6 無位無官無職人・真 その2
6 無位無官無職人・真 その2
昼間から酒を満たした盃を傾けている祭国王・順の顔は真っ赤に染まって、まるで猩々【しょうじょう=赤い顔の猿の一種】のそれとかわりない程だった。しかも、泥濘のように澱んで、表情が弛緩仕切っている。澱を含んだ眼底は黄味と血筋が走り、どろりとした動作と共に、相当に酔いが回っている事を深い酒気帯びの呼気が周囲に知らしめている。
悲観しているのではない。
むしろ逆だ。祝杯替わりであった。
このまま、娘姫である椿姫が剛国王・闘の元へ嫁ぎ、そして継治の御子を産みさえすれば全ては丸く収まろうぞ。娘姫は強国、剛国の王妃となり、孫は世継ぎの王太子。ふむふむ、吾はいずれ、剛国王の外戚としてより強い力を得ようぞな。そして吾の祭国は、禍国の手より離れて再び独り立ちの国へ、真の国王へと戻ることができるというものぞ。
「何という、親孝行な娘であろうぞ、のう、椿よ」
飾ってある娘姫の似姿絵を見上げながら、盃を掲げた。
似姿絵は、その本人の身代わり、つまり細部に至るまで過たず似せねばならない。もしも人相を誤れば、その人物の運気が変わってしまう。もっと言えば呪術をかけるに等しい行為の為、絵師は皆、人相学を学んだ占師とも言える。娘姫である椿姫の姿を絵に閉じ込める筆を走らせた絵師は、その度に褒め讃えたものだった。
――姫君様におかれましては、晴星天舞、誠に比類なき美しき相をお持ちになられておられます。
それがどのような意味をなすのか、分からない。順は知ろうとも思わない。ただ皆して、口を揃えて褒めているのだ、役に立ってくれる相を持っているのだ、それだけ分かれば充分過ぎるであろうぞと、その程度の認識でしかない。そしてそれは偽りのないものであると、娘姫は見事に実証してくれた。
早く帰ってくるのだぞ、わが娘、椿よ。お前の夫君となるべき王者が、ここな城にて待ちわびておられるぞ。
酒を満たした瓶子を傾け新たに酒を注ごうとした順の元に、ばたばたと足音も高く、臣下が駆け込んできた。
「何事であろうぞな? ん?」
酩酊状態である座った目を隠そうともしない暗愚な王に、深い諦念を抱きつつ、臣下は叫んだ。
「か、禍国よりの御使者に御座います!」
「な、何!?」
祭国王・順は立ち上がった。
よもや、椿の縁談が何処からか漏れたのか?
いやそれにしても、使者が来るのが早すぎるであろうぞよ。
どういうことぞ? 誰ぞ、裏切りでもしたというのか?
いやいや、問題はそんな事ではないぞ!
「は、早う、謁見の準備を整えよ、は、早う!」
「そ、それが、禍国よりの御使者は、国王様にお会いになられたいと」
「じゃから早う、早う準備をせんかと、申しておるではないか?」
「ち、違います、い、いえその、こ、国王様違いに御座います」
「な、何? 其の方、何を申しておる?」
「禍国よりの御使者が面談を求めていらっしゃるのは、ご逗留中にあられます闘剛国王様に御座います!」
「な、何じゃと!?」
思わず立ち上がった祭国王・順の太腿が、机の裏に激しく音を立ててぶつかった。瓶子が転がり酒をぶちまけながら、床に落ちる。ガシャン! と乾いた音をたてて瓶子が割れ、無残にも酒の飛沫と共に破片が床に飛び散った。
★★★
真が背後に克を従えて上座に向かう姿を、剛国王・闘は苦々しさと共々に無理矢理に胃の腑に飲み下していた。
文字通りに、怒髪天を衝く尋常ならざる怒りを、隠そうともしない。
しかしそれでいながら、潔く上座を真に譲る。堂々としたその態度には、まるで真こそが下座に向かっているかのような錯覚を、覚えさせた。真は、剛国王・闘が生まれながらにして、絶対王者の気質を腹に蓄えているのだと、理解した。
しかし、真が上座に座るのは当然だった。
何しろ、此処は祭国。宗主国である禍国は、それがいかな下級の者であろうとも、祭国王よりも上位にあたる。彼はこの祭国の宗主国である禍国よりの正式な使者。例え相手が祭国王・順であろうとも、彼にひれ伏さねばならないのだ。例えそれが、側妾腹の出自である真であっても、だ。
悪びれる事なく、どこか眠そうな表情ながらも、さっさと自然に座る真の様子に、逆に克の方がぎょっ・として目を剥く。しかし、真はまるで縁側に座を勧められたかのような気楽さで、上座に座っている。
「お初にお目にかかります、戰皇子様の目付として罷り越しました、真と申します。以後、見知り置かれる必要は御座いませんが、此度の席の間のみは、覚えおき下さい」
「よかろう、覚えてとらす」
「有り難く存じ上げます。改めまして、新たなる剛国の王として至尊の冠を抱かれた事、お慶び申し上げます、闘剛国王陛下」
「祝福の言葉、痛み入る、御使者殿」
「本来であれば、剛国にて我らが下座に位置し拝謁の栄誉を賜りしものを、このような対談となり、大変申し訳なく存じ上げます」
そんな事は露ほどにも思っていないと、真の明るい、すらりとした口調は物語っている。闘の背後に控える者が一様に色めき立ち、腰に帯びた剣に手をかける。それを、闘はぎろりとしたひと睨みで押さえつけた。
仕方がない事だ。
今、剛国王である闘が、この祭国の城に逗留している事は、城にいる者であっても極僅かしか知らぬ事実。また、闘の祖国である剛国ですら、信頼の置ける臣下しか知り得ぬ事実でもある。
剛国王・闘は、此処に存在せぬ人物なのだ。
ならば、存在せぬ人物に対して、敬意を払う必要なし。
剛国王に会いに来たと言う癖に、存在しておらぬのでしょう? と一刀両断に断じて怖じける気配すら見せぬ真の背後で、克は内心で冷や汗を滝の如きにながし続けていた。
「して、此度、私にどのような話があると、御使者殿」
「はい、それでは」
些か芝居掛かった勿体ぶりを見せながら、真は懐に手を入れた。懐から出された時には、手には小さな巻型の書状が握られていた。それをまた、真は殊更大袈裟な身振りで広げて見せる。はらりと音がして、巻物は広がる。神妙な顔つきをしつつ、真は巻物に視線を落とした。
「吾国聖上、禍皇帝・景陛下よりの御言葉を、皇子戰殿下に成り代わりて、我・真が、剛国王・闘殿下に賜る。朕・景は祭国王女・椿よりの俎上を受け入れるもの也。即ち、現祭国王・順を大上王と做さしめとする上訴を許すもの也。此れにより継治の御子である王女・椿を祭国の新たなる女王として即位する儀をもまた許すもの也。剛国王においては、此れによる椿女王の即位戴冠の儀への来聘、また吾国への朝貢により許すもの也」
すらすらと淀みなく読み上げる真の言葉に、その場に居合わせた全員が、それぞれに顔色を変えて身体を強張らせた。
★★★
祭国王・順は、顔色を真水のように真っ青に落とし、わなわなと震えている。
反対に、剛国王・闘の顔ばせは、真っ赤に染め上がっている。
順に従う者は更に真っ白に顔色を無くし、等に従うものはどす黒く膨れ上がらせている。
祭国王・順は、ぶるぶると震え、膝をガクガクと打ち鳴らしながらも真の持つ勅書を奪い取った。その手が、血豆で汚れている事に闘の視線は捉えていたが、順にとってはそれどころの話ではなかった。目の前に座っている、のんびりと眠そうな面付きをしている青年の言う事が正しければ、自分は国王では、既にないのだ!
そ、そんな、そんな馬鹿な事がこの世にあろうか?
今、いま、この御使者殿は何と言うたぞ?
勅書に血走った眼を走らせるが、其処には、使者である真が述べた通り、一言一句、違えず書き連ねてある上に、皇帝・景の黄金文書である証である、宣旨を告げる印璽が赤々と押されていた。
「つ、椿、わが娘姫・椿が、吾を俎上したとな?」
「はい」
「そ、そして椿がこの祭国の新たなる王とな?」
「はい」
「あ、吾は最早、だ、大上王であるとな!?」
「はい」
つまり、有り体に言えば、こういう事だ。
『現祭国王である父王・順は余りにも無能であるが為、祭国は衰退の一路を辿り、王家一族臣下郎党民草の末端に至るまで、甚だ迷惑を被っている。祖国を健やかに保つ為にも、父王を国王の座から退けたしという王女・椿姫の願いを聞き入れる。成り代わり継治の姫たる娘姫・椿姫を、女王として新たに即位することを許し、現国王・順は大上王の位に退く事を、禍国皇帝・景の名のもとに許す。また、この新女王の即位の儀式は禍国で執り行う為、隣国である剛国は、3年前の過ちを認めて朝貢をするというのであれば、この儀式への出席を認めよう』
……最初から誰にでも分かり良いように、このように書けば良いものであるが、小難しい言葉を並べ立ててさも何でもないことを大仰に述べたくなるのが、御位の高い人物というものだ。
「これはもう、所謂、『高貴なる御方』とかいう種族に蔓延る、ひとつの性癖だな」
と勅書の写しを眺めながら戰は苦々しく言い放つ。真も苦笑いしつつも頷いて、同意したのだった。戰様、貴方もその『高貴なる御方』の御種族のど真ん中を歩まれている筈なのですけれどね、と呟きながら。
★★★
しかし、戰と真のように、この勅書を明るく蔑む事が出来ぬのが、大上王という意味があるのかないのかわからぬ御位に落とされた祭国王・順と、朝貢、つまりは貢ぎ物を持って許しを請えば、新たなる祭国王の即位の儀式に立ち会う事を許してやると尊大に言葉を投げられた剛国王・闘であった。
「――禍国皇帝・景とやらは、この私に、剛国に、禍国の風下に立てと宣うか」
「さて、それはどうでありますか」
剛国王・闘の、怒りの為に熱く震える声は、煮え滾る地獄の釜であろうとも、これほどではあるまいと皆が恐怖を覚える程であったが、真はけろりとしたものだった。まるで「明日の天気は晴れであろうか?」と問われて答えているかのような、気楽さだ。
「どういう事だ? それ以外に、何かあるとでも申すのか」
「何事かあるようにされるもさせぬも、全ては剛国王陛下の御一存にあられるかと」
「――何?」
「陛下、包み隠さず申し上げれば、我ら禍国は、陛下ご自身である剛国を脅威であると捉えております。正直、貴国がお持ちであられる騎馬軍団に、吾国のそれは敵いませんでしょう」
「ほう?」
「然して、その騎馬軍団を用いられる事なく、この祭国を手に入れようとなされておられるのは、何故で御座いましょう?」
「何故だと、そちは思うか」
「では、失礼ながら。恐れながら、闘剛国王陛下。陛下は、正式な手順をお踏みになられずに国王の座に就かれたのではあられませんか? その為、一部ではまだ反意が燻っておられる」
「――ふん、此処までは、ほぼ、そちの言う、その通りだな」
「恐れ入ります。反意を押さえ込む為には、他国侵略による国土拡大が一番手っ取り早く済みます。そこで、3年前の因縁深きこの祭国に目をつけられた。隣国でありますし、何よりも祭国王の為人も熟知されておられる陛下は、祭国王を飴と鞭で篭絡し、椿姫を手に入れる事で実質的に祭国を支配する事を思いつかれた」
「その通りだ」
「元来が勇悍果敢なる騎馬の民の集まりである剛国は、基本的に農耕を主にして生きてきた祭国のような国を、武力でもって支配し、強大化を図られてきた筈。しかし陛下は、今、それをなされておられない。それは、ご自慢の騎馬軍団を動かす事が、出来ずにおられるのでは?」
「……」
「何故、動かす事が出来ずにおられるというのでしょう? 剛国の御国柄から申せば、戦いなくしての勝利など何の意味も御座いますまい。勇猛果断に戦い抜いた果ての勝利こそが唯一至上であられる筈。何故で御座いましょうか?」
「何故だと思う」
「分かりません」
此処までの話の流れから、聞き入っていた者たちはすっかり真が分かっているものとしていたため、いつの間にか固唾を呑んで見守る形になっていた。
しかし、最後の最後で、けろりとして「わかりません」と明るく言い放つ真に、彼の背後に控える克も、闘の背後に控える臣下たちも肩を透かした。
突然、剛国王・闘の、豪胆な笑い声が高く跳ねた。真の話術が気に入いったのだ。
「其の方、随分と頭の良い奴のようだな。気に入ったぞ」
「恐れ入ります」
まるで恐れ入っていない口調で、真はすらりと返す。ふん、と闘は鼻で笑った。そして笑いを収めると、今度はぎらりとした眼差しの矛を真に差し向ける。しかし、真はどこかうっすらと眠そうにしたままだ。
「真とやら、お前だな、3年前のあの戦いを指揮したのは」
「さて、それはどうでありましょうか」
相変わらずの口調だ。
いい加減で、闘の背後では彼に斬り掛かりたくてうずうずしている臣下が、真っ黒になった顔体を沸騰させている。闘が、漸く微かに背後を振り返り、彼らに向けて僅かに手を上げていなした。
途端に、電流が走ったが如きに、姿勢を正す彼らをみて、克は羨ましいと思った。
武人である克には、彼らが規律の正すその姿勢を歪めてまで、国王に傾倒している事が羨ましくて仕方がない。そしてただ手をひと振りするのみで己を捨てて、国王の命令に準じているのも。
今の、禍国にはない。
兵部尚書である優は、なるほど類まれなる才気を持った優秀な武人であり、最高の将軍であり、彼に仕えるのは克にとっても無類の喜びだ。しかし、たとえどんなに優秀であっても、優は兵部尚書でしかない。彼もまた、『国に仕える』人間であり、その棟梁を選ぶ権利を持ち得ないのだ。
数多の国を探っても得られぬような稀代の武人を囲っていながらも、その彼を最大限に活かしきる事ができない――
現在の禍国皇帝・景。嘗て、英明闊達をうたわれた名君主は、そこまで地に堕ちていた。
その事実を、優が誰よりも嘆いているのも、克は知っている。
己の魂を、血潮を、命の息吹を賭して、戦場を駆ける価値のある御方に仕えたいものだ――と。
そう、嘗て豪快に笑いながら戦場に赴く旨を申し伝えた優は、ここ数年、笑うところを見せていない。命をかけるに値せぬものに、笑えるものかと憮然となって行くばかりであり、いつの間にか、巌のような顔つきが、優独特のものであると皆が勘違いする程に至るまでに。
改めて、真に視線を落とす。
真は、変わらずどこか眠そうにしている。
その兵部尚書の側妾腹の出であるという、この真という一風も二風も変わった青年を、ごくりと喉を鳴らして克は背後から見つめる。
此処まで、一国の主である、国そのものである国王に向こうを張って臆することのない、この青年・真。彼が、此れほどまで恐れ知らずでいられるのは何故なのか?
彼は、賭けているのか? 己の魂を、血潮を、命の息吹を。
――一体、誰に?
知りたい。
知りたくて堪らない。
克はごくりと再び喉を鳴らして口内に溜まった唾を飲み下しつつ、真に熱い注視の視線を注ぐ。
真の言葉だけによる戦いに、いつの間にか克も、深くのめり込んでいた。
【俎上】 == 意味
ある人物や物事を問題ありとして議題に取り上げ、様々な面から議論し評したりする事
今回の場合は、祭国王・順に問題ありとして椿姫が禍国皇帝・景に相談を持ちかけた……という意味合いでざっくりと捉えて頂けたらと思います




