14 後主・順 その3
14 後主・順 その3
はっとなり、動きを止めた殿侍たちの足を縫い付けるように、矢は次々と突き刺さる。
「おのれ」
誰かが、と歯軋りと共に呻いた。
ぎりぎりと臍を噛むしかない彼らに向かい、ふひひ、と後主・順は嗤った。
汗まで酒臭い腕の中にある椿姫は、貧血からくる目眩から、意識を手放したままだ。後主・順は、重そうに引き摺り上げて腕に抱きなおす。
矢を乗り越えようとすれば、何処からか再び矢が飛んでくる。
何処から? と殿侍たちが腰に帯びた剣の柄に手を伸ばしかけても、矢張、矢は飛んでくる。おのれ、と再び誰かが呻く。
明らかに、この矢は椿姫と殿侍との間に距離を置く事を目的として飛んできている。つまり、後主・順は、娘でもあり且つ郡王である戰の妃である椿姫を、質としようとしているのだ。
だが、殿侍としても、其れを指摘は出来ない。
してしまえば、准后である苑から託された使命を全うせずに、愚かにも術中に落ちた自分たちの失態を認める事になってしまうからだ。
「後主殿下、恐れながら妃殿下の体調が芳しくありませぬ。故に、本日の御面会は此れまでに致し、後日日を改めて行われますよう」
「ふっひょっひょ! 何と情けない奴腹ぞ、のう椿」
「何!?」
「よいよい、此れから先は、吾が椿を守ってやるからの。其方らは下がるがよいぞよ」
歯噛みする殿侍たちを前に、後主・順はあられもない嘲笑をあげた。
しかし、その嘲笑はすぐに氷つく。
殿侍たちが、訝しげに目を眇める。が、次の瞬間、息を飲んだ。
ひゅ、と音を立てて飛んだ矢が、後主・順の背に突きたっていたのだ。
「――……あ……が……?」
何故、背中に痛みが走るのか、理解できないのだろう。
順は間の抜けた、ぼう、とした表情で己の背後を振り返った。
そして、背中に生えた一本きりの羽に、喧々たる悲鳴をあげた。
「ひっ!? ひ、ひっ、ひぃぃぃっ!」
その甲高い叫び声はいっそ女性的で、姦しい。
後主・順が傷付けられた事により、殿侍たちは逆に動きを封じられた。
下手に動けば、さらに後主・順が攻撃を受けた場合に腕中に在る椿姫を盾とすまいか、という憂苦が彼らの判断を惑わせた。
その惑いの隙に、矢尻は容赦なく、後主・順の背中を狙って飛んでくる。
毛を毟られた雛のような哀れな姿となった順が、椿姫を抱いていた腕を離した ――正確には背に突き立った羽を抜かんと暴れる為には、娘にまで気を使っていられなくなったのだ。
椿姫の身体が、ゆっくりと滑り落ち、どさり、と重い音が響く。
此処に至り、殿侍たちは決断した。
このまま放置すれば、椿妃殿下は必ず巻き込まれる。後主・順が手を離したこの隙を突いて、妃殿下を奪還するしかない!
一致団結した雄叫びをあげて、殿侍たちが剣を抜き放ち型を構える。
今、祭国に使える殿侍である彼らは、帯刀した舎人と大差ない身分を超え、兵仗と違わぬ力量の持ち主となるよう、日々、克や杢に鍛錬を受けている。
今こそ、その手腕を発揮すべき時である、と彼らは帯びていた剣を抜く。その迷いなく淀みない動きは、まるで風の流れのように一致していた。
「妃殿下をお守り参らせよ!」
「ま、待て、待て! あ、吾を、吾を先に守らねばならんぞよ! あ、吾こそはこの祭国の長老たる尊貴なる身ぞ! か、嘗て我が国を攻めた敵国に嫁した娘なぞより、吾の身を助けねばならんぞよ!」
背中から打たれた矢が、肺腑を傷付けたか。
それとも、ただ激痛の為なのか。
順は吃りながら、殿侍たちに手を伸ばして助けを求めた。
羞恥心の欠片もない、生への執着に殿侍たちは一様に鼻白む。そして半瞬後には、己の主君である戰と椿姫を貶められた怒りに全身の血脈を沸騰させた。
「た、助けよ、助けよ! 吾を助けよ!」
「喧しい!」
「そうとも、黙れ! この糞爺!」
遂に我を忘れて怒鳴りつける。
そもそも、この祭国を極限にまで追い込む事になったその元凶は、この男が国王などになったからだ。
漸く、その罪相応の後主という立場になるまで、どれだけ祭国の民が要らぬ苦労を背負い込んだと思っているのか!?
後主、などと気取ってはいるが、所詮は、全権を奪われた屍として生きよ、という蔑まれて当然の身分だ。
国王・学陛下と郡王・戰陛下に仕える身である自分たちが、居丈高に命じられる覚えはない! という本音が、とうとう噴出した。
「後主の戯言に耳を貸すな!」
「そうだ! 後主などどうでもいい!」
「それよりも、妃殿下だ! 御身に相応しからぬ、かすり傷の一つでもつけてみよ! 我らの首を揃って差し出しても足らんぞ!」
「そうとも! 我らが妃殿下をお守り参らせよ!」
「椿も其方らの首も、そんなものなぞ、どうでもよいぞよ! 吾を! 吾を!」
掠れ気味の金切り声を上げる順に、殿侍たちが侮蔑の視線を投げ掛けた時。
ひゅ!
鋭く空を引き裂く音が鳴り響き、続いて。
どっ……!
鈍く低い音が、辺りを満たす。
「――ぐぇ・ぎゃふっ!?」
蛙が荷車の車輪に轢き潰された時のような叫び声が、順の喉から放たれる。
「……ちゅ、ちゅば……ひぃ……」
口内に血混じりの唾が溜まっているのか、涎を垂らして舌足らずな声になった順が、足元に蹲る椿姫に助けを求めて震える手を伸ばす。
順を目指して新たな矢が、ひゅ、と空を裂いた。
だがその矢は、ひぎぃ!? と叫ぶ順の目の前で、真っ二つにされて叩き落とされた。
★★★
「お、おひょ! むひょろの!」
顔を顰めた戰の視線の先には、背中に十数本の矢尻を受けて悶える後主・順と、床に倒れ込んでいる愛しい妃、椿姫の姿がある。
その椿姫の傍に漸く駆け寄った殿侍の一人が、戰に向かって力強く頷いた。気を失っているだけで、怪我をおってはいないと伝えたのだ。
ほぅ、と安堵の吐息を吐く。
「貴様たち」
当時に、戰の鋭い眼が光の尾を引いて真正面を見据える。
「何処の手のものか、とは問わん」
真の予測が正しいか否かを断ずる為に細かくな情報を得んと生かした処で、彼らは捉える寸前に自ら命を絶つだろう。
となればその際に、己の命を引き換えに某かの犠牲を此方に与えんとする、自滅の道を選ぶに違いない。
何れにせよ、彼らから得られるものは何もない。
である以上、愛する妃を守る事にのみ集中すべきであり、椿姫から気を反らせる為にも攻撃手段を弓矢から変更させねばならない。
「剣を構えるがいい。せめて最後に、直接私に反撃させてやろう」
戰に言われるままに、物陰から攻撃していた男たちが姿を現した。
人間とは愚かなものだ。
つい先程の戰の太刀筋による矢の一刀による両断を見て、弓矢の攻撃は適わぬと思い込んでいる。実際には、距離を置いて狙いを定められる弓の方が、まだ幾らか勝ちを得る希望がある。だが、男たちはうまうまと戰の言葉にのせられて姿を現してきた。
ちらり、と背後を伺うと、椿姫は既に殿侍たちの手により周到に守られながら、気配を殺しつつじりじりと下がっていく処だった。
――そうだ、それでいい。
ほっと和らいた戰の視線が、此方を見ていないと知った男の一人が、一か八か、に賭けに出た。
勢いよく地を蹴って戰に切先を向け突進してきた。
「――きぃえぇぇぇぇいっ!」
決死の、そして渾身の気合を込めた、彼の一縷の望みだったのだろう。
しかし、戰の腕が一閃し、無情にも打ち砕く。
無駄な動きの微塵とてない戰の剣技は、いっそ舞をみているかのような錯覚に陥る。
フッ、という短な気合と共に、ぶわり、と優雅に戰の巨躯が踊った。
と思う間に、男の両腕は血飛沫をあげて、ごとり、と床に落ちた。まるで切られた直後の蜥蜴の尾のように、切断面はびくりびくりとのたうち、血を流し続ける。
獣の咆哮のような断末魔の悲鳴をあげて、男が床に落ちた己の腕を求め、前屈みになる。
其処へ、戰の剣が燦めいた。
――……ごすっ……。
ぬるく、中途半端に重みのある音が、何かが転げ落ちたのだと周囲に知らしめる。
「ひ、ひぎっ!」
「うぎっ……!」
それが、男の生首であると理解すると同時に、仲間たちは悲鳴を上げる。
思わず仰け反る男たちに向かって、怒りの塊となった戰が、矢よりも早く差し迫る。
「ひ、ひ、ひぃ!」
「お、おふぅ!?」
意味も無く声をあげ、腕を振るう。
ただ無茶苦茶に振り回す切っ先が、戰を捉えられるあろう筈もない。
寧ろ、力んで足がとまった彼らは、戰の剣の格好の的となった。
豪腕、とは此の事だろう。
戰の腕が振るわれ、剣の切っ先が、びゅん、と唸りを上げる度に男が一人、また一人と倒されていく。
いや、唸り、というよりも正しく旋風だ。屠る敵の血潮がまるで舞い踊る遊女の持つ披帛の如くに、戰の身体の周囲に棚引く。
長く踊った血の披帛は、地に沈まると同時に、その出自の元となった男の命が事切れたと知らしめる。
容赦の欠片もなく、戰は全ての男たちの息の根を止めた。
頭骨を砕かれて脳髄まで曝け出して、脳漿を飛び散らせる者。
腹を横に薙ぎ払われて白い助骨をぼろりとはみ出しさせ、虫のようにうねうねと蠢く五臓六腑をぶちまける者。
喉に串刺しの一撃を喰らって、沸騰した湯が吹きこぼれるように口から血を吐く者。
しかし、一撃二撃のうちに彼らを屠ったのは、情けをかけたと言えるだろう。
痛みと恐怖を長引かせる事なく、そして自分がこの世ならざる存在となるのだという恐怖を自覚する事もなく、命を絶たれたのだから。
襲ってきた男たちは実に8人にも及んでいたが、戰が彼ら全員を倒すのに半刻もかかりはしなかった。文字通りに、あっという間に片が付いた。
ひゅ、と鋭く剣を一振りし、血糊を払う。
しかし、流石に8人もの男の人脂は払うだけでは落とせない。倒した男の袖を破り、静かに刃を挟んで拭い取る。ぬち、ぐち、と独特のぬめりが、布越しにもはっきりと戰の掌と指先に纏わる。伝わってくる不快感を、そのまま眉の深い溝に表して、戰は振り向いた。
椿姫はまだ意識を回復してはいないが、殿侍たちに囲まれてしっかりと守られている。
「椿」
「陛下、妃殿下は擦り傷一つ、負っておられませぬ。ご安心下さりますよう」
そうか、と頷き、ほぅ、と長く息を吐く。
自然、安堵の笑みが浮かんだ。
――椿。
そのまま、椿姫を抱き竦めようと駆け寄る。
「……む、むひょろの……! ……た、たしゅへれくりぇっ……!」
しかし、横合いから、後主・順の無様な叫び声が引き留める。
呂律の回らぬ合間合間に、ごぶり、と唾を含んだ血を吐いている。余りの態とらしさに、再び、今度は侮蔑の吐息を捨てるように吐きながら順に歩み寄った。
「……た、たしゅけ、たしゅへてっ……か、かりゃらっ……! からら、ち、ちびれりゅぅっ……」
ぶるぶると全身を震わせて、戰に腕を伸ばしてくる。
その表情はいっそ恍惚としていた。
これで助かった、と全身で魂を喜びに震わせているのだと思うと、妃の親であろうとも、いやだからこそ、反吐が出そうだと戰は思った。
じろり、と視線を巡らせて順の背中に突き立った、数本の矢を見る。
深々と刺さっている。
だが、致命傷となりそうなものはなさそうだ。
だが、はひ、はひ、と喉仏を戦慄かせてどす黒く顔色を変色させている様は、矢に打たれた衝撃による恐慌状態のものではない。
明らかに、何かに侵されている者の、それだ。
外れて床に落ちた矢を拾い上げ、くん、と音を鳴らして鼻を効かせる。
独特の臭気が微かにある。恐らく、毒が矢尻に塗られており、回りだしているのだ。
――早く矢を抜いて処置をせねば、命が危うくなる。
即座に見抜き、戰は殿侍に命じた。
「急ぎ施薬院に行き、虚海お師匠か那谷を呼んで来てくれ。一刻を争う」
命じられると直様、一人が頭を垂れるのもそこそこに施薬院に向かって走り出す。残った者は、戰が椿姫をしっかりと抱き上げるのを見届けてから順を取り囲んで担ぎ上げるようにして、運んでいく。
「……ひゃ、ひゃすけへっ、むひょろの、ひゃしゅけへっ!」
「死にたくなければ、大人しくされよ、毒が回る」
「……ろ、ろく!? ろくは、いひゃらっ! ひゃくへてくりぇっ!」
「医師の診察を受けられよ」
「ろ……ろく、ろくらとしにゅ! しにゅのやらっ……! し、し、し、しにしゃくひゃいぃぃっ……!」
涎を垂らし唾を飛ばし涙を流しながら、順は攫われるように連れられて行った。
――時間との戦いにはなるだろうが……。
毒の強さは分からないが、あれだけ無駄に動いてしまっては、早々、死相が出始める。
という事は逆に言えば、今、はまだ、助かる道が残されている、ということだ。虚海か那谷の手により、迅速に且つ的確に処置が行われるのであれば、一命は取り留められる筈だ。
――それにしても、椿に何事もなく済んで良かった。
今は、それに尽きる。
愛する妃が無事に我が腕に戻ってきた喜びを、戰は素直に噛み締める。
音がする程に強く抱きしめ、額に頬を寄せながら心底からの嘆息を零すと、ん……と腕の中の椿姫が眉根を寄せた。
「気が付いたか?」
気が急くままに覗き込むと、長い睫毛が揺れて、ゆっくりと眼蓋が開いた。
「……せん……?」
「そうだ、私だ。椿、どうだ気分は?」
「……え? ……あ……え、えぇ……。まだ、頭の芯が、……ぼぅっとしてはいるけれど……ひっ!?」
額に手を当てながら辺りを伺った椿姫は、べとりと重苦しく濁った血の臭気に気が付いて息を飲んだ。
――しまった。
迂闊さに、戰が臍を噛みつつ後悔した時には、もう遅かった。
椿姫は、戰の腕から身を乗り出して飛び降りんばかりになって叫ぶ。
「せ、戰!? こ、此れは一体、一体なに!?」
「見るな、椿、見るんじゃない!」
「戰、どうしたの!? 何があったの!? お、お父様、お父様は!? お父様は何処なの!? ご無事なの!?」
「大丈夫だ、落ち着くんだ椿!」
嫌、嫌、お父様、お父様! と頑是無い幼子のように泣き叫ぶ椿姫を落ち着かせる為、戰は必死で抱きしめるしかなかった。
★★★
施薬院で、鴻臚館からの患者を診察している虚海に、珊はくっついていた。
此処の処、ずっと虚海の助手らしき事をしている。
以前は別の娘であったりしたのだが、最近になって虚海には珊が、那谷には福が、補佐に入るのが自然になっていた。
「お爺ちゃん、どぅお?」
「ほやな、こん位の咳と鼻汁やったら、まあ、心配する事あらへんやろ」
「だってさ、良かったね」
禍国への帰国は、もう数日しか残されていない。
赤斑瘡はきちんと快癒したのか。
新たな病を得ていないか。
鴻臚館からやって来た使節団の者を、一人一人、丹念に診察してゆく。
「鼻汁によぉ効く処方出しといたるで、ちゃーんと薬湯飲むんやで? 喉のつぼはな、夜やって貰ったらええでな。その方がよお寝れるでな、按摩さんにやってもらいぃな」
虚海は珊が手渡した竹簡に、さらさらと筆を走らせる。
あっという間に書き終えると、共に来ていた下男に、診察した男の名前と処方を写して残すように指示をする。
「ほな、次いこか」
ひらひらと手を振って、こっちゃ来いや、と虚海は上半身を諸肌にした男を手招きする。
はあ、と言いつつ、男は寄ってきた。
「ほ? あんたさんはあれやな、お姫さんと一緒に赤斑瘡になってまったお人やな」
「……は、はい……」
「どうやな? まんだどっか悪い処あるか?」
「……い、いえ……」
「何もないけど、なんや知らん疲てかなわんとか、ないか? 何や、じっとり汗かいとるで?」
「……はあ……」
はんはん、と節を取りながら、男の手首で脈を計りつつ虚海は男の目の色や肌の張り具合をじっくりと診ていく。その虚海の背後で、珊は首を捻った。
――何こいつ。
目の前の患者に集中している虚海や下男たちは気が付いていないようだが、男の様子がおかしい。
別に普段でも、ろくな医者に診たてられた事がなかったのか診察を嫌がって不機嫌気になる者もいる。逆に全く医者にかかったことがなく、民間療法のみで此れまできた者などは、極度の緊張からろくすっぽ口がきけなくなる者もいる。
何方も、当然の反応だ。
しかし、この男の様子は、そのどちらでもないように、珊には思えてならないのだ。
――こいつってば、何でこんな、びくびくしてんの?
診察が怖くておどおどしている、というよりも他に気を取られる事があり、気持ちがそぞろになっているようだ。
殆ど睨むようにして、珊は男の動きを注意深く追っていく。
其処へ、土煙を上げて克が突進してきた。
鬼神の如き、という表現がしっくりとくる形相と勢いだ。
克からかなり遅れて、武装した兵仗たち数十名が必死になって追いかけてきている。
「虚海殿! 珊!」
「な、何やいな、克さん」
明白に鼻白みつつも、虚海は活の様子から、普段の陽気な彼が此処まで切羽詰まった声を見せるとは、尋常一様ではないと悟ったのだろう。簾のように傷の入った顔ばせに、さっと緊張を走らせた。珊も、きゅ、と唇を固く引き締める。
「よ、良かった、間に合ったか。此奴らが鴻臚館から施薬院に向かった、というから飛んできたんだが、何もないようで」
「何もない、ちゅうのは、何がやな?」
話の見えない虚海は、珍しく苛つきのままに声を荒らげている。
「お爺ちゃん、気が付かなかった?」
「やで、何をやいな」
苛々とした虚海の声音は、普段が温厚なだけに人を下がらせる迫力がある。
が、それ以上に剣の柄に手をかけて抜刀寸前となり仁王立ちする克の形相に、恐れを成したのだろう。
施薬院に診察に訪れていた使節団の男たちは、一人残らず、がば、と勢いよくひれ伏した。
「お、お許し下さい! す、全てお話致します故!」
虚海の診察を受けていた男が、殆ど泣きつかんばかりの情けない声音で叫ぶ。
ぽかん、とする虚海の横で、ふん、と克は物々しく鼻息を付いた。
★★★
城の廊下を渡り、部屋に戻る途中で学は脚を止めた。
ふと、虫の唄声が聞こえたような気がしたのだ。
「静かにして、くれますか?」
しん……となると、何処からか遠慮がちに虫の声が聴こえてきた。
奏でられる虫の音を、学は眸を閉じて聞き入る。従う殿侍たちも、少年王の自然を愛する感受性に微笑ましさを覚えるのか、皆、一様に口元を緩めた。
其処へ、実に無粋な音が響き渡った。
カッカッカッカッ、と忙しなく、そして規則的に、何か硬いものが床に打ち付けられる音が響いてくる。一気に緊張を呼び戻し身構える殿侍たちは、角を曲がって姿を現したのが杢であった事に、ほっと安堵の吐息をこ零した。
しかし、そんな殿侍たちの反応に、杢は僅かに眉を跳ね上げた。
――私が現れた事に、逆に緊張を覚えねばならぬ処を。
陛下をお守りする者は栄誉だけが授けられているのではない。最も緊張と責とを強いられる任務であると云うのに。
――後で鍛え直さねばならんな。
独りごちつつ、杢は、陛下、と学に歩み寄った。
「何が?」
どうしたのですか? と問わなかった学が、この場で一番良い緊張感を持っているのかもしれない。成長著しい少年王に、感服の息を吐きつつ杢は静かに目を伏せつつ頭を垂れる。
「陛下、申し訳御座いませぬが、急ぎ産屋へ」
「産屋……? まさか、妃殿下か、星皇子か、それとも母上に何か!?」
一気に顔色を失い年齢相応の少年らしくおろおろする学に、流石に説明不足が過ぎた、と杢は内心で己の不明を殴り付けたくなった。
しかし、態度に出しては学を戒める。
「陛下、陛下はこの祭国の国王であらせられます。何事にも泰然と構えてお聞き下さい。それが不可能な凶事であったとしても、です。国王たるものまず、民の心を遍く安んじる事こそ肝要なるものと努められねばなりません」
場違いな杢の重々しい講釈に、嫌な顔つきもせず、はい、と学は素直に頷く。
「では、改めて問います。杢殿、一体何があったのですか?」
「はい、実は」
杢は、芙の部下が伝えてきた言葉と、其処から導き出した真の考察を手短に要領よく伝える。
学よりも、背後で控えていた殿侍たちの方が、色めき立った。
怒りの赴くままに西宮と台獄に駆け込んで行こうとする彼らを制したのは、学だった。
「郡王殿とお師様が杢殿を私の元に寄こしたのは、殿侍たちは貴方の指示を仰げ、という事ですね」
「はい」
陛下の口から言わせてなんとする、という戒めを、杢は眼光に含めて光らせる。
静かなだけに臓腑を握り潰す迫力があり、殿侍たちは青ざめつつ、ごくりと生唾を飲み込んだ。
「では、私は、どうしたら?」
「はい、産屋へ。彼処なれば逆に、周囲からどの様に襲われようとも、先んじて察知する事が可能ですし、予め周囲に伏兵することも可能です。星殿下と准后殿下もお守りせねばならりませんし、妃殿下もお戻りになられます。である以上は、此処は産屋を橋頭堡とすべきでしょう」
橋頭堡とは、戦における防御と援助を同時に行うための足掛かり的な要所を指す。
此処で軍事的な言葉を用いてきた杢に、学は、自分が予想しているよりもはるかに事態は緊迫しているのだ、と身を引き締めた。
「分かりました。私も、母上は我が手によりお守り申し上げたい。杢、産屋まで、頼みます」
「はい」
お任せ下さい、と礼を捧げる杢に、殿侍たちも一斉に習った。




