6 疫 その1
6 疫 その1
吉祥を占われた椿姫は、早朝、用意されている産屋の主となるべし、と定められた。
この産屋は、地鎮祭と、棟上げの折の祝詞奏上及び魔除上棟を、慎重に慎重を重ねて行われた。鳴弦の儀を行いながら、神籬もたてられた。祭儀により祓いを充分に施された産屋は、禍国の帝室と祭国の王室の直系の血統である、戰と椿姫の御子の誕生を迎えるに相応しいものとなったのだ。
胎児を守る、破邪退魔の蟇目矢が、一斉に放たれだした。清められた白装束に身を包んだ祝たちの手より、次々と蟇目は産屋を護るべく音を放って飛び交う。鏑矢がおこす、『ぽぅぅ~……、ぽぅぅ~……』という独特の音は、魔縁化生なるものが最も恐るものの一つだ。
此れから、椿姫が無事に出産を終えるまで、この産所蟇目は続けられる事になる。
蟇目の儀が物々しく行われる中、戰の腕に抱かれて椿姫が産屋に入った。
室内は、外見からは想像出来ないが、かなり広いつくりになっていた。
この産屋で、初他火を終えるまでの十数日間を御子と過ごすのだから、当然と言えば当然だ。だが戰は椿姫を抱いたまま、物珍しげに室内をぐるりと見回って歩いた。
ふと、男児が誕生した場合に、直ぐにも桑弧蓬矢が行えるよう、蓬矢と桑弓が神棚に用意してあるのを同時に見付けた戰と椿姫は、顔を見合わせて同時に笑い声をあげた。
「嬉しい気遣いではあるけれど、随分と気の早い事だね」
「そうね」
桑弧蓬矢は、男児が無事に誕生した折に、家長、即ち父親が、天涯の主である天帝に我が子誕生を知らしめる為に行う神事だ。だが、産所蟇目や桑弧蓬矢は、禍国帝室では馴染みが薄い。戰も、戦から帰国して椿姫に教えられて、初めて知ったほどだった。だが、こうした神事を大切に受け継ぐ事により、天帝が御子の誕生を見守って呉れているのだと、ひしひしと感じる。
――皆が、二人の御子を我が子のように大切に思ってくれている。
感激に瞳を潤ませた椿姫の目元に、戰が額を寄せてきた。
予め、用意されていた寝台の上に椿姫を下ろしても、二人は固く抱き合ったままだった。
暫しそのまま、頬をすり合わせるように抱きしめ合っていたが、どちらからともなく、身体を離す。
「椿」
「はい」
「説明した通りだ。此れから先、どの様な災禍が起こるか分からない。だから、もしかしたら私は、初めての我が子の誕生に、立ち会えないかもしれない」
「はい」
「良人としても、父親としても、好ましくない事だと思う」
「……戰」
「恨んでくれても構わないよ、どんなに謗られても構わない。酷い良人だと、悪い父親だと、責めてくれていい。けれど、椿、分かって欲しい――」
戰の言葉を遮ぎろうとしてか、椿姫がぶつかるようにして、自分から唇を重ねてきた。
一瞬、驚いたように目を見開いた戰だったが、直ぐに椿姫の背に腕を回して引き寄せる。
「大丈夫よ。私の、この、身も、心も、魂も、貴方を傍に感じているから」
「……椿」
戰の大きな掌を、突き出たお腹に椿姫は導いた。とくとくと温かい体温は椿姫の、むくむくと元気に動く力強さはお腹の御子の、二人の、言葉以上の思いを、戰を後押ししようとする思いを伝えてくる。
「戰、貴方は、貴方の思うようにしてきて? きっとそれが、この子が大きくなった時、戰が父親であって良かったと、誇りに思える事に繋がるはずだから」
「……椿」
「大丈夫。心配しないで、行ってらっしゃい」
額から頬にかかる戰の前髪をかきあげながら、椿姫が子を諭すように微笑みかける。
「済まない、此れから先も此度のように、辛い事、苦しい事、哀しい事が、沢山おこる事だろう。その度に私は、君を泣かせてしまうかもしれない」
「忘れないで。戰が辛いなら私は幸せを、戰が苦しいなら私は愉しみを、戰が哀しいなら私は喜びを、貴方に贈るわ」
「椿……」
「私を抱く戰には、真直ぐに前を向いて生きていて欲しいから。――だって、私は」
戰はもう一度、強く、愛する少女を抱きしめた。血を繋ぐ御子の存在を、温かな脈動が伝えてくる。
「戰の妃ですもの」
すると、思わず戰が驚いて目を見張る程、大きくせり出たお腹が、一際大きく元気に脈うった。まるで、腹の中で二人の会話を聴いていた御子が、その通りだと言わんばかりに。
「ほら、この子だって、それを望んでいる筈よ? いいえ、そういう子になるよう育ててみせるわ」
「――矢張り、母親というのはずるいね。父親よりも一足もふた足も先んじて、子供を味方にしてしまえるのだから」
「仕方ないわ、だって私は、もう何ヶ月も前からずっと一緒に暮らしているのですもの」
互いの息遣いが、産屋の外で唸る鏑矢の音にもかき消されないほど、激しくなっていく。
そうだね、と戰は呟きながら、見詰め合った。互いの手を、頬や、首筋、耳朶、額、髪の流れに何でも何度も添わせながら。眸だけでなく、手の平にも、その人を刻もうとするかのように。
「行ってくるよ、椿。御子を頼む」
「はい」
若い夫婦は、力の限り、抱きしめあった。
★★★
昼になり、禍国からの使者の一団が王都の南大正門に到達したとの知らせが入った。
緊張が、一気に高まる。
「ぐ……郡王・さ……殿」
不安げに見上げる学に、戰はにこりと笑いかけた。
「大丈夫だ。この国を、共に守ろう」
きゅ・と唇を固く引き締めつつ、少年王は顎をひいた。
南大正門を、高々を掲げた国旗と共に通り過ぎて行く。
先頭に立つ馬上から、鷹は不満を隠しきれずにいた。
――何故、女王は大門まで出迎えに来ない?
宗主国の使者を国王が参向するのは、当然の行いである。しかし、鷹の不満の根源は、別の処にあった。
嘗て、真の妻となった薔姫と共に家に入り、同じ離れ住まいであった美貌の王女を思い出しつつ、鷹は不遜にも舌打ちをする。麗しい、咲き誇る椿の花のような可憐な姫君の姿を一刻でも早く愛で、愉しみたい、そんな男しての性が先立つ欲望だった。
そして何よりも、真が姿を現さない事に、明白な苛立ちを見せた。
――格下の、属国の女王如きにあの王女を収めた功を誇り、尊大に振舞うのか、あの鵟の奴は?
確かに彼女は、当時の皇帝・景に俎上を上げ祭国の女王となった。
更には、郡王として赴任した皇子・戰に求められ、正式に妃の御位をも授かった。
それらは、影で暗躍した真の功績だと、優の言動から鷹も知っている。
だが鷹から見れば、椿姫は、一門の『所有物』である真の妻・薔姫の介添え娘として、敷地内で過ごした間柄、親しい関係の少女なのだ。介添えとして薔姫に仕えている間、極稀に顔を合わせる機会に恵まれれば、彼女は王女でありながらも立場に準じた振る舞いを崩さなかった。
――王女の身分でありながらも、顔を合わせれば、丁寧に礼を捧げてきたのは、私を想ってこそ、だろう。
長い睫毛に彩られた大きな瞳に被さる影が、少女ながら、いや少女であるからこそか、婀娜っぽく誘いかけていたのを思い出す。
抜けるように白い肌。
顔ばせを彩る紅い椿のように艶やかな唇。
桃の花のような滑らかな頬。
伏せ目がちにすると、長い睫毛の影ができる大きく潤んだ瞳。
豊かな黒髪は、流れるように薫を放つ。
そして屋敷内の3年の間に、蕾から大輪の花へと昇華した匂い立つ豊満な胸を躰を、嫋かにくねらせて捧げられる礼拝。
思い出すだけで、身体の芯から、ほの暗い熱が上がってくる。
――私に対して、あのような態度を見せておった癖に……。あのような仕草をとって誘いをかけてきておったと言うのに……。王女とて、私に気があった筈であろうに、そうか、矢張り郡王の締め付けがあるのか。
残念極まりなし、と鷹は首を左右に振る。
――此度の出向きの折に、郡王・戰との仲はいかばかりかを探るついでに、いよいよ戯れの恋を、と思ったのだが……。
身体を熱に浮かせながら、鷹は顔をだらしなく緩めているのにも気がつかない。
月の妖精に例えられる美しく麗しい少女に、常に楚々として傅かれる態度をとられていた鷹は、大いなる思い違いをしていた。
★★★
王城は、想像していたよりも立派な構えをしていた。
――此れは……! 鄙の地に、斯様な雅やかな構えの城があったとは!?
流石、連綿たる歴史のある国柄の面目躍如といったところか、と鷹をはじめとした使節団は、驚きを隠そうともしない。不躾すぎるほどに、舐め回すように王城の造りを見ては、感嘆の呻き声を漏らす。
歴史の深さの度合いを示す証か。
王城の屋根瓦は、美しい曲線美を誇って描かれており、陽光を跳ね返している。
壁の真白な漆喰も、御柱の朱も、美々しい光沢を放っている。
格子窓にはめれられた絹に描かれた絵図は、どれも深い趣きがある。
漂う薫香は、淑やかな王女の好みを表して実に優雅だ。
塵一つなく雑草一つ整えられた内庭も、趣向を凝らしてある。
かと思えば、思う様伸びている、緑豊かな園も垣間見え、その趣味の広さを伺わせている。
何よりも、隅に傅く女童に至るまで、整えられた衣装を纏い、礼節を守っているではないか。
確かに規模は、城が街となる禍国の其れに比べようとする方が烏滸がましい。しかし、典雅さにおいては、引けをとるものではなかった。
だかこれらは、皇子・戰が郡王として此の地を統治し始めたが故に、確実に豊かになったという証であるのだ。でなければ、幾ら何でも短期間に此処まで体裁を整えられない。
のであるが、鷹も使者として共に入城した使節団の面々も、この祭国の城こそが、皇子・戰と女王・椿姫の政の正しさからくるものだと、直結して考えられない。
ただただ、歴史と由緒ある国柄はここまでなのか、と目を見張るばかりだった。
王の間に向かう途中、耳慣れぬ音が響いてきた。独特の音を奏でているそれは、何かを求め、訴えるように続けられている。
「あれは、何だ?」
興味本位で鷹が尋ねると、先を案内する舎人は静かに目を伏せがちにした。
「蟇目の儀式を行っているのです」
蟇目? と馴染みのない儀式の言葉に首を傾げながらも、背後からの耳慣れた声に、鷹は目を眇めた。振り返れば、深衣を纏った異腹弟である男が礼拝を捧げつつ立っている。忌々しさと苦々しさを隠そうともせず、鷹は、ふん……と居丈高に鼻を鳴らした。
「遠き禍国よりお出でになられました使節の御方々におかれましては、慣れぬ鄙への旅路はお疲れの事であると存じ上げます」
「御託の奏上は要らん。さっさと、我々を謁見の間に案内するがいい」
真が鷹に対し再び礼を捧げると、鷹は、ハッ! と息を切りながら醜悪に顔を顰めて視線を逸らし、受け取ろうともしなかった。
真に導かれて、美しく整えられた回廊を歩く鷹は、いよいよ耳に囂しい独特の音に、運ぶ風を探るように首を何度も巡らせた。共に来ている禍国の使節団も同じなのだろう。不思議そうに、音を追っている。
「あの音は、何だ?」
「はい、先程も申し上げましたが、蟇目の儀が行われているのです」
「蟇目……? それは一体、どの様な儀式なのだ? 何故、我々が訪れるこの時期に合わせて行われている?」
口にしてから、鷹はハッとなった。
――よもや、我々を呪う、呪詛や咒いの類ではあるまいな?
鷹と同じ考えに及んだのだろう。鷹たち禍国の一行は、明白に顔色を悪くし、おろおろと視線を交わし合う。挙動不審に陥った使節団に、舎人や殿侍たちが笑いを堪えているのを見て、漸く、鷹は居住まいを正して答えるよう、真に顎をしゃくってみせた。
鷹の質問に、やれやれと小さく呟きながら真が答えようとする間に、一行は、巨大な扉の前に出た。
「謁見の間です」
殿侍たちが固く守る扉に向け、真が最礼拝を捧げた。
「国王陛下、禍国よりの御使の方々が謁見を望まれておられます故、お許しを賜りますようお願い申し上げます」
――国王陛下?
鷹が聞き咎めようとする前で、許しが与えらる。
大扉が開け放たれた。
★★★
銅鑼、繞鉢、太鼓、鉦鼓の音が、厳かに奏でられ始める。一度盛大に舌打ちをし、鷹は頭を垂れたままの真の足元に、ペッ、と唾を吐きかけた。伏せられていた真の目蓋が薄らと開けられるのを確かめると、ふん、と満足気に鼻をならした。
「鵟は臭くて適わんからな。浄めてからでないと、前は通れんわ」
そのまま、謁見の間に脚を踏み入れる。
禍国の使節の長い列が全て棟の中に消えると、表情を消したまま、真は、深々と嘆息した。
胸を張りながらも、鷹の足は緊張に震えていた。
それはそうだろう。つい先頃、雲上がかなう身の上になったばかりでありながら、此度のこの大役なのだ。
――だが、やりきってみせねばならん。
極度の緊張からか、体温が跳ね上がり、喉がキシキシと音をたてて乾いて行くのを感じる。
禍国では既に、先の皇帝・景の三回忌は恙無くしめやかに行われた。
その席に、郡王である皇子・戰は、隣国である燕国との国境不穏を言い立て、出席しなかった。
その罪は、重い。
罪を問われたくなくば、祭国の郡王で終わりたくなければ、密かに手を携えるべく上官となった大令・兆を手を携えるべしと道筋を立てねばならない。
郡王・戰には目付として、異腹弟と呼ぶも烏滸がましいが、側妾腹の真が仕えている。郡王が首を縦に振らねば、奴を脅したててでも、己に従うよう奏上するようもっていけ、と大令・兆に命じられている。
「己の異腹弟とやらに、存分に思い知らせてやってくるがいい」
しかし鷹は大令・兆に命じられようといまいと、真と向かい合うと思うだけで、心底、反吐が出る。
「だが真の奴に、身分と血筋、そして品官を思い知らせるには良い機会だ」
腹の奥底で、くつくつと侮蔑の笑い声を祝杯替わりにあげながら、鷹は勧められるままに謁見の間を歩む。
その歩みが、とまった。
眼前に、黄金と真紅の絹、そして数々の宝玉で彩られた装飾美を誇る玉座が現れたのだ。
――素晴らしい。
思わず知らず、ごくりと生唾を飲み込んだ。
禍国帝室の玉座にはまだ見えた事はないが、この中華平原随一の美麗さであると聞き及ぶ。歴史だけが長く重い弱小国家である祭国程度でこの美しさであるのならば、禍国本土のそれはいかばかりなのか?
此度、無事に事を成し遂げて帰国すれば、私も禍国にて雲上ばかりか謁見の誉れが叶うやもしれん……。
鷹は一人、夢見心地に飛んでいた。
国王が歩む御成筋として、緋毛氈が引かれていた。淵は黄金の房で飾られている。
引き連れてきた一同を両膝をついて跪かせると、鷹は己も裾を広げながら、跪いた。そして礼を捧げつつ、目蓋を軽く閉じる。王者の尊顔は、宗主国の使者であれば、本来は傅かれる立場だ。しかし、郡王・戰が共に居る以上、許しを得るまで直視してはならない。
――風下に立つべき国が、同等に扱われるなど……。
何度目かの舌打ちをしつつ、鷹は薄目を開けて緋い御成筋を眺めた。
この御成筋を、女王としての衣装で美々しく飾り立てられた椿姫が、静静と歩く様を目蓋の裏に思い描く。
――一体、この2年の間に、何程美しく、且つ男好きのする躰になったのであろうか? ああ、全くもって惜しい!
再び、喉仏を上下させた鷹の耳に、異腹弟、真の声が不快に響き渡った。
「祭国国王陛下、御成に御座います」
鷹は思わず、許しを得る前に目を見開き、伏せていた顔を勢いよくあげる。
――国王? 女王ではなく、国王? どういう事だ!?
先程の言葉は、矢張り、聞き間違いではなかったのか!?
鷹の視界に、見知らぬ、しかし王女・椿姫によく似た顔ばせをした少年が、御成筋をゆっくりと歩む姿が飛び込んできた。
少年は、若年ながらも堂々たる態度で玉座の正面まで歩み寄ると、くるり、と此方に向き直る。
「吾国主上であらせられる、国王学陛下の御成に御座います」
異腹弟・真の声が、雷鳴のように鷹の体内で鳴り響いた。




