封じる器とし、魂の安寧を祈る。
そして無事に天帝の元に帰る魂を祝い、酒膳を開いて呑み歌い踊る。
それは法要えと続き、死者はこうして己が魂は今生に最早居てはならぬと知り、次に生を得るまで眠り続ける事が許される。
そうしてこそやっと、御魂は救われる。
だが、学は此等をして魂を救ってはならない、と申し渡したのだ。
無情、非情、非道と言えた。
しかし。
今ここで、肉親の情愛に流されて後主の元に国王である学が自ら脚を運び、死を間際にした祖父の惨状に絆されるまま、許しを与えてしまったとしたら。
どの様な災厄を、祭国に呼び寄せる事になるのか。
禍国帝室の血を引く皇子である戰の妃となった椿姫に、仇なし害さんとしたと右丞に申し立てられでもしたら?
何があっても、祭国に踏み入らせる隙を旨々と与えてしまってはならないのだ。
国王として、それは決してしてはならないのだ。
そう、断固として。
此処まで、少年の身でありながら国王として振舞ってきた学が突然、う、と言葉を詰まらせた。
忽ちのうちに、学の瞳に大粒の涙が宿る。
「国王、としての、判断ではありません、してはいけない事です、分かっております」
ぽろぽろと涙を零しながら学は、でも、と続ける。
「魂を……弔う為の鐘、だけは、鳴らさせて、あげたい……です……」
「……そうだな……」
学の背中を抱きながら、戰が目配せする。
眼蓋を軽く閉じながら、蔦が静かに姿を消した。




