7 儚(くら)い空 その4
7 儚い空 その4
思い詰めた険しい顔付きで、戰が部屋にやってきた。
というよりも、乗り込んできたと云うか、突進してきたのは、直ぐの事だった。
用意した組紐を編む為の道具に、丁寧に糸を仕掛けていた処だった薔姫は、言葉を失い目を丸くする。
「薔! 具合は!? 熱は!? 咳は!? 身体は辛くないのか!?」
殆ど怒鳴るようにして、部屋に乗り込んでくる。
「お義理兄上様……」
「ああ、薔、駄目じゃないか、そんな事をして。起きてなんていないで、早く床に横になりなさい。珊は? 着替えを用意させないと。それと、この簾は風通しが良くない、芙に取り替えさせよう。それにええと、そうだ師匠! お師匠、何処に居るんですか!? 薬の用意は出来ているんですか!?」
すっかり気が動転しきったまま、唾を飛ばさんばかりにして怒鳴り散らす兄など、見た事がない。薔姫は、気持ちを乱して混乱したまま、おろおろとする兄をみて、小さく吹き出した。流石の戰もこれには、むっ、とした顔付きをしてきた。
「薔、お前の心配をしているのだよ? 笑うものではないよ」
「御免なさい、お義理兄上様、でも、まだ平気なの」
「薔、またそんな事を」
「本当ですよ、熱どころか、風邪のような症状が出るまでには、まだまだ数日を要しますから、その間は元気に、いつも通りに過ごした方がよい、との虚海様のお言葉なのです」
真が、自分の醜態は忘れたかのように、しれっと戰に答える。
薄い萌黄色に綺麗に染め上げられた生糸の束を、籠に入れて持ってきており、膝を合わせて組紐機の用意をしている薔姫の傍に座る。そして、申し訳なさそうに首筋をかきながら、真は籠を差し出した。
「姫、用意できるのは生憎ですが、これだけしかないそうなんです、足りますか?」
「うん、大丈夫よ、有難う、我が君」
泡を食っている戰を尻目に、真と薔姫は普段と変わり無いままだ。
狐に化かされたような、砂を食ったような、奇妙な顔付きで、真と薔姫を交互に見比べる。口を『へ』の字に曲げている戰の背中に、のほっのほっのほっ、という、独特の笑い声が刺さった。
「何やな、皇子さんも、義理妹姫さんの事となると、盲になるんやなあ」
「お師匠、当然でしょう」
むっとしながら戰が答えると、芙に背負われた虚海は、瓢箪型の徳利を傾けながら、再び笑った。
「皇子さんも阿呆やなあ、ちっとは控えりぃな。お相手がおる女子さんの心配なんぞ、親兄弟の出る幕やあらへんで?」
虚海に半ば呆れ、半ば誂い口調で窘められた戰は、父帝の崩御を知った夜に感じた事を思い出した。
小さな義理妹を抱き上げて、彼女の為に草笛を吹き続けてくれた真の姿を思い出し、漸く、自分が実は出過ぎて心配をしていたのだと悟り、小さくなる。
大きな身体を縮こまらせて肩を落とした戰に、容赦ない虚海の笑い声が降りかかった。
「分かれば、ええのや、皇子さんはええ子やの」
「……お師匠、誂うのはもう勘弁して下さい。其れで、薔は今後どうなるのですか?」
は~ん、と喉ならすと、虚海はもう一口、と徳利を傾ける。
「真さんにもお姫さんにも説明したんやがな、赤斑瘡の症状、っちゅうのは直ぐに出てくるもんやないんや」
まあ聞きぃな、と前おいて、虚海は真に話した説明を、改めて戰にもしてみせた。
神妙な面持ちで虚海の説明を受けていた戰は、顔を顰める。義理妹である薔姫が、数日後にはその苦しみを味わうのかもしれない、と思うだけでやり切れない。
「もしも、感染っとったとしてや。お姫さんの身体の中で厭らしぃ寝くさっとる病が出てくるまでは、普通に過ごした方がええ。寧ろ、そうやって規則正しい生活して、体力保っとった方がええんや」
「……それで、組紐編みなのかい?」
「うん、だって、暇ばかりだから、書簡を綴じる為の紐を編もうと思って」
「ああ……それは確かに、必要になるね」
「でしょう? 我が君に頼まれたの。明日からは、施薬院に必要な縫物もしようと思って」
家事をして動き回る事も封じられてしまう訳であるから、手持ち無沙汰にはなる。やれる事と言えば限られてしまうが、そんな中でも、真は薔姫が役に立てそうな事を見付け出してきだのだ。
「お手伝いになりそうな事を、椿姫様に習っておいて良かったわ」
努めて明るく振舞う義理妹に、うん……そうだね、と戰は曖昧に返事をした。
「それにしても、世の医師や薬師たちは、何故、赤斑瘡だと分からなかったのでしょうか?」
戰の気持ちを代弁した真に、それやがな、と虚海は徳利を振り回した。
「皇子さんも、真さんも、そこら辺は、禍国での考え方にとらわれとったな。大抵のお国のお医者、ちゅうもんはな、患者さんが訴えてきた症状に合わせた薬をホイホイ渡すだけなんやな」
「……はあ」
「喉が痛い、目が痛い、鼻汁が出よる、熱が出よる、言われた症状を抑える薬を処方して渡したるだけや。そんで後から、ああこの病はあれやったんやな、ま、次から気をつけたりぃ。そんで終いや。阿呆かちゅうのや、病が何かも分からんで、どないして気を付けろ言うんや、糞呆けが」
乱暴すぎる断じ方ではあるが、端的に表現してはいる。
この時代の医療行為というのは、基本的に対処療法で行くしかなく、病気を確定し、予防的な行為を施す事は、希だ。というよりも、民間においては、確実に医術を身につけた者が医師や薬師となる訳ではない。他国では、下手をすれば王族に仕える者ですら、名乗りさえすれば薬師をしての生業が成り立つ場合もある。
禍国では、そういう点では医師の身分は、宦官や罪人への処理を行う刀人を除けば、かなりの優遇を受けている。侍医など典薬寮に就く頭となる者は、従5品上従5位下の位を授けられるのだ。雲上人とかわらぬ身分も保証されているし、体系的に医術を伝える術も、ある程度ではあるが、確立されている。
が、此処まで医薬に積極的なのは、禍国くらいなものだ。祭国のような国の方が、大体数であり、だからこそ、那谷が此処で薬房を開いた時に、大盛況となったのだ。
「それにしても、各地県令の所在地に施薬院を建てただけで満足していたが、今回の事で大きな穴あると分かったからには、正して行かねばならないね」
「ですね。医師や薬師の方に、医術を教える場所が必要ですね」
「ほうやな。ま、それは後々の課題にしとき。今回は、ともかく、目の前の流行り病に集中しい。防ぐ事が大事や」
12年前の大流行の折、戰だけでなく、貴人も庶民も、実に多くの民が病に倒れ、苦しめられた。特徴を掴めば治せる、そして蔓延を防ぐ事が出来る、と虚海が思い至ったのは当然かもしれないが、逆に、他国の、世の医師たちは、病を訴える者を治す際に、情報が足りないとは思わなかったのだろうか?
戰や真の疑問を、のほっのほっと独特の笑い声で、虚海は吹き飛ばす。
「そら、無理な話やな。医術の世界、ちゅうところもな、王宮の品官官位と一緒でなあ、上下の関わりや派閥が厳しいもんなんや。禍国はこれでもまぁ、ましなほうなんやで? そんなかでも、ま、儂の開いた薬房は更に特別やわなあ」
のっほっほ、と得意気に虚海は笑い、成程、と戰は微妙な顔付きで頷いた。
言われてみれば、師弟関係が強く長く閉鎖的な環境というのは、各尚書と似通っているところがあるかもしれない。
この様な診察の仕方が主流なのは、禍国でも、虚海が開いた薬房のみと思って良いのだとしたら、その虚海の教えを受けた那谷を、共に祭国に送り込んで広めてくれた事に、感謝するしかない。
「しかし戰様、此度の使節団に随従した侍医殿は、禍国の出なのでしょう? 何故、疫病であるかもしれない、と見極められなかったのでしょうか?」
「ああ、それだけれどね、真、いいにくいのだが……」
「はい」
「右丞に確かめた処、同行した侍医は、まだ年若い按摩師だったらしくてね」
「――は?」
「実際の診察は、どうも祭国の医師たちが行っていたらしいのだよ」
真は天井を仰いだ。
手で目を覆い隠して、深く嘆息する。
どうせ、異腹兄である鷹が、長旅の疲れを癒す為に按摩師を共にと望んだのだろう。
異腹兄の鷹が、ちゃんとした侍医を伴ってさえいれば。
熱を出した子らに、正しい診察を受けさせてさえいれば。
早期に、これは疫病ではないのか、という可能性を見出していれば。
そもそも、異腹兄が、右丞として使節団の御使になどならなければ。
こんな事にはならなかったかもしれない――
と、思うと、どうにもやり切れない、割り切れない思いに、真は苛まされるのだった。
★★★
真の渋面に気を使ったのか、虚海が、よっこらさ、と掛け声をかけて場の雰囲気と話題を変えてきた。
「そういやぁなあ、12年前に流行りよった赤斑瘡やが、あん時もなあ、使節団がな、病を持ち込んできよったんや」
「え?」
「亜蘭国や、西方のお国やな」
12年前。
那国と組んで河国を討つか否か、の大激論が王宮内で沸騰していた頃だ。
そこへ、遠く西方の亜藍国を名乗る使節団が、禍国を訪れた。
彼らは、砂漠を越え国境をも侵す勢いの蒙国を共に討つべし、と申し入れてきたのだ。当時禍国は、亜藍国よりも蒙国の王都に近い位置に、楼国という属国として所有していた。――そう、戰の亡き母、麗美人の故国である。
西方の国々に、蛮勇の強国と恐れられていた蒙国と、同等と目される国力を保有しており、かつの背後をつけるような大国は、当時も今も、禍国と、そして少し格は下がるがあえて言えば剛国おいてない。しかし、剛国は半ば以上、蒙国と根幹を同じくする国柄だ。となれば、話を持ちかけられるのは、禍国しかなく、遠征には不向きすぎる距離であると知りつつも、頼みにしての申し出だった。
亜蘭国の使節団は何度も訪れ、ある時、時期王妃と噂の高い美貌の姫君を使節団の筆頭として、乗り込んできた。いざとなれば、時の皇帝であった景の後宮に入れてもよい、まだ少女の年齢である姫君を生贄にしてでもよい、禍国を動かしたい、という魂胆と追従が見て取れる。だが結局、亜蘭国の思惑は袖にされ、虚しく帰国の途についた。
そして、使節団の帰国の後、半月もせぬうちに、王都には病の嵐が吹き荒れた。
未曾有の大流行に国は右往左往となり、数ヶ月もの間、決議どころではなくなった。
そして疫病の完全終息の、更に数ヵ月後。
開かれた御前会議において、禍国は、亜蘭国の申し出を退け、蒙国とは争わぬと正式に決議した。戰もであるが、当時、多くの皇子たちが病に倒れ、それぞれ背後に控える門閥の思惑が複雑怪奇に絡み合った為である。
禍国側から使者をたて、正式に連盟拒否を伝えんとした直前、代替わりしたばかりの蒙国皇帝・雷の強襲をうけ、亜蘭国は滅亡したのである。
「ああ、その時の亜蘭国の姫の事なら、覚えているよ」
「そうなのですか?」
当時はまだ、虚海を師匠として仰ぎ、父帝・景に最も愛されている皇子であった戰だが、それにしても身分を思えば、亜蘭国の姫君と接点が出来るとは思われない。
「鴻臚寺に入れては、父上が手を出しかねないと代帝陛下が、まあその……おむずがりになられてね。それでその……私の館にね、入ってもらったんだよ」
「……はあ」
あの代帝・安であれば、あり得過ぎる。
代帝・安が、先代皇帝・景の前で癇癪を起こして大暴れしている姿が、容易に想像出来てしまう。場違いとは知りつつも、その場にいた全員が、同時に吹き出して肩を震わせた。
戰の館は、皇帝・景が唯一まっとうな恋心を抱いた相手である、戰の母親・麗美人の為に建てた館だ。
其処に、異国の姫を招き入れられたのでは、気の多い皇帝・景といえども食指を伸ばせまい、と安は踏んだのだろう。よもや、愛の証として建てた館で、他の女に手は出せまい、と迫った安の行為に、皇帝も流石に引き下がった。しかし、亜蘭国の姫君が帰国した後に、楼国の王室に連なる蓮を求めて才人と成さしめ、後宮の一員としたのであるから、皇帝・景の方が上手ではある。
当時の真は、まだ薔姫や学と同じ位の年の頃であったため、流石に世間に疎かったが、そのような動きがあったとは、と思わずにいられない。
――どこまでも同じ事の繰り返しなのですねえ。
やれやれ、と項の解れ毛をかきあげる真に、虚海も同じ思いらしく、徳利を弄りつつ、にやりと笑った。
「まあ、何にしろやな、この病をこの虚海様以上にようけ診てきたお医者はこの世におらへん、ちゅうこっちゃ。遠慮せんでええ、たんと頼ったってくれんか、皇子さん、真さん」
「ではお師匠、私と真で決定した事ですが、我が祭国の全ての関を完全封鎖します。入国出国ともに、当分許しません」
「当然やわな、そんで、期間は何日にしたんや?」
「15日と定めたのですが……」
「あかん、短い。25日にしとき」
虚海の言葉に、はい、と戰は素直に頷く。
「それと……薔の事なのですが」
「ああ、お姫さんなら、この施薬院に寝泊りしてもらうしかないわな。儂の部屋貸したるで、真さんと一緒に過ごしたらええのや」
「宜しいのですか?」
「よろしいも糞もへったくれもあらへん。那谷坊から此処を預かったんや、赤斑瘡やと気が付いた時点で、もっと、気ぃつけとかなあかんかったんや。姫さんは、儂が責任もって面倒みたる」
「……」
「真さんも、傍に居てはるんや。大丈夫や、皇子さん。な、姫さんの病に関してだけは、皇子さんの出る幕はあらへんのやて。皇子さんは、お国の為に、しゃんとして前を向きぃ」
虚海の優しい声音の向こうでは、組紐をしている薔姫の手元を覗き見しようと真が、鼻の先を摘まれて追い払われていた。
二人して、平静でいよう、と努めているのが痛いほど分かる。
戰は、頷く他、なかった。
★★★
「じゃあ、私は城に戻るよ。薔、夕餉を頂いたらお師匠の言付けを守って、早めに休みなさい」
「はい、お義理兄上様」
大きな手を、優しく額において、戰は微笑んだ。
「義理母上に、申し訳がたたない。椿や学の事ばかりでなく、もっと、薔の事も気にかけておかなければならなかった。小さなお前に辛い思いをさせてしまうとは、済まない、私の落ち度だ」
「……うぅん……お義理兄上様、そんな事……」
「真、薔を頼むよ」
「はい、勿論です」
戰の言葉に、真はしっかりした頷きでもって答えた。
此れから先は、克なり芙なりが戰との間の情報を伝える役割を担う事として戰が城に帰り、虚海も芙に背負われて診療の場に戻っていった。
入れ替わりで蔦の一座の者が、二人の着替えや身の回りの品などを運び入れてくれた。
使い慣れたものを使い良いように揃えてくれたので、虚海の部屋は、一見、普段の二人の住まいなのでは、と見紛う匂いがするものとなる。
そうこうするうちに、珊が用意した夕餉を運んで来た。
薔姫が好きな茄と豚肉の煮物と、むかごを蒸したもの、薄焼きにした玉子には醤で味がつけられており、真は食べられないが胡瓜と大根の粕漬、そして蕪の吸物と五穀入りの軟飯だった。勿論、真用には、更に乳餅も添えられている。
「ねえ、珊、一緒に食べない?」
いつものように、皆で食事を囲みたいと薔姫が誘うと、珊は言葉を詰まらせつつ、歯切れ悪く答える。
「あ~……うん……、その、さ、そうしたいんだけどさぁ、その……あたい、お爺ちゃんのお手伝いがあるから、皆ともう食べちゃったんだ」
「……そう、お手伝いじゃ、仕方ないわよね」
「一緒にいられなくて御免よぅ、姫様。暇見つけて、様子見に来るから」
「うぅん、いいの、御免ね、引き止めて」
「そんな事ないよ、それから……姫様ぁ」
「なあに?」
「御免よぅ、あたいが、部屋を抜けたりしなかったら良かったんだよね……」
薔姫が、違うわ、珊のせいじゃない、と言わせる間も与えず、珊は、浮かべた涙を零すまい、と唇を尖らせながら、ばたばたと部屋を去って行った。
風呂には入れないが、発疹が出た時の為に身体は清潔な方がよい、と虚海が勧めていたので、薔姫は行水をとることにした。その世話は、施薬院に居残る事になった、福がかってくれた。
「こんな大変な事になってたなんて。私、ここ暫く家で弟や妹の世話してて、此方のお手伝いから遠ざかってたもので、聞いてなくて」
「うぅん、福が悪いんじゃないもの」
「いぃえ! 私が悪いんですよ。姫奥様がいらっしゃった時に、私がお薬お届けしておけば良かったんですよ、そしたら、こんな」
「……」
くどくどと自分が悪かったのだ、と悔やみながら背中を流して呉れる福に、薔姫は言葉をかけられなかった。
寝間着に着替えて部屋に戻ると、真と芙が、お互い何かを誂いあいながら、床の用意をしている処だった。
真も寝間着に着替えている。
ということは、既に行水をとったのだろう。相変わらず湯が短い良人に、薔姫がくすり、と小さく笑うと、気が付いた二人が笑いかけてきた。
「我が君、お床の用意なら私がしたのに」
「いいんですよ、暇なのは、姫だけじゃなくて、私もなんですから」
蚊帳を吊り下げ終えると、芙は静かに礼を捧げて去っていった。
芙を見送ると、真は縁側の向こうに降り、蚊遣火を焚き始めた。
薔姫が蚊帳の内側に入ると、網目を透かして独特の煙たい臭いが漂う。煙が立ち込めるのを確かめると、真も、娃のように|はいはいの姿勢で躙りながら、蚊帳の中に入ってきた。
「さあて、いつもに比べたら随分早いですが、虚海様にも言われていますし、もう休みましょう」
「う、うん……」
促されて素直に床に横になると、真も枕をぽんぽん叩いて形を整えだした。
一緒に横になるつもりらしい。
いつもなら、早く帰ってきても部屋に篭って何か読み耽る事が殆どで、怒られるまで休もうとしない事も日常茶飯時なのに。
自分を見張っていてくれ、と言った手前、気を使って呉れているのが、ありありと分かる。
此処まで、誰にも一度も、声を荒らげて叱られも怒られもしていない。
落ち着いて考えられるようになると、見えてくるのは、気遣われ、大切にされる自分の姿だ。
皆、自分が悪かったのだ責めたり、体調はどうだかとか、心配ばかりしてくれる。
――どうして、誰も、私を怒らないの……?
悪いのは、私なのに。
我が君の言付けを守らなかった、私が悪いのに。
それに何より。
何でもないような会話を真と交わしている間も、蟇目の音と共に、ちゃんと時間は流れていくのに。
何か、透明な膜のようなものに包まれて、不思議な時間の滞りの中に、自分だけが別ものとして存在しているような。
ふっ……と、深い闇に捕らわれて沈んでいっているのに、誰にも知られず消えていくような。
そんな、何とも言えない不安感ばかりが、頭をもたげてくる。
涙を堪えてたせいか、ぐず、と鼻がなった。慌てて袖で抑えたが、今度は、ぽろりと涙が零れおちてしまう。
「姫? どうかしましたか?」
真の声が此方を振り返った。泣いていると知られたくなくて、急いで掛け布を引き上げる。
「……姫……?」
「何でもないの!」
態と大きな声を出して誤魔化そうとすると、やれやれ、と嘆息しながらごろり、と横になる気配がした。
暫く、そのまま二人共押し黙る。
蚊遣火の煙が、風にのって部屋をゆっくりと巡っていく。
「……我が君」
「はい、なんですか?」
「……どうして……」
「はい?」
「……どうして……怒ら……ない、の……?」
「おや、姫は本当に奇特な人ですね? そんなに怒られたいのですか?」
何時だったか交わしたような会話をするうちに、薔姫の瞳から、涙が止まらなくなった。
真に背中を向けて、横向きになる。すると、上になった方の肩を、泣き吃逆で震える肩を、真が撫で始めた。
「姫は、怒られたいのですか?」
「……」
「違いますよね? 本当は、どうしたいのですか? どういう気持ちなのですか?」
布を口元に押し当てて声を堪えてようとしても、ひっく、ひっく、という声は溢れてしまう。同時に揺れる肩を、真の手は、何処までも優しく、肩を撫でてくれる。
「誰も姫を怒らないのは、皆が姫を好きだからですよ」
「……」
「誰も姫を叱らないのは、皆が姫を心配しているからですよ」
「……」
「すいません、我慢ばかりさせてきていましたよね、頼りなくて情けない良人ですから、私は」
「……」
「でも、今は、こんな時くらいは、甘えて下さい、姫」
「……わがきみぃ……!」
ぐるりと振り向きざまに、薔姫は真の首筋に縋り付いた。同時に、大声を張り上げて、泣きじゃくる。
「怖い……! 怖いよ、我が君、こわいよぅ……!」
ひぃん、と薔姫の喉が鳴った。落ち着きを取り戻すと、迫る病魔の足音が聞こえるようで、何も考えられなくなる。
ひっ、ひっ、という泣き吃逆の間に、必死に声を絞り出す薔姫の背中に腕を回して引き寄せながら、ぽんぽん、と真は背中を叩いてやる。
「こわいよ、我が君、こわい……! ……病気になんかなるの、やだ、やだ、やだぁ……!」
「大丈夫です、姫には、私がついていますよ、大丈夫です」
その夜、薔姫が泣き付かれて寝入ってしまっても、真はずっと背中をさすり続けていた。




