7 儚(くら)い空 その3
7 儚い空 その3
手水用の盥が、盛大な音をたてて跳ね、カラカラと音をたてて転げ回った。
廊下をつたい、庭先に落ちて砕ける音が盛大に再び響く頃には、薔姫は、目の前に現れた真が偽物でも幻でもない、と知った。青白い、厳しい顔付きをし、珊と肩がぶつかり合っても謝りもせずに、ぐんぐん近付いてくる。
青紫色に固く結ばれた口が、真の中の驚き以上の何かを、そう、怒りと言うよりも何かに恐れているような気がして、薔姫は身体がぶるぶると震えた。
――謝らなくちゃ。
我が君がいいよって言うまでは、お城に来てはいけないと聞いていたのに。
約束を破って来ちゃった事、ちゃんと御免なさいって、言わなくちゃ。
「わ、我が君……」
だが薔姫がやっと絞り出した声は、掠れてしまい、眼前まで迫った真にさえも、聞こえるかどうか危ういほどだった。
片膝をついて身体を屈めた真が、遂に顔を覗き込むようにしてきた。
怒られる、と思わずしらす、ぎゅ、と固く目を瞑った途端、ぐい、と乱暴に身体を引き寄せられた。
「わ、我が君っ!?」
驚きの声を上げる間に抱き上げられ、その勢いで自分を腕の中におさめた真は、勢いよく立ち上がり、部屋を飛び出した。
「珊、何処か、使っても良い部屋は、空いた部屋はありませんか!?」
「う、あ、うん、それなら、お爺ちゃんの部屋! 彼処にしなよ!」
「分かりました、それと珊、虚海様は何処にいらっしゃいますか!?」
「あ、んと、お、奥ぅ! 奥の診察室に居る筈だから! あたい、直ぐ呼んでくる!」
走りながら訊ねる真の声は切羽詰まった怒鳴り声で、答える珊の声は悲鳴に近い。
「我が君、我が君、どうしたの? ねえ、どうしたの?」
我ながら間抜けた質問だと思いつつも、薔姫は半泣きになりながら真の首筋に縋りつく。
此れまでこんな、動転しきって粗暴な態度に出る真は、見た事がない。
悪さをした時は、毅然とした態度で怒ってくれし叱ってくれる。
だから、分かる。
自分が、どんな間違いをおかしたのか。
その間違いを認めるのがどれほど嫌であったとしても、其れから目を背けてはいけない、正面から向きわねばならないと、気がつかせて呉れるのが、真の怒り方だ。
しかし、今のように、答える事もままならない、慌てふためく様を顕にして隠そうともしない真の姿は、見た事がない。
自分は、何かとんでもない事をしでかしてしまったのだ。
それも、取り返しがつかない、何か、ひどく大変な事を。
真の腕に抱かれ、攫われるようにして運ばれながら、薔姫はきゅ、と身体を硬く窄めた。
★★★
真に抱き上げられて、拐かされるように虚海の部屋に入ると、矢張、切羽詰まった顔ばせになった芙が、寝具を担ぎ上げてやってきた。真に頼まれる前に、てきぱきと床の用意をする。綺麗に整えられた布団が用意されると、やっと真は下ろしてくれた。
布団の上に下ろしてくれたはいいが、まだ、真は自分を胸の中に抱きしめたままだ。腕の隙間の向こう側では、芙が、虚海を呼びに行く、と告げた。そっと、何か腫れ物を扱うような視線で自分たちを見詰めながら、静かに部屋を出た芙に、ますます不安感を煽られる。
――なに? 私、一体何をしちゃったの?
「姫」
「な、なあに?」
「何処か、痛いとか苦しいとか、体調が変だとか感じる処はありませんか?」
「え? う、うぅん、別にどこも悪くないわ?」
「本当ですか? 嘘はいけませんよ、姫」
「嘘じゃないわ、本当の本当に……」
「姫、お願いします、ちゃんと言って下さい」
真の身体が離れた、と思ったら、肩を掴んで激しく揺さぶられた。ゆさゆさと肩がしなる程、力を入れて揺さぶられて、目が回りそうだった。
訳が分からない。
それ以上に、こんな態度に出る真を知らない、見た事がない。
理由もなにも告げずに、こんな荒々しい態度に出る真など、知らない。
殆ど、発狂状態ではないか。
誰か、と助けを求めて視線を泳がせても下男も誰もいない。泣きそうになった処に、芙に担がれた虚海が現れてくれて、薔姫はほっと胸をなで下ろした。
「真さん、まあちょっと、落ち着きぃな。いっくら何でも、そんな早よ、感染ったもんが表に出てこおへんわ」
「虚海様」
虚海に指摘されて、漸く真は身体を揺らすのを止めてくれた。が、其れでもまだ、虚海に対して食い下がりたい何かがあるのか、何か意見したいのか、じりじりとした様子で下唇を噛んでいる。
「虚海様、どうしたの? うつるって何が? 私、何かいけない事をしたの?」
だが、よっこらさ、と掛け声をかけつつ腹這い気味に専用の床に落ち着いた虚海も、直接には答えずに、心配せんでええ、心配せんでええ、と呪文のように繰り返してくる。
「我が君、虚海様、ちゃんと言ってくれないのは、お二人の方よ? 私、確かに言付けを守らなかったけれど、そのせいで一体、何かあったのなら、言ってくれないと分からないわ!」
堪らなくなった薔姫は遂に、内に溜まった鬱憤を吐き出すように叫んだ。
叫びながら立ち上がろうとすると、そのまま、部屋を飛び出すと思われたのか、再び真に抱き寄せられた。ぎゅ、と容赦なく力を込めてくる真に抵抗して、薔姫はばたばたと手足を振り回した。幾度か、手や足が真に当たった。結構な痛みがあるだろうに、真は表情一つ変えずに、ますます薔姫を強く抱いた。まるで、腕の中に仕舞ってしまおうとでもしているかのようだ。
「我が君! 痛い! 離して!」
「駄目です、離しません」
「ま、真さんもお姫さんも、ちょ、落ち着いたりぃな」
躙り寄りながら、虚海が手を伸ばしてきた。
「お姫さん、ちょ、手を貸してくれんかな?」
診察を始める時には先ず、触診を行いつつ話を聞き出すところから始めるのが、虚海の常套だ。真に抱き竦められながら、薔姫が仕方なく手を伸ばすと、傷痕だらけの枯木のような両手で、包むようにされた。
「お姫さん、ちょっとばかりの間でええ、爺いと話したってくれるか?」
「う、うん、分かったわ、大丈夫……」
「有難とな。あんなお姫さん、あの坊と、どん位の間、一緒におったんやな?」
「えっ……? あの、半時くらい、だったと思うけど……」
「ほうかほうか、そんで、何をしたげとったんやな、ん? この爺いに、教えたってくれるか?」
「うん……お喉が渇いた、って言うから麦湯をとってあげて……。それから、ちょっと、お喋りしてただけよ? い……いけなかった……の?」
困っている人を、それも自分と同じ故郷の、しかも同じ年頃の子を、放ってなどおけないではないか。
探るような薔姫の言葉に、虚海は、ぐぬぅ、と一言呻いてばりぼりと髪の薄くなった頭を引っ掻く。
腹を括ったのか、今更、隠しても小無ないわな、と呟いた。
「あんな、お姫さん、真さんから聞いとるやろ? 禍国からのお使者さんらが、疫をばら撒きながらお国に来とるようやってな」
「う、うん……」
虚海に言われて、やっと思い至った。
だから、自分が良いというまで、家を出てはいけない、と真に戒められていたのだ。それを破って、自分は此処にきてしまった。そして出会った、仕人として祭国にやってきたというあの子は。それでは、今、祭国を陥れようとしている、まさにその疫病にかかっていた子で、だから施薬院で横になっていたというのか?
漸く導き出した答えと思しきものに、薔姫は青くなった。
あの子が疫病にかかっていたというのなら、一緒にいた自分も、かかった恐れがある?
だから真も珊も芙も、虚海も、慌てふためいているのか?
「ほんなら、言うで? お姫さん……」
虚海が口を開きかけると、薔姫を抱きながら真が頭を振った。
「虚海様、私が言います」
「真さん、ほやけどな」
「私が言います」
虚海に強い口調で宣言する真は、痛いくらいに抱きしめてくる。真を腕の中からちらりと見上げると、横顔は、息苦しそうに歪んでいる。
――我が君……。
「姫」
「う、うん」
「今回、禍国の使者と共に持ち込まれた病は」
「う、うん……」
「赤斑瘡なんです」
告げる真の声は、はっきりとしていたが、だが微かに震えていた。
真の腕の中で、薔姫は、息を止めた。
赤斑瘡、がどんな病であるか知っている。
まだ、城にいた時分にも、幾度か女童がかかったと聞き及んでいる。何人かは、宿下りしたまま、遂に王宮に戻って来る事はなかったと記憶している。
あの時は、母親である蓮才人は、あの子たちは宿下りして親元が恋しくなったのでそのまま居させる事にしたのですよ、と教えてくれた。が、本当の処はどうだったのかは、宮女たちの大きすぎる声が広める噂話で、耳にして知っている。
赤斑瘡のせいで、その子たちは、どんなに苦しんだのか。
城に戻らなかった子たちは、どうなったのかも。
そして、その病に、自分まだ、かかった憶えが、ない。
「わ、我が君…………」
やっと、事態が飲み込めてきた薔姫の声も震えだした。
声だけでなく、小さな身体が、がたがたと不安に震えだす。じわじわと恐怖が這い上がってきていた。息が苦しくなったように思えて、なのに口はぱくぱくするばかりで、暑い盛りの夏の空気はちっとも吸い込めない。
「虚海様、姫に赤斑瘡は感染してしまっているのでしょうか?」
真の問いに虚海は、むむむ、と何かを念じるように唸った。
「微妙な処やな。半日、一緒におって正面むいて話しとったんなら、ほぼ間違いあらへんのがなあ。半時で、ちゅうのは儂もまだ聞いた事あらへんのや」
「そんな……」
病を得たのか、そうではないのか。
分からないまま、発病するかもしれないという恐怖を抱えて、この十数日を過ごせと言うのか。
真は、絶句した。
★★★
赤斑瘡は、体内において数日間の潜伏期間を経て、発症する。
感染する経路は、患者に直接触れた者は勿論の事、同じ部屋に居ただけでも発症する場合があると、虚海は多くの患者からの聞き取りで独自につかんでいる。
当初は、症状の酷い風邪のようなものだ。
咳や鼻水、目脂、そして高熱で全身が痛み出す。
2~3日、それらの症状で苦しむ間に、口内に白いぶつぶつした苔のようなものが現れる。この白い苔のようなものが口内に現れたら、確実に赤斑瘡である――と、虚海は12年前の大流行の折に独自に進めた診察方法により、判別できるようになった。
発熱は、一旦であるが、下がる。
が、また半日から1日もしない間に上がり始める。再発熱が頂点になる頃までに、赤い発疹が顔や身体に現れ始める。この、独特の赤い発疹から『赤斑瘡』と呼ばれるようになったのだ。
赤い発疹の広まりが落ち着くこの頃に、咳や高熱が抜けないと肺の臓を痛めている証となるのだが、そのような症状になるのは赤子や身体の弱い者が多く、そうなるとそのまま鬼籍に入る事も少なくない。
目脂からくる目病が酷くなると失明する場合もあり、発熱から耳垢が膿めば聴力をなくす事もある。
『命定めの病』と言われる程、この病気は恐るべきものなのだ。
赤い湿疹が全身に広がらねば赤斑瘡ではない、とされたり、また3~4日で簡単に済む似た症状の病気と同一視されたりと、初診が見誤った場合、感染は爆発的に広まる。また、発疹が出尽くした後に解熱した後でも、感染した者もいるという。
「二度目の発熱が収まった後も、気が抜けないという訳ですか?」
「ほうや。出来るんなら、最初の風邪の症状から二回目の熱と発疹が落ち着くまでな、大体12~15日前後は、完全に隔離しといや方がええ」
「そうですか……」
「恐ろしい事にな、この疫はな、最初の熱が出るまえの、鼻汁やら咳やらの時期に一緒におったお人や、そんで二度目の熱が下がった後の赤い湿疹が残っとる時期におったお人の中でも、感染っとる事がある・ちゅうところなんや」
「ええ!? そ、そんな馬鹿な!?」
「疫の種ちゅうのは、熱だけやあらへん、其処が怖いところなんや」
一人でも患者が出た場合は、風邪の症状が出たとなれば感染を疑い、隔離する。
そして少しでも早い診断を下す。
そう、口内の白い苔が出た時に断定できれば、広まりをより抑制しやすくなる――というのが、虚海独自の見解だった。
12年前に感染者の荒波の最前線にいた虚海の言葉は、ずしりとした重みがあり、真は全面的に受け入れて頷くしかない。
「虚海様、それで姫が感染していたとして、いつ、何時くらいに症状が出てくるのですか?」
「それやがな。身体ン中で巣食っとる時間が、人によってまちまちなんや。早う出てくる場合は6~7日くらいやし、10日以上かかって出る場合もある」
「そんな……そんなに、ばらつきがあるのですか?」
「ほうや。そこもこの疫の厭らしいとこなんや。自分はかかっとらへん、と思っとって動き回って、知らん間に疫を遠くまで運んでまうのや」
真と虚海の会話が、耳に入ってくるようなこないような、ふわふわした奇妙な感覚に薔姫はとらわれていた。
目の前が真っ暗になって、見えているのに見えていないように感じる。
悪いのは、私。
言う事をちゃんと聞けなかった私がいけない子だったの。
そんなつもりなかったの、お母上様の事を、ほんのちょっと、伺えれば良かったの。
それだけ、それだけよ、それだけのつもりだったの。
直ぐに帰って、迷惑をかけるつもりなんてなかったの。
でも、でも――
まとまらない考えが、ぐるぐると頭のなかを回る。
真は、息を乱してかたかたと震える薔姫を、抱き直した。
「すいません、姫、私が悪かったのです。もっと、ちゃんと、危険性を伝えておけばよかったのです」
「わ、わがきみ……」
「もっと、しっかり説明しておけば良かった。いえ、虚海様から赤斑瘡だと聞かされた時に、芙に頼んで、家に使いを出しておけばよかったのです、後回しにして良い事などではなかった、私の咎です」
延々と、真は自分を責めだした。
しかし、その声は聞こえてこない。聞いている筈なのに、耳を素通りしていく。
呆然としつつも、薔姫は、自分でも知らないうちに真の背中に腕を回して、しがみついていた。けれど、しがみついているのに、自分の身体がちゃんと思い通りに動いているのかどうかも、分からない。
本当に、自分は今、此処に、居るのだろうか?
此れは実は、家で娃と共にうっかり昼寝してしまった時にたまに見てしまう、内容は覚えていない癖に、嫌な感じだけははっきりと残っている、悪い夢なのではないだろうか?
それなら、嫌な悪い夢なら、早く覚めてくれればいいのに。
何時まで、この夢に浸っていなければならないのだろう。
「ええか、真さん」
「はい」
よっこらさ、と掛け声をかけて、虚海はごろりと寝転ぶ方向を変えた。長く起きていると、身体に障る生活であるのに今日はずっと無理を強いていた為、ひとつの姿勢を取り続けるのは、寝ていたとしても辛いようだった。
「どちらにしても、感染してまっとる事を前提にして、この先、お姫さんを注意深う見とったらなあかんで、真さん」
「はい」
「そやけどな、お姫さんが感染っとるかもしれへん、となったら、此処で働いとるもんでも、驚いて何がどうなるもんか分かったもんやない。症状が出えへんのやったら、それにこした事あらへんのや。お姫さんは暫く此処におって貰うとしても、ここは最低限のもんにだけ打ち明けて、黙っといた方がええ」
はい、と真は頷いた。
「元々、姫には以前、私の手伝いをしていて貰った事がありますから。私が虚海様の傍で仕事をし、その手伝いに来てくれている、と思ってもらうように仕向けましょう」
「それがええ。お姫さん、お姫さんにゃ、なるべく普段と変わり無い生活して貰うでな」
「……う、うん……」
「大丈夫や、心配する事あらへん。この爺いに任しとき」
芙さん、まあ一辺、儂を担いだってくれんかな? と虚海が徳利を傾けつつ頼むと、芙は心得ました、と短く答えて背中を差し出してきた。
「何時もと、変わらへん、元気な姫さんでおったってな、な? そうやないと、皆が怪しむで。ええな、姫さん」
芙の背中に身体を預けた虚海は、高い位置から薔姫に、元気付けるように言う。
しかし、薔姫は答えられなかった。
★★★
芙に背負われて虚海が部屋を出て行くと、薔姫は、ますます、自分だけが取り残されているような錯覚に襲われた。
真の腕の中に居る事だけが、薔姫を辛うじて現実に繋ぎ止めていた。
「姫」
「……」
「虚海様が仰られた通りです。何時もと、一緒です。家に居る時のように、過ごしましょう」
「……でも」
「大丈夫です。まだ、感染っていると確定した訳ではないのですから」
「……」
薔姫が答えられずにいると、真は、そうは言っても難しいですよね、と微笑んだ。
「では姫、こう、考えませんか? 忙しいと、ついつい普段の生活が疎かになる私の為に、姫が態々、見張りに来てくれたのです」
「……え?」
「姫、私の傍に居て、見張っていてくれますか?」
「…………」
真の手が、肩や背中を、優しくさすってくれている。
そこだけが、自分の身体が生きてるような気がして、もっと触れて欲しくて、薔姫はぎゅ、と手に力を込める。
「――姫? 返事は? してくれないのですか?」
「……うん、わかった……わたし……我が君のお傍にいてあげる……」
やっと、薔姫は声を絞り出す。
はい、ありがとうございます、と答えながら、真は薔姫の背中をさすり続けた。




