9 腕(かいな)に抱き その1
9 腕に抱き その1
克たちの尽力により、再び、天幕を張り直し終える頃。
河口側との連絡がついた。
報せを告げる独特の音が届いた、と芙は仲間と共に耳を澄ませ始めた。高く、低く、長く、短く、ともすれば豪雨暴風と濁流の音にかき消されそうなか細い鐘の音を拾い集めていく。するすると竹礼に筆が滑り、印が重ねられた。
遂に筆を置いて芙が改めて竹礼に視線を落とすと、皆、ごくりと生唾を飲み込みながら注視した。
「ど、どうなのだ、芙」
興奮を抑えきれずに、戰が答えを急かす。頬の傷の手当てをしていた那谷も、手を止めて固唾を呑む。
「はい。河口側にても、うまく炸裂し堤を切ることが出来ました」
「それで!?」
「押し流されてきた流木などに塞き止められる事もなく、河の流れは一つになって、燕国側に流れていっているようです。今の処、燕国領土内にて、洪水が起こっている様子は見受けられぬ、との事です」
「芙殿、そ、それは、つまり……」
言葉を詰まらせる学に、芙が笑いかける。
「はい、陛下! 成功です、大成功です! 祭国万歳!」
竹礼を放り上げて、芙が叫ぶ。
天幕内に、何十回目かの、祭国万歳の嵐が吹き荒れた。
どうどうと音を立てて流れる河の渦の音、叩きつける雨の音、荒ぶる風の音、それらに勝る歓声が、泥塗れの男たちの口からあがる。
まるで狂ったように喜びに湧きに沸く戰たちの元へ、王城からの早馬が届いた、と伝令が入った。
「王城から?」
それまでの歓喜の声が一瞬で静まる。
しん、と音のなくなった人垣の中、戰が命じた。
「通してやってくれないか」
戰が命じると、紋様のように泥跳ねを全身に付けた伝令が前に出て、跪く。
「陛下、御成功お慶び申し上げます、なればこそ、今直ぐに王城にお戻りを」
「どうした、何があった」
「はっ――我らが椿妃殿下が、この数日、産微をおみせになられておられたのですが、本日遂に陣痛に……」
伝令にみなまで言わせず、戰は外套を引っ掴むと、天幕から飛び出した。バッ! と音を立てて外套を纏うと、雨の中で左右に首を振りながら愛馬の姿を探す。
「千段!」
綱に繋がれずにいたというのに、あの轟音をものともせず、微動だにしていない。それどころか、悠々と飼葉を喰んでいた戰の愛馬である千段は、漸く出番か、と言いたげに首を巡らせた。
泥に脚を滑らせもせず、千段は悠々と戰の元に参じる。
まるで主人の言葉が分かるかのように静かの馬首を下げて寄り添い、戰が跨りやすい姿勢をとった。実に良く出来た、愛馬の筋骨逞しいその首筋を撫でてやりながら、戰は命じた。
「千段、王城まで一気に駆け戻るぞ」
鼻ずらを震わせて、ぶるる、と千段は嘶く。
――承知、と答えているようだった。
ひらり、と千段の背に飛び乗ると、戰は手綱を手にしつつ叫んだ。
「済まない、聞いての通り、椿、いや、我が妃がとうとう、私たちの初めての御子をこの世に送り出そうとしてくれている。勝手なのは重々承知の上で頼みたい。妃の元に戻らせて欲しい」
よもや王位にあろう者が、出産を控えた妃が心配でならぬから帰りたい、と懇願するとは、誰も思いもしていなかったらしい。
重たちが、大口をあけてぽかん、としていると芙が、やれやれ陛下、また、に御座いますか、と苦笑いした。
芙に笑われて、戰も苦笑いする。
やれやれ、という芙の口調が何処か真を思い起こさせたからだ。
「済まないな、芙」
「いえ――どうか陛下の御心のままに」
「学」
「はい、郡王殿、お任せ下さい」
胸を張って手綱を引きつつ、戰が馬上から命令を発した。
「皆! 皆の尽力のお陰をもって、決壊の恐れは消えた! しかし、越水した堤防は弱っている事は確かだ! 補強と、そして再びの監視を頼む!」
戰の背後で、轟音と共に雨粒が唸り、舞っている。
しかしまるで、後光のように神々しい。
知らず、重たちまでもが正気にかえるなり、最礼拝を捧げつつ、はっ! と命を受け取っていた。
「済まない、皆、苦しいだろうが頼む。克、芙、学を助けてこの場をおさめて呉れ」
「はっ!」
「お任せを」
「琢、重、現場の指揮を任せたい」
「任せろい!」
「言われるまでもねえ」
「那谷、怪我人はどうしても出るだろう。助手がない中大変だろうが、踏ん張ってくれ」
「分かっております、なに、これくらいの人数を一人で診るのに根を上げていては、お師匠様に顔向けもできません。ご心配なく。皆様のお身体、しかとお預かり致します」
――頼む。
言い置いて、馬首を巡らせるなり、戰は王城目指して千段の腹に蹴りを入れた。
筋骨隆々たる巨躯を誇る黒馬は、鬣を棚引かせながら、疾駆する。
まるで、放たれた一本の矢のように駆けていく人馬一体の蒼い影に、残された男たちは、呆けたように見惚れた。
「さあ、作業を開始いたしましょう! 此処で気を抜いてはなりません! 最後まで遣り遂げてこそ、です!」
少年王の澄んだ高い声が、半分魂の抜けかけた男たちを現実に引き戻す。
「おおっさぁ!」
「おおよ!」
「がってんだ!」
突き上げた拳で豪雨を打ちつつ、男たちは呼応した。
★★★
泥の濁流の中を突っ切る状態でありながら、千段は素晴らしい脚力を示した。
逸る主人の心の臓の鼓動の動きそのままに、漆黒の矢となって千段は駆けに駆ける。
手綱を操りながら、ふと、戰は頬に違和感を感じた。雨に濡れる感覚ではなく、ぬらり、としたべとつきのある感覚は、戦場で幾度も感じた事があるものだ。いつの間にか、中途半場な手当てであった頬の傷が再び開き、赤い帯が頬を覆っていたのだ。が、戰は手の甲で拭う事もせず、雨にうたせて落とさせる。
――早く、一刻でも早く。
逸る気持ちのままに戰は無茶な追い立てをするが、千段は大いに応えて更に速度を上げていく。
「椿! 今戻るぞ!」
粟立つ心のままの戰の叫びに、愛馬も高い嘶きをもって追従した。
一本の漆黒の矢となって駆け続けたとうとう戰は、王都の正門を視界に捉えた。
門番として立つ衛兵たちが、怒涛の鏃となった戰の姿を認め、慌てて城門内に指示を出す。
「開門!」
今、この門を通過する事が許されているのは、この国を守る厳命を受けし者。
そして。
祭国の長者として、天帝になり代わり命を下す事が許されし者。
そう――国王のみだ。
「郡王陛下がお通りになられる! 門を開けよ!」
衛兵の怒鳴り声と共に閉ざされていた扉が、僅かばかり開け放たれた。先に、此処から出て行った故を知っている為、用心するのは当然だった。
「馬鹿者! もっと扉を開けろ! 玉体にもしもの事があったらどうするつもりだ!」
やっと兵馬が通り抜けられる分だけの隙間に等しい開門の仕方に、衛兵が怒り心頭で重ねて怒鳴る。疾風怒濤の勢いで駆けてくる郡王の姿は、熱く蒼きたなびきとなった炎宛ら。この勢いでは門戸に僅かに掠る程度であろうとも、どの様な怪我に結び付くか知れたものではない。
「御苦労!」
しかし、その僅かな隙間をまるで火矢のように易易と郡王は突っ切っていった。
一瞬、幻惑されたかと呆然となった兵たちは、通り抜けざまに巻き上がった泥の羽に頬や身体を叩かれて我に返る。
正門を突っ切った戰の背後から、必死の形相で追いかけてくる者がいた。
戰が千段の首筋に手を当て速度を落とさせると、追い縋る男は明白に安堵の、というより泣きそうな顔付きになった。顔面を強かに打ち付けてくる豪雨に辟易もしていたが、千段が飛ばす泥跳ねが、尋常一様ではなく痛い。こんなものがうっかり目に入ろうものならば、痛みでのたうち回り、馬から転げ落ちるのは必死だった。
「どうした?」
「はい、王城から、杢様と言われる方よりの使者の伝に御座います」
「杢が?」
この雨の中では、木簡や竹簡は使えない。
失礼致します、と言いおき、男は戰に馬を寄せて伝令の言葉を伝える。口を開ければ容赦なく火中に飛び込む虫のように雨風が喉を突く。顰め面で耐えながら、男は杢の言葉を戰に伝えた。
聞くや否や、戰の形相が変わった。
「分かった、仕事御苦労。早く戻って身体を厭え」
短く男に労いの言葉をかけると、戰は千段の腹に蹴りを入れた。
待っていたぞ、とばかりに千段は蹴りに応じる。
鎌首を擡げるように馬首を上げ、轟然たる嘶きを発した。慄く男の前で千段は猛烈な脚力を示し、王城目掛けて駆け抜けていった。
★★★
夜明けと共に、薔姫の熱が再び上がり始めた。
抱いている真の腕の中で、真っ赤に燃え盛る石炭のように一気に熱を上げてくる。
熱が上がり始めると、咳も一段酷くなった。ひっきりなりに小さな身体を揺さぶり、悩まし続ける。やっと咳が途切れても、ぜいぜいと喉を鳴らし、真の肩に預けた頬は、力も張りも失っている。
薔姫が少しでも楽になれば、と背中を摩っていた真は、視線を落とした幼い妻の耳の後ろから首筋に掛けて、小さな赤い斑点がぶつぶつと姿を現している事に気が付いた。思わず、撫でれば消えるのでは、と指先で擦ってみるものの、逆にそんな真の気持ちをあざ笑うかのように、凄まじい勢いで発疹は広まっていく。
「……我が君……なに、してるの……?」
指の腹がこそばゆかったのか、僅かに身体をくねらせながら薔姫は仄かに笑う。
その頬や顎の先にまで、赤い発疹は真の必死を嘲笑うかのように、じわじわとそして確実に、触手を伸ばしていく。強張りかける表情を腹の底で叱咤し、必死で笑みを浮かべながら、真は薔姫の額を撫でた。
「いえ、何か芥がついていたようでしたので……」
「……そう……?」
小首を傾げるようにして、薔姫はまた咳をした。
コンコン、と身を揉むように咳をする。
いつもならば、咳をしきれば其処で喘鳴に代わるのだが、今回は違った。何時までたっても咳が途切れない。
――何時もの咳ではない。
真が慌てた時には、遅かった。
「……うっ……えっ……」
小さく呻いて、がくがくと痺れているように身体を突っ張らせた。
何かを堪えているのか、と真が焦って声を掛ける前に、咳と共に薔姫の喉が下から膨らみ、次いで頬を満たした。
――ごふっ……。
嫌な濁った音が響き、ツンと鼻に付く酸っぱい臭いが真の肩から胸を濡らしていく。
薔姫が、咳で、というよりも、何かに酔ったように吐いた。
だがここ数日、真面に食事を口にしていない為、殆ど吐くものがない。その為、真と珊と食べた物を直ぐに吐ききってしまい、そうなると黄色い胃の腑の汁を吐くしかない。
胃の汁は喉を傷める上に、その臭気で更に吐き気を呼び寄せる。
一度、吐いた薔姫は、咳と嘔吐を繰り返した。真の懐をべっとりと濡らしてもまだ、薔姫を操る嘔吐感は許さない。飽きずに小さな身体を責め立てしては、吐き気を呼び込む。
「姫!」
揺さぶってはいけない、と頭では分かってはいる。
そんな事は分かっているのだが、本能が、心が許さない。
咳と嘔吐を繰り返して、呼吸がままならなくなった薔姫は、高熱も会い回って意識が朦朧とし始めていた。焦点の合わない眸で、ガクガクと真に揺さぶられるままになっている。
「姫っ!!」
ぎゅ、と小さな身体を強く抱き締めると、やっと、薔姫の黒目が、ゆら……と動いた。
「……わがきみ……くる……しい……よ……」
「あ、ああ、そうですね、すいません。あんまり強くしたら、痛いですね」
答えてくれた事に、声が幾分弾む自分の現金さに嫌気を感じながらも、真はほっとした。
しかし、次の瞬間、自分の浅はかさを悔いた。
「わがきみ……わがきみ……なに……か、おはなし……してる、の……?」
「え?」
「……こえ……きこえない……きこえないの……」
「姫!?」
「……いたい……」
「ひ、姫? 何処が、何処が痛むのですか?」
「……いたい……みみ……いたいよ……わがきみ……」
「姫、姫、耳が痛いのですか!? 耳のどの辺りがどんな風に痛むのです!? 姫!」
聞こえないと、言っているのに、それならば、と真は大声で叫ぶ。
「姫! 答えて下さい、姫!」
「いたい……いたいよ……くるしいよぅ……わがきみ……」
「姫! 姫!」
途切れ途切れに掠れ声で呟くと、かく、と額を肩に預けてきた。
意識を手放した、という言葉通りにどれだけ真が名前を呼んでも、睫毛すら、微かに揺れもしない。無意識下で咳と嘔吐を繰り返すだけだ。
「姫! しっかりして下さい! 姫!」
真の怒鳴り声に、何事かと珊と福が飛んできた。
「どうしたのさ、真! 姫様になんかあった!?」
「ど、どうしたの!? ひ、姫奥様!?」
真の腕の中で、糸の切れた操り人形のように力を無くして青白い顔をしている薔姫にぎょっとする。ただ、激しい咳をしているから、生きているのだと分かるだけだった。
「し、真! ひ、姫様、どうしたの!?」
「咳あげも酷いですが、それよりも咳が酷くて息が続かず、意識が混濁しかかっているのです。早く虚海様を!」
「あ、あたい、あたい、お爺ちゃんを呼んでくるよ! 福は、姫様の着替えの用意、してあげて!」
「う、うん! 姫奥様、しっかりなさって下さいよ! すぐに虚海様がお見えになられて、楽にして下さいますからね」
珊と福は、バタバタと足音を立てて走り去っていく。
残された真は、ただ、薔姫を抱き締めていた。
★★★
下男に背負われた虚海がやってきた。
「遅いです、虚海様、もっと早く来られないのですか!?」
直ぐに駆け付けてくれたのは分かっている。そもそも、鴻臚館で出た病人たちも診ている。那谷が居ない今、王城の安寧は虚海の孤軍奮闘に支えられているのだ。
「真、そんな言い方しなくったって」
流石にむっとした表情で咎める珊に、まあまあ嬢ちゃん、と虚海は手にした徳利で尻のあたりを、ぽん、と叩いた。
「ほんなら、ちょぅ、お姫さんおろしたってくれるかな、真さん」
理不尽に怒鳴り付けられたにも関わらず、虚海は、穏やかに真を促す。何か言いたげにした真だったが、直ぐに薔姫を床の上に下ろした。
真も分かっている。
――そう、これは只の八つ当たりだ。
しかし、この苛立ちを何処にぶつけて良いのか分からないのだ。
そもそも、何故此処まで苛々するのかも、良く分からない。
自分はただ知識があるというだけで、那谷や虚海のように医師ではない。
だから、薔姫を助けてやれない。
分かっている。
当然だ。
当然なのに受け入れられない。
だが、受け入れるしかない自分がもどかしく、切歯するしかない脳のなさが泣けてくるし、ぶちのめしてやりたくなる。
ぎりぎりとした表情で俯いている真をよそに、ほな、診させてもらうでな、と虚海は薔姫の細い手首をとった。
「お姫さん、どや、此処は痛いか、ん、どうや?」
耳の後ろから首筋にかけてを抑えながら虚海が訊ねると、薔姫はぜいぜい喉を鳴らしながら、ひっ、と短く息を飲んで顔を顰めた。
「痛いんか、ほうか、耳はどんな風に聞こえにくぅなっとるんや、爺に教えたってくれんか?」
耳元で優しく囁くようにする虚海に、薔姫は反応しない。
真が思わず手を取って、姫、と声をかけると目を開けた。目の前に虚海がいると、やっと気が付いたようだった。
「わがきみ……こがい、さま……?」
「そうですよ、姫、今は聞こえていますか?」
真が勢い込んで薔姫の前に身を乗り出すと、こくん、と小さく顎を引いた。
「どんな風に痛むのですか?」
真が手の内に包み込むように、薔姫の小さな手を握ると、うん……と薔姫は零す。
「あの……あのね……ゆあみ、してるときに、ね……みみに……お水、入った、みたいな感じ……なの……」
一言一言区切りながら喋る薔姫を、はんはん、と頷きながら虚海は労わる。
「ほうかほうか、そら、痛うて辛いわなあ。お姫さん、よう頑張っとるな」
「……きもち……わるい……」
「そうやろ、そうやろ、よう堪えとるな」
首を左右にふろうとした薔姫は、再び大きく咳をしだした。
「姫!」
「……ぐ、ふ……うぇっ……」
真が腕の中に支えると、薔姫はその胸に額を打ち付けながら、黄色く、酸性の臭いが強い吐瀉物をぶちまけた。
「虚海様!」
「耳が熱で膿んだんや! 咳で、というより、今のお姫さんは耳が痛うて眩暈起こしとるんや。揺らしたらあかんで、真さん、余計に吐くで!」
流石に虚海の顔から笑顔が消える。
はい、と答える真の横で虚海は、直ぐに書付を作り上げると、早よ持ってくるんや! 下男を叱責する。泡を食って下男は薬房へと走って行った。
「頑張ってるねえ、姫様、偉いよ」
半泣きになりながら、珊も薔姫の背中をさする。
「……がんばって……ないの……」
「姫様?」
「……がんばりたいけど……がんばれないの……、どうしよう……わたし……」
寄りかかっている真の腕を掴む薔姫の手は、まるで力が入っていない。微かに見上げるのも億劫そうに、喘ぎながら、ぽつぽつと呟いた。
「……わがきみ……」
「はい、何ですか?」
真は、汗でべとべとに額に張り付いている前髪を払ってやる。
「折角、珊に綺麗にして貰ったのに、また汗をかいてしまいましたね。早く元気になって、また、綺麗にして貰いましょう」
うんうん、と珊も一緒になって頷く。
「……ほんとうに……げんきに……なれる……の……かしら……?」
「え?」
「……わたし……わたし、このまま……しんじゃう……のじゃ……ないの、かなぁ…………」
「死にませんよ! 私だって戰様だって、皆、赤斑瘡に感染してもこうして元気にしているんです! だから姫も大丈夫です! 絶対です!」
怒鳴る真の前で、薔姫は手を口元に当て咳と込み上げてくる嘔吐を堪えようとする。真はその手を下ろさせると、また吐き出した薔姫の吐瀉物を胸で受け止めた。
「し、真、そんな事したら、よ、よご……」
汚れちゃうよ、と言いかけて珊は口を噤んだ。
心臓が凍りそうになるほど、恐い表情なのに。
薔姫を見詰める真の瞳は、蕩けるほど熱く優しいのだ。
「大丈夫です、姫、私がいます。大丈夫ですよ」
「……うん……」
「私だけじゃありません、虚海様も、珊も福も、皆、姫の味方ですから。悪鬼悪霊も裸足で逃げ出しますよ」
「……うん……うん……」
「大丈夫です、大丈夫ですから」
「……うん……」
優しく言い含める真の腕に抱かれた薔姫は、喘鳴の合間合間に、ひっくひっく、と嗚咽を漏らし始めた。
下男が書付通りの薔姫の薬湯を持って来ると、虚海が真の肩を叩いた。
「真さん、こっから先は、儂の仕事やでな」
「はい……」
「お姫さんに薬飲ませる間に、真さんも着替えてくるとええ。臭いで酔って、余計にお姫さん、吐いてまうでな」
「はい……」
素直に頷くと、姫を宜しくお願いします、と頭を下げて、真は虚海に託した。ええでええで、早よ着替えてきぃな、と虚海は笑って手を振る。
明白に後ろ髪を引かれる面持ちで、真は部屋を出た。
★★★
廊下が、此れほど長く感じた事はなかった。
那谷の部屋を借りて汚れた深衣を脱いでいると、いやに診療所の方が騒がしい。
「どうしたのですか?」
「はっ、それが、その……」
言葉を濁されて、ああ、と真は呟いた。
椿姫様に、とうとう陣痛が。
夜中まではこの騒々しさは感じなかった、という事は夜明け前位に本格的な陣痛を起こされたのだろうな、と察した。
目を細めて耳を澄ませば、産所蟇目の鏑矢の音が一段と活気を帯びているではないか。薔姫に必死すぎて、気が付けなかったのだ。
一度気持ちを集中すれば、初産を戰が居ぬままに迎えるのか、と皆が心を痛めている空気がぴりぴりと伝わってくる。
真も、手を止めて喘ぐように蟇目の音が通り過ぎる天井を見上げた。
――どんなに、不安なお気持ちなのでしょうか。
病気に倒れていなければ、薔姫は珊や福を引き連れて真っ先に駆けつけ、戰が戻るまでの間、力付け続けるだろうに。
――いいえ、ですが椿姫様は大丈夫です。
戰様は、必ず、全てを乗り越えられて戻られる。
そして、椿姫様を守り通す。
きっと、必ず。
――それに、ひきかえ。
「……私は、一体、何をしているのでしょうか……」
何も出来ない。
苦しんでいる姫の傍についていても、何も出来ない。
何の力にもなれない。
無力感に苛まされながら、真は両手で顔を覆い隠した。




