10 皇子・星(しゅん) その2
10 皇子・星 その2
克と、芙、そして那谷と共に、学が王城に戻った。
王城に仕える者は皆、少年王の帰城を、万歳と歓喜の声で出迎える。
正しく、凱旋のような扱いを受けて面食らう学の元に、母である苑が駆け寄ってきた。
「学、学!」
「母上!」
「学、いいえ、陛下、よくぞ戻りました。立派ですよ」
先に早馬で全てを聞いていた苑は、我が子の成長ぶりに驚かされると共に、亡き父である覺の跡目を立派に継いだと知り、歓涙で頬を潤しながら出迎えた。
慌てて月毛の愛馬から飛び降りると同時に、学は、苑の腕にしっかりと抱き締められる。
「母上、く、苦し……」
じたばたと藻掻く学だったが、しかし苑は離さない。逆に益々、力を込めて胸の内に抱き締める。
「准后殿、それでは流石に学の息が詰まってしまいます」
言葉だけを聞けば諌めているが、声音が優しい。
はっとなって振り返ると、戰が立っていた。慌てて学を離して、姿勢を正して場を譲る。軽く会釈をして、戰は学の前に立った。
「良く場を収めて帰ってきてくれた。礼を云う、有難う」
「いえ。同盟の国の王として、当然の行いをしたまでです」
差し出された戰の手を、学は誇らしげに握り返した。
身を清め、そして衣服と威厳を正して王の間に入る学に、舎人、殿侍、全ての内官たちが一斉に最礼拝を捧げた。
「国王陛下、玉体を無事にお戻しになられましたる事、お慶び申し上げます」
うん、と何とも言えない表情で頷きつつ、学は戰に助けを求めて見上げる。
しかし、戰は小声で、ならないのだから耐えろ、とだけ答えた。
小首を傾げる少年王の背中を、父となった郡王は軽く叩き、笑いながら椅子へと促した。
★★★
王の間の奥にある、学と戰が共に執務を行う部屋に、改めて、克、杢、芙、那谷が呼ばれる。
そして人払いを済ませると、蔦が小さな盆に急須と茶器、菓子器を持って現れた。
「皆様、お疲れ様に御座いまする」
ふっくらと紅をさした唇を微かに持ち上げて蔦に微笑まれると、矢張、克は顔を赤らめて身体を硬直させる。どうにもこの癖は治らないものらしい。
「もう一度、改めて皆に礼を言わせて呉れないだろうか。よく、短い時間の間に、あの無理を通して策を成功させてくれた。私の後を、よく守って呉れた。有難う、皆の、そして学のお陰で、我が子の誕生の場に立ち会えた。父として、これ以上の喜びはない。本当に、有難う」
真摯に頭を下げる戰に、克や杢が狼狽える。
当然だろう。
主君である戰に、このように下に出られたのではたまったものではない。
「そのような。我々の方こそ、郡王殿にお慶びを申し上げねばならないというのに、申し遅れました。継次の皇子の御生誕とご安産、誠に吉上この上なく、お慶び申し上げます」
「お慶び申し上げます」
学が口上を述べると、皆がそれに倣う。
「しかし、雷をも御味方とする運勢を得てお生まれになられたのです、必ずや、郡王陛下の跡目をしっかとお受け継ぎになられる皇子様となられます」
「此れからが、非常に楽しみな事です。恐れながら、皇子様の御代までお役に立つべく、尽力致したく」
「皆、有難う。皇子も、やがて言葉を覚えれば、今日この日にこのように皆に祝われた事を嬉しく思う事だろう。そして、父として、私も誇りに思う」
暫し、続く産所蟇目の音に皆が目を細め、和やかな空気が流れたが、戰が気を引き締めた声でそれを破った。
「では、学。事後の報告を聞かせて貰えるだろうか」
「はい、郡王殿。克殿、頼めますか」
「は、では、僭越ながら」
克は柄にもなく、いっぱしぶった咳払いをして、背筋を伸ばした。
先ずは、堤の状態を調査内容だ。
勿論、向こう岸に渡った訳ではない。
目視だけの確認である。
が、ほぼ計算通りに堤は切られており、それ以上の広がりをみせる気配はなく、現状としては順調に水位を二分して流れている。
「川下の方は? 水嵩の増し具合から、燕国で洪水の起こる兆しはあったのか?」
「いえ今回に限り、其れは幸いにも」
だからこそ、帰城できたのであるが、想像しているのと直接答えを聞くのとでは違う。
克は更に詳しく述べる。
芙の仲間からの知らせによれば、河口側で流木や土砂などで塞き止められるという事態は、此度は避けられそうだった。また、燕国側に流れ込んだ河口側からの偵察に入った草たちからは、彼の国で水嵩が急激に増してはいるが氾濫を起こすまでではなさそうだ、という。
越水決壊を起こしかけた箇所は、改めて、琢たちに補強工事を命じてきた。
実に45間もの長さに及んでおり、他でも似たような箇所がないか調べた処、3箇所で、越水まではいかなかったが、水嵩が堤の高さぎりぎりまで迫った場所を発見した。
「河川の状況は以上です」
「そうか」
全ての説明を終えると、克は懐から地図を出してきて机の上に広げた。
例の、堤切りを行った周辺の地図である。其処に、田畑を新たに書き加えられており、更に様々な印が付けられていた。
「此れは?」
戰が身を乗り出す。
「は、実は、越水を起こした堤防の補強作業を琢に指示した後、周辺各地の田を調べてまわったのですが」
「うん、それで?」
「此度の暴風雨は雨と風の台風として記録されるべきものでしたが……。被害は、河川氾濫のみではなかったのです」
「何?」
克の苦しげな声音に、戰が地図に視線を向ける。
「風で稲穂が倒れたか?」
「は、完全に倒れている箇所は至極限られておりますが、此方の、この周辺においては」
克が、様々な印の付いた箇所を指し示した。
実りが進めば倒れるのではと予想される処。
既に倒れてしまった処。
用水路の水が溢れて稲が痛みそうな処、などだ。
此等は、水抜きや穂を縛り上げるなどの最低限の処置はしてきたが、果たして何処まで有効かわからない、という。
「稲の実が、膨らみ始めたばかりの田ばかりですので……」
「この長雨の影響で、穂の実りが悪くなるかもしれない、と?」
「可能性は大いにあると、重が申しておりました」
そうか、と戰は地図の印に手を這わせながら、視線を巡らせる。
一難去ってまた一難、である。
が、自然相手では何とも手出ししようがない。
しかしもまだ、安心できない、重要案件がある。
「那谷、赤斑瘡の様子広まりの方は?」
「はい、准后殿下のご指示の元に贈られた風鐸が思いの外、力を発揮しております」
「ん? と、云うと?」
「はい、気持ちを乱して派遣した医師や薬師の話を聞こうともしなかった方々が、風鐸を共に授けますからと一言添えるだけで、ぴたりと落ち着きを取り戻してくれまして。此方の話を、聞いてくれるようになりました」
「そうか、それは良かった」
「はい、新しい薬草などはなかなか受け入れがたいものですが、風鐸のお陰で、割合にすんなりと受け入れてもらえ始めております。重篤患者の者もなく、今の処、命を落とした子供もいないようです」
うむ、と戰は肩を上下させつつ、笑顔で頷いた。
「重たちは? あの後、怪我人は出なかったのか? 其れに、風邪をひいた子供たちの様子は? 酷くなった子はいないか?」
「はい、重殿たちの間にも、琢殿たちも、怪我なく終えられました。あの子たちの風邪も、心配は要りません。風邪の時によく飲む、馴染みの薬湯があればそれでよい、心もとないのであれば新たに処方をしますと伝えて、診察を終えてきました」
「うん、そうか。那谷も一人で大変だったと思うが、よくやって呉れた、有難く思っているよ」
「滅相もありません、此れが私の仕事ですので。ただ」
「うん?」
「王都側の心情を思えば、大っぴらに触れて回ってよい話ではありませんので、皆には、子供たちの風邪が落ち着いたら邑に戻るように言い伝えておきました。台風が収まりつつあるなか、調べもつきましたし」
そうだな、と頷く戰に、学が遠慮がちに、しかし決意を持って口を挟んできた。
「陛下、田畑ですが、重殿たちの邑は兎も角として、禍国に縛られている土地は放ってはおけません」
「うん、どんな事情があろうとも、税は取られる。実りが悪く、減税、免税の処置をとるにしても、生きねばならない、食べていかねばならぬ以上、此等の田畑をみのがしてはおけないだろう」
はい、と学は答える。
戰と学の話題に上がった田畑は、学が祭国王として民から税を納められるものの事ではない。
郡王として此処祭国に赴任している、戰が本国である禍国に対して、税を納えねばならない土地をさしている。
国境付近に無断開墾された土地を、椿姫の号令の元に貴族たちはさしだしてきた。基本、赴任当初にそれらの土地を屯田兵として祭国にきた兵士たちに下げ渡し、彼らは邑を作り上げて、生活の基盤としている。
しかし、各地の関所などに駐屯している禍国出身の兵士たちは、近場の邑から田畑を借りているのが現状だ。
そうなると彼らは、祭国に対しては借地料を、そして禍国に対しては租税を納めねばならない。だが二重課税者となる処を、椿姫の采配で借地料はほぼ無きに等しい状態となっている。
だからそちらはまあ良いとしても、だ。
赴任した年は兎も角、祭国に従ってきてくれた彼らに、禍国と同等の重税を課してくるこの課税条項を、どうにかせねばと戰と真は思っていた。そもそも、禍国と祭国では、生産能力が違う。同等の課税率など、どだい無理な話なのだ。
が、何とかせねばと良策を講じ合う前に、難題がその上から伸し掛ってきた格好になった。
其処へ持ってきての、此度の台風だ。
作付に被害が出るかも知れないのは、誰の目にも明らかなのだ。
唸りつつ、戰はもう一度、地図に残された印を一つ一つ、指でなぞりながら確かめていく。つけられた印には、屯田兵たちに割り振れた田畑の区域も多数、含まれていた。
祭国の土地は、学が国王として号令を発すれば税を下げる事は可能だ。
しかし、戰が治めている土地はそうはいかない。
「実りが豊かであってくれれば、良いのですが」
「現実的にどのようにすれば良いかは、この騒動が確実に収まるまで待つしかないか……」
「しかし陛下、雷が田を走りましたので、まだ判断を下すのは時期尚早かと思われます」
「ん?」
学に代わり、芙が答える。
「どういう事だ?」
「古来より、雷は、稲妻とも申しまする。稲妻が通り過ぎましたる田畑は、神がお立ちよりになった証ゆえ、実りがより豊かになる、と言われておりまする」
芙の言葉を、蔦が恭しく引き継ぐ。
うむ、と答えつつ戰は顎に拳を当てた。
確かに、雷を従えて産まれた我が子の宿星は実に恵まれたものだった。
だとすれば、我が子が引き連れた星が良い方向へと導いて呉れているかもしれない。
ほっとした様子を隠そうともせず、戰が頷く。
「処で杢」
「は」
「王城での騒ぎだが、よくぞ収めて呉れた」
「いえ」
体調が思わしくないのか、言葉短かに答える杢に代わり、蔦が、首を捻る学たちに右丞・鷹が仕出かした事の顛末を皆に語って聞かせた。
一本気質の克は、見る見る間に顔を怒張に膨らませて赤くしている。
「おのれ右丞め! 許せん!」
叫びざま、椅子を蹴立てて立ち上がり剣の柄に手を伸ばしている克の手の甲が、両方から、ぴし、と打たれた。蔦の笄と、杢の杖である。
「いっ、痛っ! な、何をするんだ、蔦殿! 杢殿!」
「類は真様に及びまする」
「兵部尚書様に害が及ぶ」
二人にじとりと睨まれて、やっと克も、思い至り、ぐぅ、と静まる。椅子を拾い上げて呉れていた芙に礼もそこそこに、腕を組んでぶすったれた顔つきをし、どかり、と腰を下ろす。
「郡王殿」
「大丈夫だ、学、私は兵部尚書も真も、巻き込むつもりはないよ」
「しかし、王城におわします御方々にとられましては、これ以上はなき好機。見逃す筈が、手出しせぬはずが、御座いませぬそ?」
軽く目を伏せつつ、蔦が新しく麦湯を入れ直す。
うん、と戰も顎に当てた拳を外し、差し出された茶器を受け取る。
「だが、させぬ」
一言、呟くように宣言して、戰は茶器に口を付け、一気に飲み干した。
まるで、近いの盃のように。
★★★
学には苑の部屋に行くように諭し、那谷や克、芙たちには明日からに備えて早々に身体を休めるように命じ、蔦には杢を託すと、戰は、真と薔姫の居る施薬院の部屋へと赴いた。
本来であればこの先は、七日夜まで父は息子に会う事ならずと、蔦から伝え聞いていなければ、椿姫と息子、そして真と義理妹の薔姫を、交互に訪れたい処だった。
「蔦、椿の容態はどうなのだ?」
「あい、実は……まだ、微熱がお下がりになられませぬ」
「そうか……」
元々、懐妊中からずっと臥せっていたのだ。
出産の衝撃で、更に体調を崩しても仕方ないのだろうが、母親である椿姫の心身が心配でならない。
「どうも椿は、自分の手で皇子を育てたい、全てをやってやりたい、という気持ちに囚われ過ぎているように思える。母としては当然な気持ちなのだろうが、拘りすぎても良くないだろう。蔦、苑殿や豊たちによく言い含めておいてくれ、気を付けるように、と」
「あい、お任せくださりませ……なれど、陛下」
「うん?」
「やはり、椿姫様のお心は、陛下にしかお救いできませぬ」
「ああ、分かっているよ。いざとなれば、ならない仕来りなど糞喰らえだ。私を呼びに来てくれ」
「あい、それは勿論の事、遠慮のうさせて頂きまする」
何げに惚気ていった戰の背中を、蔦は笑って見送った。
★★★
真と薔姫が居る部屋を、戰は、先ずは遠慮がちに覗き込んだ。
てっきり、真が薔姫を抱いてうろうろしているのかと思っていたのだが、影や気配が動く様子がない。
どうやら、布団の上に横にさせているらしい。
という事は、起きていて、薬湯なりなんなりをとっているのかもしれない、と戰は咳払いを一つしてみた。
すると、果たして部屋の中から笑いの成分を含んだ真の声がかかった。
「戰様、そんな態とらしい事をなさらずとも、遠慮なく入ってこられれば宜しいではないですか」
「う、うん、まあ、それは、そうなのだが」
おずおずと、身体を窄めて戰は影から姿を現した。
部屋を訪れる前に、薔姫の病状に、狂ったように取り乱した真を思い出してしまった。それのせいもあって、躊躇逡巡していたのだ薔姫の姿を見るのが怖いのだ、とは、戰は言えなかった。
部屋に入ると、真は左腕に何か塗り薬を施し終えた処だった。
薬師が最後に薬湯を差し出し終えるまで、真の反対側に座り、咳をしつつも寝入っている薔姫を改めてみる。
横になっている薔姫の傍らに腰を下ろして、恐る恐る、覗き込んだ。
はちきれんばかりの艶と輝きに満ちた丸い頬は、熱の疲れに肉がこそげてしまっている。
肌の色も青白く、汗をかいているので分かり難いが、荒れている。
何よりも、この赤斑瘡の名の由来となった、赤い湿疹だ。
腕と言わず、足の爪先と言わず、身体中を覆っている。
二度目の熱が上がり出してから、相当に辛い症状に苦しめられていたと聞いてはいたが、此れほどとは、と胸が締めつけられる。
――酷いな。
言いかけて、慌てて戰は言葉を飲み込んだ。
それに一番心を痛めているのは、真であるし、そんな真を見ているのが一番辛いのは、おそらく自分ではなく義理妹である薔姫だからだ。
無残に湿疹に食い散らかされた頬や額を優しく撫でてやると、薔姫は痩せた頬に微かに色を取り戻して微笑んでみせ、擦り寄るような素振りをみせた。
――真と勘違いしているのか?
義理妹の愛らしさと一途さに、戰の口元が緩む。
「真、薔の病状はどうなのだ?」
薬師が部屋を下がっていくと、座り直した真に戰はゆったりと問いかけた。薔姫が眠っているからか、無意識に、左腕をさすっている。
「ええ、一時期酷かった、耳の痛みが薬湯で落ち着きまして。目眩が収まったからでしょうか、吐く回数はぐっと減りました」
「そ、そうか、良かった」
再び、真の狂乱ぶりが生々しく胸に去来する。
今の落ち着き払った真と、同一人物とは到底思えない。が、義理妹を案じて心を痛めている姿は、印象がどうであれ、同じ真だ。
「ただ、熱が高すぎるのと咳が抜けないのが心配だと、虚海様が仰っておられました」
「そうか……」
頬から胸元に掌を移動させて、とんとんと軽く叩くように撫でてやる。咳が続き出したからだ。苦しそうに眉根を寄せていたが、やがて静かになり、落ち着いた眠りに入っていった。
ほっとしつつ、腕を摩り続ける真に視線を戻す。
「真は? 腕の調子はどうなのだ?」
「はあ、まあいえ、此度ばかりは、父の説教を程良く聞いて、鍛えておけば良かったとつくづく思い知りました」
「ん?」
「一日ぶっ通してのお姫様の抱っこは、流石に腕が悲鳴を上げますよ」
すらり、と言ってのける調子は、何時もと変わらない。
苦笑いしつつ戰は、少しいいだろうか、懐から地図を出してきた。
視線で、真に自身の近くに来るように促す前に、心得ている真は、薔姫を起こさぬように足音を忍ばせて、戰の隣に腰を落ち着けた。
「其れよりも、御慶事にお慶びを申し上げるのが遅れました」
「ん?」
「皇子様の御誕生、誠に御目出度く、また椿妃殿下にあらせられてはご安産にて、正に福徳円満この上なく、禍国帝室の御発展幾久しくとお慶びを申し上げます」
丁寧に最礼拝を捧げつつ祝いの言葉を奏上する真に、戰は擽ったそうに照れ笑いしつつも、うん、と応える。
「古来、雷は神成と申し……」
「真、いいよ、もう。その奏上は、七日夜まで取っておいてくれ」
暫く、互いに、そのまま固まっていたが、やがて何方からともなく小さく吹き出し、笑いあう。しかし、直ぐに隣で寝ている薔姫がむずがる様に咳をしだしたので、慌てて二人で、しぃー! しぃー! と指先を口に当てあった。
★★★
「先ほど、学が克や芙たちを連れて無事に帰城したよ。堤の方を調べ直したが、通の計算が実に的を得ていてね。上手く吹き飛ばして、完全に河川を二手に分ける事ができているらしい。この雨が再び激しくなったとしても、上流からの水が増しても、心配はないだろう」
「そうですか、それで、河口側では?」
「うん、其方も、学が戻るまでの間、氾濫の様子はみうけられなかったようだ。燕国側から面倒な事を言ってくる事はないだろう」
「そうですか、それは良かったです」
ほっとしながら、真は戰と共に地図を広げる。
床に広げられた地図には、彼方此方に印が付けられている。
早速、真は腕を伸ばして指差してきた。
「この印は?」
「此度の台風で、稲に穂に実が入り始めていて且つ、倒れかけている処や実際に倒れてしまった処、用水路の水が溢れて稲が痛みそうな処、水の引きが悪そうな処、雷が走った処などを記してある」
「こんなに、ですか」
いや、あの暴風雨でこれだけの被害というのは寧ろ喜ぶべきかなのかもしれない。
真は、印の位置と数を確かめていく。
自分でも意識していないだろうが、手の甲を口に当てながら、興奮した息が漏れるのを防いでいる。隣で、漸くまとまって寝付けている薔姫を気遣っているのだ。
「何れ、完全に天候が回復したら、作付け状況を調べ直さねばなりませんね」
「ああ、どの程度税を下げるかだが……」
「何か問題でも?」
何時もであれば、戰の方からどうだろうか? と話題を振ってくる位の案件だ。なのに、何をこんなに躊躇しているのか。
「……うん、実はね」
本来であれば、不作の時に徳政として租税を軽くする処置をとるのは当然の事だ。
だが、此度、真の腹違いの兄である右丞・鷹の不始末がある。
此れを盾に、何処まで祭国の内政に足枷を課せられるものか、また何をどう曲解して捉えられるか、分からない。
躊躇ったが、隠し仰せるものではないし、そもそも、打ち明けるつもりで此処に来ているのだ。
戰は、言葉を選びつつ短く端的に伝えた。
途端に、真の表情が険しくなる。
「兄が……」
吐き捨てるように云うものかと思っていたが、真は、やれやれ、また面倒臭い事を、と何時もの調子で嘆息する。
「兄の事はさておき。戰様は、如何にしたいとお考えなのですか?」
「うん、私と共に祭国に来てくれた者だ。慣れぬ土地で、しかしこの地に馴染もうと必死になってくれている。何とか、税を免除したい」
「そうですね、私もそう思っております。では、一番手っ取り早い方法で参りましょう」
「右丞を使うのか?」
「はい、此処は兄と大令様に動いて貰うと致しましょう」
躍けて真が答える。
戰が言わんとしているのは、特赦だ。
皇子誕生という慶事に、祭国から禍国へ税を納めている者たちに、特赦という形で免税を、徳恩を与えるのである。
「矢張、そうするしかないか」
「此方の命じ方如何で、兄は大令・兆殿の出方も分かってきますので」
自分でも考え付いておきながら、戰は真の兄である右丞を使うのは、正直なところ気が引けていた。
だが、王城にいる大令の出方を、ある程度此方の予想の範疇内に収めるには、右丞・鷹を躍らせるに限る。
分かっている。
――分かっている、それしかないのだと。
だが、心の何処かで、脳の片隅で、それでいいのかという小さな声が、ちくちくちと警告を発してくる。
「真」
「はい、戰様」
「右丞が何を仕出かそうとも、真には関係のない事だ。真の処遇が変わることは、ない、決して」
「……はい、有難う御座います」
必死に真に言い募りながらも、矢張何か、釈然としないしないものを戰は感じていた。
真の表情や声音に、諦め、というよりはやはり来たか、という、何処かこうなると見越していたような雰囲気を感じる。
いや実際の処、幾ら右丞が考えなしに動く輩であったとして、此処までの重大事を引き起こすとは思ってもみなかったのだろう。
が 、さりとて、自身の目算が飛び抜けたとしても、真の中では然るべき事柄として受け入れる体制があったのだ。
――真。
何を考えている?
戰は、咳き込んで苦しげにしている義理妹の背中を優しく摩りだした真を、じ、と見詰めた。




