12 男と女 その3
12 男と女 その3
商人・時が禍国王都にて構える商館は、表向きは数多の多趣多様な商品を取引する問屋と、併設した店を構えている。
顧客が欲しいと望んだ商品は、何処よりも早く依頼主に届ける。
喩え、呼び出しが夜中であろうと明け方であろうと、何処よりも早く駆けつける。
そして取り扱う商品は実に多岐に渡り、武具一式から祭事用品、そう大貴族の嫁入り道具や衣装から、幼児の襁褓や玩具、葬儀関連に至るまで、ありとあらゆる品がこの商館一つに寄りさえすれば、揃えが効く。
この品揃えの豊富が、何よりの自慢だ。
王宮に下ろす品以外は、自分が商売のイロハを叩き込んだ、正に身内といえる手代に、其々の得意分野たる商品や仕事を任せていく。任せたからには、ほぼ一切時は口を挟まず、好きにさせる。頼られた場合においてのみ最終判断を下す、という気風と気前のよさも手伝い、表向きの規模は大きくなくとも、彼を慕って自らその傘下に組みしようとする商人たちも多い。
特にこの数年は、祭国郡王となった皇子・戰と兵部尚書にして宰相・優が懇意贔屓にしている商人として、認知されつつある。
勢いは日の出の如し。
であるから当然、敵も多い。
特に雑多な生業に手を出すのは外道とする、専任専売を常道としてきた大商人の商館とは、一触即発の処まで来ていた。
だが、時は商売の可能性に対して、臆する事は決してしない。
表向きの裏に回れば、時は、人気の芸妓を幾人も抱えた妓館を支援していた。店を贔屓にするのではなく、実際に運営資金をまわしているのだ。
妓館の管理は固く国が管理するもの、とされている此処禍国において言えば、これは時自身も、妓館の主人も、相当な度胸の良さと言える。
しかし、時の情報の多くはこの妓館で得られていた。
★★★
時の店に寄った優は、少々お時間を頂きたく、と顔なじみの奉公人に案内されてと妓館に回された。時が関与している妓館だと知られぬよう、あくまでも、馴染み贔屓の妓館であると思わせねばならない為の儀式だった。
よく間違われるが、妓館と娼館、芸妓と娼妓は似て非なるものだ。
妓館は妓楼とも呼ばれ、芸妓と呼ばれる女たちは此処に属する。
娼館が抱えるのは娼妓と呼ばれる女たち、いわゆる春を鬻ぐ事のみを生業とする者たちだ。
妓館に暮らし雇われている女たちは様々な技芸、即ち、歌唱・詩歌・演舞・雅楽・即興画・華道・香道・刺繍・囲碁将棋打ち・料理に至るまで、ありとあらゆる技術を徹底して身に付けさせられる。
彼女らが持つその芸の奥深さは、一国の姫が身に付けるべきものと遜色なし、と讃えられる程だ。
彼女らは、正に選び抜かれた、精鋭の学芸集団なのだ。
己の雅な芸一本で身を立て、しかも国の学芸の歴史を伝える一端を担っているという、強い自尊心を抱いている。教坊と呼ばれる鍛錬所にて、彼女たちは皆、幼い頃より厳しい訓練を重ねに重ねてきている。
厳しさに見事に耐え抜いた者だけが、名乗る事を許される。
それが芸妓だ。
故に、店の頂点にたつ芸妓は、敬意を込めて『御職』と呼ばれる。
職位として最も尊ばれるのが、王宮に出入りし妃たちの眼前で腕前を披露する、宮妓。
以前、珊がしたように軍に従い神前に祈りを捧げる遊女の役を担う、営妓。
そして妓楼に訪れた客や、貴族たちの館に招かれ宴などで技を披露する、官妓と続く。
それぞれ厳密に格付けされており、女たちが目指すのは無論、皇帝に目通りさえ叶う宮妓である。
故に彼女らは、世間が思い描いているような、申し訳程度の芸を披露して科を作って機嫌をとり、ただ金を積まれるままに春を売る娼妓と同一視されることを心底嫌い、怒り狂う。
自分たちは、そんな浅ましい行いは決してしない。
閨入り同衾すら、相手が気に入らねば己の意思で蹴る。
相手が無理無体を働けば、逆に金をぶちまけて帰れと命ずる高い矜持を有している。
自分たちが売るのは閨における奥義ではなく、あくまでも磨きぬかれた『芸』。
自負を抱いて自立する女たち、それが芸妓だ。
だが、その区別を、民間の女は殆ど知らない。
だから夫君が妓館に向かうと知るやいなや、悋気に狂って暴れまわるのである。
「お久しぶりに御座いますなあ」
ほぅ、ほぅ、と梟の鳴き声のような笑い声を時がたてる。
鰻の触覚のような髭を弄りながら、一人、顰面の手酌しで苦い酒を呑む優の前に躙り寄った。
優の傍らには、女主が侍っている。が、薄らと微笑むだけで優の好きにさせている。時が優の前に座り平伏して挨拶をすると、女たちは女主の目配せ一つで、気配を感じさせる事なく静かに座をたち、部屋を下がっていった。
決して諂わぬ、しかし分を弁え男を立てる。
それが芸妓の誇りと手管だと言わんばかりだ。
「何か御座いましたでしょうかな」
つるり、と顔を撫で下ろしながら、時が優の渋面を笑う。
うぬ、と呻きながら優は酒を不味そうに煽った。かん、と乾いた音をたてて膳に戻された盃の上に、女主の白い手が伸びて封をした。ん? と顰面のまま睨んでくる優に、ほほ、と女主は微笑んだ。
「お酒は楽しゅう美味しゅう頂くものに御座います」
「碧の申す通りに御座いますなあ」
時の加勢を得て、更にほほほ、と女主・碧は笑う。無駄に科を作ることもないのは、優とは長い付き合いの間柄だからだ。
「此処の処、お越しが頻繁であらせられますが、御正室様を放っておかれて宜しいのでしょうか?」
「よいのだ。疲れて帰ってきて、あのように悋気と嫉妬に狂って喚き散らされては、気が滅入るばかりだ。まだ、此処の喧騒の中での方が、仕事を忘れられる」
「ほほ、まあそれはまた、手厳しいことで御座いますこと。なれど兵部尚書様」
「何だ?」
「御正室様とて、好きで悋気狂いをなさっておられる訳ではありますまいに」
「惚れてもおらん女を、別れもせず正室としてやっておるのだ。この上、勝手に気狂われて堪えろと言われて、黙っておられる男はおらん」
「御正室様も、惚れてもおらぬ男の体面の為に、良き妻・良き母・良き女主人を演じ続けてやらねばならぬとは、腹立たしき限りでしょうに。たまの攪乱くらいは、ご自身の思い当たる節の多さに免じて、見逃して差し上げれば宜しいものを」
優の手前勝手なぼやきを、碧が間髪入れずガツンとやり込める。
うぬ、と言葉を失う優を、ほぅほぅ、と時が囃したてた。
この妓館の女主である碧は、年の頃は既に大年増の上に年増分を重ねていると自ら公言している。
大年増に年増を重ねる、と言えば優とほぼ変わらぬ齢だ。
が、どう見ても中年増程度の女にしか見えない。
豊かな髪は髢を使うことなく結い上げる事ができ、白い肌には滲みの一つすらなく、長く太い眉も掠れず、眉間にも垂れ目の目元にも、もったりと分厚い唇の端にも、小皺の影すらない。襟を大きく立たせて胸元を開ける衣装は今風の先端をいっており、除く谷間は豊かな肉置きで凛とした張りがある。
此処までくると、女は化物という言葉はある意味真実味を帯びてくる。
「兵部尚書様」
「何だ」
碧が胸元から高価な懐紙を出して、瓶子が腹にかいた汗を拭う。
「紅、いえ、好様はお元気にしておられますでしょうか?」
途端に、其れまでの不愉快そうな優の顔ばせが柔和になる。
「うむ、祭国で娘の娃共々、息災にしておるらしい。言葉も増え、動きも活発になり、可愛い盛りだと手紙ある」
手紙を見るか、と言い出さんばかりの優の目の前に、つ、と緑は白い手を出した。
「祭国では、今、大変な騒ぎであると聞き及んでおりますが……」
碧に冷水をかけられ一気に気勢を削がれた優は、うむ、ともう一度渋面に戻り、呻く。ちろり、と流し目でそんな優を見やりながら、女主・碧は瓶子を傾けた。
「郡王陛下は如何になされる、おつもりなので御座いましょう?」
む? と優は満たされた盃に口をつける。
「それが分かれば苦労はせん」
しかも、陛下の御元に息子が使節団を率いた裏の理由すらまだ掴めんのだ、とは口にしない。自分の無能ぶりを、碧に聞かせるわけにはいかなかった。
――傍に居るのが好であれば、愚痴で吐き出せるのだが。
嘆息しつつ、盃を傾ける。喉を通る酒は、同じ瓶子のものである筈なのに、やけにほろろと苦い。
「では、本日は耳に良いお話を、兵部尚書様にお聞かせ出来るやもしれませぬ」
「うぬ?」
「妾の妓どもが、大保・受様の御宅に呼ばれておりますの。もう、1時辰もすれば、帰ってまいりましょう」
「そうか、それは有難い」
――どの様な話題であろうと、今は喉から手が出るほど欲しい。少しでも何かが掴まれば……。
優の呟きに、碧は厚ぼったい唇を窄めて、ほほ、と自慢げに短く笑った。
妓館に勤める芸妓たちの耳が得た情報は、馬鹿にしたものではない。
それはここ数年、時が集めてくる情報量とその正鵠さとが物語っており、優は碧の店に全般の信頼を寄せていた。
★★★
此度、優の息子・鷹が右丞の品位を授かって祭国に下ったのは、代帝・安の『言い掛り』を突き付ける為だ。
だが、赤斑瘡という病の流行騒ぎで、それは相殺された格好になった。
郡王・戰としては首が繋がった形である。
が、しかし。
その首を繋ぐ為に禍国に泥を塗り付けた鷹は、戰に仕える真の異腹兄だ。
郡王・戰を生かす為には右丞は斬らねばねばならない。
その背後にいる、大令となった兆を牽制する為にも。
しかし、余りに追い詰めては、逆に一族郎党全てが問責される。
特に、郡王・戰の懐刀として周知され始めている真を追い落とすのに、この失態は恰好の餌となるだろう。
誰にどんな責を、何処まで問うつもりなのか。
何を背負わせ、糾弾するつもりであるのか。
情報が入ってこない以上、見当もつかず、ただぎりぎりと胃の腑を痛めて待つしかないのである。
だが。
僅かであろうと、何か探る糸口が得られれば。
「真の奴が、何とかするだろう」
優の口から真の名を聞き、あら、と朗らかに碧が笑う。
「お懐かしゅう御座います。何年ぶりに御子息様の御名をお聞きしましたでしょう」
ほろほろと笑う碧に、優は何とも言えぬ顔をする。
10年近く前に、真が毒蛇に噛まれた事件があった。
正式な医師ではないが真を診たてた者は、悪さをしている生気、つまり血気を抜けば助かる、と診断を下した。
要は、毒を含んだ血を抜け、と云う事だったのだが、好は生気を精気、つまり気力と取り違えて、優にどうにかしてくれと懇願した。優も優で精気を抜く、を、精を抜く、と受け取った。
優の要請を受けて、当時12~13歳だった真の元に手練手管に長けた女たちを世話したのが、この碧である。この件で時は碧の有する妓館の存在を知り、株を買い、庇護してきたのだった。だからこそ、官妓楼でありながら、宮妓楼なみの勢いをみせるまでに成長できたと言える。
「好様が、妾どもの店より兵部尚書様の御元に参りましたのは、何年前になるのでしょうか……」
瓶子を傾けながら、碧は再び好の名を出してきた。
とろとろとした酒を受け止めた盃を、優と時は何も言わず交わし合う。
「好様が兵部尚書様との間に儲けられた御子息と女君と幸せにお過ごしとあれば……。妾も幸せに御座います」
ふん、と優は鼻を鳴らして盃を傾け、最後まで飲み下す。
「好は私の妻なのだぞ。幸せに決まっておろうが」
あら、ほほほ、と碧は笑う。
「夫婦の縁を結んで20余年、好様は未だに其処まで愛されておいでとは」
「愛しておらんで、真と娃はできん」
「まあ、ご馳走様に御座います事。同じ女子として、御正室様でなくとも悋気の虫がでますわ」
「妻を失って何年たったか忘れた私も、悋気がでますなあ」
時と碧が、堂々たる優の惚気に笑ってみせた。
1時辰と3刻ほどの時間を、優、時、碧の3人での酒席で過ごしていると、店の裏手が騒がしくなった。
「あれ、ようよう、帰ってきたようね」
碧が立ち上がり、僅かに簾を持ち上げると、下男が音もなく寄ってきた。
「白に、此方に来るように言っておいで」
碧の優雅な言葉使いに、下男は矢張、音もなく頭を垂れる。そのままの姿勢で、す、と姿を消した。
「白?」
手にした盃を口に運ぶのを止め、優は首を捻った。
「如何なされまして?」
「いや……」
そのまま、優は目を伏せて盃を口に運ぶ。
珍しく優が見せた自嘲気味の表情に、時が鰻の触覚のような髭を弄りながら首を捻った。
★★★
更に3刻ほど待つと、ふわり、と優雅な香気が漂った。
碧の、甘く芳しく豊満な其れではなく、きり、と一本引き締まった処のある香りだ。
部屋の格子戸が、するりと開けられる。
衣擦れの音を尾のように引くこともなく、す、と気品ある出で立ちで姿を現した女は、年の頃は中年増に差し掛かろうか、といった処だろう。
正に女として一番豊穣な味わいの、年増盛りという言葉ぴたりとはまる。
髪の量が若干薄く、白、と呼ばれている割に、肌の色が日焼けように濃いのが色気を削いでしまい、惜しい。その分、もったりと分厚い唇と細い首筋と続く浮いた鎖骨が悩ましく、其の癖、腰周りと大腿の辺りの肉置は、つい手が伸びる程豊かだ。妙に均衡が取れていない分、何やら庶民的で気持ちよく好感を持てる、そんな女のようだった。
「御主御長姉様、只今、無事帰りましてん」
御主、とはこの妓館の主人、という意味だが、もっと位の低い妓たちは碧の事を仮母と呼び従わねばならない。
またこの時代の芸妓たちは、各々、師匠となる姐と義姉妹の契りを交わすが、その際に香炉を同じくするのである。
白、と呼ばれた妓が碧の事を御長姉様と呼び慕っている事実から、香火姉妹、つまり義姉妹の契りを結んでいるのだろう。つまり、白はこの店において、碧の跡目を継ぐ妓と見なされていると思ってよい、御職を張る芸妓ということだ。
お座り、と碧に手招きされても、白は直ぐには座らない。
中腰の礼の姿勢を決して崩そうとしない。最も腰と膝にくるこの姿勢を取りながら、恬然とした態度で優雅な笑みを浮かべていられる事からも、この芸妓は一廉の妓だと知れる。
二度、三度と促されてやっと、白と呼ばれた女は座った。
「ご苦労様だったね、大保様の宴を仕切られた御正室様はどうだった?」
白は碧の問いに答えず、優に向け、にこり、と口元を緩めてみせた。
そして、丁寧な所作でゆっくりと平伏する。この場において最も地位の高い者に、最上級の礼を捧げるのが礼儀だからだ。
「面をあげよ」
優が許しを与えても、矢張、白は無言のまま、三度固辞する。更にの繰り返しの許しを得て漸く、白は姿勢を正した。
「兵部尚書様、お久しゅう御座いますなあ。ご息災でいらっしゃいましてんか?」
「……お前も、元気にしておったか」
「あい、お気遣い頂きまして、嬉しゅう御座いますわあ。うち、あれから、御主御長姉様のお陰さんでこの店の御職はっとりましてん」
そうか、ならば良い、と優は盃で唇を閉じる。
目だけを細め、白は優に瓶子を差し出した。
「大保殿の屋敷に行っておったそうだが」
「あい」
「誰が来ておった?」
ちろり、と白は優に流し目を送る。
「何を話しておった?」
「あい、何も……」
「何も、だと?」
「あい、実は、御正室様がおむずがりになられましてん」
「――何?」
「あい、うちらに悋気焼きされましてん。大暴れされましてなあ、何もせんうちに、彼方はんも此方はんも、うちら諸共に追い出されましてん」
「何やて!? ほな、何でこない遅なってんや!?」
其れまで、悠然と構えていた碧の細い眉が跳ね上がった。
何一つ芸を見せず、満足させずして帰ってきたとあっては、店の名折れだからだ。
妓館の仮母は、別名、爆炭と呼ばれる。炭が爆発するように妓たちを叱る形相から来ているのだが、その名に恥じぬ、爆ぜっぷりだ。
碧の爆ぜ方に、しかし白は慣れ親しんでいるからか、ふふ、と笑いながら瓶子を盆に戻した。
「大保様が、侠気で魅せてくれましてん」
「何やて?」
「こない早よ帰ってもうては、御主御長姉様に申し訳たたへんやろ、云うて、部屋でお酒を振舞って下さりましてん」
「云うても、許される訳やあらへん。白、あんた、うちの店の名を汚す気ぃか?」
碧の怒りを前に白は涼しげな顔で、つい、と胸元に指を伸ばして、懐紙を取り出してきた。
瓶子に触れて濡れた指が紙の上で滑ると、優も知る男の名前が其処に浮かび上がり、そして乾いて消えていった。
優と時、そして碧は、いつの間にか白の手が滑る懐紙に見入っていた。
「お屋敷さんにお呼ばれさんやってんは、此方はんらどすえ」
「間違いないか?」
「白の記憶がええのんは、うちが保証します。間違いなんぞ、あらしまへんし、起こしようがありまへん」
「あい、うち、首、賭けてもよろしおすえ?」
優のひと睨みにも怯む事なく、碧と白は同時に答える。
ぬう、と優は酒臭い息を吐き、時は目を細めて、ほぅほぅ、と梟のような笑い声を上げた。
★★★
夜中を1時辰以上回ってから、優は漸く店を出た。
正室の妙とて流石にこの刻限なれば寝ているだろう、と確信を持てる時刻まで、粘りに粘った結果だった。
碧と馴染みとなったのは、其れこそ自分が王宮に上がりだしてからだから30年以上となる。彼女は今夜の白を、芸を売らずに帰ってきた店の名折れと爆ぜ叱った。しかし優が好を側室に娶って以来、碧は店で、彼に芸どころか酒膳しか売っていない。碧は優にとっては、気心の知れた異性の知己、といった立ち位置だった。
夜気に、酒気の塊となった息を長く吐きだした。
まだ、息が白く見える程夜冷えがある訳ではないが、酒で温まった身体は、夜を支配する空気を寒く感じさせた。
見上げた夜空に浮かぶ朧に陰る三日月が、まるで妙の横顔に見え、ぶるり、と優は身体を震わせた。
――それでもまだ、妙の奴は起きておるか?
有り得ない話ではない。
実際、悋気狂いに心身を焼いた妙は、何を為出かすか分かったものではない。
予測不可能、という点に置いては、戦に挑むよりも厄介で恐ろしい相手だった。
「兵部尚書様」
不意に呼び止められて、優は振り向いた。
また、別の衣装に着替えた白が立っていた。
「お前は、まだこの店にいたのだな」
「あい」
「身請されたのではなかったのか?」
「ええ男はんいうもんは、女の色々を探るもんやあらしまへんえ?」
ふふ、と白は鼻を鳴らしてうっすらと笑う。
何処か冷たい夜気よりも、冴え冴えとした寒気を感じさせる笑みだ。珍しく、怖気を感じて優は顔を顰めた。
「何だ? 何か用か?」
「いいえ……何も。ただ」
「ただ、何だ?」
「ただ……うちのええ人やった御子息様は、その後、ご機嫌麗しゅうされとりますやろか、と心配になりましてん」
「お前が気に病まずとも、祭国で息災にしておる」
「そうどすか? そら良かったわあ。ほんでも、乳臭い未通女娘はんが御正室様では、さぞや孤閨で寂しゅうされとるんですやろなあ」
禍国にお戻りやした折には、お呼ばれしたってとお伝え願えますやろか? と言って僅かに開いた口元に溢れる歯が、気味な程、白い。
その歯を囲む、白と云う名に反する真赤な紅を引いた唇は、科を作りつつ婉然と微笑んでみせている。
男の心にではなく、男の股間に媚びる笑みだ。
が、それ以上に、この笑みに男が屈服する事を知り尽くした、傲岸不遜極まりない笑みだ。
自分の言葉を、息子に伝えると信じて疑っていない自信満々の白を前に、優は背中に何か冷たい筋が一本走り、一気に酔いが覚めるのを感じていた。
――此奴。
今更、真の袖を引こうとするのは何が目的だ?
「白よ」
「あい」
「貴様の後ろに控えておるのは誰だ」
じろりと睨みを効かせる優に、あら怖いこと、嫌やわぁ、と白は嗤った。




