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覇王の走狗(いぬ) ~皇華走狗伝 星無き少年と宿命の覇王~  作者: 喜多村やすは@KEY
六ノ戦 落花流水

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8 明ける夜 その8

8 明ける夜 その8



 夏の日の出は早い。

 時辰じしん的には未だ平坦へいたんの正刻を半刻ばかり越えたばかりだが、雲の色合いがら夜明けが近い事が伺えた。

「もう直ぐ、日出にっしゅつの初刻を迎えるか」

 戰は、うねうねと渦を巻く分厚い雲を見上げながら、呟いた。

 釣られて、その場にいた全員が、針のような雨粒をものともせずに空を見上げる。


 克が部下を引き連れて琢たちの元に合流したのは、鶏鳴けいめいの終を迎える2刻近くも前だった。城を出て直ぐに夜中、つまりは日付の代わる夜半の正刻を迎えていたわけであるから、この足場の悪い中、実に1時辰じしんに満たぬ間に4里を走り抜いたことになる。

 正に怒涛だ。

 更に、河口側にどかん(・・・)が届いたと知らせが入ったのは、平坦へいたんの終を半刻ばかり後に控える頃だった。

 この豪雨の中では、伝達手段の烽火ほうかは使えないのに、何故、河口側と連絡が取れているのかというか、芙とその仲間が普段から使っている手のお陰だった。

 どう連絡を取り合い、同時に策を決行するのか、とやきもきしている克と琢やしげたちの前で、芙は仲間たちと、銅鑼や鐘を鳴らしている。河口となる側は、更に5里近く下った地点だ。其処から途中、何人かを中継して音を絆げているらしい。

 それが唯一の連絡手段となる今は、頼らねばならないが、琢と重はまだ不安げだ。しかし伝達速度は烽火ほうかと同等か、いや文章を伝えあえる事を鑑みれば、それ以上であるとして良いだろう。

 耳を澄ませていた男が、音を拾い集めて印を付けた竹礼を芙に手渡す。視線を走らせた芙が、にこりと微笑んだ。

「どうだってか?」

「彼方でも、準備が整ったようです」

「何がどうなって、そんな事が分かるんだ?」

「音を打つ速さ、長さ、数で会話が成り立つのです」

「は~あ、そりゃまた、考えたもんだな」

 芙の説明に、克と琢と重は三人並んで、ふんふんと鼻を鳴らして頷きあう。この場に蔦でもいようものなら、仔犬が三匹、仲良う鼻を鳴らしておりまするな、とでも言われそうな息の合い具合だ。

 芙の言葉を待ち焦がれていたのだろう。

 戰は早速、再び河口側へ指示を、と芙に命じる。同時に作戦を遂行し、等しい成果を挙げられるのか、一発の試し打ちで見極めねばならない。

 はっ、と小気味良く答えた芙は、だが緊張した面持ちで、指示書どおりに銅鑼と鐘を鳴らした。



 ★★★



「よし、では、先ずは香縄に火を付ける。そして、その間に石を設置し見事に着弾させる事が出来るか、やってみるぞ」


 戰の命令に、おう、と克たちは呼応して天幕の外に飛び出していく。

 豪雨もだが、風の強さに息が止まる。

 大の男でも、気を抜こうものなら瞬時に吹き飛ばされそうな暴風だ。叩く雨は錐の先のように容赦なく突き刺さり顔面に突き刺さり、風の渦は魂ごと浚うつもりであるかのように、容赦なく吹き荒ぶ。

 そんな中、克の命令で投石機の微調整は着々と行われていった。

 着弾点を脳裏に描きながら、紐を引き合う強さと調子を合わせる号令を発する男は、此処が一番の緊張する場面だ。

 失敗は許されない。

 この一発に、祭国の命運がかかっている。

 つまり、この綱を握る自分たちが祭国の命を握っている、と言っても過言ではない。

 ――出来るのか、本当に出来るのか。

 沸き起こる震えに身動きを封じられた部下の背中を、克が叩く。

「大丈夫だ。いつものように。それのみを念じてやればいい。俺たちはそれだけの事を積み重ねてきたんだ」

「は、はい」

 頬に笑窪をつくった克の前で、男は飛び跳ねる。だが普段と変わらぬ克に、良い具合に緊張を解かれたのだろう、命令を下す為に動き出した。


 作業に没頭している克の元に、琢と連れ合って重たちがやってきた。重も仲間たちも、琢たちに習って特鼻褌姿になっている。

「俺たちにも、何か手伝える事があるか?」

「おお、助かる。それなら、投石機を支える方に回ってくれるか?」

「何だ、引手に回らなくていいのかよ?」

「いや、この足場の悪さと暴風の最中で投石機自体が傾いでは、鍛錬を積んでいたとしても狙いを定めるのは至難の技だ。引手より、足場固めに回ってくれる方が我々としても助かる。こちらだ、来てくれ」

「おっしゃあ分かった! 一丁いっちょやったるか! なあ、おい!」

「当たりめぇだ、任せとけ! おい行くぞ! みんな!」

 克の後を、重たちは拳を振り上げてついて行く。

「皆様、お気を付けて!」

 いざ、という時の為についてきた那谷が、その背中に叫んだ。



 ★★★



 香縄に火を入れる時刻を日出にっしゅつの初刻と定めると、芙の手筈で、再び銅鑼が鳴らされた。大凡おおよそ5里も離れているというのに、伝達の往復には半刻もかからない。

 互いに連絡を取り合い刻を告げる時辰じしんの鐘が響いてくるのを、皆、身動ぎせずに待ちわびる。


 やがて。

 豪雨の中、日出にっしゅつ初刻を迎えた時辰じしんの音が、ぬるま湯のような空気に、曇るように流れてきた。試し打ち用の石を一撫でして確認し、克が手を挙げた。

「陛下、どうぞ!」

「縄に火を点けよ!」

 克の宣言を受け、戰が宣言と共に、腕を上げる。

 天幕の中で、学と克が、目配せで芙に命じる。

 無言のまま、芙は灯した火を香縄に近づけた。じりじり、と音をたてて火が縄に燃え移った。高貴な香りが、泥の臭いに負けぬ強さで立ち上ぼり始める。

 場違いな嫋かな香りに、殺気に近いぎろぎろとした皆の眼光が、ふと和らぎをみせた。いや、皆の間だけでない。止むことのない台風の攻撃すら、落ち着いたように思わせる不思議の力が、高貴な薫香にはあった。

 一瞬の、静寂。

 それを受け取った合図として、各要人が目配せしあい、頷き合い、戰の次なる言葉を待ち構える。

 彼らが戰に注視している、と学は確認し終えると戰を見上げた。

「郡王殿」

「投石開始!」

 戰の腕が、振り下ろされる。それを受け、克も怒鳴る。

「打ち方用意!」

「おおっさぁっ!」

 男たちの威勢のよい声が、泥飛沫を上げながら、豪雨と暴風をものともせずに舞った。


 合計4つの石が、投石機の足元に運ばれた。

 だが、投石機は、河口側にも設置せねばならぬ為、二台しかない。その為、二箇所に一度に、そして間髪を容れず、連続して放たねばならない。

 一度目はまだ良い。

 だが、連続しての投擲は、危険が伴う。たった一度の投擲で、綱が緩んでしまったり投石機が歪みを生じたりするからだ。そうならないよう、一度目の綱の引きは、より精度と力量を求められる。

 綱を引く役目を担う男たちが、慎重に定位置に立ち、綱の具合を確かめている間に、櫓に登った男が角度や張り具合など、最後の微調整の指示を出す。

 苛々するほど慎重に慎重を重ねた最後の点検と調整が、漸く終わったのか、櫓の上の男が腕を回した。

「どうだ!?」

「準備が整いました!」

 克の怒鳴り声に櫓の上の男が矢張怒鳴り返し、櫓の男の声を聞くや否や、克が再び怒鳴る。

「よし、打てー!」

 引手の引導係が腹にぐ、と力を込めた。

「放てっ!」

「おぃっさぁ!」

「そいやっさぁ!」

 綱を引く勢いに投石機が傾かぬよう、琢と重たちが必死になっている中。

 男の号令に、投石機一機につき引手20名が、喉も裂けよとばかりに声を張り上げながら、力の限り綱を引く。

 軸が回転し、石が放たれ、空を舞った。

 石は、ひゅぅん! ぐおぉん! と音を率い、土塊が跳ね上げ、水飛沫をあげた。

 見事に対岸に着弾したのだ。

 水面と土手を石が割る4つの音を、櫓の上の男が確認すると、決められた合図として、赤い旗を振った。

 ――うおおぉ! 

 ――やったぞ!

「陛下、火は!? 火はどうなってる!?」

 歓声が上がる中、琢と重が天幕に飛び込むと、香縄が灰になる様子を見守っていた那谷が、潤んだで、彼らを迎えた。

 三人の目の前で、じじっ……と虫の羽音のような音をたてて、香縄は白い灰色の蜷局となって燃え尽きる処だった。

「陛下! 予定刻内に、成し終えました!」

「成功だ!」

 香縄の細く揺蕩う煙にかわり、野太く力強い歓声が上がった。


 喜び合う中、河口側から成果有りとの連絡が入る。

 向こうでも成功したと知り、男たちが熱狂する。

 思い思いに成功を喜び合うなか、戰が気を引き締めるぞ、と怒鳴った。

「このまま一気に作戦を決行にうつす! 刻は日出にっしゅつ正刻!」


 命令に、男たちが答えるより早く。

 別の声が上がった。

 それも、悲痛な。


「水が堤防を越えたぞおー!」

 恐れていた事が、現実となった瞬間だった。



 ★★★



 重が仲間の声に走り出し、その後を戰と克が追い駆ける。

 男が青褪め、震えながら指差す方向で、堤防を越え始めた河の水が滝のように流れ落ち始めていた。このままでは、越水の強大な力により、堤はどんどん削られてしまう。いつ崩壊を迎えてもおかしくはない。その証拠に、越水箇所が見る見る間に広まり、此方に迫ってきている。


「越水範囲は!?」

大凡おおよそ、20間から30間かと思われます! しかも、どんどん広がっております!」

「そんなに!?」

「何だとぅ!?」

 見張りをしていた男の声に、ざわり、とした響めきと共に男たちの肌が粟立った。

 ――決行の刻限を迎えるまで、あと2刻足らずだというのに!

 だが、越水による決壊を招くには、充分過ぎる長さだ。

「糞ったれが! 何だってこんな時に!」

 吐き捨て、地団駄を踏む重に、落ち着け、と戰が肩を叩く。

「寧ろ、よくぞ此処まで保ったものだと感謝せねばならない。今は作戦を成功させるまで、何としても堤を保たせる事を考えねば」

「け、けどよ!?」

「琢、頼みがある、聞いてくれるか!?」

「おう、陛下! 何でも言ってくれ!」

「土嚢を用意して積み上げてくれないか!? 日出の正刻を迎えるまでの間でいい! 持ち堪えて欲しい!」

「おっしゃあ! 任せろい!」

 琢は腕を大きく腕を振り、部下たちと揃って越水箇所に走り出す。

「普段、壁塗りやってる奴は土嚢を作れ! 柱作業してる奴は丸太持って来い!」

 琢の指示に、男たちが散る。

 掛け声を掛け合いながら作業を進めていると、重たちが泥を尻にまで跳ね上げながら飛び掛るようにして、駆け寄ってきた。

 お互いに、にやりと笑いあうと、掛け声を同じくして土嚢作りと丸太を掲げる作業に没頭する。何方が示すでも譲るでもなく、丸太の指示は琢が、土嚢の指示は重がとっていた。だが、水が滑り降ちる土手を、土嚢と丸太で保護するのは至難の業だ。

「水で丸太が滑る! 気を付けろ! 頭打ったり、丸太に腹挟まれたりでもしたら、命はねえぞ!」

「分かってらあ!」

「土嚢を打つ時、足首まで浸かってるだけだからって、気ぃ抜くんじゃねえぞ! あっという間に流れに身体持ってかれるぞ!」

「おう!」

 互いに喧嘩越しで怒鳴り合いながら、注意を促し合う。

 何とか補強が進み出し、越水が止まった。


「水が止まったぞ!」

 歓声が上がる。

 が、しかし此れが何処まで持つのか。

 土嚢を支える組んだ丸太を押さえながら、琢と重たちは、悪態をつき合う事で萎えそうな気力を鼓舞し合う。

 其処に、明らかに小さな腕が伸びてきた。

 そう、学だ。

「うおっ!? へ、陛下!?」

「決行まで、一刻を切りました! 此処で諦めては全てが無駄になります!」

 驚愕に声が上擦る重たちに対して、少年王の声は澄んでいた。男たちの不安からくる野太い悪態声を、縦に切り裂くように。

 琢と重は、真っ赤になりながら脚を踏ん張り、丸太を支える学の頭の上で、顔を見合わせる。そして、何方からともなく、にやり、と笑った。

「諦めてはいけません!」

「おう、当たりめぇだ! 誰が諦めるかってんだ! なあ!?」

「おお、そうともさ! 諦めるもんかよ! 成功させてやろうじゃねえか!」

「そうです! 成功させるんです! みなで! 皆の力で!」

 いつの間にか、水の力を押し返す為の、威勢のよい掛け声が、学を中心として上がり始める。


「半刻を過ぎた! 克は準備に取り掛かれ! 芙! 河口側に知らせろ!」

 暴風に横倒しになりかけている投石機を男たちと支えつつ、戰の命令が暴風雨に負けじと飛ぶ。


「あと半刻! 皆、ここが正念場だ!」

「あと半刻!」 

 咒いに縋るように、皆が唱和する。


「あと半刻!!」



 ★★★



 堤の補強を琢たちに任せて、投石機を支える為に学と克と共に重たちが移ってきた。

 どかんの起こす爆風は凄まじい。

 この足場の悪さでは、あらぬ方向に吹き飛ばされ倒される恐れがあるからだ。それでなくとも、この暴風で定位置を保つのが困難になりつつある。

 同時に、時辰じしんの鐘の音が、日出の正刻を伝えてきた。

 耳を澄ませていた那谷が叫ぶ。


「刻限です!」

「香縄に火を付けろ!」

 下手をすると浮きかける投石機を支えつつ、戰が命じる。

 天幕の中で、甕の中の香縄と、時間の進み具合を知る為の香縄に同時に火が付けられた。

「火を点けました!」

 那谷が叫ぶ間に、慎重に香縄は甕に戻され、そして蓋をされる。

 芙が、温めて溶かした蜜蝋を満たした手鍋を持ってくる。縁どりをするように、那谷は刷毛で慎重に封を施した。甕からの昇っていた煙が消える。

「投石開始!」

 戰が命じると、櫓係の男がするすると梯子を登っていく。雨で滑り易くなっているのをものともしないのは、流石に鍛錬の賜物だった。

 櫓を支えつつ見上げる克の横に、学が走ってきた。

「河の流れは!?」

「目標点は確認出来ますか!?」

「大丈夫です! いけます!」

 学の存在に気が付いた男が、明るい声で叫び返し、腕を回す。

「よし! 打ち方用意!」

「おおっさぁっ!」

 克が叫ぶ。

 部下たちが、意気軒昂に叫び返した。



 試し打ちの時とは違い、まるで生まれたての仔牛を抱き上げるかのような丁寧さで合計4つの甕が運ばる。

 先ずは、二つが投石機に設置された。

 綱を引く役目の男たちは、再び定位置に立つ。

 暴風のうねり方が、いよいよ奇しくなってきた。水を含んだ綱は、握り締めにくい。命令によって、握る箇所を並ぶ順番を替えている男たちだが、許された時間を一杯まで使って確認し合う。

 暴風でがたがたと撓り出した為、投石機の方向を狙い定める指示を出す男も、いつになく苛立ちを見せる。

「焦るな! まだ時間はある!」

 克の普段と変わらぬ声に、投石機に群がらる男たちは、おう! と声を上げる。

 長く訓練を共にした、慣れ親しんだ声に勇気付けられ、落ち着きを取り戻したのか、男たちの身体から、余分な力が抜ける。同時に、作業が一気に流れるように進んでいく。

「此方、大丈夫です!」

「万端、整いました!」

 櫓の男を克が見上げると、腕を回して問題ないと知らしめる。

 投石機を押し相撲をしてるかのような形相で、戰が叫んだ。


「よし――打て!」

 今度は引導係ではなく、克が成り代わって叫ぶ。

「放てぇーっ!」

「おおぅっ、さぁっ!」

「そぉいっやっ、さぁっ!」

 節を取るように、号令を掛け合い、綱が、ぐぅ! と引かれる。

 試し打ちの石同様に、甕が二つ、そして直様もう二つ。

 弧を描いて対岸に向かって放たれた。

「退避しろ!」

 戰の命令の元、櫓の上の男が一目散に梯子を降りる。

「爆風で投石機と櫓が倒れる可能性があります! しかし、顔を上げてはなりません! 全員、頭を庇って背を丸めて下さい!」

 芙の声に皆が従う。

 同時に、天幕の中で那谷が叫んだ。

「香縄が消えました!」

 皆が、固唾を呑む。

 頭を出して、炸裂する瞬間を確かめたい欲求に駆られる。

 しかし、その半瞬後。


 ――ぐおおぉぉぉっ!


 爆音と共に、大地が戦慄き、大気が震撼する。

 台風の暴風などものともせず、濛々と音も高く白煙が巻き起こり、それを披帛の如きに纏いつつ、河の渦が爆裂し、轟々と火山の炎柱に勝るとも劣らぬ勢いで天空を目指し一直線に駆け上がる。

 それを思い知らせんとしてか、音と風が壁となり、咆哮と共に襲いかかる。

 正に、竜吟雲起!

 竜の咆号たるやかくや、と兇猛さに恐怖に、肺腑が痺れて止まりかける。

 戰ですら、身を竦めずにはいられない、猛烈な爆音と豪風だった。



「うおおおぉっ!?」

「ぐわああぁっ!?」

 錯乱一歩手前の叫び声が、そこかしこで上がる。

 髪が振り切られて乱れ、衣服は剥ぎ取られる寸前となる。

 投石機の上部が、風と音に粉々に粉砕され、バラバラと頭上から降り注ぐ。

 那谷と芙が守る天幕も、横殴りの風の壁に、布が引き剥がされ、半ば旗のようにばたばたと破裂音を鳴らし、身悶えた。

「学! 伏せろ!」

 腕で爆風の圧力から目を守りつつ、戰が叫ぶ。

 一瞬、そぞろになった気持ちのままに面を上げた学は、呆然と上半身を暴風の哮りの只中に晒していた。自然の猛威すら一蹴する爆裂波に、魂が抜けてしまったのだ。

 舌打ちする間も惜しく、学を引き寄せて身体の下に組み敷くようにして庇いながら、戰は怒鳴った。

「成功したか!?」

 轟音は、水蒸気の臭いと土塊の臭いを撒き散らした。

 どかん(・・・)は見事に、炸裂したのだ。

 後は――この爆裂が、この焦眉の急を晴らす事はできたのか!?

 それとも――否か!?

「郡王殿!? お怪我を!?」

「私に構うな! 成功したのか!? どうなのだ!?」

 飛び散った木片が掠めたのだろう。

 雨に濡れた頬に、じわじわと赤い線が垂れていた。

 やっと正気を取り戻した学が、震えつつ手を伸ばしかけると、戰は手の甲で、ぐ、と滲む鮮血を拭い取った。しかし、その程度で収まってくれるものではない。また新たに滲んでくる赤い紋様には、もう構わない。

 仁王立ちになり、未だに収まりきらぬ風と音の壁から身を守る為、ぎらぎらと眼を怒らせ、切歯しつつ周囲を探る。だが、竜となって天空を目指した河の水と、それを守る白煙とが、全容を知らせてはくれない。


「どうなってやがる!?」

「おい、どうなった!?」

「分からねえ! 何も見えねえ!」

 交錯し合う怒号の中、櫓をするすると登る影が現れた。

 克だ。

 まだグラグラと傾ぐ櫓をものともせずに登りきると、腕で白煙から顔を守りつつ対岸に向かって目を細める。

「克、どうだ!?」

「克の旦那! どうなってる!?」

 戰たちの期待を込めた叫び声に、克が答えようと口を開くより早く。


 ――ず……!

 ずずぅ……!

 ず、ず、ずぐおおおおぉぉっ!


 まるで、山津波の如き轟きが答えた。

 いや、霹靂神はたたがみの雄叫びか。

 先ほどとはまた種類の違う、地鳴りと空気を揺るがす音が響き渡る。

 やがて、豪雨の激しさが思わぬ功を奏したか、あれ程の白煙が、微かに落ち着きを見せ始めた。

 その機を逃さず、克が眉に沿ってて宛行い、対岸の姿を見定めんとを細めて必死になる。


「うおおぉ!?」

 克程の男が気圧されて、目を見開き、感動に震えた叫びを上げる。

「おい、克の旦那! どうなってんだよ、おい!」

「堤が! 堤が切れた! 河の流れが注ぎ込んでいる!」

「なにぃ!? 本当かよ、おい!」

「ああ、切れた箇所が水の勢いに押されて、どんどん堤が開いて行くぞ!」

 克が言う間に、土嚢を振り切ろうとした越水が、引き始めている。

「くっそ! この眼で確かめてやらぁ!」

 言うが早いか、重は危険を顧みずに土手をよじ登りはじめ、堤の上に立った。

「おい、やめろ馬鹿!」

 琢が叫び、引きずり下ろそうと土手の半ばまでよじ登って足首を掴かもうと、手を伸ばした。すると、重がその腕をとり、同じく堤の上に来るように、逆に琢を引っ張り上げた。

「おぅっ!?」

 頓狂な声を上げて重に殴りかかろうとした琢だったが、河の容貌を目の当たりにして、だらりと腕を落とした。

 大きく目を見開き、打ち上げられた魚のように大きく開いた口をぱくぱくとさせる。

 引きずり上げた方である重も、ゆらゆらしつつ、腰砕けに堤の上にへたりこんだ。


「やっ……」

「――や? な、なんですか!?」

「やっ……、やっ、やっ……」

 琢の、ぱくぱくとした口からは、なかなか声が出ない。

 業を煮やした戰が、立ち上がって克に命じた。

「克! どうなっている! 見えるか!?」

「水が対岸の向こうで、新たに一本の河の流れを形成しているのが確認出来ます!」

「河は!? 河の流れは!? 水嵩はどうなっている!?」

「本流の水嵩は順当に減ってきております! ――成功です!」

「……せい、こう……?」

「そうです、学陛下、成功です! 成功したのです!」

 克が万歳をしつつ、殆ど駆けるように櫓から降りようとすると、櫓はとうとう、ぐらりと傾いだ。

「危ない!」

 学の悲鳴をものともせず、克は寧ろ好都合、とばかりに櫓を蹴り、飛び降りた。ずん、と地響きを立てて崩折れた櫓など顧みずに、克は、成功だ、成功したぞ! と、腕を振り回しながら走り回わる。

 潰れた天幕の迷路の下で藻掻いていた那谷が、芙の手により救出される頃には、克は、一気に土手を駆け上がっており、琢と重の首筋に太い腕を回して抱きついていた。


「うおおおおお! 成功だ、成功したぞぉー!」

「成功しちまったぜぃ、おいこら、この野郎!」 

「やったぜ、成功だぜ、くっそこん畜生めが!」

 戯れあう仔犬のように、殴り合い縺れ合いながら三人は、やったやった、と叫び合う。克の部下も、投石部隊も、琢の仲間も重が率いてきた男たちも、三人に習い、興奮が命じるままに泥に塗れて暴れま回り始めていた。

 揉みくちゃの押し合いへし合いで喜びあっていると、ずるり、と琢が泥に脚をとられた。

 思わず琢は、腕を伸ばして克の襟首と、重の特鼻褌の紐を引っ掴む。

「うおぉ!?」

「どわぁ!?」

「ぐわぁ!!」

 地滑りが起こるままに団子状態で、ずどどどどど、と三人は土手から派手に転げ落ちた。あっという間もなく、土手下に叩きつけられて、今度は潰れた蛙状態で伸びている。

「克!? た、琢、重、大丈夫か!?」

「み、皆さん、ご無事ですか!?」

 泥饅頭となった三人に、戰と学とが駆け寄る。

 戰の頬の血止めをしていた那谷も、芙も、そして克の部下も琢や重の仲間たちも、一目散に寄ってきた。

 皆が見守る中、なかなか動かなかった泥饅頭の一つが、ぶるぶると震えだした。

 怪訝な顔付きで克に寄ろうとする戰の前で、泥を跳ねながら、がば! と克は身を起こし、そしてそのまま平伏した。

 泥水の中に、顔を埋める程の勢いだ。


「陛下! お願いが御座います!」

「ど、どうした、克」

「どうか、お聞き届けを!」

「何をだ? 話してくれねば叶えてもやれない。落ち着いて話して呉れないか、克」

「陛下……どうか! どうか勝鬨を!」

 涙に濡れた、曇った声が絞り出される。

 ぶるぶる震え続ける克の背中をした泥饅頭を、バシ! と景気よく叩くのは琢の顔をした泥饅頭であり、ほら立てよ、と腕をとったのは重の顔をした泥饅頭だった。

 だが、克は平伏したまま、頑として動かない。

「陛下、伏して願い奉ります! 勝鬨をお上げ下さい!」

「……克」

「陛下、何卒! 何卒、此度の事、戦とお認め下さい!」

 猛る河の雄叫びは、未だどうどうと轟音をなって耳と身体を打ち据え続けている。

 それは、河が新たに作られた証――

 そう、人間が大自然を制した証だ。

 河が二竜となったのは、戦いに勝利したからだ。

 真が立案した策により、洪水という未曾有の危機を乗り越えたからだ。

 だが本来、こうした災害を止める為に兵部が動いたとしても、其れは戦とは認められない。

 戦と認められなければ、記録には残らない。

 ただ、備忘録に『某年・大雨による洪水有・越水見受けられし・而して堤を切り・河の流れを二手とし・洪水の難事乗り越えたり』とでも残されれば良い方だろう。戦時の記録と違い、余程の事がなければ、指揮者である克の名すら記される事はない。

 記録に残らねば、讃えられる事は決してない。


 自分たちは良い。

 この場にて苦難を共にした琢や重たちが、この姿を心に刻んで呉れている。

 だが。

 王城に居る彼らはどうなるのか?

 この場に駆け付けられなくとも、国に尽くしてくれた者が居るのだ。

 この場に居ない、勲一等の功労者を讃える為にも。

 戦として認めて欲しい。

 夜を徹して作業に没頭した、虚海、通たち。

 彼らを支えた続けた、珊や福。

 空いた王城を守り続けた、類。

 残された妃の椿姫を助け続けた、蔦や豊たち。

 施薬院の役目を怠らなかった、医師や薬師たちや下男や娘たちも。

 彼らの名前が後世にまで伝えられるよう、戦として記録を残して欲しい。

 いや、策が成功するように奔走したのは、彼らだけではない。

 ――真の為に。

 まことの功労者、策を発案した真の為に!


 口の中に入り込んだ泥を吐き出しもせずに、克は懇願を続ける。

「陛下! 何卒宜しく申し上げます!」

「陛下、俺っちからも頼むぜ。大将の踏ん張り、認めてやってくれよ」

「だな。俺たちゃ、その、真って野郎の事ぁ知らねえが、そいつが考えついてくれなきゃ今頃、どうなってたか分からねえ。一番恩義を感じなきゃいけねえ」

 戰は、克たちの肩を招き寄せて、抱きながら頷く。

「勿論だ、言われるまでもない。此度の勝ち戦、王城での助け無くして有り得なかったのだから」

 戰の力強い宣言に、克の両眼から、ぶわ、と一気に涙が溢れる。


 傍らに寄って来ていた学の腕をとり、そして、小さな腕を共に振り上げる。

「勝鬨を!」

「勝鬨を!」

 戰と学の命を待っていたとばかりに、竜吟を消し去る勢いで声が上がる。



 ――郡王陛下、万歳!

 ――国王陛下、万歳!

 ――祭国万歳!

 

 日出正刻。

 正しく、日の出を告げる時辰じしんの通り。

 分厚い雲の下であっても陽光の赤みを感じつつ、何時までも声は上がる。



 ――両陛下万歳!

 ――祭国万歳!




【 時刻について 】


長らく覇王の走狗内では、時刻の名称を正しく明記しておりませんでした(つまり作者が決めかねていた)

しかしながら今話、明ける夜その8においては時間の流れを感じて頂くために、漢の時代の時刻を元にさせていただきました


時辰じしん=約2時間

1刻=約14分


子丑寅・・の呼び方でお馴染みのアレが本来、十二時辰と呼ばれるのですが、時刻の名は


夜半、鶏鳴、平旦、日出、食時、隅中、日中、日昳、晡時、日入、黄昏、人定


としました


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