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覇王の走狗(いぬ) ~皇華走狗伝 星無き少年と宿命の覇王~  作者: 喜多村やすは@KEY
六ノ戦 落花流水

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14 後主・順 その1

14後主・順 その1



 椿姫の、他火たびじきに終わる。

 他火、とは産褥期にあたる女性を穢と見ることから始まった風習だ。

 彼女自身とまた彼女が属する一門を穢より護る為、食事や湯浴みなど、日常生活で使用する火の元を別にして暮す事を指す。

 だから、産屋に留まる期間であると思えば良い。

 穢から一門を護る、と云うと、出産直後の女性を悪し様に見るのかと思われがちであるが、悪露おろをはじめ、肥立ちを良くし母子の健康を守る必然から生まれた仕来りであるのだから、そんな目角を立てるものではない。

 しかし、戰にとっては実に煮え湯を飲まされ続ける、苦々しいばかりの仕来りであった。



 ★★★



 しゅんを腕に抱いてあやしていた戰は、それまで健やかな寝息をたてていた息子が急にむずがり出しても、慌てず騒がず、母親である椿姫に我が子を譲る程、父親としての姿が堂に入ってきていた。

 微笑みなら星を戰の腕から受け取った椿姫は、寝台に座ると胸元の襟を緩めにかかった。息子の方は、甘い乳の香りに引き寄せられたのか、むずがりながらも期待に小鼻を膨らませつつ、首を振って待ち構えている。

 息子の現金さに笑いつつ、戰は椿姫の隣に腰を下ろす。そうこうするうちに乳首に吸い付いた星は機嫌を取り戻して、んっ、んっ、と景気よく乳を吸っている。

 ――これでやっと、親子三人で暮らせるのか。

 此れまでの、仕来りによって規制されまくっていた面会ももう終わる。だが、戰にも、そして椿姫の顔ばせにも、歓びの色は薄い。

 逆に、憂いの影が濃い。

 入れ替わるように、戰が禍国に戻らねばならないからだ。

 ――心行くまで抱き、世話をしてやり、共に寝、可愛がってやれると思っていたのだがな……。

 額に汗すらかいて乳を飲む我が子の懸命さを微笑ましく思いながら、手を伸ばす。しっとりと張り付いてくる星の前髪の色が、自分に似て深い鼈甲色をしているのが、戰の密かな自慢だった。


「……どうにも、私たちはこの祭国に来てからというもの、すれ違ってばかりだな」

 母親から、たっぷりと乳と愛情を与えられて満足したのだろう。

 唇をちくちくと動かしながら寝入っていった息子・しゅんの額を撫でながら、戰は自嘲気味に笑う。どんな表情をしてもどうにもならないのなら、せめて笑おうか、というような、明白に取って付けた曖昧な笑みだ。

 対する椿姫も、どうしていいものか、何かを思い詰めた表情をしている。

「どうした?」

「……いえ、何でもないの……」

 他火が終わりに近づくにつれて、椿姫が思い悩んで苦しげにしている様子なのが、戰には気になっていた。乳が出過ぎての熱は、今でもたまに彼女を苦しめる。しかし、隠しだてしていない以上、そのせいではないだろう。

 ――他に一体何が、此処まで椿を悩ませている?

 椿、と声をかけ、背後から腕を回して息子ごと椿姫を抱きしめる。抱きしめられるままに、椿姫は身体を横に傾けてきた。戰の広く分厚い胸に身を預けきると、椿姫は瞳を閉じた。

 長く伸びた妃の前髪に口付けを落としながら、戰は言葉を選びながら慎重に声を掛ける。


「椿」

「なあに……?」

「私が禍国に戻るまでの間に、後主殿と、星を、会わせたいのだろう?」

 閉じられていた椿姫のが、此れでもか、という程に大きく見開かれる。

「戰……!?」

「私はお前の良人おっとだぞ? 何か、悩んでいる事に気が付かないとでも思っているのか? そして今の椿に何か悩み事があると知れば、父親である後主殿の事くらいなものだろう?」 

「……そうね」

 椿姫の実父でありながら、西宮に蟄居閉門を申し付けられている後主・順。

 彼は、息子の子である学に会ったことすらなく、そして今また、娘である椿姫が子を授かったというのに面会を求める権限すらない。

 

「いけない、かしら……?」

 戰に、救いを求めるように椿姫は見上げてくる。

 縋ってくる愛しい妃に、「駄目だ」と答える事は簡単だ。

 嘗て、後主・順が国王の座に就いていた時代。

 そして大上王となった後にも。

 椿姫は父親である後主・順に此れが本当に親か!? と疑いの目を向けたくなる程の扱いを受けてきた。

 見限り、捨てた処で誰も何も言いはすまい。

 いや。

 率直に言えば、あんな男を未だに父として慕い、大切に懐っているのだと知り、戰は胸中のむかつきを抑えられない。


 ――かの御仁の為に戦が起こり、何れ程の犠牲が出たのか。

 椿も、苑殿も、学も、傷めずともよい胸を痛めてきたのだ。


 椿姫の腕の中で、健やかな寝息をたてる息子の顔を覗き込む。

 髪の色だけではない。顔立ちも何もかも、益々自分に似てきた。

 瓜二つだ、と皆が誉めそやしてくれる。

 実際、自分でもそうだろう、と堂々と自惚れている。

 ――皇子・星の中に祭国の血筋をみつけようとするのであれば、それは母親である椿のものだけだ。

 後主・順などに付け入らせてたまるか、という気持ちが沸き起こる。

 父親になった今、椿姫と我が子を守るのは自分だという自負と自覚、そして誇りが一気爆発的に育った自分からすれば、後主・順は到底、椿姫の父親などと認めてやれない、やりたくもない。


 以前は、此処まで思わなかった。

 しようのない御仁は何処にでもいる、それがたまたま、愛する妃の親だった。

 仕方が無い――そんな、認識だった。

 しかし、西宮に下がってからというもの、只管酒膳に溺れた膿んだ生活を続けて改めようとしない。むしろ、責任を放棄したからこそ、誰にも咎められぬとばかりに爛れ乱れた生活に没入している。

 ――そしてそれを椿は後ろめたさから止められず、悪利用して増悪の一途を辿っている。

 昼夜逆転は勿論の事、此処が祭国で幸いであったのは、王都に妓館がない事だろう。もしも抱えの宮妓があれば、死ぬまで乱れているに違いない。


「戰……」

 戰の方から話題をふられたのを良い事に、椿姫は縋ってくる。

 ――幾ら裏切られても、許してしまうのか。

 どうして親だというだけで、此処まで 無条件に愛せるのだろう?

 肉親の情愛が薄く育った自分には、到底、理解できない境地なのだろうか?

 いや、義理妹いもうととなった薔姫や義理母となって庇護してくれた蓮才人には、肉親としての熱い思いがある。妃となった椿や産まれたばかりのしゅんに対する想いは、誰にも負けないし譲る気もない。

 ――後主殿は椿をそんな風に思った事すらないだろうに。

 自分は、後主殿が椿の父親という血の事実のみに、虚しく負けてしまうのか?

 戰は寂しく思いながら、腕の中の椿姫を抱きしめた。

 


 ★★★



 日に一度、あるかあなしの僅かばかりの、貴重な大切な対面の時間であるというのに。

 どうにもならない、どうしようない義父の話題で潰れてしまった事を疎ましく苦々しく思いながら、戰は王城に戻った。


「お早う御座います。戰様、どうかなされましたか?」

 部屋に入ると、真が待ち構えていた。

 挨拶もそこそこに、心配げな声で尋ねてくる。

「お早う、真。うん、少しね。後で話すよ」

 ――それだけ、憂いが表に出てしまっている、という事か。

 苦笑しつつ机に向かうと、克や杢、芙たちが挨拶と共に礼拝を捧げてきた。

「真、薔の容態はどうだい? また、咳が出始めたと聞いて心配しているのだが……」

「有難う御座います。ええ、昨日、虚海様に診て頂きまして。薬を飲んで大人しくしていれば、この先天気が沈んでも大事には至らないだろう、と言われました」

「そうか、良かった。それで、今日は?」

「はい、のんびり家で待っている、と言って」

「ほう?」

「縁側で陽に当たりながら、母と一緒に、つしだまであいのお手玉を作っていますよ」


 そうか、と嬉しそうにしている戰に、はい、と真も笑顔で返す。

 確かに今日の薔姫は、昨日までのぐずぐずと我儘を言い続け、真に纏わりついてきていた彼女とは、別人のようだった。

 逆に真が、支度を済ませて、行ってきます、と声を掛けても誰も玄関にまで出てこない。

 不思議に思い、薔姫の部屋を覗きに行ってみた。すると幼いさいは、母・こうと二人、色取り取りの端切を用意してなにやらわいわいと賑わしくしていた。娃は此方の色目が好きだから、とか、いや此方の組み合わせの方が可愛いとなどと、夢中になっている。一体自分の存在にいつ気が付くだろうか、と、じっ・と様子を伺っていたが、一向に振り向く気配がない。

 かなり長くその場に佇んでいたら、急に此方をみた薔姫に呆れ口調で、あら我が君、まだいたの? と言われてしまった。

「はあ。此れから城に行ってまいります。母上、姫はまだ本調子ではないので、あまり無理させないようにして下さい」

「分かっておりますよ、真、母に向かってなんですか。心配のし過ぎです」

「大丈夫よ、我が君。咳が出たら直ぐに横になるわ」

「さ、真。何をぐずぐずしてしておいでなのです? 急がないと遅れてしまいますよ?」

「はあ……。では、娃。兄はもう行きますよ? 挨拶はしてくれないのですか?」

「にー、らっちゃい」

 綺麗な端切に夢中の娃は、真の方を見向きもせずに、適当過ぎる程適当にひらひらと手を振る。

「娃……せめて、ちゃんと兄の方を向いて『らっちゃい』してくれませんかね?」

 切なげな真の声に、明白に面倒臭そうに振り返った娃は、に~、らっちゃぁ~い、と小さな紅葉のような手を振った。

 肩を落としつつ嘆息する真に、くすくす笑いながらも薔姫は立ち上がって、行きましょう? と促してきた。だが、手荷物をもっていつものように三和土たたきまで見送りに来てはくれたが、薔姫は直ぐにいそいそと奥へと引っ込んでしまった。

 疎外感というか、仲間外れ感というか、微妙過ぎる微妙な気持ちは拭えない。

 何となく気づつな気持ちのまま城に出仕してきたのだ、という事実はこれまた微妙に悔しいので、戰には黙っていたが。

 しかし、それで良いのだと思う。

 我儘を言う幼いさいは可愛いが、最近の彼女のそれは子供らしさからの発露のものではない。どうにも必死すぎて、切なくなる。

 ――大切な人には、笑顔でいて欲しい。

 それは自分勝手な望みであると知っていても、偽らざる本心だ。

 そんな真の胸中を知ってか知らずか、戰が手にした木簡を広げつつ嬉しげに頬を緩めた。

「しかし……珍しい、というより、怖いな、聞き分けのいい薔というのは」

「ですね。何か、昨日施薬院から帰ってきてからと言うもの、やたらと機嫌が良いのです」 

 庭先の空に飛ぶ鳥を見上げては、にこにこしている幼い妻の顔は、上機嫌そのものだった。

「……まあ、機嫌よくしているのは良い事だ」

「ですね、はい、そう思います」

 躍けて返す真だったが、再び物憂げに沈んでいく戰の眼光に気がついていた。



 ★★★



 学が蔦に誘われて部屋にやってくるのを待って、改めて、真が口を開いた。

「戰様」

「何だい、真」

「何か、心配事でもおありですか?」

「……うん、実は、椿から相談を受けてね」

「椿姫様から?」

 本来であれば、他火を終えて共に城で暮らせるとなる日を控えて、浮かれて良いものであろうに。戰の声音は、悩みと憂いに暗く沈んでいる。

 聞きながら、部屋の隅で薬缶を傾け椀に麦湯を注いでいた蔦が、瞳の端を、きらりと光らせた。盆に椀をのせ、配りつつ杢と芙に目配せする。


「姫様におかれましては、何か、心配事でもお有りで御座りまするか?」

「ああ、それがね」

 伏せ目がちにしながら麦湯の椀を受け取り、戰は、先程の椿姫の望みを真たちに伝えた。

「どう思う?」

 逆に、椿姫様を思い止まらせる為、遺憾無く申し立てて欲しい、と言わんばかりの表情ですね、と思いつつ、真は率直に言葉を返した。

「お薦めは出来ませんね」

「陛下、お許しになることなぞ、あらしゃりまへん!」

 静かに反対意見を口にする真に対して、強く荒らげた口調で咎めたのは意外にも蔦だった。皆が一様に驚きつつ一斉に振り返ると、蔦は鼻息も荒く、手にしていた盆を机にの上に戻した。カン! と乾いた高い音が鳴り響く。


「真も――蔦、も。何か、思う処があるようだが?」

「あい、陛下、何卒よろしゅうお聞き届けくらしゃりませ」

 珍しく興奮気味に食って掛かる蔦に、いいですから、と真が苦笑しつつ制した。

「戰様、お許しになっても良いですが、それには条件が伴います」

「と、言うと?」

「今直ぐに、お許しになられてはいけません。戰様が、禍国よりお戻りになられてからに、なさって下さい」

「それは、何故だ?」

「恐らく、私の兄・右丞が後主・順殿下と互いに何かを目論んでおられる、と推察されるからです」

 真の言葉に、戰が眉根を寄せた。

 そして、蔦、杢、芙が其々、顔を見合わせた。



 ★★★



「どういう事だ、真」

「兄の性格からして、今の状況に耐えられる筈がありませんので。直接に椿姫様に執り成して頂く道が絶たれたとして、このまま簡単に引き下がれば禍国でどの様な目に遭うかは必定ですから、諦める訳が無いのです。そして大令となった兆殿は、そんな兄だからこそ起用したのです」

「右丞は、西宮で蟄居閉門で鬱屈している後主殿を利用して、椿を説得させようと? 椿の親思いを利用して?」

「はい」

「そして、禍国にいる大令・兆はそうなると目論んでいるのだな?」

 戰の鋭い眼光に、真は怯む事なく頷いてみせた。ただ、伏せ目がちにはしている。

「先程の皆さんの反応から、蔦、それに杢殿。兄を泳がせて、様子見をされておられましたね?」

「その通りだ」

 隠しだてしても詮無きこと、と杢はあっさりと認めた。

「兄の目的は、私の読み通りでしたでしょうか?」

「いや、それが、使いに立った仕人が、意外と出来る子供でな。筆談で事を伝えた上に、その竹簡を燃して証拠を残さなかったのだ」

「そうですか……」

 軽く握り拳を作って、真は口元にその手の甲を当てる。

 考え込みかける真を、戰が現実に引き戻した。

「真」

「はい?」

「こうなる道筋まで、見越していたな?」

 自嘲気味に、真が笑う。それは、全てを肯定していた。

「喩え、半分しか血を同じくしておらずとも、同族の兄ですので」

 戰は嘆息すると、真に真っ直ぐに向かって座り直した。


「それで、真」

「はい、戰様」

「禍国に居る大令が、右丞のこの失態を使って何を企んでいるのか、分かるかい?」

大凡おおよそ、ですが」

 真が懐から、ごそごそと何かを取り出してきた。よく見れば、以前、謁見中の鷹の言葉を書き記した木簡だった。

「此度のこの赤斑瘡あかもがさの流行ですが、禍国からここ祭国に至るまでの日数を見、使節団到着と共に爆発的に感染するように仕向けられたのは、恐らく大令殿でしょう」

「――矢張、大令だと思うかい?」

 はい、真は頷く。


「大令殿は兄が成功するなどと、微塵も考えておられないでしょう。寧ろ、大いに失態を犯して欲しいと狙っていた筈です。禍国に本国において、最も戰様の身内として力を発揮しているのは、私の父です。しかし、武勲もあれば部下の信頼もあつい父を追い落とすのは、容易ではありません」

「この祭国に私が下る際に、兵部尚書が起こした騒ぎがあるからな」

 あの時、刑部省、吏部省、戸部省と六部省の内半数以上が兵部尚書である優の側に組みした。明け透けな助平心というか、より長いものに巻かれた結果ではあるが。

「はい、表面的にはどうであれ、戰様の御武勲が此処まで高まった今、他の尚書も最早何処の味方に付くべきか否かと腹の探り合いはしないでしょう。寧ろ、我先に身内とならんと手を挙げてくる事でしょう」

「其れで、出世欲の塊のような右丞殿を利用した、と?」

 克の質問に、真は直接には答えなかった。ただ、肩を竦める事で「是」と答えてみせる。

「禍国本土に置いて、今、最も勢力を持つのは、二位の君である乱殿下と大令・兆殿を中心とした一派でしょう。皇太子・天殿下の後ろ盾であった大保・じゅ殿が皇女・染姫様を娶られ政治的発言権を失い、大司徒・じゅう殿が長らくの忠誠を捨て皇太子殿下の御元より離反されていますから。今や王宮内は、大令・兆殿と我が父・兵部尚書との二大勢力下に支配されている、と見做して良いでしょう」

 雨上・鷹がべらべら臆面もなく漏らした情報と、時が禍国から流して呉れた情報が、そう物語っている。


 突然、うう、と呻きながら、克は腕を組んで天井を見上げた。

 だんだんと、話題に頭がついていかなくなってきて、眠気を催しているらしい。徐々に、目が、糸のように細くなってきている。真はそんな克を見て、相変わらずですね、と笑いながら続ける。

「しかし間違えてはいけないのは、兵部尚書である父の勢力を我が物とする権限を、代帝・安陛下より得ているのは、この私です」

 あっ、と克は目を剥いた。

 どうやら、すっかり忘れていたらしい。一気に目覚めた勢いで身を乗り出す。

「先制攻撃のつもりでいるわけか? 右丞殿が失態を犯したと禍国に伝われば、兵部尚書様も責を問われる。兵部尚書様が拘束されれば、真殿が禍国にて使える勢力を削がれる。己の主人あるじである二位の君・乱殿下を盛り立てん、と、そう言う事か?」

「それのみで、終わりにならしゃりませんえ? 右丞が此処、祭国にて失態を犯しゃりませば、ご兄弟であらしゃる真様のお立場も、危のぅならしゃる。たとい、陛下が真様をお許しならしゃっても、周りのもんが許しゃらん。追い落としにかかっしゃる筈や、と期待してあらしゃるのえ? 真様とうちらが気ずつのうなれとほくそ笑んで。この粘着しぃ、昨日きにょう今日きょうの恨み辛みやあらしゃりませんえ?」

 克が腕を組み、顔を顰めながら唸る。

「右丞の脳足りんが失態を犯すのは奴の勝手だが……。真殿に罪はない、と我々が思うとは露ほども考えておらんのだな」

 珍しく怒りに声を煮え滾らせている蔦に当てられてか、杢も顔を怒りで赤らめ始め、冴え冴えとさせている。

 克などは、湯掻いた蛸のように全身を真っ赤に染まっている。

 戰に仕える自分たちとて彼らと同じだと、右丞や大令のように出世欲と我欲に塗れた存在だと。真を妬み嫉み、追い落とそうと虎視眈々と睨めつけ狙っている同類であると思われているのだと知り、激情家の克は、脳天から湯気が立ちそうな程、怒りに震えている。

 いや、芙も、通や類も、そして学も、同様だった。

 しかし、真は何処までも落ち着いた態度を崩さない。


「既に大令殿は、私に何度も煮え湯を飲まされ、奇策を弄してくる油断ならぬ奴だと目をつけておいででしょう。此度、使者の言葉を受け禍国に戰様が戻られる、つまり、何を為出かすか分からない危険人物である私も共に戻る。ですが、大令殿は禍国に居る以上、私に直接の手出しはできない。ならば父の勢力を刮げ落とすと同時に、祭国にても私が自由に動ける範囲を狭めてしまうのが、大令殿には最も確実、且つ、手っ取り早い策なのですよ」


「真」

「はい、戰様」

「大令の目論見は、禍国においては成功しているかもしれないが、此処祭国においては外れている。其処に我々は付け入る事が出来るのではないか?」

「はい」

 真は、手の内で弄んでいた木簡を机の真ん中に置いた。ことり、と小さな音が鳴る。

「大令殿は、兄がこの木簡に署名している事も知りません。帰国後、必ずやこの木簡は役に立つ筈です」

 書かれている内容を、すっかりと忘れていたのだろう。

 おお、そうだ、その木簡もあったな! と克が両手を挙げて叩きつつ、叫び声を上げる。

「克殿」

「んん? 何だ、蔦殿」

「珊に、似てはらしゃりましたなあ」

 蔦が、袖口で口元を隠してころころと笑う。

 いやあ、そうか? と頬に出来た笑窪を弄りながら克も苦笑いすると、どっと囃したてるような笑い声が上がった。



 共に笑いを上げながら、真は小さく、心の内で呟いた。


 ――さて、それはどうでしょうか?


 敵が、大令が、真実に望んでいるのは、果たして本当に二位の君の立志のみ、なのだろうか?

 此度の兄の抜擢は、全て、兵部尚書である父を追い落とす為なのだろうか?

 右丞である兄が失態を犯せば、直接の上官である大令とて罪を問われるのだ。

 この時期に、そんな危険性を被ってまで大令・じょうが動くとは考え難い。

 


 ――何か、別方向から仕掛けて来る筈です。



 そして。

 大令・兆のまことの目的とは、何なのか。


 真にはまだ、見えて来なかった。




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