7 儚(くら)い空 その5
7 儚い空 その5
那谷の帰城は、薔姫の事件から、三日後だった。
殆ど転げ落ちるような状態で馬から降りると、那谷はその勢いのまま、真と薔姫が間借りしている部屋に駆け込んできた。縫物の針を刺していた薔姫の指先が止まり、書簡の写しを手伝っていた真の手から筆が転げ落ちる程の勢いだった。
「真殿、おられますか!?」
医師である自分が慌てふためいては、患者やその家族が不安に陥る。
死んでも腹を据えてどんと構えろ、と那谷は虚海より叩き込まれており、師匠の教えからはみ出した事がない。
その那谷が、此処まで泡を食った様子をみせた、という事は予想通りの方向に事態が転がりだしているのだ、と真も緊張に顔を固くする。
「那谷、早かったですね、矢張、赤斑瘡ですか?」
「はい、途中、お師匠様が赤斑瘡であると認められたと聞き及びましたが、よく断じられました。既に最初に病に倒れた関では、赤い発疹まで出尽くしはじめており、同じ県内では、その関所より遠方の邑にまで発疹患者は広がってきております。あの県は、赤斑瘡に牛耳られた、と思わねばなりません」
「那谷は、自身が診察をされて、発疹を確かめられたのですね?」
「ええ、確かに赤斑瘡でした。それに、まだ発疹までとはいきませんが、強い風邪の症状を訴える子らが、この先の関所近くの県や邑でも出ております。近々、発疹へとうつるでしょう」
「そんなに、流行の足が早いのですか?」
転がり落ちた筆を拾いつつ、真は顔を顰めた。
虚海より聞いていた、症状が出る日数を正しくなぞっている。
覚悟の上の事だ。
とはいえ、やはり心は騒めき、焦りを覚える。
ええ、と答えつつ、滝のように流れ落ちる汗を拭いている那谷に、薔姫が麦湯をついで二人の元にやってきた。
「どうぞ」
「姫様、ありがとうございます」
大体の話は聞き及んでいる那谷は、笑顔で椀を受け取った。
一気に飲み干して、ふぅ、と長く息を吐く。
「更に悪い事に、思っていたよりも、祭国では余り赤斑瘡が流行していなかったようです」
「と、言うと?」
「患者の中に、大人の方も多いのです。関の完全封鎖は、懸命な御処置だと思います」
「……そうですか」
「しかし、此方に入る前に確かめてきた処では、まだ、王都での患者は、鴻臚館から此方に運び込まれた使節団の方々のみ、のようです。このまま、封鎖を続けられれば、恐らくこれ以上蔓延する事はないかと思います」
「だと、良いのですが」
元気付けるように、語気を強める那谷に対し、真の答えは弱々しい。
真が今、一番恐れているのは、実は、異腹兄である鷹だ。
追い詰められた、どのような形で責任を負わされるのか、もう自分はお仕舞いだ、と恐怖と共に思い込み、狂乱一歩手前となっている。元々、考えなしで行動する質の人物ではあったが、今回こそ、何を仕出かすか分からない。全くの予測不可能な行動に出るかもしれない。
鷹の処遇と対処方法を、如何にすべきかと真は悩んでいると、杢が監視の役目を自ら買って出てくれた。重症を負い、杖を使ったとしても一人での行動が出来ない杢を、鷹が蔑視するのは火を見るよりも明らかだ。泳がせて、動きを見せた処を拘束すれば、鷹も従わざるを得なくなる。
「なに、鷹殿程度の腕の御方ならば、思うように動けずとも倒してみせますよ」
普段の杢からは考えられない強気な言葉を、さらりと言ってのけられ、逆に真の方が目を丸くした。
「宜しいのでしょうか?」
「宜しいもなにも。真殿、私もお役に立ちたいのです。最も」
「最も? 何でしょう?」
「訓練相手にと望んでも、些か物足りない御方です。役に立てるかどうか、怪しいものですが」
冗談めかす杢に、真は噴き出したものだった。
★★★
真と那谷が話を進めようとすると、複数の足音が近付いてきた。
ばさり、と簾を跳ね上げて部屋に入ってきたのは、戰と、そして吉次だった。その吉次は、手に香箱くらいの大きさの白い包みを大事そうに持っている。戰は、どこか場違いな浮き立った声をあげた。
「真、ちょっといいかい?」
「戰様、が吉次、と御一緒、という事は?」
「はい、風鐸が出来上がりましたので、是非、音を確かめて頂きたいと思いまして」
吉次が白い包みを解くと、箱が姿を現した。
静かに蓋が開けられ、中に敷き詰められた晒の上に、大人の握り拳より一回り大きな風鐸が、鎮座していた。
吉次の手により、上部の輪を摘んで持ち上げられた風鐸は、外に飛び出した舌の部分が、竜胆の花の形を模してあった。
風を受けた風鐸は、早速、カチン、カロン、カラカラカラ……――と独特の金の音を響かせ始める。産所蟇目の鏑矢の音と、時に入れ替わり時に重なり合いながら、風鐸の音は夏の乾いた風の上に編まれ、流れていく。
「不思議な音だね」
「はい」
戰も、真も、吉次も薔姫も。
暫し、風鐸の音に耳を傾ける。
不意に風がとまり、音が途切れると、皆一斉に感嘆の吐息を零した。
「では先ずは、椿姫様の処に此れを」
真の言葉に、いいや、と戰が頭を降った。
「椿の処には、別に用意して貰っているんだよ。これは、薔の為にと、吉次が」
えっ? となっている真と薔姫の隣で、吉次は風鐸を軒先にぶら下げる用意をし始めている。
「真」
「はい、戰様」
「あの舌の形を竜胆に象ってくれと頼んだのは、真らしいね?」
珍しくも誂い口調の戰に、むっと真は押し黙る。何処か照れたように、唇を固くしてそっぽを向く真に、戰と那谷が笑いだした。
風鐸の音に紛れて会話が聞こえなかった薔姫は、不思議そうに小首を傾げた。
それからは、戰から、いつものように、城の内外の様子を聞かされた。
此度は、数が揃いだした風鐸を順次送る事などだったが、合間合間に、椿姫や娃の様子をそれとなく知らせてくれるのを、薔姫は楽しみにしていた。話題が出ると、手を止めてするすると近寄って、聞き入るようになっている。
「お義理兄上様、椿姫様とお腹の御子は元気なの?」
「ああ、心配しなくていいよ」
「娃ちゃんも、いい子にしているの? むずがって、お義理母上様を困らせたりしていない?」
「大丈夫だよ、届けた疳の虫を抑える薬が効いたようで、いつも通り、よく食べてよく寝てくれている、との事だよ」
「本当に?」
見上げながら、袖をぎゅ、と掴んでいる薔姫の必死さに、戰は優しく笑いながら、本当だよ、と答える。
「薔は、いい子だね」
そう言って額を撫でる戰に、子供扱いしないで、と頬をぷく、と膨らませて薔姫はむくれてみせる。男たちの笑い声が部屋を満たす中、珊が新しい麦湯を満たした薬缶を持って、現れた。
「あれぇ? 那谷ぁ? いつの間に帰ってきたのさ?」
「珊殿がおらぬ間に、です」
頓狂な声を上げる珊に、那谷がふざけて答えてみせる。軽快な笑い声をたてながら、珊は皆の間にひょい、と混ざり込んできた。
「ちょっと、いい話だよ」
「と、言いますと?」
「最初に此処に連れてこられた子だけどね、二回目の熱が下がりきったみたい。赤い発疹ももう広がらないみたいだし、峠越えたんじゃないかって、お爺ちゃんが」
途端に、薔姫の顔が、ぱっと輝いた。
「あの子、元気になったの?」
「ん~、元気になった、とまではまだ言えないみたいだけどさ、でももう、心配はなくなったよって。良かったねえ、姫様」
「うん!」
ずっと気になっていたの、良かった、と無邪気に喜ぶ薔姫の肩に戰が手を置くと、うふふ、と小さく笑う。
皆が少年の回復を喜んで笑顔になる中、真だけが、曖昧に口角を持ち上げていた。
那谷が帰ってきたこの日。
遂に、祭国を脅かしつつ疫病の名は、赤斑瘡であると正式に明かされた。
関を封鎖する程であるから余程の事態である、としながらも明かされぬ事に不安を隠せなかった人々は、逆に此れで不安からくるいい加減な想像に振り回される事がなくなると、安堵の溜息をついた。
そして、この未曾有の事態に一丸となって立ち向かう、と宣言した学に、深く礼拝を捧げる。即位したばかりの少年王に対する、無慈悲とも思える恐ろしいこの現実を、共に乗り越えよう、という熱気が生まれていた。
しかし、戰と真は、この熱気が王都だけのものだと知っている。
地方の、特に最初に患者をだして、今、爆発的にその数を増殖させつつある県や邑は、そうではない。
王都に病が蔓延していないとなれば、逃げ込もうとするのは、せめて子供だけでも助けようと出奔しようとするのは、人として当然の心の動きだ。
この恐ろしい『命定め』の疫病などに、我が子をさらしたいと思う親が何処の世界にいるものだろうか?
狂おしい親の愛情が狂乱し一揆に向かわぬよう、最新の注意を払わねばならない。
彼らを如何に諌め、そして土地から離れぬように説得するか。
否、納得させられるのか。
それが、全ての鍵となる。
「出来るかどうか、ではない。やるしかない、だ。そうだろう、真」
「はい、戰様。仰る通りです」
皆は、再び舌を転がし音を奏でだした風鐸の音色に耳を傾けながら、それぞれの決意を胸に新たにしていた。
★★★
翌日から、帰城した那谷と、師匠である虚海と共に、辛い症状を緩和する煎薬をつくる作業も、いよいよ本格化した。
病の症状に細やかに対応できるよう、薬の種類は格段に増え、地方の薬師たちに渡す処方書は、どんどん分厚くなる。見本となる煎薬と処方箋と風鐸を揃えると、那谷と虚海から病状の診断のつけ方と指導された薬師や医師たちが、克の指揮で用意された早馬に乗り、各関所に向け旅立っていく。
そんな日が、3日続いた。
晴れ渡る夏の空が茜色に見事に染まりきっているなか、真と薔姫の所に夕餉の膳が運ばれてきた。今日は胡麻を振り掛けた麦入りの軟飯と、大根葉と葱の吸物、大根と豚肉の炊合せ、小魚の塩焼き、胡瓜の漬物、そして冷たく冷やされた瓜が出されてきた。
「姫、瓜は縁側で頂きませんか?」
「え? うん」
瓜を最後に残して食べる癖のようなものは、真も薔姫も同じだった。
と、言うよりも何故か、箸をつける順番が、二人同じなのだった。今日は、半月型に切られた瓜が、仲良く手付かずだった。
真に誘われて、素直に薔姫は瓜が盛られている皿を盆にうつし、縁側に向かう。
真は、先に縁側に移って、風鐸の奏でる音に耳を傾けつつ、空を見上げていた。
虚海の居室を真と二人で使っている薔姫は、ほぼ一日、部屋の中に囚われ状態だ。
書簡を閉じる為の組紐を編んだり、着替え用となる肌着用の直衿を縫ったりして、薔姫は一日一日を過ごしていた。その横で真は、やはり、書類の写しの手伝いをしたり、相談事を聞いたりしている。
だが、兎に角、基本は二人きり、だ。
この数日で、二人きりで篭る事にも、随分慣れてきた。
というよりも、馴染んできた。
風鐸の音の変調。
蝉が鳴き始めた瞬間。
風の向き、人々の動く気配。
それらに気を取られて、ふと頭を上げたり、目を細めたり手を止めたり、耳を傾けたり。
そんな、ちょっとした動きが、同じなのだ。
そして、自分と同じ思いでいてくれるのか、気が付いているのか、確かめたくて声をかけたくなり、視線の先にお互いを探す、そんな瞬間までもが、同時なのだ。
それに気が付いた薔姫は、肩を窄めて、うふ、と短く笑った。
――何だか、こんな楽しい生活、初めて。
禍国に居た時も、真は書庫に篭りきりになりがちだったので、二人で朝から晩まで過ごすなど、実は、この5年の間で初めての事だった。
――病気になるのは怖いけど……。
我が君とずっと一緒にいられるのなら……病気になっても、いいな……。
思ってはいけない事だ。
薔姫も、重々承知している。
でも、せめて思うだけでも思わせて欲しい――幼い妻の偽らざる本心だった。
盆を手に、つい、飛び立つ蝉の声を追いかけると、真も薔姫と同じように視線を巡らせていた。お互い、蝉が行ってしまった、と目で笑い合うと、薔姫は盆をちょっと掲げてみせた。
「折角だから、冷たいうちに頂きましょう」
「ですね」
薔姫に促されて、真も座る。
行儀悪く、足を縁側におろしてぶらぶらさせながら、半月に切った瓜に真はかぶりついた。
真用に用意された瓜は、種を取らずにそのままだ。真の好みなので頼んでおいたのだが、家だと流石に、母親の好や真似されては困る娃に憚って、匙で種を避けてから一口ずつ口にする。
しかし、誰も見ていないと思ってか、やる事が実に大胆だ。
「二人だけなので構わないですよね? ね?」
と、楽しそうに前置いて、真は行儀悪い食べ方を堪能している。
匙を使わずにかぶりつくのはまだしも、種ごと口に含む良人の姿に、薔姫が呆れて噴き出した。
「いやぁだ、我が君ったら」
「おや、姫は知らないんですか? 瓜はですね、この、種の周りの、わたわたというか、どろりとした処が一番甘くて美味しいのですよ?」
「だからって、種ごと口に入れることないじゃない」
ほら、早くお口の中の種を出して? と薔姫が小皿を用意しようとすると、もごもごと頬を動かしつつ、真が手で制してきた。
首を傾げる薔姫の前で、真が、唇を尖らせた。
途端に、ぷっ! と小気味よい音がして、種が飛び出した。
「えっ!?」
目を丸くする幼い妻に、得意気に笑ってみせながら、真は口の中の種を全部飛ばしてみせる。瓜の種は、勢いよく弧を描いて庭先に消えていった。
「いやだ、もう、なあにそれ」
「面白いでしょう。いやあ、目的の場所に間違いなく飛ばせるのは、中華平原全てをぐるりと見回してみても、私だけですよ」
「そんな事で、威張らないの、もう」
「此処まで飛ばせるようになるまで、涙ぐましい修練につぐ修練を重ねたのですから、ちょっとは褒めて下さい」
「どんな修練なの、それ」
「何でしたら、姫の鼻の頭の上を狙って乗っけてみましょうか?」
真が笑いながら、薔姫の鼻の頭をちょん、と突く。薔姫は、小鼻に皺を寄せて、舌をべー!と出して見せた。
「い~や!」
「ですか、腕前をお見せできなくて、それは残念無念です」
堪えきれずに身体を震わせて笑い転げる薔姫の前で、真は、行儀悪い食べ方は美味しさもひとしおですねえ、と音をたててかぶりついている。
――このままだったらいいのに……。
薔姫も、匙を使わずに瓜にかぶりつく。ふと、隣を見ると、真も此方を見ている。
笑いながら、二人は瓜に歯をたてた。
★★★
夕餉が終わり、薔姫が行水をとって部屋に戻って来ると、真が蚊遣火の支度をしている処だった。
基本、艾のように煙で蚊や蚋などを追い払うのなので、煙はもくもくとして臭い。しかし、この施薬院で使われている蚊遣火は、家で使っているものとは少々違っていて、何処か酸っぱいよな甘いような香りがする。
「ねえ、我が君。その蚊遣火、蓬じゃないのね? 何を使っているの?」
縁側から、真の背中に声をかける。振り返った真は、半泣きで笑っている。煙が目に滲みたらしい。
「ああ、姫、臭橙の皮を干したものを使っているのですよ」
「臭橙?」
そういえば、真の為の乳餅を作る為に、柑橘類は欠かせない。毎日確実に消費されるものなのだから、それを余さず使うというのは賢い手だ。
「蓬より、煙くなくていいね」
「ですね、私もそう思います」
萱を混ぜて燻されている臭橙の皮を使った蚊遣火の煙が、風にたなびきだした。
此れでいいですね、と呟く真が、無意識に左腕をさすっているのに、薔姫は気が付いた。
張られた蚊帳の中に入る。
今日は、何処か空気がどんよりと重く暑い。
夜だというのに、蝉もまだ泣いている。
辛うじて、風鐸の舌は揺れるが、音を奏でるまではいかない。
何処か、鬱々とした空気があった。
横になりかけた真に、薔姫は思い切って声をかけた。
「ねえ、我が君」
「はい、何ですか?」
上掛けの薄布を引き上げて、横になりかけた真は、驚いたように飛び起きてきた。逆に慌てた薔姫だったが、しかし、意を決して枕をとって抱え込むと、膝を使ってじりじりと真の布団に躙り寄った。
「あ、あの……あのね、我が君」
「はい?」
「……一緒のお布団に入っても……いい?」
遠慮がちに問いかけると、真は、きょとんとした顔をした。
しかしそれも一瞬の事で、直ぐに微笑むと、掛けていた薄掛けの布をめくりあげながら、身体を端に移動させた。
ぽんぽん、と空いた空間を軽く叩いて示されると、ぱっと薔姫の顔ばせが輝いた。
仔栗鼠のようにぴょん、と跳ねて、真の床の中に入ると先にころん、と横になった。苦笑いしつつ、真は、上掛けの布を薔姫の肩まで引き上げながら、同じように横向きに身体を休めた。
「おやすみなさい、姫」
「おやすみなさい、我が君」
真が目を閉じると、薔姫は、そっと手を伸ばした。
真の左腕を、優しくさすり始めると、真は、驚いたように目を見開いた。うふ、と短く笑いつつ、薔姫は肩を窄める。
すみません、と礼を言う良人に、薔姫は小さく首を左右に振った。
そのまま真の腕をさすっていると、単調な動きに逆に自分の方が眠気を誘われたのか、大きな欠伸を一つすると、目蓋がとろんと落ちてきた。
笑いながら、真がもういいですよ、と手を離そうとすると、薔姫がこそこそと寄ってきた。
「……ねえ、我が君……」
「はい、どうしましたか?」
「……あの子……」
「はい?」
「……最初に……運び込まれてきた……仕人の……子……もう、元気に……なったの……かしら……?」
眠気に必死に抗いながら、途切れとぎれに呟く薔姫の言葉に、真の動きがとまる。
「さあ? 珊も何も言っていなかったので、もう元気になって、鴻臚館に戻っているかもしれないですね」
「……うん……きっと……そうね……」
私、あの子の名前を聞くのを忘れちゃっていたの、と続ける薔姫の肩を、真は引き寄せた。
「また、会えますよ、その時に聞けばいいのです」
「……そうね……」
あの子、自宮するつもりなんですって、禍国じゃなくて、此処なら、祭国なら、そんな事しなくても、役に立てるのにね……、と言いながら、薔姫は眠りに落ちていった。
規則正しい小さな寝息をたてている幼い妻の無邪気な寝顔を、真は複雑な面持ちで腕の中に抱いていた。
その夜、真は、寝付くことが出来なかった。
何を苛々していうのか、自分でも分からないが、腹の中に泥の塊を落とされたような、嫌な気分が晴れなかったのだ。
煙くない、と言いながらも、やはり煙が染みるのか、幼い妻は寝ながら咳をし始めた。
咳をしていると、眠りが浅くなる。
薔姫を起こさないように、そっと床から這い出て、縁側の柱に背中を預けて空を見上げながら、まんじりと夜を明かした。
久しぶりにどんよりとした厚い雲に覆われた空は、朝日の眩しさを通さないというのに、変に蒸し暑い。
いじけた痛みを発する左腕をさすっていると、薔姫が、何度目かの咳をした。
蚊遣火の煙が、妙にたったのでの煙いのかもしれないと、真は縁側から庭に降り、燻している火を弱める。
縁側に上がると、視界の端を風鐸が掠めた。
重い空気は、青銅製の舌を揺らす元気もないのか、ぴくりともしない。腕を伸ばして指先で竜胆の花を模した舌を、ちょん、と啄くと、カチン、カロン、と鳴いた。
また、薔姫が咳をし始めた。
――そろそろ、朝餉前の手水とりの時間ですね。
蚊帳を上げて、真は床に横になっている薔姫を起こしにかかった。
「姫、さあ、もう朝ですよ。起きましょうか。今日は生憎の天気なのですが……」
横になっている薔姫の肩を揺らそうとすると、薔姫の方から手を伸ばしてきた。
おやおや、と苦笑しながら差し出された手を握った真は、次の瞬間、硬直した。
さして大きな方ではない自分の掌の中にでも、すっぽり収まりそうなほど小さな薔姫の手が――熱い。
慌てて、薄掛けの布を剥ぎ取って抱き上げると、薔姫の身体は、人型の温石なのではないか、と思う程の熱を放っていた。
ふぅふぅと、肩を使いながら吐かれる息も、熱を帯びている。
硬直している真に、薔姫が身を捩って胸に額を押し付けてきた。と思うと、そのまま、こんこんと激しい咳をしだす。
全身を使った咳は、丸くなった薔姫の背中を嵐の只中の木の葉船のように、上下した。
「……わがきみ…………」
「姫!」
慌てて、ぺちぺちと軽く頬を叩いてみても、高熱で潤んだ瞳の視点は定まらず、何処を見るともなく泳いでいる。
「……ねつ……だして……ごめんね……わがきみ……ごめんなさい…………」
――いつの間に、こんな高熱を!?
既に熱に深く浮かされながら、薔姫は呻きながら呟いている。
自分が傍を離れていた僅かの間に、こんなに熱が上がるとは。
ひっきりなしに咳をしだし、激しく揺れる薔姫の身体を、ぎゅ、と強く真は抱きしめ直す。
その真の耳に、何処か、緊張した様子の重い足音が近付いてきた。
「真、鴻臚館で、新たにまた病を発した者らしきが現れた。今度は集団で感染している。最初に倒れた仕人の子と、同じ部屋や同じ仕事に従事していた者たちが、高熱で倒れ……」
「戰様」
戰の言葉を、真は低い声で遮った。
「……真?」
「那谷と、虚海様を呼んで下さい、戰様……」
「――真?」
「聞こえないのですか!? 戰様、那谷と虚海様を! 早く!!」
振り返りざまに怒鳴られた戰は、息を飲む。
鬼の形相で睨んでくる真に無言で頷き、踵を返す。
大声で那谷を呼びながら、戰は思った。
――この5年の付き合いで、真が見せた本気の怒りは、此れが二度目だ。




