8 明ける夜 その1
8 明ける夜 その1
克が、がたがたと音を立てて、戸板を外す。
真が描き出した地図が描かれた、例の戸板だ。その奥に続く間に戸板を広げ、地図を見やすいようにする。ふぬ、と暑さに汗を拭いながら克が息をつく前で、杢が地図を撫でながら、眉を寄せた。
「地図を、何か別のものに書き写さねば。陛下の元に持って行きよいようにせねばなりませんな」
「そうだな。城に戻って、新しい戸板も共に用意してくる」
克が立ち上がるのと入れ違いに、その部屋に、わらわらと下男たちが手に手に大荷物をもって現れた。真が指示した、木炭と硫黄とが、運び込まれたのだ。
硫黄は、施薬院でも生薬として使用する為、馴染みが深い。
痛みを伴う痒みや殺菌作用があり、古くから用いられている。商人である時が尽力してくれたお陰でこの施薬院には、ありとあらゆる生薬が、実に豊富に取り揃えてある。蔦と連携していてくれる為、この施薬院の実力は、薬だけを見ても他国の診療所など足元にも及ばない程、質量ともに充実している。
赤斑瘡が祭国全土を覆って流行したとしても、太刀打ち出来るという確信の元は、此処にあった。
「真さん、そんでやな、その、どかんたら言うんは、木炭と硫黄で出来とるんやな?」
くんくん、と鼻を鳴らして硫黄の塊の匂いを嗅ぎつつ、虚海が尋ねてきた。
薔姫が苦薬湯を飲むのを見張りながら、いいえ、と真は頭を振った。
「河国との戦いの折には手に入らなかった為、仕方なく木炭と硫黄とで対処したのですが、実はもう一つ、大切な成分があるのです」
「ほ? 何やな、そら」
真に促された芙が、此方の此れになります、と包を取り出す。差し出された包を、虚海は訝しみながらも、丸ごと受け取った。
布をちょいちょいと指先で払うと、はらり、と音をたて中身が現れた。
乳白色の柔らかい印象の石だ。水晶ほどの透明性はないが、光沢を持ち、薄紅褐色や灰色、黄土色などが淡く差し込まれている箇所がぼつぼつと見受けられる。
皺枯れた掌の内側で、ころころと弄ぶ虚海を、芙はじっと縋る様に見詰めている。
「その石が何であるか、私たちは結局、突き止められなかったのですが……ただ、以前、この施薬院で見かけた事があったように記憶しているのですが」
「真さん、大当たりやな。こら、硝石や。確かに、この施薬院にある」
「硝石?」
上目遣いにして密かに様子を伺っている薔姫の頭の上で真と、芙とが顔を見合わせると、虚海はにやり、と笑ってみせた。
硝石も生薬として使用される。
が、禍国にも祭国にも、大量に採れる産地がまだ見つかっていない為、他国との取引に完全に頼っているのが現状だ。入手の困難さと、また代替えが充分に効く為、使用頻度が低い生薬だった。
しかし、ありとあらゆるものを、満遍なく取り揃えておきたいという那谷の収集癖が、功を奏した。それに応えうる時の財力と顔の広さにより、施薬院の倉庫に大きな塊が眠っていると告げられ、芙と真は同時に顔を輝かせた。のほっのほっ、と久々に独特の笑い声を虚海が上げる。
「そんでやな、この硝石、硫黄、木炭の比率はなんぼなんや?」
「硝石が七、硫黄が一、木炭が二、です。均一に混ぜ合わせる事が大切なんだそうです」
「は~ん?」
どら、処方をみせてみい、と虚海が硝石を弄びながら真を促す。
処方を読み進めるうちに、虚海の表情が険しくなった。
まず。
原材料となる硫黄と木炭を、まず均等に磨り潰して混ぜ合わせる。
綺麗に混ぜ合わさった物を、今度は真水で丹念に練り合わせる。
次に、同じように磨り潰した硝石を入れて練り上げる。
出来上がった混合物の練り物を広げ、竈の横の熱で乾かす。
熱すぎても冷めすぎても、良くない、ぬるめの蒸し風呂程度の熱さがよい。
完全に乾いた後、均一に圧縮し、丸薬状態に仕上げる。
大きすぎても威力が均等にならない。
小さすぎても燃焼するだけで終ってしまう。
大きさは、米粒程度が最も威力がある。
――とある。
契国では秘術として代々、厳しい管理のもとに受け継がれていた為、可能であった技だ。
果たして、初めて行うこの面々で、何処まで効果を近づける事が出来るのか。
「こら、よっぽどの熟練のもんやないと難しいで。よっしゃ、一丁、儂がやっちゃるわ」
「しかし、診療もありますし……」
「あかん。こっちかて、人の生き死にがかかっとるんは同じや。儂がやる」
虚海の申し出に、ありがとうございます、と真が頭を垂れる。
「真殿、どかんの威力なのですが、河国の戦の報告を読ませて頂きますと火計のようでした。炎などで、堤を吹き飛ばす事が本当に可能なのですか?」
通が、愛用の十露盤を膝下に寄せながら、訝しげな声を上げる。
常識的に考えれば確かに、軍船相手だったからこそ、どかんは有効であったと思われても仕方が無い。
「この、硝石が手に入らなかった為、木炭と硫黄を松脂で固めたので炎が上がったのです。最も、周辺に柴油を撒いたせいもあるのですが」
真は、苦薬湯を飲み終えた薔姫から、椀を受け取るとその小さな手を自分の掌の上で撫でた。
「姫、申し訳ありませんが、ちょっと、手を握って拳を作っては貰えないでしょうか?」
「え? ……う、うん、いいわよ……」
真に請われるままに、薔姫は真の掌の上で手を握りしめて拳を作った。まだ、うっすらと握り拳に笑窪が残る幼い手に真は微笑みかけると、通を手招く。
「契国では、この、姫の握り拳くらいの大きさのどかんを炸裂させたのですが、私一人が入って隠れる事が出来るくらい、土が吹き飛んで抉れました」
真の言葉に、何やてか!? と虚海も叫びながら近寄ってくる。
通が、ゴクリと喉を鳴らしながら、失礼致します、と薔姫の手をとった。巻尺を取り出して、薔姫の拳の大きさを測りとると、今度は、座っている真の腰から脳天までの高さ、肩幅、膝を抱えたときの広さ等を測っていく。
「水分を嫌う為、甕の中に、丸薬状態にした調合したものを詰め込むので、実際には甕の大きさと重さが問題になってくることかと思います」
「そんな危険なものに、火は、どのように着火させておられたのです?」
「こう、長い布切れに着火させておいて、逃げ出す余裕を持たせていたのです。私たちも河国戦で使用した際は、ある程度の長さを持った布を使用しました。しかし今回は、対岸に落ちると当時に炸裂するように、着火用の布の長さも計算に入れていかねばなりません」
「成る程、成る程」
通がふむふむ、と頷きながら十露盤を膝の上にのせた。
薔姫の握り拳の大きさ程度のどかんが炸裂するだけで、真の身体が入るほどの威力があるとするならば、堤を切るのにどれだけの量が必要となるのか。
「杢殿、導入された投石機ですが、人力のものでしたな?」
「はい、飛ばせる石の重さは最大で大凡10貫目あたりです」
「成る程成る程」
「甕の重さは、大きなものですと1貫目はあります。詰められる量としては、5貫目に少々届かない程度でしょうか?」
「成る程成る程」
杢の説明を聞きながら、通は早速、愛用の十露盤で計算し始めた。
まるで猫のように背中を丸めて集中して、弦をつま弾くように珠を弾いている。しかも、その指の動きが有り得ない程、速い。
「真殿、一定の速さで確実に燃えるとなると、布切れでなく紐か縄、の方が良いようですが」
通の言葉に、既に施薬院で働く薬師たちに指示を出して、硝石と硫黄、木炭を薬研で粉にし始めていた虚海が、頭を上げた。
「はい、縄が良いでしょうね。大常寺へ行き、時間を正しく計る縄を頂いてきた方が良いでしょう」
大常寺は、卜占を司る部署だ。
祭祀の際に、時間を正確に計らねばならぬ場合もあり、そのときは長尺香と呼ばれる、一定の時間で燃え尽きる香が焚かれる。しかし、長尺香は大変に貴重な品である為、薫香を染みこませた縄で代用するのである。その縄であれば、投石機で甕を投げ付ける迄の準備の時間を取ることができる。
「しかし、摩擦といいますか、振動等でも発火する事もあるとのことなのですが、投石機を使って良いものか、少々気になるのですが……」
「そこら辺はもう、賭けに出るしかあらへんやろ」
「……はい。後は、当然の事ですが、湿気に非常に弱いです。着火し、蓋をする際に雨が振り込まぬようにせねばなりません。其処は、契国より手に入れました煤黑油を塗った帆布で天幕を覆う事で対処致しましょう」
再び、酷い咳が出始めた薔姫の背中を摩る真の、もう片方の掌が軽くなった。乗せていた、薔姫の握り拳が離れたのだ。そして、ぐいっ、と引っ張られる。ん? と視線を幼い妻に向けると、薔姫の手は真の衿を握っていた。
「……あのね、我が君……」
「はい、何ですか?」
「……あのね……」
薔姫の声が、小さくなる。逆に、衿を引く力は更に、ぐ、と強くなった。真の上体が被さるようになると、薔姫が首を伸ばした。
そして、唇を少しだけ尖らせると、真の耳元で、こそこそと何か囁く。
静かに耳を傾けていた真は、薔姫の唇の動きが止むと、ふ、と口元を緩めた。
「分かりました。試して貰いますね」
真の答えに、薔姫は咳こみつつも顔を綻ばせた。
★★★
男たちの話し合いが加熱する中、珊が薔姫に醤を添えた玉子粥を持ってきた。
「うわっ!?」
熱い土鍋からたつ湯気よりも、熱気の篭った室内に、ぎょっ、となる。
変わらないのは、こんこん、と強い咳をする薔姫を真が抱き上げながら、背中を擦りつつ身体を揺らしている事だ。
「では、後の事は宜しくお願いします」
おう、と答えるなり、新たに運ばれてきた戸板を、克ががたがたと音をたてて差し入れだした。流石に、作業現場を見せていては、薔姫も落ち着けない。
明日になれば確実にまた熱が上がり、その熱を乗り切る事が出来るかが、病克服の焦点となる。
真がこれ以上、気持ちを散らしてはいけない、という皆の配慮だった。
「後の事は、心配なさらないで下さい。真殿は、姫様の事を見ていて差し上げて下さい」
「そうです、私と克殿は一度、城に戻りますが、ともあれ我々にお任せを」
「ほうやほうや、どーんと任しとき、な、真さん」
はい、と目を伏せながら、真が頷く。
反対に、真の肩に額を預けていた薔姫は、閉じていた目蓋を、汗で濡れた睫毛を震わせながらゆっくりと開けた。
「……我が君、おしごと……もう、いいの……?」
「はい、もう大丈夫です。騒がしくして、申し訳ありませんでしたね、姫」
言いながら真は、薔姫の前髪をかきあげて、額と額をつけ、熱を計る。
「おや、また少し熱が下がりましたね。今のうちに、何か少し、お腹に入れておきましょう」
「……たべなくちゃ、いけない……?」
長い間、熱に浮かされていた為、身体は確かに何か食べ物を欲しているが、喉が拒否しているのだろう。所謂、『口不味くて食べる気が起きない』というやつだ。
しかし、今を逃すと、また数日間、ろくに食事が摂れなくなる。
少しでもいい。
何か腹に入れなければ、身が持たない。
薔姫を抱き上げならが、真は珍しく真剣な表情で窘めた。
「元気になって欲しいですからね。でも何が、食べたいですか? 食べたいものを食べたいだけ食べて、早く元気になって下さい」
「……あのね」
真の耳に口を寄せて、薔姫が何かこそこそと告げると、真が、ぷっ、と小さく吹き出した。
「芙、申し訳ありませんが、瓜はありませんか? 我が姫様が御所望なので」
「は? 瓜、ですか?」
「はい、半月に切った形で。ああ、種は取らずにそのままでいいですから」
「はあ」
「特別に、きりきりと冷えたものをお願いします」
「は、はあ」
半分笑いながらも、何故そんな奇妙な形で欲しがるのかと訝しみつつ、芙が一旦奥に下がる。
芙が厨に消えるのを見送りながら、薔姫をあやすように揺らし続ける真が、不意に、珊の方に向いた。
「おや、珊。食事ですか?」
「あ、うん、玉子のお粥さんなんだけどさ。真、朝ご飯中途半端にしちゃったでしょ? だから姫様と一緒にさ、どうかなあって思って」
「有難う御座います。折角ですから、頂きます」
薔姫を布団の上に横たえさせると、真は珊から、まだ、ほかほかとした湯気のあがる土鍋を受け取る。
「姫も頂きませんか? 珊がつくってくれる玉子粥、姫、好きですよね?」
「……うぅん、瓜だけでいい……我が君が、食べて」
そうですか? と目を細めて答えると、真は土鍋の蓋を取った。
蓋を椀の代わりにして、中身を匙で取り分けると、ふうふうと息で湯気を払いながら、実に旨そうに口に運ぶ。
見ている此方の喉と腹がなりそうだった。
土鍋の蓋と口と、何度も匙を往復させるうちに、布団に背中を預けている薔姫の視線が、じぃっ、と動きを追い出した。それを確かめると、真は殊更に明るい声をあげる。
「美味しいですよ、珊、有難う御座います」
「あ、うん、いいよぅ、そんな事。お腹すいてるでしょ? いっぱい食べてよ」
「有難う御座います。――姫」
「……なあに……?」
「本当に食べなくてよいのですか? 美味しいですよ? 醤の味付け、好きですよね? 早くしないと、私が全部食べてしまいますよ?」
「……あの……あのね……」
「はい、何ですか?」
「……ちょっと……だけ、食べたく、なってきちゃった……」
熱を息で払ってから、真が笑いつつ差し出した匙を、薔姫は含羞みながら口に含んだ。
★★★
椿姫の産微が、また少し収まりだした。
苑に手を握ってもらい、駆け付けた豊が背中から腰をさすると随分と楽になり、腹の異様な張りと痛みが逃れるらしい。
産婆たちも、椿姫の出産がどのような流れになるのか、長い経験をもってしても皆目見当がつかない。
その為、その場その場をしのいでいくしか方法がなかった。
「本当に、こんな調子で御子は無事に産まれてくるのかしら?」
心配そうに声を細くする椿姫に、苑が大丈夫ですよ、と声をかける。
「心配しなくても、大丈夫ですよ。いつお腹から出たらよいのかは、お腹の御子様が、ちゃんと陣痛でお知らせしてくれます」
「でも……」
「そうそう、そんな心配する事ありませんわよ、お妃様。お腹の子供ってのは、待っててと思っても、勝手にお腹痛くして、出てきちゃうもんですからねえ」
豊が、臨月である椿姫よりも豊かな腹の肉をパンパンと手で叩き揺らして、からからと快活に笑う。
真の家で九人目の子供の丸を産み落とした豊は、陣痛が始まるまで、妊娠に気が付かずにいた強者だ。その彼女の言葉は、異様な説得力があり、その場に居たものはみな、苦笑しつつ釣られて頷く。
「でもまあ、あんまり産微の痛みを逃し過ぎても、陣痛が遅れてしまいますからね。何事にもほどほどですわ、お妃様、ほどほど」
「ほどほど?」
「そう、ほどほど。あ、でも、お妃様も陛下もまだまだお若いから。子供つくるのはほどほどじゃ駄目ですよ? 遠慮してちゃいけません。ほどほどじゃ、なくて、どんどんばんばん作らなきゃ、どんどんばんばん」
「……」
「まあ、世の中の旦那ってのの中にはね、大概な野郎が結構おりやがりましてですねえ」
「……まあ?」
「手前勝手に腰振って気持ち良くなるだけなって、そんで子供出来ても作りっぱなし、っていう碌でもないのが多いんですよ、全く、むかっ腹たつことに。でもね、陛下はたった一日の逢瀬の為に、馬飛ばして駆けつけてくれる程、お妃様にべたべたに惚れていなさるんですから。たーんと子供作んなきゃ、損ですよ、お妃様」
額に汗をかきながら、豊は、あっはっは、と豪快に笑う。
肝っ玉の太いお母さん、という表現が実にしっくりくる豊に、でん、と構えていられると、どうなのだろう、自分はちゃんと赤子をこの世に送り出せるのだろうか、とうじうじしている方が馬鹿らしくなり、気持ちも軽くなる。
椿姫が、ふふふ、と声にだして小さく笑い声をあげた。
釣られて、苑も微笑む。
だが、和んだ空気ごと驚かせるつもりなのか、産屋ごとがたがたと傾ぐように大きく揺れた。女たちが小さな叫び声をあげて、誰からともなく寄り添いあう。
豪雨の唸り声に聞き入りながら、苑が心配げに視線を巡らせた。
「……義理姉様」
「えっ……?」
まさか、椿姫に声をかけられるとは思ってもいなかったのだろう。飛び上がらんばかりにして、苑は椿姫を振り返った。
「一度、お城の方に戻られて二人が向かった邑の様子を、伺ってらして下さい」
「……え?」
「邑で二人の気持ちが届いたのかどうであったのか、ご心配、なのでしょう?」
一瞬で、心の内を覗き見られた苑は、頬を赤くした。
今この時、自分こそが初めての出産に臨む義理妹を力つけて助けてやらねばならないというのに。逆に励まされてどうするというのだろう?
「お妃様、そんな心遣いはどうかなさらないで下さい。私は、貴女の傍を離れたりしませんわ」
苑は握った手に手を被せる。
すると、椿姫はするり、と握り合った手を解いた。
「義理姉様こそ。私の事は、心配なさらないで下さい。豊も、皆もついていてくれています」
「……そんな、でも」
「戰と学がどうしているのかは、蔦と克と虚海様が一番良く把握していると思います。どうしているのか、尋ねてきて下さって?」
「……でも、それではあんまりに」
勝手過ぎはしないだろうか?
椿姫とて、良人である戰の身を深く案じているのは同じ事だ。
愛おしい男が生きて帰るか帰らぬのか、その瀬戸際を見守る心の痛みは、誰よりも自分が知っている。
しかも其れは、戦地ではなく、己の国の者と対峙して、なのだ。
不安。
恐怖。
焦燥。
全てが綯交ぜになり、身体を、心を、魂を、みしみしと音を立てて締め付けてくるあの切なさを、自分ほど体験している女はいない。
知っていて、自分が学を産んだ歳よりも若い義理妹をおいて、一人、自分の心の安寧を得る為に動ける訳が無いではないか。
「義理姉様、お願いです。私の為にも、行って下さい。私ももう、後悔したくはないのです」
「え?」
「私のお兄様の時に、心のままに振舞う事が出来なかったが故に、義理姉様は、ご自分の心の動きに封をされてしまうようになられました、でも」
今度は、椿姫が苑の手を取り直す。
「もう、我慢なさらないで下さい。義理姉様は、確かにこの国の准后としてお大宮として、学を国王として立たせねばならないお立場です。でも、もう立場に囚われないで下さい。義理姉様は、学のお母様。それだけで、良いではありませんか」
椿姫が、大きく波打つ腹を撫で、彼女の腰を摩りつつ、豊がにこにこと笑う。
「ほら、私の御子も、頷いています」
「……椿姫様」
苑は、椿姫と彼女の背中を支えるようにしている豊を一度に抱き竦めた。
ぎゅ、と力を込めて、感謝の意を伝えると、すっと立ち上がって戸口に向かう。
「ああ、大宮様、濡れないように、その、私が被ってきた布を頭から被って行って下さいませね、全然濡れやしませんから。うちの子の福ら作った優れ物ですよ」
「……豊様」
「でも、ま、お妃様と大宮様がお二人束になってかかってきても、私の横幅に叶いやしませんからねえ。濡れっこないのは道理ですけどねえ」
たっぷりとした腹をばんばんと叩きながら、豊はからからと景気良く笑い、椿姫も頬を緩ませる。
有難う、と濡れた声で応じつつ、苑は帆布で出来た外套のような長衣のようなものを身体に巻き付けて、産屋を出て行く。
後に残された、椿姫と豊たちの間には、暖かい笑みが咲き誇っていた。




