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覇王の走狗(いぬ) ~皇華走狗伝 星無き少年と宿命の覇王~  作者: 喜多村やすは@KEY
六ノ戦 落花流水

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7 儚(くら)い空 その8

7 くらい空 8



 戰の愛馬、千段が厩の奥から手綱を引いてこられた。

 続いて、学の愛馬となった月毛の馬がやってくる。

 既に鞍が置かれ、旅の準備は整えられていた。


 回廊の軒の下にいるので、ぎりぎりで雨に当たらずにいるが、厩に向かって走り出せば、折角旅仕度に着替え直したというのに、直ぐにすぶ濡れの濡れ鼠になりそうだった。

 姦しい音をたてて遠慮なく降り注ぐ大雨を、那谷は恨みがましくひと睨みすると、仕事道具の最後の点検をし始めた。そして、心配そうに、図らずも弟子から王となった少年を見上げつつ、気遣った。

「陛下はともかく、学様は大丈夫ですか?」

「御心配なく、とまでは行きませんが、大丈夫です。此れでも、杢殿や克殿に褒められるまでに、乗馬の腕前は上達しておりますから」

 頼もしい答えを返す少年王に、戰が目を細めた。

「私よりも、那谷お師様の方が心配です」

「ははは……確かに。千段に振り落とされてしまわぬように、しっかりと掴まっておらねばなりませんね」

 朗らかに学に言い返され、冷や汗しきりの那谷は、千段に同乗する事になっている。医師である彼の手綱さばきは、武道全般がからっきしの真よりは、幾分まし(・・)、程度であるからだ。何より、直ぐにでも診察に入るかも知れないことを考慮すれば、極力、体力と集中力を温存すべきは那谷だった。

 点検を終えた那谷が、愛用の道具を背中や腰にしっかりと括りつけ、腹の方にきた結び目をぽんぽんと叩いた。

 それを合図として、戰が視線を鋭くする。

「準備はいいかい?」

「はい、郡王殿」

「ええ陛下」


 雨の中を、厩に向かって三人が飛び出そうとする。

 と、若い娘の声で呼び止められた。

「お待ち下さいませ、陛下、若先生」

「ちょっと待ってよぅ!」

 振り向くと、福と珊が手に何やら大荷物を抱えて走り寄って来た。

 後ろには、芙に背負われた虚海が続いている。途端に、那谷の顔がほころんだ。

「ふ、福殿? どうなされたというのですか?」

「若先生、間に合って良かったわぁ。はい、これ」

 福に茶色の何かを染み込まえた布切れを手渡された那谷は、いそいそと広げてみた。

 それは背中側の首元に帽子のようなものがくっついている裾の長い、外套のような物だった。顎の下にあたりに、紐のようなものもある。

「此れは?」

「芙さんに聞いて、ちょいと、皆で作ってみたんですよ」

「以前、河国との戦いで、真殿が雨にうたれて熱を出されましたので。このようなものがあれば、とずっと考えておりまして。それで、珊と福殿に急いで作って貰ったのです」

「ほう?」

「急拵えだけどさ、結構上手い事出来てると思うよ?」

「ええ、本当に。こうやって、ああほら、ねえ先生、ちょいと屈んで下さいな」

「え……? こ、こうです、か?」

「そうそう、それでですね、頭からすっぽりと被るようにして身に纏うんですよ」

 那谷の手から布切れを奪うと、福が彼の身体にそれを巻き付ける。続いて福に、顔を喉元に寄せて紐を結び付けにかかられ、那谷は頬を赤らめた。

 これは契国せつこくの特産である、煤黑油を塗った帆布を利用して作ったのだという。確かに煤黑油は、水気を弾く。

 雨避けの外套を着せられた那谷は、相当に不格好な風体となったが、確かにこの大雨にも濡れずにいる。

 那谷の実績に促されるように、戰と学も、習ってその外套を纏った。

 風を通さない為にかなり暑く汗をかくが、雨に濡れる事を思えばそれでも快適と言えた。

「有難う、助かるよ」

「いえ。陛下、どうぞご無事で」

「お師匠様、珊、福、芙殿、椿姫と母上様を宜しくお願い致します」

「坊ちゃん、大丈夫だよぅ。あたいたちにまっかせといてよぅ!」

 珊が、飛び上がりながら、頭上で手を打った。

 思わず周囲に笑顔が生まれる。笑みを湛えながら、戰が、芙に背負われた虚海の前に真っ直ぐに立った。そして、傷だらけの、木片のような腕をとり、汚れるのも構わず、片膝をつく。


「お師匠」

「何やな、皇子さん」

「私からも。椿と、薔を、そして真を頼みます」

 戰の手を優しく振りほどくと、その手で、虚海は彼の額にかかる深い鼈甲色の髪をくしゃくしゃとかきあげた。


「任しとけ、皇子さん」

 師匠の掌にされるがままになりながら、戰は軽く目蓋を閉じて浮かんでくる涙を隠す。


 そして、戰と学、那谷は雨の最中を、駆け抜けて行った。



 ★★★



 薔姫が発熱した、翌日。

 夜遅くに、この日の最後の診察を、と芙に背負われた虚海が、薬缶と手桶と晒を持った珊を伴って部屋にやってきた。

 此れまで、那谷と二人で診察を続けてきたものを、一人で役目を負うのはやはり、虚海の年齢では厳しいものがあるのだろう。疲労感が目の下と頬の影となって現れていた。

 しかし、真と薔姫の前に来ると、疲労の色がさっと消え去るのは、流石と言えた。


「真さん、お姫さんの様子はどうやな?」

 よっこらせ、と声をかけながら、虚海は真の隣に腰を下ろす。

「咳は、虚海様の言われた大根蜜湯をあげはじめてから、薬湯を飲むより、楽になってきたようです」

「ほうか、ほうか、そら良かったわ」

 咳が強く出るため、薬湯を飲む途中でむせ返り、下手をすると咳をして口に含んだ途端、薬湯を吐き出してしまうのだ。

 余計に喉を痛めてしまう、と真が訴えると、虚海が薬湯より少量でよい大根を蜂蜜につけて上がってきた汁を湯で割る、蜜湯を勧めてきたのだ。咳は相変わらずだが、湯を飲むと喉の痛みが和らぐのか、眠りが深くなったように真には思えた。

 真の腕に抱かれて、肩に頬を預けたまま軽い寝息をたてている薔姫の手首をとり、虚海は脈を診始めた。はんはんはん、と鼻で拍子をとりながら、脈拍の速さや力加減を診るのは、虚海独特の診察方法だ。

 空いた手で、耳の後ろから首筋に向けて指を動かし、痛がる素振りがないかを何度も確かめる。熱のせいで耳孔が膿んで、更に高熱が出る場合もあり、そうなると最悪、聴力を失ってしまう。

 指の腹で押しても、首を振って嫌がりもしない薔姫の様子に、虚海は、ふんふんと機嫌よく頷いた。医師が機嫌よくしているだけで、家族は安心する。家族の心まで健やかにして、医師は医師たる、と普段から那谷や弟子たちに叩き込んでいる自らの教えを、虚海は実践してみせた。


「耳は痛がっとらんへんようやな、真さん」

「はい」

「今んとこ、熱からくる耳の膿は来とらへん。鼻汁が少ないせいもあるやろうが、そんでも、すすらせたらあかへんで? 熱で耳の奥が弱なっとるでな、優しゅうしたらな、な?」

「はい」

 一度手を清めると、珊が慣れた調子で真新しい晒で虚海の手を拭き上げた。

 今度は、眉間の間に指の腹をあて、そして目尻に向けてなぞるように滑らせる。右と左を、何度も繰り返しては、その都度、指に目脂がついていないかを見て確かめる。

「お、目脂もようけ(・・・)は出てきとらんようやな。この分なら、目病の方も酷うはならへんようやぞ、真さん」

「……はい」

 さて、口を開けてくれへんか、お姫さん、と虚海が薔姫の頬をぴたぴたと軽く叩いた。

 しかし、薔姫は眉を寄せるばかりで、目を開けない。

「姫……」

 真が肩を揺すって、背中を軽く撫でると、漸く薔姫はうっすらと目を開けた。

 それを見て、珊が唇を尖らせかけるのを、芙が肘で横腹を啄いてやめさせた。

「……こ、がい……さま……?」

「ほうや、姫さん、爺いや。な、姫さんがえらい辛いんは、よう分かっとるんやがな、出来るだけ大きゅう、口を開けたってくれへんかな? ちょっとの間でええんや、爺いの頼み、聞いたってくれるか?」

 虚海が薔姫の顎に手を当てると、……うん、と薔姫は熱で涙目になった瞳を彷徨わせつつ頷いた。

 薔姫の、小さな口が、僅かに開かれる。

 途端、僅かな機会を逃すまい、と虚海の視線が鋭くなった。

 かくん、と音をたてて口が閉じられると同時に、薔姫は再び目を瞑ってしまった。


「姫っ!?」

「……だいじょうぶ……ね……わがきみ……」

「はい、何ですか?」

「……ね、わらってて……ね?」

「――え?」

「……だって……わたし……め……あける、と……いつも……わがきみ……つらそ……に、してる……から……」

「……姫」

 ふうふうと、熱の塊の息を吐き出しながら、薔姫は、微かに微笑んだ。

 汗でじっとりと張り付いた前髪が揺れて、額が真の肩にことり、と押し付けられる。

 そしてそのまま、寝息を立てだしたのを確かめると、真と虚海はそれぞれに深く嘆息する。

「どうでしたか、虚海様」

「ちょびっとやけどな、喉の一番奥まった処に、ぽつぽつと見えてきとったわ」


 再び、手桶に満たした水で手を洗い清めると、芙が差し出してきた晒で丁寧に水分を拭き取った。その後、小さな椀を受け取り、がらがらとうがいし始める。

 診察の時、患者と接触したら兎も角直ぐに手を洗い、喉を濯ぐ。

 虚海が、この施薬院で働く者、みなにさせている。

 医師や薬師のみならず、患者の世話を預かる下男たちまでも、施薬院に関わる者は全て、だ。

 虚海は、何十回何百回としてきた行為に身体が対応しているのか、水に皮がふやけたり傷んだりする事は、もはやない。

 簡単そうに見えて、真冬など身を切る寒さの中、常に手を洗い続けるなど、苦行以上だ。逆にこの試練に身体が慣れた者しか、虚海の診察術を倣えない、という事になる。

 この教えを、虚海は更に徹底させている。それが、疫病を広めない方法の一つであると、長年の実体験から身に染みているからだ。


「白い苔が見えてきた、ちゅう事はやな、まあちょっとしたらお姫さんの熱が一回いっぺん下がる、ちゅう事や。その時に、身体をちゃんと拭いたったり薬湯をちゃんと飲ませたりしたるんや、ええな?」

「はい」

 咳が酷すぎる為、薔姫はなかなか薬湯を受け付けられないでいるのだが、この高熱を逃す薬湯も飲めないでいた。

 喉の薬湯は大根の蜜湯にしたが、熱冷ましの薬湯はなかなか変わりがない。仕方なく、小さな匙で少しずつ、舐めるように時間をかけて飲ませていた。が、それだと眠る事ができず、逆に体力を消耗させて回復が危うくなる、と虚海は判断した。その為、薔姫が起きていられる時に、飲めるだけ飲めばよい、と真に指示を出していた。

「ほんでも、二回目の熱が出てきてからが、正念場やで? 多分、咳はまんだ続きよるやろしな」

「……はい」

「体力勝負や、真さん、あんじょうよう、見とったり、な?」

「……はい」


 室外で、ごぅ、と風雨が唸り声を上げた。

 あの雨は、まだ止む気配を見せない。

 どころか、酷くなる一方だ。

 雨戸を固く閉じている為、室内は蒸し風呂に近い。

 熱の塊である薔姫を抱いている真も、汗だくだった。

「虚海様、戰様と学様から、何か連絡は?」

「まんだやな。ま、どっちにしても、待つしかあらへん。ま、真さんは、あんま気にせんとき」

「……それは分かってはいるのですが……」

「大丈夫やて。ま、皇子さんは何やかんや云うて、真さんに頼りすぎとったんや。ここらで、一発、一人で苦労しよったらええのや」

 のほっのほっ、と殊更に笑ってみせようとする虚海に、真は、目尻を下げつつ曖昧に口元を歪める。

「では、椿姫様のご容態は?」

「ああ、あっちのお姫さんも、心配あらへん。今んとこ、落ち着いてはるようや」

「大丈夫だよぅ、あたい、さっきお話してきたけど、まだ赤ちゃんは産まれないって苑さんも言ってたよ?」

「……それならば、良いのですが」


 戰が学と共に王城を出発して直ぐ、椿姫は強い腹痛を訴えて倒れた。

 同時に「産微」と呼ばれる、出産が間近に迫ると知らせる、独特の出血が起こった。

 直ぐに産婆が呼ばれたが、しばらくして、痛みも張りも弱くなり出血も収まったらしい。

 が、それをこの1日の間に数回、繰り返しているのだという。

「え? 産微と痛みが起これば、直ぐに陣痛になるのではないのですか?」

「それこそ、真さん。お産ちゅうのは千差万別、おっかさん一人一人、赤ん坊一人一人で違うのやで?」

 まだ、出産に至る陣痛にまでは至っていないらしいと知り、真は安堵したが、それでも切羽詰まった状況であるには違いない。

「まあそんでも、この産微と痛みを繰り返しとれば、近いうちに本物ほんまもんの陣痛になるやろな」

「……ですね」

「腹の中の御子さんが出てきはるまでに、まぁ少し、落ち着いとって呉れたら、ええのやけどなあ」

 虚海のそれは、皆が抱いている願望だった。

 順調に陣痛に結びついて、良い出産へと流れてくれれば、と、皆が願っている。

 が、せめて、王城内で感染者がいないと確定するまでは、御子には、安全な腹の中に居て欲しい、というのが偽らざる心境だ。

 何しろ、薔姫の症例で半時の接触で感染する、と知れてしまったのだ。

 この後数日間は、疑わしい者たちを見守らねばならない。

 だが、本格的な陣痛に入る前だというのに、この強い腹痛が長引けば、いざ、という時に椿姫の体力が持たなくなる可能性もある。

 そうなれば、腹の中の御子とて、どうなるか分からない。

 ならば一刻も早く出産を、とも思うが、赤斑瘡あかもがさの脅威を思えば……と堂々巡りとなり、誰も彼もが、手出し出来ないこの状況に焦れていた。



 ★★★



女子おなごさんら事は、女子さんに任すのが一番や。さっき、類さんの奥さんの豊さんが駆けつけて呉れたそうやで。本当ほんま、心配しすぎせんとき、な、真さん」

 そうですね、と応じつつ、真は左腕をさすり出す。

 じりじりとした厭味たらしい左腕の痛みが、一向に引かない。

 雨の湿気を吸って、正直に痛む左腕の嫌らしさが、真は気になって仕方が無かった。


 がたがたと盛大な音をたてて、雨戸が悲鳴をあげた。

 南に面したこの雨戸が、ひっきりなしに大きな風を受け止めるのも、真は気になっていた。

「虚海様」

「何やな?」

「この雨ですが、ただの豪雨で終わるでしょうか?」

 意を決して虚海に胸の内に巣食う悪い予感を口にした真に、は~ん、と虚海は鼻を鳴らして同意を示した。此れまでの、陽気な表情が一気に引き締まる。

「真さんも、気にしとったんか」

「はい、一過性の豪雨で、直ぐに晴れ間を見せてくれれば良いのですが、雲の流れと風の向きが、いつもと逆なのが気になっているんです」

「ほうや、儂も気にしとったんや。この粘っこい南風は、あかんやつや」

 降り始めた頃は、風の動きなどは、そんなに気にはならなかった。

 が、徐々に徐々に風向きが東南よりから南風になった。

 雨戸の隙間から垣間見る雲の動きは、といえば、雨雲の動きも東から西へと遡るようになった。

 しかも、動きが早い。

 まるで濁流のように、雲までが唸りを上げて渦を巻き、流れていく。

「もしや、台風なのでは?」

「今は8月やでな、陸地に上がってきたとしても不思議やない。けど、こんな陸の奥の祭国にまで来よるんや。もし、台風なんやったら、こら相当でっかい奴やで」

「はい、ですから」

「ほんでもな、真さん、まんだ台風やて決まったわけやあらへん。こっちに来るゆうて、決まったわけでもあらへん。まぁちょっと、落ち着いたり。まんだ様子見でもええやろ。真さんはお姫さんだけ、見とったり、ええな?」

 ……はい、と真は虚海の言葉に頷いた。


 薔姫の診察を終えるまでの間に、珊は、部屋に置いてある薬缶や晒、手水用の冷水を取り替えたりと、くるくると働いていた。

 その間、ちらちらと真と薔姫を何度も何度も覗き見した。焦燥感に揺らぐ真の視線が、余りに痛々しく、正視していられなくて覗き見る度に、直ぐに首を戻してしまう。が、それでも薔姫に優しい仕草をする真が気になり、どうしても見てしまうのだ。

 芙の背中に虚海が寄りかかるのを手伝いながら、また、こっそりと後ろを振り返った珊は、真が薔姫を抱き上げて風鐸に近寄っているのを視界の端で見てしまった。きりきりと、錐を捻り入れられているような、嫌な痛みが胸の先を走る。

「行くぞい、嬢ちゃん」

「あ、うん、分かってるよ、お爺ちゃん」

 慌てて、背負われた虚海の背中を追いかける。

 もう一度向き直り、じゃあね、真! と、殊更にしっかりとした声を張り上げる。

 が、返事はない。

 此方を見ようともしてくれない。

 不満を隠そうともせずに、唇を尖らせる珊の耳に、今度は、風鐸の音が飛び込んできた。

 雨戸を締め切ってあるので、風鐸は鳴らない。

 カチン、カロン、と鳴っているのは、真が指で鳴らしているからだ。

 指を、風鐸の竜胆形のぜつに伸ばし、ちょん、と軽くつついて揺らしては、音を鳴らしているからだ。

 ますます、胸の奥のちりちりとしたきり揉むような痛みが酷くなる。

 珊は、唇を尖らせたまま、ぷい、と顔を正面に向けた。


「何やな、嬢ちゃん、そんな顔しとったらあかんで? 折角の可愛い顔が台無しや」

「いいの、顔なんかどうでも。ねえ、お爺ちゃん」

「何やな?」

「あの風鐸のぜつの形ってさ、竜胆だよね?」

「そうやな、きっさんに真さんが頼んだんや、とか、皇子さんが言うとったなあ」

「竜胆ってさ、胃病み草って呼ばれてるんでしょ?」

「ほうや、何や、嬢ちゃんも勉強しとるんやな」

「そりゃそうだよぅ。お手伝いしてるんだもん」

 虚海に褒められて、珊はやっと、嬉しそうに声を弾ませる。

 背中で繰り広げられる、珊と虚海の会話に、ちらりと芙は横目で覗くようにしたが、直ぐに視線を戻した。

「ねぇところでさあ。何だって真はさ、竜胆なんかをぜつにしてくれ、って頼んだんだろ?」

 竜胆は、確かに珊が言う様に、別名『胃病み草』と呼ばれている。

 薬湯では胃の病ならば万能に近いほど良く効く為、全般に処方される薬草だが、苦い。花の可憐さからは、想像もつかない苦さで、口に含んだ途端、顔がひん曲がるのはつとに有名だ。

 兎に角、苦い、よく効くが、只管ひたすらに苦い。

 それが竜胆という花を扱う、医師や薬師たちの認識だった。

「珊」

「なにさ、芙」

 普段、あまり人の会話に割って入らない芙が、横槍を入れてきた事に、珊は目を剥いて驚いた。

「竜胆はな、胃病み草の他にも、色々な名前で呼ばれてるんだよ」

「え、そうなの? ねえ、お爺ちゃん、それ本当ほんと?」

 ほうやなあ、と頷く虚海の身体を、芙は揺すり上げた。

「確かに、疫病えやみ草とか、笑止み草とかな、言われとるわな」

「……何それぇ」

「まあ、笑止み草ちゅうのは、あんまり苦いんで笑い声まで止んでまう、ちゅう意味やし、疫病えやみ草ちゅうんは、疫病なんかで処方される薬湯の基になる草の一つでな、これ見たら、疫病も裸足で逃げ出すわい、っちゅう意味なんやがなあ」

「……ふぅん?」

「真殿は、多分、この竜胆の花が、万病に調合される薬草だと知っておられたんでしょう」

 自信満々で答える芙の言葉に、ふーん……と、珊は首を傾げる。

 芙が気がついているくらいだから、きっと、皇子様や頼まれた吉次も、この風鐸を見た人は、この竜胆がいい薬草だから真はぜつの型にしたんだ、って思ってるんだろうな。

 でも、真がそれだけの意味で、竜胆を風鐸の舌にしたとは、珊には思えなかった。


 ――真の事だもん。きっと、他にも理由があるんだよ。

 虚海は久々に独特の笑い声を上げた。

「ま、本当ほんまはな、真さんの言いたい事は違うんやろうけどな」

「違うの? まだ何かあるの?」

 は~ん、と虚海は喉を鳴らすと、芙の背中で瓢箪型の徳利を傾けた。


 真と薔姫に部屋を明け渡している虚海は、診察室の隅に自分の布団や荷物をごちゃごちゃと山にして持ち込んで、自室代わりとしていた。

 芙の背中から落ちるように降りると、瓢箪型の徳利を投げ渡して、新しい酒を満たしてくるよう、頼む。芙が、目を細めて頷き下がっていくと、よっこらせぃ、と虚海は珊に向き直って横になった。

「なあ、嬢ちゃん」

「なあに、お爺ちゃん」

「竜胆の花が、どこでどうして咲いとるが、嬢ちゃん、知っとるか?」

「ん~ん? 知らない」

 明るく答える珊に、虚海が優しく笑う。

 しかし、珊は頬を真っ赤にして膨れ面をした。

「もう、何よぅ、お爺ちゃん! 意地悪しないで教えてくれればいいじゃないよぅ!」

「まあ、落ち着ぃな、嬢ちゃん。竜胆ってちゅう、花はな、秋の花でなぁ。秋の草ん中でな、群生せんと、一株だけでひっそりと咲きよるんや」

「へぇ、一株だけで?」

「ほうや、どっちかっちゅぅとな、湿地が好きな花なんや、畦とかのの短い草に紛れて、よう咲いとる。ほんでな、あの釣鐘型の花はな、実はよう晴れとってくれんと、咲かへんのや」

「へぇぇ」

「しかも、実はあの釣鐘型の花はなあ、下に向いて咲くんやないのや、空にむかってなお天道てんと様にむかってな、咲くんや」

「うんうん」

 いつも辛辣な口調が多い虚海が、優しい口調で話してくれている。

 人付き合いは悪い方ではないが、自分の見目から、普段、己から好んで会話に加わる質ではない虚海が、態々、話してくれているのだ。

 きっと、伝えたい何かがあるに違いない、と珊は真剣な表情で相槌をうつ。

 すると、虚海が手を伸ばしてきて、珊の額を優しく撫でた。


「秋に入る頃にな、他の花が、みぃんな花を落としてまって静かに寂しゅうなってまった野に、独りきりでな、空に向かって鮮やかな紫色の花を咲かせるんや」

「……うん」

「そやけど、夏の花みたいにな、派手に咲き誇るんやないんや。ひっそりと、隠れて咲くんや。そんでも、自分だけを見付けてくれる誰かが居る筈や、云うて、空を見上げとるのや、真っ直ぐに、胸張ってな」

「……うん」


「嬢ちゃん、それやでな、竜胆ちゅう花は『想い草』言われとるのや」

「――えっ……?」


「沢山の誰かに見られて喜ぶ花やない、一人きりで咲いて、自分を見付けてくれたたった一人が喜んでくれたらええ、その為に咲いとるのや、云うて咲く花や、やで、『想い草』、言われとるのや」



 虚海に言われて、額の手を払うようにして振り返った。


 見えないのに、薔姫を抱いている真の姿が、珊には見えた。



 咳で苦しむ薔姫の背中をさする合間に、指で風鐸の舌を揺らし、カチン、カロン、と鳴らしている、真の姿が。



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