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覇王の走狗(いぬ) ~皇華走狗伝 星無き少年と宿命の覇王~  作者: 喜多村やすは@KEY
六ノ戦 落花流水

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14 後主・順 その2

14 後主・順 その2



 会議を一度散会しようとした時だった。

 蔦と芙の元に、一座の者から連絡が入った。全身を緊張で強ばらせている。


「何だ?」

 訝しげに、芙が席を立ち部下の元に寄る。本来であれば許されない行為だ。だが、場をわきまえぬやり様に、部下の中に一刻を争う状況であると悟ったのだ。

 報告せよ、と小声で命じると部下は安堵感からか、途端に身体中に血の気を巡らせた色を取り戻す。だが、今度は、耳打ちされた芙の顔色が一気に青ざめた。

「何だと……?」

「まことに御座います」

 が、早く戰や真に伝えて欲しい、と焦りの色を滲ませている部下を、芙は視線で諌めは。

「其れでは、失礼致します」

 学が部屋を出て行くのを、一同と共に礼拝をしつつ見送る芙には、少年王に知られてはならない、との配慮を感じる。慎重を期しての事だろう。それを見て、蔦もすらり、と席を立ち、二人の間に割って入るようにする。

 学は、一瞬、そんな彼らに訝しげな表情をしてみせたが、口にしては何も言わずに部屋をでた。

 明白に、ほっとした面持ちの芙が、蔦と、一言二言、言葉を交わす。

 すると、蔦も緊張に支配された顔ばせとなり、戰と真に向かって、お話が、と声をかけた。


「どうした?」

「西宮より、産屋の椿姫様へと、御使者殿が参られましたよしに御座いまする」

「西宮から?」

 戰と真は、顔を見合わせた。

 有り得ない事だ。

 というよりも、あってはならない事だ。

 皆の間に衝撃が走る。

 しかし、蔦が伝える言葉はさらに衝撃的だった。

「椿姫様に、()初孫ういまごを拝ませ給え、と辞儀なされましたるように御座いまする」

 蔦の言葉に、戰の眉が跳ね上がる。

「――何だと!?」

 思わず叫んだ戰の声が、怒りで震えている。


 ()とは読んで字の如く、我が子の子、つまりむまご、椿姫の子である皇子・しゅんに会わせて欲しいと申し出ているのだ。

 だが、自分と椿姫の間に生まれた皇子・星を、己の『初孫ういまご』とするとは!

 一族の長としてむまごを望むのであれば、それは現在、国王の地位に就いた学をおいて他にはいない。

 椿姫の御子は、戰の血筋、禍国帝室の流れを汲む皇子なのだ。

 それを。

「後主殿は、あくまでも学を己の血筋と認めぬつもりか」

 戰の声が低く轟く。

 もしも。

 後主・順がこの場にて自ら申し出ていたとすれば、戰に怒りのままに怒号を発した方が、まだまし(・・)と一目散に逃げ出すだろう。

 抑えているからこそ、戰の殺気は凄まじい。


「落ち着いて下さい、戰様。恐らくそれこそが相手の狙い目です」

「――何?」

「椿姫様のご気質からして、父親である後主殿下に頭を下げられては、星殿下を会わせずにはいられないでしょう。そしてそれ以上に、学陛下が、兄上であらせられる亡き王太子・覺殿下の御子ではない、と言われて黙っていられる訳がありません。何としても、学様とそして大宮おおいみや様を認めて頂こうと、後主殿下に面会をお許しになられる筈です」

 克が産毛の先まで赤くなりながら、怒りに鼻息を荒くしている。

「戰様、急ぎ、産屋にお戻り下さい。後主殿下と会われると、椿姫様が御使に申し出られる前に」

「当然だ」

「いえ、実は一つ、心配な事があるのです」

「何だ?」

「禍国側では、此度の学陛下の御即位は、全くの寝耳に水の事態でしょう。しかし、椿姫様の御懐妊は、流石に御出産まで至るとまでは想像できぬとも、全くの予想外ではないでしょう」

「……そうだな、確かに」

 相当に強引にではあるが、縁を結んだのだ。

 河国との戦より帰国して日は経ってはいないが、椿姫に戰の胤が宿らぬと予想せぬ方が、どうかしている。そして予想の範疇外ではないとしたら、何か手段を幾つか講じていなければ、おかしい。


「椿の懐妊を利用して、予め、後主殿を引っ張り出す算段をつけていた、ということか」

「はい、兄が西宮へと使いを出した深意とは、後主様を利用して椿姫を介して戰様に揺さぶりをかける事だったのです。戰様のご心情としては、椿姫様の嘆願なれば聞き入れたくなる。しかし、事に慎重を期さねば禍国側に付け入る隙を与えます」

 祭国は、禍国を宗主国として崇めてこそ成り立っている国だ。

 だからこその二王体制であり、郡王として戰が赴任している。

「そうだな。もしも面会を許したとして、その行為を星の血を禍国のものではなく、祭国の血筋であると強調するものだと捉えられでもしたら」


 誰ものとも知れぬ呻き声が、座を走る。

 戰が亡き父帝・景の服喪中の出産であれば、どうという事はない。

 御子が皇子であろうが姫君であろうが、関係なく祭国の血統に入る、其れだけの事だ。

 しかし此度、代帝・安の唯一の姫御子である染姫の嫁下の為だけに、喪開けを早めてしまった。表面上、禍国の血を引いているという訳でだけでなく、確実に禍国帝室の家系図に名が記載される皇子が誕生してしまった。

 禍国においては皇太子・天も二位の君・乱も、未だに嫡男たる継治の御子を得ていない。此処に、此れまで戦歴だけでなく祭国の統治においても一歩も二歩も抜きん出てきた戰に、後継の皇子という存在までもって帰国されたのでは、帝位継承権争に彼らの勝目は見えてこない。

 が、戰に御子を得られては禍国王城にて待つ者にとっても、正に難局危地なのだ。

 あってはならぬが故に、あった場合はどうにかして打開せねばならない。打開策を周到綿密に講じてこない方がおかしいだろう。


 だが、では具体的に、どうすれば良いというのか。

 一言でいえば、帝室の嫡嗣と成りうる者、即ち戰の御子を排斥すればよい。

 排斥するには、どうすればよいのか。

 簡単な事だ、擠陥せいかんすればよい。

 禍国に居る大令・兆は、学の存在を知らない。

 祭国の継治の御子は、戰の妃椿姫だた一人いちにんと思い込んでいる。

 嫁したが故になんとしても太子を欲した椿姫が、御子を禍国ではなく祭国の血筋と成し、戰もそれを許した。

 ――と、後主・順に証言させれば。

 戰と、そしてその妃である椿姫は、禍国帝室の血筋を軽んじた大罪人として罰せられる事となる。


「大令殿はお役目柄、それが可能です。それともう一つあります」

「――何だ?」

「此度のこの、赤斑瘡あかもがさの感染者ですが。大令殿が仕組んだとはいえ、羅患者は、本当に偶然にこの疫病を拾ったのだとお思いですか?」

「何? どういう意味だ、真」

「もしも、禍国出立の際に、既に羅患予定者として組み込まれていたとしたら?」

「どういう事だ?」

 禍国側がこの赤斑瘡あかもがさを広めようとしていたと、真自身が指摘したばかりなのに、この上何を? と言いたげだった。

 苦しげな息の下、真が頭を振る。

「戰様、鴻臚館にて姫と同時期に発病した患者ですが、何かお気づきになられませんでしたか?」

「と言うと?」

「当初、禍国よりここ祭国に至る旅程の間に発病した者は、虚海様の教え通りでした。羅患者と接触したと思しき者たちが、順繰りに発病していきました。部署が同じであるとか、寝食を共にする品位を同じくする者であるとか、です」

 確かに、薔姫が羅患する原因もととなった少年仕人は低い身分の者だ。

 が、最下層という訳でもない。

 しかし、最初に発見され伝えられてからの病の広まりを思い起こせば、じわり・じわり、と感染が広まっていく、不気味な感覚を覚えずにはいられない地位、そして年齢層にある。

「が、最後、一気に数が増えた患者たち。つまり姫と時を同じくして発症した彼らに、接点がありますか?」

「ないな」

 戰は即答する。

 一気に雪崩を起こすように発病した赤斑瘡あかもがさの患者たち、彼らの部署はばらばらだ。

 しかも、彼らの品官は、決して軽んじられるものではない。

 そして彼らは当然、全員、子供ではなく大人だった。

 同じ部屋で過ごしていたとしても、より年少者の方が羅患し易いこの病で、子供が一人も発症してない。

 明らかに、異常と言えた。


赤斑瘡あかもがさを広める為に、買われた……?」

「私も迂闊でした。時期を見計らい、絶妙適時で発病するよう感染したのでしょう。王城に出入りできる身分であれば、祭国内に感染を広げる事が可能です。後々の出世を約束されての事でしょう」

「……」

「兄の言葉を受け、戰様が禍国へ帰国を決定されたとします。此れまでの戦歴からして、強行軍を行えば戰様が大凡おおよそ何日で祭国から禍国に帰り着くかも、計算のうちだったのです」

 使節団と共に禍国王城に到着される頃には、戰が率いる御使の一行が赤斑瘡あかもがさを禍国に広める事になる。

 使節団が感染源と思われる事なく、病気を広められるとの計算ずくだったのだ。

 祭国の王室から先ず疫は発生し、そして広まり、遂には禍国へと持ち込まれる事となると。

「彼らはその証人となる、か」

「先程の、後主殿下の事もですが、兄が何処まで理解し把握しているかは別として、大令殿のまことの狙いはそれだったのです」


 此れならば、兵部尚書である真の父・優との共倒れを避けられる。

 先んじて、大令としての地位を大いに利用するのだ。

 郡王・戰が、懐妊した妃の子をこの禍国帝室の血統にではなく、祭国の血筋であると認める事により、祭国を己のただ一人の後盾としたのだと。

 郡王・戰が、死病である赤斑瘡あかもがさを禍国本土に広めた張本人であるとして断罪の俎上を上げさえすれば。

 兆は全てに勝利する。

 しかし兆も、戰の妃である椿姫が懐妊どころか出産を終え、更には右丞を捉え台獄に拘留し鴻臚館そのものの動きを閉鎖し、しかも関所という関を完全封鎖しにかかるとは思いもしなかったに違いない。

 故に。


「今、それは有効ではない」

「はい、しかし命懸けの契約に手を出すだけの者たちです。それ以外の何も策を授けられていないとは到底、思われません」

「つまり――」

「はい、事、此処に至っての動きに繋がったのだと思われます。羅患者を診療し快癒に導くまでの間は、当然、祭国の者が世話をします。そうなれば顔見知りとなります。そして今、25日間の閉門から油断が生じています」

「付け込む隙が出来る――か」

「動くとしたらこの時をおいて有り得ません。ですが、何度も申し上げますが、此れは完全に、兄とは全く別動かどうか、までは私にも」


 誰からともなく、走り出す。

 その中で一番脚が遅いのは当然、真だが、戰は歩調を合わせて走っていた。



 正直な話、戰には右丞・鷹に初めて謁見を許した時の動揺は、演技とは思えない。

 つまり、此度のこの仕儀は、何者かが後付けで授けた知恵に違いない。

 だとすれば、その何者か(・・・)とは、一体何者なのか? 顕要な者なのか、それとも。

 探りかけて戰はやめた。

 今は、目先のこの右丞・鷹と後主・順の暴挙を治める事が至要だ。

 戰は躓きかけた真の腕を取った。


 ――真が懸念してた事は、実は、此れ(・・)だったのか。

 右丞・鷹は、椿姫の懐妊について知ったとき、当初全く予想も想定もしていなかったが故に、狼狽を飛び越えて恐慌状態に陥った。

 あれは演技ではないだろう。

 であれば、此度のこの策の出処は、右丞自身ではありえない。鴻臚館の者が、密かに大令の私信を渡したに違いない。

 そうなれば、右丞の事だ。

 大令からの命令ならば間違いはないとばかりに、深い考えもなしに実行せよと命じたのだろう。右丞の此れまでをみていれば、最早、難局を己の力でのみ乗り越えようとは思うまい。

 必ず、責任転嫁ができる先を確保してからでなければ、動かないはずだ。


 ――右丞の性格からして、此れまで台獄で大人しくしていたものを、此処にきて動いた理由はそれ以外あるまい。


 何時だったか、二人で話し合っていた折に、真が何か考え込むようにしていた。

 尋ねても言葉を濁して答えなかったのは、何事も起こらねばそれでよい、と一人胸の内に秘めていたのだろう。


 ――右丞め。

 何処まで真を苦しめれば気が済む。

 何よりも真の気持ちに気が付けなかった己が許せず、戰は欠けよとばかりに、奥歯を噛み締める。



「急ぐぞ、真」

「はい、戰様。しかし、椿姫様の元へはどうか戰様が。私は兄の元に行きます」


「分かった。椿の性格ならば、既に自ら後主の説得を行おうとするだろう。どちらにしろ、最早、後主は捨て置けん。このまま西宮に行く」

「……有り得ます。では、克殿は鴻臚館を、杢殿は学陛下を頼みます」

「おお、任せておけ」

「はっ」


「それと芙は、兄が使いに出したという少年仕人の身柄を保護して下さい。蔦は産屋の守りを頼みます」

「お任せを」

「承知致して御座いまする」


 最初の分かれ道で、皆は其々の目的に向かって散って走った。



 ★★★



 当惑しきりのおかんなぎめかんなぎたちを尻目に、椿姫は西宮へ行く、と宣言した。

「お義理姉様ねえさま直ぐに戻ってまいりますから、どうかしゅんを見ていて下さい。」

「でも、椿」

 誰にも、特に戰と真に相談せずに決めて良いのだろうか、という逡巡を、常の椿姫なら持つ事だろう。しかし、事、父親である後主・順が絡むと、椿姫の視野は途端に狭くなる。

 思い詰め、即断し、そして譲らない頑固さがある。

 今や、苑の方が冷静さを保っていた。

「大丈夫です、直ぐに戻りますから」

 そう言って、腕の中ですやすやと寝息をたてている我が子を苑に託す。

 使者は産屋に入る事が叶わない為、仲介して言葉を伝えたほうりの方が、おろおろとしている。


 西宮からの使者の言葉は、暴言暴挙と言えた。

 女王として椿姫が認めた、兄・覺の継治の御子である学を無視したのだから。

 幾ら、王族の長としての肩書と責と任を剥奪されたとはいえ、いやだからこそ、後主・順の言動は決して許されるものではない。


 ――お父様、どうして……。

 大王王の尊号を剥し西宮に送る時、父・順は苑を疑い学の胤を危ぶんだ。

 しかしそれは、言葉のあや(・・)だと思っていた。いや、思いたかった。

 ――分かって貰わなければ。私の言葉を信じて、学とお義理姉様ねえさまを受け入れて貰わなければ。

 苑が、兄王子・覺の承衣の君であり、学は紛れもなくこの祭国を継ぐべくして継いだ御子、国王なのだと認めて貰わなければ。

 でなければ、兄も、苑も、学も。

 誰より父・順自身の人生が、あんまりにも悲し過ぎるし、寂しすぎるではないか。

「待っていて下さい、お義理姉様。お父様の無礼は、必ず諌めて参りますから」

「……椿」

 自分たちはどうでもいい、椿の方こそまだ体調が万全でないのに無茶をしてはいけない、と言いかける苑に、椿姫は抱きついた。

「直ぐ戻ります」

 散々傷つけられてばかりいる苑の尊厳の為にと無理をおしている義理の妹の気持ちが分かるだけに、苑は二の句がつげなかった。



 苑は流石に、共の者に殿侍を連れて行くように、とするのは譲らなかった。

 禰宜ねぎほうりたちでは、椿姫が突然倒れでもした時、迅速に対応出来ない。

 乳の出が良すぎて熱を出すだけでなく、懐妊中の徹底的に節制された生活で、椿姫の体力は想像以上に奪われている、と苑は常日頃危ぶんでいた。

「此れだけは、私の云う事を聞き入れて」

 苑に縋られて、椿姫は素直に頷いた。

 確かに、懐妊中からずっと横になっていた自分には、体力がない。

 しゅんを出産した時、初産では考えられぬ速度で進んだ出産だったが、今となってはそれが幸いしたのだと実感できる。もしも長引いていたら、息子・しゅんの身体の大きさからして、果たして耐えられたかどうか。自分でも怖くなる。

 それに、産褥からの回復は順調ではあるが、まだ長く起きてはいられないのだ。

 隠してはいるが、意識を混濁させるまでとはいかなくとも、ともすれば、ふ、と気を失いかける時が何度もあった。乳が余って起こる熱のせいかと思っていたが、明らかに血が足りず、身体が弱っている。

「では、お義理姉様、行ってまいります」

「……椿」

 皇子様が待っているのですから、なるべく早く帰っていらっしゃい、という苑の言葉には、だが椿姫は答えなかった。



 待たせていた父の御使と共に、椿姫は産屋を出た。

 ゆっくりと歩む。秋風が、心地良くなっていた。あれ程蒸した台風が過ぎ去れば、こんな爽やかな秋を連れて置いていくのだと思うと、何か可笑しくなる。


 紅蜻蛉が、群れとなって舞っている。

 鱗雲が棚引く青空を見上げながら、椿姫は微笑みかけたが、直ぐに表情を引き締めた。


 仕来りを破ってまで、父の元に行くと決めたのだ。

 ――何としても、お父様に、学とお義理姉様を認めて頂かなくては。


 王城の敷地内の最も西の外れに位置する西宮まで、それからの椿姫は、固く決意を込めた表情で歩いて行った。



 ★★★



 戻ってきた舎人に、娘の椿姫自らが此方に向かっていると聞き及び、後主・順は喜びのあまり、手にしていた瓶子を危うく取り落とすところだった。


「そうかそうか、あれの元に椿がやって来るか。何という親孝行な娘であろうぞ、のう、椿よ」

 贅肉のついた背中を丸めながら、後主・順はうへうへと含み笑いをした。

 大上王として一応の権威を与えられていた時と違い、後主として西宮に送られた順は、ありったけの罵詈雑言と呪詛の言葉を、娘である椿姫とその良人おっととなった戰、そして顔も知らぬ、王太孫である学に吐きまくった。

 事ある毎に脱走を企てた。端女に、身分を回復してやるとまで言いよった。

 だが、彼の監視役を担った杢とそして世話役となった蔦の采配により、十日もせぬうちに大人しくなった。監視の手は縦横無隅に張り巡らされており、蟻の子一匹抜け出る隙間もない。しかし、じっとさえしていれば、此れまで味わったことのない美味と珍味が届けられ酒までも振舞われた。簡素質素を心がけねばならぬ西宮であるのに、まるで竜宮ではと紛うばかりだ。

 ――責任を負わずして楽しめるのであれば、地位など要らぬぞよ。

 苦楽の『苦』は婿殿と学とやらのもの、そしてその成果を味わう『楽』は吾のものぞよ。

 自覚したら、後は坂道を転がるよりも早い。

 ほくほくと頬を緩めて、後主・順は不摂生かつ怠惰な生活に没入していった。

 この男は本当に椿姫の父なのか、学の祖父なのか、と目を覆いたく成る程に。



 だらしなく半開きになった唇の端から、酒混じりの涎が糸となって流れていく。最早、遠慮のなくなっている舎人は、この行為が不敬であるとも既に思っていないのだろう、明白に顔を顰める。

 一刻もせぬ間に、椿姫の来訪を告げる言葉を伝える為に再び順の元を訪れた舎人は、彼が衣服を乱して酒を飲み狂っている処に出くわした。己の仕事を忘れて呆然と立ち竦む舎人の存在に気が付いた順は、奇声を発しながら彼を押しのけて部屋を飛び出していく。


「椿、椿ぞ!? あれは此処に、父は此処におるぞ」

 哮りながら、順はあられもない姿を晒して廊下を走る。

 何処からか微かに、椿姫の声で、お父様! と呼び慕ってくるのを耳が捉える。

 もう止まらない。

 順は、酒に縺れる足のせいで何度も転んびながら、廊下を走った。

「おお! 椿、椿! あれは、父はここぞ、ここぞ!」

 長い廊下の端に、ぽつり、と姿を現したのは、確かに娘である椿姫だった。

「おお、椿!」

「……お父様……? お父様!」

 椿姫も順の存在に気が付いたのだろう。

 父を呼び叫ぶ声は、涙に湿っている。

 何方からともなく走り出し、そして遂に、数十ヶ月ぶりに親子の手が触れ合う。

「お父様……あ、あぁ……お父様……」

「椿、椿や、さあ、吾にもそっとよう、その可愛い顔をみせて欲しいぞよ」

 それ以外言葉を知らぬ頑是無い女童のように、椿姫ははらはらと涙を流して父・順の腕の中に飛び込んだ。

「椿、椿、御子が生まれたのだそうな? 父の住まうこの西宮にも、皇子誕生を告ぐる大太鼓の音は聞こえたぞよ。ようやったぞよ、しかも安産、ようやったぞ」

「ええ、ええ、有難う御座います、お父様」


 順の腕に抱かれる椿姫の瞳には、喜びしかない。

 矢張、父も人の子の親だった。

 ――私と戰の間に無事に生まれてきた星を、こんなにも祝福して下さるなんて。

 だから、今度は学とお義理姉様の番……。

 心を尽くして話し合えば、きっと解ってくれる筈よ。

「のう、椿」

「はい?」

「椿の産んだ御子であるがの……ちと、心配な事があるぞよ」

「何が、心配なのでしょう? お父様もご存知のように安産でしたわ。御子も、元気ですし、良く乳も飲んでくれますわ。私の乳も足りていますし、世話をして呉れる乳母たちにも懐いてくれて、本当に良い子です」

「おお、乳を良く飲むとな。元気なのは良いことぞ。覺や椿の幼き日を思い出すぞよ」

「お父様……」

 喩え、母となった身であっても、いや親となる苦労を知った今だからこそ、自身の親に褒められるのは嬉しいものだ。

 それが、血の繋がりのある親・子・孫、となるものであれば尚の事だ。

 国王として王族として、先ず人として。

 悪し様に言われ放題の父ではあるが、最後の最後、自分の父、息子の祖父としては間違えてはいないのだ、と思うと椿姫は自然と泣けてきた。彼女に従ってきた殿侍たちも、この嫋かな容貌と心根にそぐわぬ、苦難の道ばかりを歩んできた椿姫が、漸く此処に来て血族に恵まれてきたのだと、感慨深げに吐息を漏らした。



 ――が。

 ひとり、奇妙に浮かれている後主・順が、にたり、と口元を歪ませた。


「だがの椿」

「……はい?」

「心配なのは、御子の、その胤ぞ」

「……え?」


「吾には分かっておる、よう分かっておるぞ。のう、椿。苦しい胸の内を、父に曝け出してみると良いぞ? さすれば、つかえ(・・・)がとれようぞ? ん?」

「……お、お父様……? ……あの、なにを、仰って、おられるの……?」


 父・順は一体何を言おうとしているのだろう?

 強い恐怖心が、椿姫を襲う。

 父・順の腕から逃れ、顔をしっかと見上げようとした椿姫は、突然、強い目眩に襲われた。

 ぐらり、と視界が傾ぐ。

 いや、というよりも唸りをあげて回転する。

 まるで、濁流に飲まれた様な異様な喪失感と浮遊感に襲われる。


 ――……あっ……。

 息継ぎをするように、短く息を吐く。

 懐妊中から産後に至るまで、制限された生活を送っていたのに無理を押して産屋から西宮までを歩を強めて出向いてきた無理が祟り、強い貧血が起こったのである。

 そのまま急速に椿姫の視界は揺らぎ、霞んで前のめりに頽れていく。昏倒しかける椿姫を、酒で砕けた腰つきながらも順はなんとか支え切った。

 にたにたと嗤う後主・順の元に、表情を引き締めた殿侍たちが駆け寄ろうとする。


 其処へ。

 ひゅぅん!


 何かが空を切る音がした、と殿侍たちが認めると同時に、硬い床に、ビン! と飛んできた矢が突き刺さった。



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