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覇王の走狗(いぬ) ~皇華走狗伝 星無き少年と宿命の覇王~  作者: 喜多村やすは@KEY
六ノ戦 落花流水

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10 皇子・星(しゅん) その1

10 皇子・しゅん その1



 喜ぶ事は良いことだ。

 だが、些か燥ぎ過ぎたのか、暫くしてまた、薔姫は酷く咳き込み出した。

 コンコン、と強い調子で何度も咳をした後には、ゼイゼイヒューヒューという喘鳴が漏れる。激しく肩を震わせて、全身を使って息をしているが、少し前と違い、吐き気はなさそうなのが救いだ。だがそれにしたところで、辛い事には違いない。

 喜びに上気して赤らんでいた頬が、顔色が、一気に青ざめて色を無くして行く。肺の腑に、空気が足りなくなっている証拠だった。


「姫!?」

「ひ、姫様!? ちょ、ちょっとだけ待ってて! あたい、直ぐお爺ちゃん呼んでくるから!」

「お願いします、珊!」

 慌てて珊は、走っていく。

 薔姫を抱き上げて背中をさすりながら、真も緊張に頬を引き締めた。

 騒ぎ過ぎた後だからと、真はなるべく声音を落として、耳に響かないように優しく、囁くように訪ねる。

「姫、どうです? 苦しいですか?」

「……う、ん……ちょっと……」

「気分は? 眼が回った感じはしますか?」

「……うぅん、それは……だいじょうぶ……」

 薬湯が、上手く身体にあって呉れたのだろう。

 やはり今の処、鼻水が耳に逃れて起こる膿が原因の痛みや目眩、吐き気は収まってくれているようだ。しかし、楽観はできない。

 薔姫は真に抱かれながら、小さな両手を口元に当ててコンコンとひっきりなしに突いて出てくる強い咳と格闘していた。

 また、吐いてしまい、真を汚してしまわないかと気を使っているのだ。

 何よりも、角度的に真の視界に、赤い湿疹に犯された自分の顔を見られたくない、という意識が働いていた。赤斑瘡あかもがさ特有の、真っ赤な湿疹は、頬と言わず額と言わず耳朶にまで容赦なく滲みて、醜い文様を描いている。

 自分の病気の証を見て、真が辛そうな顔をするのを見るのが、薔姫は、一番辛かった。


 それとなく薔姫は真に顔を背けて、顔を隠しながら咳を続ける。

 すると、咳の波が収まるのを待ってから、真は薔姫の手を取って、自分の首筋と肩に回させた。

 より、寄りかかった姿勢をとらせて、楽になるようにしたのだ。

 しかも顔と顔がちゃんと向き合うようにして。

「……我が君……!?」

 慌てて薔姫は、凭れる風になっていた真の肩から、ガバッ、と上体を離しかける。が、背中に回されていた真の優しい腕が、それを許してくれなかった。

「いいですから。姫は楽にしていて下さい」

「……だ、だって……」

 背中に回っている腕が更に伸びてくる。

 髪に触れた、と思うと真の手は、手櫛で薔姫の髪を梳き始めた。

「や、やだ、我が君……」

 驚愕に、それでなくても大きな目が更に見開かれる。

 薔姫は必死にもがいて行為を止めさせようとするが、真は一向に構う様子も参る様子もない。涼しい顔付きで、鼻歌まで歌いだしながら、髪を梳き続ける。

「……ずっと、お手入れ……、していない……の、だから……」

「だからですよ」

 咎める薔姫に真はすらりと答え、逆に幼いさいの言葉を詰まらせる。

 そもそも、穢は髪に宿る。

 禍国では、櫛は病魔を払う役をも担う、と信じられていた。

 原因不明の病などが流行り、命が危うい場合など、髪に巣食う行疫神ぎょうやくじんを退散させる為に特別な祓い櫛を用いたりするのだ。

 珊に髪を梳かして貰う事はあっても、福や下女たちには、がんとして行為を拒んだのは、その為だ。珊は祭国では椿姫の元で宮女として動いたり、施薬院の助手として働いたりしている。が珊の本来の生業は、各地を旅して祈祷祈願祓いを行う、蔦が率いる芸能一座の遊女あそびめだ。

 理解していてくれる者だからこそ、許したのだ。

 なのに。

 自らの手でそれを行うなど、以ての外だ。

 狂気の沙汰としか思えない。


「……だめ、だったら……」

「私は感染る心配はありませんからね、平気ですよ」

 そういう意味じゃない。

 そういう問題じゃない。

 ――と、薔姫は言いたかった。

 調子が良かった合間に、珊が手入れをしてくれたとはいえ、病気で臥せってからちゃんと身体を清めていない。湯で拭って貰いはしたが、何度も吐いた臭いはそれこそ赤斑瘡あかもがさの赤い発疹に染み付いているかのようで、何時までも残っている。

 綺麗だと言って貰えても、無条件に触れて欲しい、無闇に触れてもいい、という訳では決してない。

 寧ろ、慰めてくれるだけでいい。

 恥ずかしい処は、見て欲しくない。

 触れて欲しくない処は、見ぬ振りをして通り過ぎて、と思っているのに。

 が、言葉にならない。

 言葉に、したくなかった。


 このまま、甘えていたい。

 このまま、ずっとされるままでいたい。

 苦しのに嬉しくて、辛いのに幸せな、奇妙な気分の只中で、薔姫は真に抱かれて咳をする。


「ほら、早く元気になりましょう」

「…………」

「おや、姫は、戰様と椿姫様の皇子様に、会いたくはないのですか?」

「…………あいたい…………」

「私も会いたいです。姫と一緒に。だから、元気になりましょう」

「……うん……うん」

「ああ、無理して頑張らなくていいですから。疲れて途中でくたびれてしまいますからね、ぼちぼち行きましょう、ぼちぼち」

「……やだ、我が君……虚海さま、みたい……」

 そうやなあ、と虚海の口調を真似て、おどけつつ真は笑う。

 釣られて、薔姫も咳の合間に短く笑う。

「……ん……、がんばる……ちょっと、づつ……」

「はい、少しづつ、ですね」


「なんや、なんや、い男の儂の事、なんぞ噂でもしとるんか、ん? 」

 態とふざけた調子の虚海の声がする。

「何でもありませんよ、さあ、早く姫を診て下さい」

 真と薔姫は顔を見合わせ合って、笑い声をあげた。



 ★★★



 皇子が誕生したその日の夕刻頃になり、急速に雨風が静まりだした。

 特に雨はあれよあれよという間に終息に向かっている。

 まだまだ曇天は切れないが、風は兎も角、雨がおさまれば固く閉じた雨戸を開けられる。此れまで、逼塞感をいや増していた雨戸が次々に開け放たれて行く。

 浮かれた娘たちの笑い声と共に、澄んだ新鮮な空気が、どっと施薬院に雪崩込んできた。


「……きもち、い……かぜ……」

「ですね」

 普段なら、強すぎて髪を乱すと怒りたくなるような、勢いのある風だ。

 だが今は、何かを感じ取れられる、その全てと事実が愛おしい。

 真に抱かれたまま、薔姫は、頬に感じる風が命じるままに目を閉じた。

「さて、姫さん、夕方の診察をさせてもらおかな、ん?」

 診察の準備を整えた虚海が、部屋の奥から声を掛けてきた。

 はい、と真が答えつつ、床へと薔姫を運ぶ。何か大切な宝玉を納めるかのような慎重な手付きに、虚海が、のほほ、と含んだ笑い声を上げたが真は完全に無視を決め込んでいた。

「さて、ほんなら、腕を出して貰えるかいな?」

「……はい……」

 ええ子や、ええ子や、と言いながら、虚海は熱の棒である薔姫の細い腕をとった。ふぬ、と鼻を顰めつつ診察を開始する。

 薔姫の熱は、未だがる気配をみせない。

 が、咳の方は僅かであるが、天候が落ち着つきだしたこの夕刻あたりから、勢いが落ちたように思えた。はんはんはん、と鼻で節を取りながら脈拍を診ていた虚海は、薔姫の咳の出方に変化があったのを当然、見逃さない。


 ――姫さん、頑張っとるな、よぅなってきとるで。

 と、虚海から耳打ちされた真は、安堵の吐息を零した。

「真さん、施薬院に運び込まれてきおった赤斑瘡あかもがさの患者さんらもな」

「はい」

「それぞれに苦しんできたんやがな、姫さんみたいにな、好転の気配を見せるもんが、ちらほらと出てきたで」

「本当ですか?」

「嘘言うてどうするんや。此処まできたら、重篤な患者さんにゃ、ならへんやろ。後は、姫さんが元気になったらんとな、ん?」

「……うん……」

 喉や耳の後ろ、鼻の付け根部分など、何時ものように順番に、丁寧に診察していった虚海は、診断を今か今かと待ちわびている真に、にや、と笑ってみせた。

「お姫さんお、ええ調子やで。このまんまやったら、熱が下がった後に耳がとならへんかったら、まず心配あらへんやろ」

「ほ、本当ですか、虚海様?」

「やで、医師が嘘云うてどないすんのや。全く、良い事言われたら黙って信じときぃな」

「は、はぁ」

「けどな、気ぃつけとかなあかんのは、鼻汁や。厄介な事にやな、一辺、耳にまわった事がるもんは繰り返しやすいんや。今は薬が効いとるでええが、よう見とったり」

「はい、それは勿論です」

「それとやな、咳は赤斑瘡あかもがさが治ってもまだ残るかもしれへん」

「……え?」

 真は、顔を顰めた。


「残る、とは、それはつまり、熱が下がった後も数日の間は、咳が出ると言う事でしょうか?」

 うんにゃ、と虚海は首を振った。

「言い方が悪かったなぁ。その残る、やないのや」

 漸く、明るい兆しが見えてきたと言うのに虚海に引っかかる言い方をされ、真は眉根を寄せて眉間に深い溝を作る。

「それは……どういう意味ですか?」

「いっぺんな、喘鳴を出したもんゆうんはな、その後も風邪ひいた時とかにやな、何かいうと喘鳴を出しやすくなるんや。いやな、勿論、姫さんがそうなる・ちゅうわけやあらへんのやがな」

「……」

「せやけどな、明らかに姫さんの咳は、この嵐――台風に引きずられて酷うなっとる」

「つまり、今回の様に、天候が急激に悪くなると、咳が出る体質になるかもしれない、と仰りたいのですね?」

 抑揚のない声で糺す真に、ほうや、と虚海も声を抑えて答える。

「最も、姫さんは元々元気な娘さんや、体力がある子ぉや。喘鳴が出やすい身体になってまったとしても、や。大人になって身体が出来上がってきたら、おさまってく筈や」

「……」

「何にしても、や。病状がどないなってくんかは、此れからの姫さんの経過に寄るんや。真さん、あんじょうようしたりぃな、な?」

「はい」


 薔姫の額に、酒と薬の臭いが混じりあった手を置いて、虚海がのほっのほっ、と独特の笑い声をあげる。

「姫さん、早よ元気になろうな」

「……うん……」

「皇子さんのとお姫さんの御子さんの七日夜の祝席にゃ、真さんが筆頭にならなお話にならんやろ。姫さん、大事な旦那さんの晴れ舞台にゃ、元気になっとらな損やで? ん?」

「……うん……」

 そや、その意気やで、と虚海は額を何度も何度も摩った。



 ★★★



 虚海が部屋を下がると、真は、薔姫を抱いて廊下に出た。

 薔姫が、風鐸に向かって手を伸ばすような仕草をしたからだ。

 しかし風鐸の舌は絡めてあり、音は鳴らない様にしてある。何しろ風が強すぎて、余りにもカチカチと連続して鳴り続けて耳に五月蝿く、診察の邪魔になるからだ。施薬院で休んでいる者や、鴻臚館から運ばれてきた感染者たちも、耳障りだろうとの配慮もあった。


 最も、指摘したのは真だった。

 虚海の診察を受けて処方された薬湯を持ってきた珊に、こっそりと真は耳打ちする。

「珊、ちょっと良いでしょうか?」

「なに? 何かあった?」

「いえその……流石にあれは、耳が痛いと思ってる人の方が多くはないでしょうかね?」

 真に苦笑いしつつ言われて、あっ!? となる。

 皇子誕生の吉報に浮かれていたし、何よりも珊は幼い頃から大音量下での踊りや歌や雅楽の鍛錬に慣れているので、この程度など鈴虫の羽音のようなものだ。だが確かに、こうもひっきりなしに、カチカチカチカチ・カロカロカロカロ、と鳴かれていては、眠るにも耳煩いだろう。心を落ちるけるどころか、忙しなさ過ぎて苛々来てしまう方が圧倒的だ。

 珊は飛び上がり、真に薬湯を押し付けて一目散に駆けていく。

 そして、福たちと苦笑いしつつ走り回って、舌が動かないように絡めていったのだ。


「……聴きたいですか?」

 うん、と薔姫は小さく頷く。

 真は手を伸ばして、舌を止めてある紐を解いた。

 途端に、舌が忙しなく踊り、カチンカチンカロンカチン、と高い音を響かせた。

「……耳に、響きませんか? そろそろやめましょう」

 目眩が酷いのだから、何が身体に障るか分からない。

 今は、特に耳を刺激するのは良くないだろうと判断して、真は舌を指で抑えて音を止めた。すると、薔姫が、きゅ、と真の袖を引っ張った。

「……今までの……ぶん、も……も、少し、聴いて、たい…………」

「しかし」

「……だって……」

「はい?」

「七日夜までに……はやく……元気に、ならないと……」

「え? いや、そんないいですよ。ゆっくりで」

 だめ、と薔姫は微かに頬を膨らませた。


「……我が君の事だもの……私が見張って……いないと……」

「はい?」

「……いつもと、同じ……いい加減な……かっこう、で……行っちゃう、でしょう……?」

 何処か、揶揄うような口調だ。

 うふ、と肩を竦めて見せる。ぽりぽりと項あたりを掻いて、真は見透かされたとばかりに、何処か照れたような顔になった。

「ですねえ。流石、姫です」

 私の事を一番良く分かって呉れてますから、と真が笑うと薔姫も笑った。

 よっ、と短い掛け声をかけて、真は薔姫抱き直す。揺れるの怖かったのか、真の首に縋り付いた。


「……我が君……はじ……かかない為よう、に……がんばって……元気に、なる……」

「おやおや、それは逆に怖いですね。姫、のんびり行きましょう、のんびり」

「……だめ……」

「やれやれ、我がさいは、本当に怖い御方ですねえ」

 笑いながら、真は、風鐸をそのままにして部屋に戻った。


 

 ★★★



 目覚めた時。

 隣で寝ている筈である、皇子も椿姫も、姿がなかった。

 慌てて周囲を見回すと、椿姫は皇子を抱いてあやしていた。


 細い腕には御子は重たかろうに、少しも苦にした様子もみせず穏やかな笑みを浮かべて、ゆらゆらと子をあやしている姿は、なかなかどうして、どう(・・)にいっている。

 ――母というにはあどけない少女の身でありながら、女性とは、子を成せば、皆、こうも一瞬で羽化するかのように、『母』として完成してしまうのか。

 戰は暫し、声をかけずに見入っていた。

「あら……起きたの?」

「ああ」

 気が付いて声を掛けてきた椿姫の笑みに、男しての充足感を感じながら戰は上体を起こした。

「此れから、産湯の儀式を行うの。良い時に目が覚めたわね」

「お、産湯を。それは、良い時に目覚めた」

 満足そうに腕に抱かれている皇子を受け取りつつ、しかし戰は、また儀式か、とげんなりするのを隠そうともしない。

 そんな顔をしないの、と椿姫が頬の傷痕を啄いた。



 苑がまた別の白装束に着替えて現れた。

 同時に、白調度が別に設えられる。

 産湯の儀は別名、御湯殿儀式おゆどののぎしきとも言い表される。

 産まれた皇子に、厄除けの湯を遣わせる、大切な儀式である。

 設けられた湯に入る際に、皇子の頭部が里、つまり戰の皇子の場合は、禍国の方角に向けねばならない。

 朝と晩、亀卜により定められた刻限に、産養の七日の間行わねばならない。

 まだ、湯を守る調度の外では、出産に挑む時と同様に、読書とくしょ・鳴弦・御散供おさごが行われねばならない。

「また、ならない、ならない、ならない、か」

 嘆息しつつも、手順を踏む度に皇子が皆に認められ、受け入れられているのだという実感もまた、感じる。

 大きな子供となってしまった戰の背中を椿姫は笑いながら、ぽんぽん、と軽く叩く。母親というものは多かれ少なかれ、子を得た途端に子供帰りした夫の母役までこなさねばならないものだが、椿姫も逃れる事はかなわなかったらしい。


 早速、鳴弦が始まった。

 此度は、おぉ~うぅっ、おぉ~うぅっ、という、また独特の掛け声と共に梓弓を打ち鳴らす。寄絃よつらとも言われているが、弓が鳴り始めると、苑が椿姫の元に歩み寄った。

「さあ、皇子様を此方に」

 本来であれば女官が行うのであるが、皇子の役目は苑が請け負うのだ。

 元采女であった苑のたっての望み、というよりは正しくごり押しに、神官たちが根負けして折れた。晴れて、甥子の儀式の一旦を担う役目を、彼女はもぎ取ったのである。

 苑の腕に抱かれた皇子は、腕がすり替わった瞬間に、一瞬、ん? と不思議そうに眉を寄せたが、また構わずにぷくぷくと唇を鳴らせて寝入ってしまった。

「まあ。皇子様、此れは相当な強者になられますよ」

 苑が至福の笑みをこぼした。



 ★★★



 産湯の儀が無事に終わった。

 初めて受ける儀の場合は、特に湯殿始めと呼ばれるのだが、皇子は堂々たる寝入りぷりをみせ、一度も起きてむずがる事なく終えた。 

 清めを受け、新たな産着を纏った皇子が、椿姫の手に委ねられる。

 此れから、初めての乳を含ませるのだ。


「……まさか、とは思うが……椿」

「え?」

「其処まで、何とかいう儀式があるのだ、とは言わないだろう……ね?」

 語尾を上げて恐る恐る訊ねる戰に、椿姫が吹き出した。

「ないわよ、嫌ね、もう」

「いやしかし、此処まで事細かにあれや此れやと定められているのでは……」

 行き過ぎた心配をして、流石に照れている戰の前で、漸く、皇子がくしゃ、と顔を戦慄かせた。

 次の瞬間、産まれた時を思い出させる大仰な泣き声を張り上げて、産屋いっぱいに響かせる。

「はいはい、お腹が空いたのね」

 皇子の額を撫でてやりながら、乳を含ませやすいように抱きなおす椿の横に、戰がいつの間にか寄り添って覗き込んでいた。

 驚いて目を剥く椿姫に、む、と戰は唇をへの字に曲げる。

「……見ているつもり?」

「いけないか?」

 そうじゃないけれど、と笑いつつ、椿姫は胸元をはだけて皇子に乳を含ませる。

 小鳥のように唇を尖らせた皇子は、はわ、はわ、と忙しなく首を左右に振りながらむしゃぶり付いてくる。

 直ぐに、んっ、んっ、と喉を鳴らして乳を飲み下す音が聞こえてきた。

「いい飲みっぷりだな、此れは大きくなるぞ」

 目を閉じて、夢中で乳を飲む皇子は至福満面だ。

 息子の頭を撫でてやりながら、戰はもう片方の腕で、そっと、椿姫の肩を抱いた。

「熱があるのではないか?」

「え?」

「指先が、熱かった。勘違いかと思ったが、肩も熱いぞ」


 皇子の額に乗せていた手を、椿姫の頬に当てる。

 思ったとおりに、熱が篭っている。

 そもそも、皇子を出産する際に、大出血を起こしていると聞いた。

 それだけ体力が奪われているという事だ。皇子を生んだ興奮が冷めてきた今、それまで気力の張りで庇われてきただけの体調が、がく、と悪くなっても不思議ではない。

「大丈夫なのか?」

「大丈夫よ。子を産んだ後に、微熱が出るのは良くある事よ」

「しかし……、体調を崩してまでは。無理をせず、慣れるまでの間でもいい、乳母を……」

 続けて諌めようとする戰の唇に、椿姫は指先を当てて止めた。

 片方の乳を飲み終えた皇子は、勝手に乳首を外して、あわ、あわ、と首を振っている。笑いながら、椿姫が抱え直して反対側の乳を含ませてやると、満足そうにむしゃぶりついてきた。


「出来るだけ、私の手で、私のお乳で、この子を育ててあげたいの」

 うむ、と何とも言えない表情で戰は頷く。

「だが、乳をやり終えたら、直ぐに女医にょいたちに診て貰うんだ。母親が倒れては、子は健やかに育たない」

「分かってるわ、大丈夫よ」


 其処へ、王城からの使いがある、と禰宜が礼拝を捧げつつやって来た。

「何だ?」

 団欒の時間を台無しされて、苛立ちを隠そうともせず、戰が短く問うと緊張した声が跳ね返ってきた。


「学陛下がお戻りになられました」

 分かった、と答えて戰は立ち上がる。


 良人おっととしてのそれでも、父親としてのそれでもない。

 王としての顔に戻った戰の顔ばせを、椿姫は誇りと歓びを隠そうともせず、うっとりと見上げていた。



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