7 儚(くら)い空 その6
7 儚い空 6
感染者と思しき高熱に侵された患者が、鴻臚館から集団で施薬院に運び込まれてきた、その日。
薔姫も高熱を発した。
戰の声に、下男が直様、奥の診察室に走った。
程なく、廊下をはたはたという音が伝わってきた。
と思うと那谷が、仲間の薬師と共に現れた。
「那谷、此方です、早く、お願いです、早く姫を診て下さい」
「落ち着いて下さい、真殿、お任せ下さい」
手荷物の書き付け用の礼や、晒、清水を満たした桶など自分の規則に則って広げつつ、那谷は、薔姫の手を握り続ける真と、おろおろと立ち尽くす戰に、笑顔を向けた。
「此れより、診察に入ります。が、病状を一番詳しく知っておられるのは、真殿ですし、陛下、陛下はお師匠様の処へ。鴻臚館より運び込まれた方々の診察は、もう既に始まっております故」
「――えっ……? いや、しかし……!」
那谷の言葉に驚いた戰が、食い下がる。
自分とて、真と同様、薔姫が心配なのだ。
傍に付いていてやりたい、と眸で強く訴えると、那谷が笑顔のまま、首を左右に振った。そして、ちらり、と真に視線を走らせる。
やっと、戰は、あっとなった。
この間も、師匠である虚海に言われたばかりではないか。
「……分かった、那谷、詳しい診断と、鴻臚館で出た患者の診察を終えたお師匠との意見がまとまったら、また、使いを寄越して呉れないか?」
はい、と那谷は目を伏せつつ頷いた。
「真、真は今後、城の方に関わるのではなく、薔の傍についていてやってくれないか?」
椿姫の容態が悪かった時、真は自分に帰れと背中を押してくれた。
今度は、自分の番だ――戰はそう思った。
しかし、戰の言葉に、真は答えない。
聞こうという気も起こらないのか、喘音で喉を荒らしている薔姫の手を、只管握り締めている。
真、と再びその丸まった背中に声を掛けようとした戰を、那谷が制した。医師である那谷に、首を左右に振られては、如何ともしようがない。
後ろ髪を引かれつつ、戰は部屋を後にした。
診察を買って出てくれた那谷は、咳の酷さと目病の気配もあるところから、夏の流感ではなく、赤斑瘡によるものだろう、と予測した。
那谷は普段から細い目をしているが、診察に集中すると、更に糸のようになる。薔姫の診察中も、目は何処に行ったのか? と驚く程細くなった。左手を額に手を当てたり、首筋に手を当てたりしつつ、右手は凄まじい速さで症状を詳細に書き記している。
「真殿、薔姫様が熱を出されたのは、何時頃からでしょう?」
「……恐らく、昨晩休んで……早いうちからです」
「そうですか、では、この潤んだような眸の様子は? まだ目脂は出ておられないようですが、夜中にはみられましたか?」
「いえ……気がつきませんでした」
「鼻汁は出ておられないようですが、鼻の付け根や耳の後ろを痛がられるような素振りは?」
「いえ、それも……」
冷たい清水を晒に含ませて、額や首筋に溜まった汗を拭き取りながら、那谷は脈診を続ける。その間にも、身体が爆ぜるような咳を、薔姫は何度も繰り返した。
やがて、脈を診察する為にとっていた手首を、那谷はそっと床の上に下ろした。
そして、薔姫の口元に耳を寄せ、呼吸音を確かめる。視線の先は、激しく、そして不規則に上下運動を繰り返す胸元を、じっと注視ししていた。
やがて、集中していた那谷が身体を起こすと、待ちわびていた真が勢い込んで尋ねる。
「それで、どうなのですか?」
「早ければ、明日遅くに口内に白い苔が見えてくると思いますが……。それより、気になるのは咳の方です」
「咳……? 咳が、どうだと言うのですか?」
「昨晩から今朝方にかけて、今より更に酷い咳をされていたのですね?」
はい、と真が頷くと、那谷は薬湯の処方を書き付けだした。
「今、姫様の呼吸音を確かめたのですが、喉に痰が絡んだ、ぜいぜいという音とひゅーひゅーという喘鳴が既に出ておられます」
那谷の説明に、真が眉根を寄せた。
「……肺の臓が痛んでいる、と?」
「はい、喘鳴が此処まで顕著に出ておられますので、相当お辛いと思います。それに、この天候も良ろしくありません」
「天気? 天気などが咳に、何か関係があるのですか?」
「ええ、天気が悪い日は、喘鳴持ちの方は酷くなる傾向があるのです。薔姫様も、恐らくこの悪天候に引きずられておられる部分もかなりあられるのでは、と思います」
「そんな……」
思わず、左腕を抱えながら真は、絶句した。
那谷に言われるまでもなく、腹に力を込め、背中を強ばらせて咳を続けているのだ。辛くない筈がない。だが、よもや、天候までもが幼い彼女の身体を押し潰しにかかるのに加担しているとは!
「しかし、薔姫様は普段、とても体力がお有りですので、一度目の解熱と共に徐々に治まってくれると思います」
那谷の言葉に力を得たのか、真が何度も強く頷いた。
「ええ、ええ、そうです。元気な事に関しては、姫の右に出るものはいませんから」
汗ばんで額に張り付いた前髪を、真は撫でてやる。
その様子を、那谷は目を細めたまま、見詰めていた。
★★★
――喘鳴が出ると、寝ているよりは上体を起こした姿勢の方が楽になります。
咳が出過ぎて吐く場合もあるので、酷くなる夜中はなるべく起こして差し上げていたほうが宜しいでしょう。
背中をさすって差し上げるのも良いですね。
兎に角、呼吸が楽になるという状態を保って差し上げるのが、一番です。
と、那谷は薔姫の一回目の診察を締めくくった。
仲間を先に下がらせると、真の方に真っ直ぐに座り直した。
「ともあれ、薔姫様のご病状に関しては、我々施薬院の者全てが全力を尽くし、全責任を負います。真殿、私どもの医術を信じて下さい」
「那谷、私に、私にも出来る事はありませんか? 何か、どんな事でもいいのです」
捩じ切れるような声で、真が那谷に迫る。
医師として、こうして患者の家族に詰め寄られる事に慣れている那谷は、相手を落ち着かせる術を良く心得ていた。まずは、笑顔だ。
「何もありませんよ。病に苦しんでおられる方に最も適したお薬湯の処方をお渡しする為に、診察し、そしてこの先々の療法にまで目を向ける。私ども医師は、その為に存在するのです。病に苦しむ方の為に出来る限りの事をするのは、我々なのですよ」
「しかし! ……いえ、那谷の言う事は分かります、ですが、私は……!」
「ええ、ですから真殿には、是非、医術以外の処で、薔姫を支えて差し上げて下さい」
「――え?」
「病は、どんなものでも辛いものです。ですが、寄り添ってくれる方が必ず居るという安心感は、とてつもない力になるのです。真殿は、きっとお分かりになっておられるでしょうが」
那谷の、糸のような眸が発する優しい光に、真は、はい、と頷いた。
「時にそれは、医術の妨げになる場合もあるでしょう。けれど、それはそれでよい、と私は捉えております」
「……那谷?」
「私ども医師が払えるのは、病の根のみ。その根の張りゆく途中で痛む心を癒して差し上げられるのであれば、それもまた、弱った心を助けるという、医術のひとつなのではないか、と私は思うのですよ。そしてそれが出来るのは、医師ではない、いえ、医師では出来ないのです――悔しい事ですが」
「……」
「どうぞ真殿は、薔姫様の為になると思われる事を、存分になさって差し上げて下さい。また、様子を見に参りますが、少しでも心配であれば、遠慮なさらずにお呼び出し下さい」
「……ええ、那谷、宜しくお願いします」
真が、額を床に擦りつけんばかりにして、頭を下げる。
手を振って遠慮する那谷に、それでも真はその姿勢をとり続けた。
那谷が下がると、入れ替わりで珊と芙がやって来た。
珊は額を冷やす為の手桶と晒を、芙は、夜中に凭れ掛かりやすくする為の、背凭れ用となる敷物を抱えていた。
「真、姫様の様子、どぅお?」
桶に晒を浸しながら、真の背中に声を掛ける。しかし、返事がない。
「さあ、姫様を此れで冷やしてあげようよ? きっと気持ちよくて元気でてくるよ?」
もう一度声を掛けてみる。
しかし、答えてくれない。
仕方なく珊は、晒を絞ると真の反対側に、彼の正面にまわる事にした。
「……真? ねえ、真ってば?」
手桶を脇に置いて、ふい、と視線をあげて、珊はどきりとした。
右手で薔姫の小さな手を、ぎゅっと握り締めて、左手で咳き込む度に苦しげに揺らぐ頬や額を泣きそうな顔で撫でている。
敷物を丸くたたみ直して、凭れかかりやすい形に整えている芙も、そして目の前に座った珊も。
真の視界に入っていない。
見ていないのだ、薔姫しか。
まるで薔姫しか存在していないかのように、真は、幼い妻だけを見ている。
珊は、何故か頬に熱が集まるのを感じた。
「真! 真ってば、真!」
「……あ? ああ、珊、どうしましたか?」
「ああ、どうしました……じゃなくて。姫様もそんなんじゃさ、苦しいよ? 冷やしてあげよう?」
「ええ……そうですね、ありがとうございます。でも、珊」
「ん?」
「私がやりますから」
きつい声を出してやっと顔をあげた真が、自分の存在に気が付いてくれた。
と思った瞬間、薔姫の喉元から首筋にかけて、汗を拭いつつ冷やしにかかっていた晒しを取り上げられた。
「姫の世話は、私がしますから」
「え、で、でもさ、真……」
「珊と那谷はどうか、那谷や虚海様の手伝いに行って下さい」
背筋を仰け反らせて、ぐび、と珊は息を飲んだ。
真の声は、小さく弱々しい。
だが、有無を言わせぬ強さがある。
こんな真を、珊は知らない、見た事がない。
いつか、禍国で怖い話をしていた時の恐い顔の真よりも、見ていたくない顔だ。
――嫌だよ、こんな真、あたい知らないよ、こんなの真じゃないよ!
「……し、真!」
「お願いします」
なお食い下がろうとする珊の前に、芙が割って入った。
「真殿、姫様のご様子は、逐一私がお伝えしに参ります。陛下に御相談があられるのであれば、どうぞ私に御声かけ下さい」
「……分かりました」
宜しくお願いします、と深々と真は頭を下げる。
ひっく、と吃逆に似た音をたてて肺に息を吸い込んだ珊の肩を、芙が、ぽんと叩いて促した。
★★★
朝方からどんよりとした空模様であったが、戰の執務室の空気が重いのは、そのせいばかりではなかった。
那谷に促されて城に戻った戰は、力なく椅子に身体を預けた。
「薔が……」
言葉もない、とはこういう事を言うのだろう。
たった、半時ほど共に居た、それだけだと、幼い義理妹は言った。
なのに、病はその短い時間を無駄にすることなく、長い腕を伸ばして義理妹を縛り、疫病の苦しみに引きずり込んで行ったのだ。
執務室に共にいる学の前で、戰は、目を固く閉じてじっと苦しみに耐えている。
その姿に、少年である学の方こそ、言葉がなかった。
しかし、辛さにばかり溺れてもいられない。
鴻臚館で、仕人の少年から感染したと思しき患者が出たのだ。
そして、たった半時ばかり共にいた薔姫は、彼から病を拾ってしまった。
この王城の中でも、病が広まる恐れがある、可能性がある――という事なのだ。
「何れ、診断を終えたお師匠が助言をしてくれるは思うが、学、気を引き締めていかねばならない」
「はい、郡王様」
自分に対しての気遣いの言葉は、しかし戰が、己を鼓舞する為のものであると、少年は見抜いていた。
昼を超えて直ぐ、虚海が芙に背負われて王城に姿を現した。
「どうでしょうか、お師匠。一応、使節団と少しでも接触した可能性のある幼年の者は、それとなく理由を付けて隔離致しましたが」
「ああ、そら皇子さん、賢明やったな。儂も、まさかたった半時一緒の部屋で向かいおうとっただけで感染するとは思わんかった」
隔離せねば、言いはしたが何れ元気に家に帰らせてやれると思っていた虚海も、衝撃を受けているようだ。
「こんな風に、症例を集めたぁはなかったんやけどなあ」
ぐび、と喉を鳴らして瓢箪型の徳利の中身を飲み下す虚海の表情は、苦味に満ちている。
「しかし、活かして頂かねば」
「分かっとるわい。ほんで皇子さん、鴻臚館の方はどないなっとるんやな?」
「今日、感染が発覚した者と共にいた事のある者を探るのは、最早、時間の無駄というものです。鴻臚館に居る使節団は、全員が感染予備軍としてみなし、封鎖します」
「……そやな、まあ面倒で、それが手っ取り早うてええわ。こんだけはっきりした以上、郡王として命じてまったらええしの」
「はい」
「ほんで、禍国の御使の長はどないしとるんや? 何もしとらへんのか? このまんまやったら、なんぼ責任負わされる事になるやら、まあ凄い事なるっちゅうのに、何もしとらへんのか?」
虚海の馬鹿にしきった責め立て口調に、戰が苦笑いする。
使節団の長である御使の役をになっている右丞・鷹は真の異腹兄なのだが、とうとう集団感染へと発展するにつけ、殆ど発狂せんばかりに喚き散らしてばかり。話をするまでもなく、役立たずの烙印を祭国からだけでなく、使節団の面々からも押されている。
「もう少し、真が落ち着いたら相談するつもりですが、真の話ですと、右丞はまだ赤斑瘡に感染していないという事です。その恐怖に耐え切れず、何かしでかさないか、見張りに杢をおいております」
「ああ、杢さんか。そらええわ」
このような時に、義理兄ではなく、郡王として虚海と話を交わしている戰の強さに、学は、何故か寂しさを感じた。
★★★
昼前に雨が降り始めたばかりだというのに、克が、ずぶ濡れの濡鼠姿のまま、戰の執務室に飛び込んできた。
何処か、既に雨足が強まっている遠方から、馬を駆けさせてきたに違いなかった。
「陛下、無礼はご容赦下さいますよう」
その顔色が悪く、唇が震えているのは、雨に打たれたせいではないと切羽詰まった眼光が物語っている。
がた、と音をたてて戰と学は立ち上がった。
「どうしたと云うのだ、克」
「陛下、恐れていた事が起こりました」
王都を目指して群衆が動き出した県があると、早馬が伝えてきたのだという。
「一応、私も馬を飛ばしてこの眼で確認してまいりました。伝令の言葉は、正しいのですが……」
「が?」
「この期に及び、些か、遠慮があり過ぎておりました」
「そうか……」
つまり、もっと規模は大きく、そして自体は逼迫している、と克は言外に申し立てた。
――遂に、恐れている事が起こってしまったか。
戰は、唇噛んで、天を仰いだ。
その隣で、学が蒼白になっている。
彼らの言い分は、女王であった椿姫が、先代王太子にして兄王であった覺王子の御子として学を認め、譲位した為に此度の疫病が起こったのだ、としている。
祭国は、特に祭事と政事の結び付きが深い。
為政者である王は、天帝に認められた天子であるとする考えは、より根強い。
であるが為に、代替わり直後の困難は、王が天涯を統る天帝に愛されていない、認められていないとする思想もある。
後主となった椿姫の父・順が国王であった時代も、恵まれていた訳ではない。
寧ろ、大いにその逆だ。
後主・順が国王であった時代ほど、祭国が暗さに落ちた時代はない。
その事に関して、領民たちは不平不満を抱え込みつつも黙してきたのは、いつか椿姫が語ったように、諦めの局地にあったからだ。
あの国王では駄目だ。
だが、天涯の主人であらせられる天帝は、代替わりを促す行いをなされない。
だから、耐えるしかない――と、順の愚かな政治が招く末を見ない振りをして過ごしてきたのだ。
そんな中で、椿姫は禍国皇帝・景に俎上をあげて、父王・順を退ける事を認められた。
皇子・戰が共に郡王として派遣され、二王は並びたち、難治とも言える国政の改善に努めてきた。そしてそれは、目覚しい成果をあげており、人々の生活はこの2年で格段に向上した。
そして、領民たちは古の教えを思い出すのだ。
古き悪しき慣を改めるべく、天帝は必ず美心を示し、新たな王を遣わして下された。
この祭国を守護し、我ら領民の導き手として、手を携え共に歩んで下さる。
そう、天涯一望される天帝に愛されし王として、椿姫は女王となるべくしてなられた御方なのだ――と。
祭国の領民にとって、椿姫は文字通り、天より降臨した光の女王だった。
その、椿姫が認めた御子であるからこそ、譲位は受け入れられた。
だがしかし。
即位して間もなくのこの波乱は、少年王が天帝の意に染まぬ人物、受け入れられぬ御方であるからだ、と声を高めて訴える者が現れた。
一人が堪らずあげた、責任転嫁の悲鳴。
それは、疑念の餌を喰らいつつ大きなうねりとなり、騒動へと発展するのに時間はかからなかった。
領民が不安を増長させている。
自分を王の資格なしとみなして。
そして、大きく膨れ上がったそれに、自分は太刀打ちできない。
――私のせいです……私が、私が、王として余りに未熟だから……。
「分かった、ご苦労だったね、克。早く、着替えをして休んでくれ。今、頼りにしている者に一人でも倒れられては、困るからね」
「はっ」
退出して身体を清めるように克を促す優しい戰の声に、うちひしがれていた学はハッとなり、そして俯いた。
胸の内の呟きを聞かれていかもしれない、という恥ずかしさもさる事ながら、自分の事ばかりで、克の事を思いやってあげられなかった自分本位さが、情けなかった。
克が礼拝を捧げて部屋を退出すると、待ち構えていたように、学の大きな瞳から、ぼろぼろと涙がこぼれ落ちた。
「学、泣いていてはいけない、此れから王者として成すべき事を二人で考えよう」
「でも……疫病が広まったのは……私のせい、です……」
「学、それは違う。病を持ち込んだのは、禍国の使節団だ」
「違いません、郡王さ……殿。私は、何も出来ない、王になっても、何も出来ない……無力なのです」
こんな時、父・覺が国王であったなら。
人々の不安を取り除いて、平安に導いたのだろう、と思うと悲しくなる。
――私は、何て情けないんだろう。
学の握り拳が、蒼白になっていく。
じっと無言でその様子を見詰めていた戰が、やがて長く息を吐きだした。
「学」
「は、はい……」
此れまで聞いた事がない、戰の厳しい声音だった。
こんな声を掛けられると思っていなかった学は、爆ぜるように頭を上げた。そして、どきりとする。
唇を真一文字に結び、此方を見ている戰の視線の視線もまた、此れまで見た事もないものだったのだ。
「学、此度のこの疫病の蔓延は、決して学のせいではない」
「……」
「だがもしも今、私の目の前で誰かが、この恐ろしい病が流行ったのは学、君のせいだ、と訴える者が現れたならば、私は、その者の言葉を受け入れてしまうかも、いや、縋ってしまうかもしれない」
「……え?」
「頭では、分かっている。疫病が、今、この時に祭国を襲っているのは、誰のせいでも、勿論、学、君のせいなのでは、決してないのだと。だが」
戰は一瞬、言葉を切ると、雨の中も続けられている蟇目の音に耳を傾けた。
そして、音を従わせながら、施薬院の方を向く。
「誰かのせいにしなければ、やりきれない――自分を、保っていられない事が、世の中にはある。大切な人が苦しんでいるのを見て、自分は何も出来ないだと打ちのめしてくる、この無力感を、消す事が出来ない」
施薬院で、熱に苦しんでいる義理妹姫である薔姫の事を。
病魔に倒れた、彼女の良人であり、最も親しい仲間である真の事を。
そして大丈夫だと分かっていても案じずにはいられない、妃である椿姫と腹の中の御子のことを言っているのだ――
と思うと、学は切なくなった。
思わず知らず、語気を強めて、拳を固めて叫ぶ。
「郡王様! そんな事はありません! 薔姫様は、お師様がお傍に居て下さっているだけで、きっとどんな薬を示して貰うより、安心なさっていると思います! そして、お師様が薔姫様のお傍に居る事を許して下さったのは、郡王様ではありませんか!」
有難う、と戰は軽く視線を伏せた。+
「学、学にも、大切に思っている人が居るかい?」
「は、はい。それは勿論です」
間髪入れず、学は答える。
学にとって、此れまで報われなくとも、ただ自分の為に苦労に苦労を重ねてきた母親の苑が誰より何よりも大切なのは当然だろう、と戰にも察しが付く。
うん、と戰は頷いた。
「学、それならば、もう君は、どうしたら良いか、分かっている筈だ」
「……え?」
「学、私は今、誰に何と言われようとも、病に苦しんでいる薔を、楽にしてやりたくとも出来ない自分の無能さ加減が、どうしても許せない。けれど、学」
「は、はい」
「私に、真が居るから薔は安心出来るのだ、それを許したのは私だ、私のお陰で二人は救われているのだ、と言ってくれた事がどんなに嬉しかったか。何れ程、心の寄す処となった事か。君に、分かるかい?」
「……」
「学、君は、人が、人とは誰もが、己よりも大切な人が居ると知っている。大切な人が倒れた時、人がどんなに悲しみ、苦しむかを知っている。苦境を乗り越える為ならば、悪業に染まってもよいとまで思い詰め、足掻き続けるそんな人に、どう寄り添えば良いのかを、知っている」
「……郡王様……」
「だから学、君は、その素直な気持ちを、皆に伝えればいい。私も伝えよう。自分の心は、皆と同じなのだと」
はい、と学は流れる涙を拳で拭いながら、こくこくと頷く。
紅潮し、濡れた頬を、戰の大きな掌が一気に拭き取った。
「学、私たちは王である前に、人だ。誰かを大切に思い、そして思われる、ただ一人の人だ。だからこそ、皆が大挙して王都を目指している気持ちも分かる」
「はい」
「だからこそ堪えて欲しいのだと、素直な気持ちを伝えに行こう。王として、そしてそれ以上に、王としてではなく」
「はい――この祭国を愛する、人として」
そうだ、と戰は学を抱きしめた。




