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覇王の走狗(いぬ) ~皇華走狗伝 星無き少年と宿命の覇王~  作者: 喜多村やすは@KEY
六ノ戦 落花流水

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7 儚(くら)い空 その9

7 くらい空 その9



 邑の関が豪雨の飛沫の向こう見えてきた。

 熱気が、もやとなって全体を包み込んでいるような、異様な空気が澱んでいる。

 此処まで、必死で戰と千段に喰らいついていた学が、流石に怯みを見せる。

 すると、戰が腕を伸ばして、手綱を引いた。

「郡王様!?」

「行くぞ、学」

「は、はい!」

 豪雨の最中、学は負けじと声を張り上げた。



 邑の関を守る兵たちは、戰と学の姿を目に留めると明白に安堵と、そして戸惑いの表情を浮かべた。

 郡王である戰の登場には、この緊急事態を収めて貰えると期待を抱いているがまだ少年の身で王となったが故に騒動の元凶となった学には、正直な処、来られても騒ぎが終息するどころか、大仰にしかならないという恐れしか感じられない。

 それでも、戰と共に胸を張って馬を進める学の姿に、王として、きざはしを登る者の威厳が匂い立っているのを感じ、思わず、最礼拝をもって迎え入れていた。

「状況は?」

「芳しくありません」

 眉根を寄せる兵と、そして馬から降りた戰と学、那谷の耳に響めきが伝わってきた。

 郡王である戰と、そして国王となった学。

彼らがやってきたと知った領民たちが、どっと関に押し寄せて来たのだ。

「陛下! 何故、関を封鎖されるのです!? 私どもを見捨てられるのですか!?」

 誰かの悲痛な叫び声が上がると、そうだ、そうだ、という響めきは一層強くなった。

 声を上げたのは、学と同じ年頃の子供、男の子と女の子を肩に担ぐようにして抱き上げている男だった。彼の子供でだろう兄妹らしき二人は、しっかりと首に腕を回して抱きついている。

 その背後には、彼と同様に子供を抱いたり腕を引いたり、荷車に荷物と共に数人を乗せたりしながら、多くの男女がひしめいていた。

 男と、彼の周辺にいる者たちが先導し、主導者として此処まで人々を集結させたのだろう。


 ――契国の、あの時あの夜と、似ている。

 戰はそう思った。

 ばつたちが、むら雑徭ざつようとして集められた人々を率いて、契国の王子・せきと宰相・がんに命懸けで迫ってきた、あの日の出来事だ。

 決死の覚悟で、自分たちに契国を滅ぼしてくれてと懇願してきた彼らの姿と、眼前の祭国の領民の姿が重なる。

 一瞬、瞳を閉じて、あの時のせきの気持ちを思う。事態に対応するのに精一杯で、彼の気持ちを慮る余裕などなかった自分の未熟を、ひしひしと感じる。

 こんな気持ちでいながらも、碩殿は、宰相であるがんから民を守ったのか。

 そう思えば、自分も背筋を正さねば、と戰の表情が引き締まる。

「見捨てなどはしない、皆、この祭国に住まう大切な民だ。出来る限り、力を尽くす」

「……こ、言葉だけなら、何とでも言える!」

「天涯を治める天帝に命を賭けて、約束しよう」

 興奮の坩堝と化しかけたその場を、戰の力強く、それでいて静かな声が、染み入るように伝わっていく。

「先ずは、私たちの言葉を聞いてくれないだろうか?」

 戰の堂々たる声に圧倒され、集結した領民たちは、ぐっ、と生唾と共に言葉を飲み込む。

 改めて『王者の威』というものを感じ取ったのだろう、怒りに豪雨を蒸発させていた領民たちの熱が、僅かにだが、下がり始めた。

 落ち着きは、自分たちの言動を振り返えさせるのに充分すぎる効果を発揮し、彼らは、こそこそと互いの顔を見合わせだす。互いの顔を見合わせると途端に意志も揺らぐのか、視線が泳ぎ、怒気の足並みが微かに崩れだした。

 その、僅かに生じた領民たちの心の隙間に畳み掛けるように、戰は続けた。


「確かに、私たちはこの王都に続く関所という関所を封鎖した。しかしそれは、赤斑瘡あかもがさという脅威を広めむ為には必要な処置だ。この赤斑瘡あかもがさは、患者と接触した者を無闇に移動させるだけでも、広まってしまうと既に我々は突き止めている。この祭国全土に、疫病を広めぬには、関所を封鎖し、人の流れを止める。これが最も有効な手段だ。発病したものは、完治するまで完全に隔離するのも、必要だと医師たちは長年の経験から意見をしてくれた。だからと言って、その関を要した県や邑の民を見捨てたりはしない。感染者は、王の名の元に派遣された医師たちが責任を持って診察をする」

 嘘だ! という声が上がる。

 矢張り、最初に声を上げた男だった。男に縋っている子供らが、お父ちゃん、とくぐもった声を零した。

「嘘?」

 戰が短く答え、眉を顰めた。

 その横で、学も首を傾げている。恐れからではなく、何か、疑問に感じる事があるようだった。

「そうだ、嘘だ。俺たちを体良く見捨てる為の方便うそだろう!? 王都から向こうの奴らだけ助かる為に、俺たちを見捨てるつもりなんだろうが、ああ!?」

 そうだ、そうだ! と男の言葉に力を得たのか、再び領民たちが纏まり出す。

「そこにいなさる新しい王様、その御方を守る為に、俺たちを見捨てるつもりなんだ! 冗談じゃないってんだ! こんな不公平がなんだって許されるんだ、なあおい、そう思わねえかっ!?」

 何!? と戰の眉が跳ね上がる。

 歳は若いが、戰も、自ら陣頭にたち、数多の戦を経験してきた。

 迫力が違う。

 しかし、男は怯みつつも、子供を抱える太い腕に力を込め、脚を踏ん張り踏みとどまったのは、彼の背後から、妻らしき女性が子供を庇う様に抱きついてきたからだ。


「そうじゃねえか、不公平じゃないか。俺の子供らは、王様とそんな年がかわりゃしないんだぜ? なのに王様になったってだけで、ぬくぬく守られていやがる。俺らはいつ病気にかかるかっ、て怯えながら夜も眠れないんだぜ? せめて子供だけでも安全なところに逃がしてやりたい、って親心さえ、王様は逃げ出す事は許さない、ときやがる。こんな不公平があってたまるかってんだよ!」

 戰の視線が鋭くなるが、興奮しきった男は荒げた言葉を止めようとしない。

「天にいなさる天帝様の御元じゃあ、どの命も同じなんじゃないのか!? だったら、何でこんな差がある! 王様だから命を大切にされて、俺たちの子供は見捨てられる! おかしいじゃねえか、なあ、そうだろう!」



 ――……不公平ですか? 

 本当に、そう思っているのですか?

 私こそ、貴方が腕に抱くその子たちが羨ましくてたまらないというのに。


 ぽつり、と学が呟いた。



 ★★★



「ハッ! 何を言っていなさるです!? 王様が、俺たちの何が羨ましいっていうんですか」

「私には、父がおりません」


 いきり立つ男に対して、答える学の声は静かだ。

 だからこそ、まだ変声期すら迎えていない少年王が、父親を亡くすもととなった、この祭国の内乱を、皆が思い出し、胸を揺さぶられた。

「私が生まれて直ぐに、父と母は離れて暮らさざるを得ませんでした。その生活すらも、私が父を記憶に留めおく力を得る前に、断ち切られました。ですから、私は、父に庇われた思い出も、守られた思い出も、ありません」

 学が、頭に被っていた帽子のような部分を脱いで、顔を雨の中に晒した。

豪雨が瞬く間に少年の顔ばせを舐め上げ、ずぶずぶに濡らしてしまったが、学は意に介さない。

 一歩、踏み出し、男の前に立つ。


「私は、母から父の話を伝え聞き、想像の翼を広げてでしか、父を垣間見る事しかできません。貴方の腕の中にいる子のように、しっかりと抱かれたらどうなのだろうと、何度夢見たかわかりません。母の、柔らかく温かく優しいそれとは、違うのだろうか? 違うのならどう違うのだろう? と、何度も。でも、幾ら思い描いた処で、温もりも力強さも、それはどうした処で夢想でしなかい、私にはやっぱり、しん(・・)から感じ取ることが、出来ないのです」

 腕に抱かれている子供を庇いつつ女が、あんた……、と小さな声をあげた。

「こんなに大切に、私は父から抱かれ、守られた覚えがありません。不公平ではありませんか? 私もせめて、父上に抱きしめられて育ったのだと、覚えていたかった」

「私もそうだ。産まれたその日に、母と死に別れた。だから、母の強さも優しさも、匂いも、何も知らずに育った」


 戰が、学の傍に歩み寄る。

 思わず後退りしかける男の腕に抱かれる子の額に、戰が掌をのせて撫でた。

「きっと、今日この日の父と母の思いは、この子たちの胸に誇りと共に深く刻み込まれる事だろう。だが、私にも学にも、そんな日は永久に来はしない。不公平ではないか? 天帝の定めた魂は平等なのに、何故こうも差があるのか、と君は言ったが、その叫びを最もあげたいのは、少年の身の上で王となったこの学では、と何故思い至れない? 王であろうとも未だ子供の身の上故に、同様に叫びだしたいのでは、と親である君が、何故、思いやってやれないのだ?」

 静かだが、ずしりと響く戰の言葉に、男がうっ……と喉の奥に声を詰まらせる。

「君が命を賭してまで、愛おしい我が子を守りたいと、ただ純粋に願う気持ちは、皆にこうして受け入れられるというのに、学がこの国の全ての人の為にと発した言葉は顧みられる事がないのは、何故だ?」

「……うっ」

「どの命も天の定めにより等しく尊いのであれば、君が、命をけても子供たちを助けたいと思う気持ちも、学の、命をしても国に生きる全ての人々を助けたいという気持ちもまた、等しく尊いのではないのか?」

「そ、そりゃぁ……」

「此処にいる子供たち、いや祭国に生きる者の未来はみな、美しく輝かしくあるべきだという親心は、私も分かる。妃と腹の中の御子には、喜びの中でこそ生きて欲しい。だが、人の子と生を受けたのならば、皆、そうあるべきだと私は思う。此処に集まった、この子たちの命がかけがえのないものであるのならば、また、此処に駆けつけた学の命も願いもまた、同等にかけがえのないもではないのか?」


 あんた、と男の背後から、女が子らを抱き締めながら呟いた。

「あんた、あたしは分かるよ、あたしには、分かるような気がするよ」

「女は黙ってろ!」

「女だから黙ってられないんだよ! 郡王様が仰った通りじゃないか! 王様はあたしらの子とかわんない、まだ子供の年の子なんだよ!?」

「だから! どぉしたって言うんだ、あ!? 子供だろうが爺いだろうが、王様だったら王様らしく振舞いやがれって、誰だって思ってんだろうが! だから此処に集まってきてんだろうが、あぁっ!?」

「だったら、おかしいじゃないか! あんた、最初に言ったよね? 王様は自分だけ助かればいいのか、ってさ。そうさ、自分だけ助かりたいってんのなら、それなら、こんな大雨の中、こんなとこくんだりまで、来る事はないじゃないか! お城の奥まった処で、ぬくぬくされてりゃよかったんだよ。なのに、こんな小さななり(・・)で必死になって馬飛ばしてさ、あんたみたいな野郎に怒鳴りつけられて!」

「亭主捕まえてあんた(・・・)みたいな野郎・・とはなんだ!」

「あんたみたいな馬鹿亭主、野郎・・でも勿体無いよ、このすっとこどっこいのおたんちん!」

 苛立たしげに叫ぶ男に、女は怒りに目尻を釣り上げて叫び返すと、握り拳をつくって振り回した。拳は過たず男の頬にめり込み、バキッ、と生木をへし折るような鈍い音が響き渡す。叫び声を上げて上体をふらつかせた男から、女は子供たちを奪い自分の腕に抱きしめると、そのまま、呆気にとられている学の前に進み出た。


「陛下。ご覧下さいまし。この子らを」

「……この子たちは、貴女のお子さんですか?」

「ええ、ええ、そうです、あたしの子です。其処で転がってるあたしの馬鹿亭主との」

 そうですか、と学が笑った。

 笑みのむこうに、王城で待つ母・苑を思い出しているのだろうと、戰は学を切なく見詰める。

「陛下、あたしの馬鹿亭主は先の内乱の折、陛下のお父上であらせられる覺王太子様の側に付いて戦ったんです」

「――私、の、父上の?」

 ええ、ええ、と女は激しく首を上下させた。

「あの戦いは、県令様がお慕いし申し上げておられる御方について戦う、そういう習いになっておりました。けれど、王太子様は、とても悲しんでおられました。祭国の民同士が戦わねばならない戦を嘆いておられました。王太子であるが故に、自ら進んで兵を率いねばならないお立場を嘆いておられました」

 父上が……、と呟く学に、女は首を縦に振り続ける。

「きっと、王太子様が陣頭にたたれて戦を続けておられれば、何れ戦は王太子様の勝利となった事でしょう。けれど、王太子様はそれを由とはなされませんでした。祭国の民同士を戦わせる事を。ですから、叔父上様であらせられた便様との一騎打ちに臨まれたのです」

 女が、子供を抱いたまま、跪いた。

「お陰様で、うちの馬鹿亭主は命を拾い、あたしの処に帰ってきてくれました。この子たちが今こうして此処に生きておりますのは、陛下のお父上様であらせられる、王太子様のおかげです」

「――……私の、父上の」

「ええ、ええ、陛下。陛下のお父上様が、あたしの子らを、この世に送り出して下さったのです。ご自身のお命を落とされてまで、あたしの子らの命を、つないで下さったのです」

 ふぅっ……! と、喉を小さく鳴らしながら、学が空を仰いだ。

 冷たい雨とは違う温かな流れが、少年王の頬を濡らしていた。


 ほら、と女が子供たちに促すと、顔を見合わせた兄妹はおずおずと学の方に寄って来た。

 学も、袖を使ってぐ、と涙を拭き取ると兄妹に手を伸ばす。


「有難う。初めて、父上のお気持ちが分かったような、触れられたような、父上に――背中を押してもらったような、気がします」

 小さな兄妹は、学に手をとられて礼を言われると、神妙な顔付きで母親である女の方を振り返った。

 女が笑顔で、そして男が再び顔を赤くしながら怒鳴り声をあげようとした時。

 横合いから、別の声が被さった。



 ★★★



「おぅい、陛下! 大将! 其処に陛下と大将はいるかっ!?」

「――琢?」

 泡を食った様子で、走り寄ってくる男は、戰が眉根を寄せつつ訝しげにその名を言い当てたように、琢だった。数人の男たちと共に、けつまろびつしつつ、豪雨の中を必死に走っている。遂に、戰と学の傍にやってくると、そのまま転ぶように飛び込んできて、動かなくなってしまった。

 いや、動けないのだろう、肩と背中が激しく上下している。

 相当にこんを詰めて此処まで走ってきたに違いない。

 琢を筆頭に全ての男たちが喉を鳴らして、たどり着いた安心感から気が抜けたのか、座り込んだり四つん這いになったりと思い思いの姿勢のまま、身動きとれずに呻いている。思わず戰が膝をついて、琢の背中をさすってやると、へへへ、と鼻の下を擦りながら、琢が照れた。


「どうした、琢。何かあったのか?」

「ど、どうした……も、こうしたも……大有りも……大有りだぜ……。へ、陛下よお、た、大将は、いねえのかよ?」

「真……は、施薬院に、居るんだよ」

「あぁ? そりゃまた何でだ? 陛下と大将はよ、一つの殻に収まった大豆みてえにいっつもくっついてんじゃねえか?」

 汗なのか雨の雫なのか分からない濡れ鼠の琢が、腕を使ってぐいぐいと顔の周りの水滴を拭い取りつつ、不思議そうに語尾を上げた。

「……薔がね」

「大将の奥さんが、どうしたって?」

「熱を出して倒れたんだよ」

 禍国からの使節団にいた者と、暫く共に居たらしい。恐らく、赤斑瘡あかもがさだろう、と戰が続けると集まった領民の間から、悲鳴に近い声が上がった。


 ――安全だと思っていた王都にすら、病気が広まり出している。

 一体何処に、逃げれば良いというのか!?

 響めく群衆に構わず、琢は戰の肩を引っつかんだ。

 普段、明るくおちゃらけている琢が、珍しく、切羽詰まった真面目な表情になっている。

「大将がいないのは心もとねえがよ、陛下、ちょっとばかりまずい事になってるんだ、何とかしねえと」

「どうした、何があった?」

「下田の方で、堤防がまずい事になってら」

「堤防が?」

 ふらつきながら琢が立ち上がろうとするのを、戰が腕をとって助けてやる。

 もう一度、へへへ、と笑いながら琢が空いた方の腕を伸ばして河がある方を指をさした。


「俺たち大工はよ、いい材木を運ぶ時は、この先に流れる川を使うのよ。依頼先で、広い作業場が確保出来るとは限らねえしな。だから、先に自分たちの作業場で柱を細工しちまうんだ。出来上がった柱を、筏を組んで流せば牛や馬に引かせるより早いしな」

 成る程、今回の騒ぎで新しく施薬院に診療場所を建てるように命じたが、琢は自分の作業方法を取り入れて分業化し、流れ作業で素早く棟上げができるようにしたのか、と戰が頷いた。


「それで?」

「この大雨、しかも長引いてるだろう? 流石に川を使ってのやり取りは出来ねえが、艀に残った荷が心配でよ、見に行ったんだ。そしたらよ、水の流れと水嵩がな、少々まずい事になってやがんのさ」


「まずい事……とは、まさか?」

「そう、そのまさかだ。下手すりゃ、ありゃ、堤防がきれるぜ?」


 琢の一言に、悲鳴に近い声が上がった。




 ★★★



 その夜、遅く。

 珊は、手桶の水と晒を取り替えに、真と薔姫が居る部屋に赴いた。


 雨戸の外では、ますます風が強くなってきているようで、時折、轟々と何かを非難する風の音が戸を叩く。下男が足元に明りを翳してくれているとはいえ、そんな囂しい音を聞きながら、暗がりの中を歩くのは嫌なものだった。

 やっと部屋の前に行くと、灯りが点されていて、ほのかな光りがもれている。ほっとして下男を廊下に待たせて、部屋に近づく。

 開け放たれている戸口から部屋の中を覗きつつ声を掛けようとして、珊は息を飲んだ。

 部屋を離れた時と同じように、真っ赤な顔をした薔姫が、真の肩に額を乗せてくったりと力なくしていた。時折、咳をして小さな背中が固く丸くなると、真の手が優しく上下する。


 ――真、ずっと、姫様にそうしてあげていたの?

 声が出ないどころか、身体も凝り固まってしまいそうだった。必死になって、戸口の影に身体を隠す。

 ふと、耳をすますと、鼻をすするような音がした。薔姫の熱が、鼻にきているのか、と思いもう一度耳をそばだてると、真の声が聞こえてきた。


「……すいません、姫……」

 ――なに? 何を謝ってるの、真?


「酷い良人おっとですね、私は……笑っていて下さいなんて……どの口から出たのでしょうね、本当に……」

 意を決して部屋の中を、こそりと覗き見る。

 真に見付からないよう、細心の注意を払いつつ伺うと、薔姫を抱いたまま、真が此方を向いた。

 どきり、と胸が高鳴った。

 涙を零すまいとして嗚咽すら、下唇を噛むようにして飲み込もうとしながらも、頬を濡らした真がいる。

 ――真、泣いてるの?


「……ただ待つしか出来ないのが、こんなに辛いとは、知りませんでした……許して下さい、姫……私は、姫がこんなに辛そうにしているのに、笑ってなど、いられません……」

 ――真……。

「すいません、姫……」



 真の前髪が頬にあたってこそばゆいのか、薔姫が何かもごもごと口の中で呟いた。慌てて、薔姫の口元に耳を寄せた真は、途端に、半泣き半笑いの状態になる。


 それを見た珊は、何も言わずに手桶と晒を廊下においた。

 そして、そっと部屋を離れたのだった。




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