ラーメンは太る。
いつもあったものが急になくなって、あれ?ここに何があったんだっけ、となったことはないだろうか。
見慣れた店などが急につぶれて更地になってから“前に何が建ってたっけ?”と思うことは誰しも経験することだと思う。
人間、見慣れてしまったものはあって当たり前であって、普段は特に注意を向けていない。そのため、そういうものがなくなってもすぐには気付けなかったりする。
そのときの江本優の心境も、それに似ていた。
出張から二日ぶりに帰宅して、自宅のドアを開けたら何か違和感を感じる。
え?何が違うんだっけ、と見回すと、妙にがらんとした部屋に気づいた。
まず気づいたのはテレビ。何も載っていないテレビボードが妙に寂しい。次にパソコン。本体の色が気に入って購入したノートタイプ。ご丁寧にプリンターもない。
そこまで気づいたら、あとは芋づる式にあれもこれもと見つけることができた。
ステンドグラスを模したデスクライト、通販で買った北欧の姿見、大したものは入っていなかったアクセサリーボックス。
どくどくと心臓が音を立て、嫌な汗が浮いてくる。
もしかして、泥棒。
音を立てないようにしながら、バスルームや押し入れもそっと確かめたが、誰もいない。カーテンを開けて鍵も確かめたが、しっかりと施錠されている。
貴重品の入った棚を開けると、通帳と印鑑があった。同じ場所に置いたパスポートも年金手帳もある。
え?なんで?
泥棒にしては部屋が荒らされた形跡もないし…。
もしかして…いや、まさか…。
むくむくと疑惑が膨らむ中、テーブルの上に置かれた紙に気づく。
見慣れた筆跡のそれにサッと目を通した優は、その意味を悟るとともに、がっくり膝をついた。
『ごめん。もう一緒には暮らせない。探さないでください』
6年間続いた同棲生活の終わりは、たった一枚の紙に告げられたのだった。
◇◇◇◇◇
「純粋にあなたのものが盗まれたなら、窃盗で間違いないんだけどね」
調書を書きながら、警察のおじさんが顔をしかめた。
ですよね~。そう思った。
優の部屋からなくなったものは、すべてヤツが購入したものか、二人で買ったものだったのだ。
通帳やら現金が無事だったあたり、確信犯だろう。
一応被害届は出しておくが、あまり期待はしないでと言われ、優はわかりましたとしか言えなかった。
◇◇◇◇◇
優は段ボールに乱雑に物を詰めながら、イライラと髪をかきむしった。
まじめに働いてきた。彼のことも長く付き合ううち恋人同士というよりは家族のように思っていたが、誰より大切に思っていた。
大切だったからこそ、30すぎて定職にも就かない男を半ば養って、結婚したいのけの字も言わずに献身的に支えてきたというのに。
友達にはあんな男やめときなよ、とよく言われていたが、いつも笑って、私だけは信じてると返していた。
いい年こいて頭に花が咲いてたんだな!!
誰か壺かなんかで殴ってくれたら良かったのに。
「ああああーー。くそ!!」
乱暴に皿を突っ込んだため、奥の方でメリッと嫌な音がした。
割れたか。チッ。
段ボールにして5箱の荷物とともに実家に戻ると、金髪碧眼の外人がこたつに座っていた。
瞬きしても、やっぱりいる。
ビールとさきいかで一杯やっている父がおかえり、と声をかけてきた。父と向かい合う形で座った外人は食い入るように競馬中継を見ている。
ビール、さきいか、こたつ、競馬中継、金髪碧眼。
小学生でもすぐできる間違い探しか。
「あら、優。何よその大荷物」
エプロンで手を拭きながら母が出てきた。
「あら、お母さん。何よこの外人」
両手は段ボールでふさがっているため、顎でしゃくる。
「もー、あんたは行儀が悪いんだから。この人はウィルくんよ。一昨日からうちにホームステイしてるの」
母のことばに優はぽかんと口を開けた。
ホームステイとな。
ホームステイとは確か、海外からの留学生が現地の家庭に仮住まいし、現地の文化や人と交流し、別れ際には号泣するとかいう、あれですか。
原住民の村に何日か滞在した芸人が泣いている映像が浮かんだ。
「はじ、めまして。ウィルともおします」
母に紹介されて立ち上がった外人は、見上げるほどにでかかった。190くらいはあるだろう。
たどたどしいことばに、人懐こい笑顔。
昔飼ってたラブラドールを彷彿とさせる。よく見れば幻の尻尾が見えそうだ。
「なんか、タロウみたいだな」
思わず呟いた優の頭は、母の平手で思い切り叩かれることになった。
実家のある南川島市は総人口8万ほどの小さな市だ。出生率もさほど高くなく、目立った産業もなく、鉄道の駅も地下鉄のものしかない。隣の市に大型のショッピングセンターができたため、商店街がどんどん寂れていっている。
そんな南川島市が新たな試みを始めたのが去年のこと。
とある市役所職員が半年ほど行方不明になり、フラッと帰ってきたことが始まりだった。
半年行方不明で復職できるとか市民をなめてんのか、と思うが、男性の叔母が市長をしているということで致し方ないらしい。まじでか。やっぱなめてんな。
その縁故職員が語ったところによれば、異世界にちょっと行ってきたという。
旅先で頭のネジを落としてきたかと疑われた男性だったが、何度きいても話のつじつまが合っていること、何より男性の言った通りの方法で実際に異世界へ行けることが明かになり、南川島市は揺れた。
はじめのうちは市民にはひた隠しにされていたが、つい家族や友人に漏らした職員から、じわじわと噂はひろがってしまったのだ。
行って帰ってこられるなら、異世界に行ってみたいと思う人は少なくないだろう。海外旅行みたいな感覚だ。
そんな異世界旅行希望者で市役所がごった返す中、市長は異世界に渡り、あちらの偉い人と条約を結んできた。
この度、異なる世界とつながることができ、本当に嬉しい。
だが、こちらの世界とそちらの世界では発達している技術も文化も違いすぎる。いきなり自由に市民を行き来させては大きな混乱が予想される。
そちらでスタンダードな魔法を持ち込まれても困るし、こちらでは珍しくもないスマホを持っていってもよろしくないだろう。
そういうわけで、少しずつ計画的に、異文化交流をしたい。
毎年数名ずつ留学生という名目で市民を交換する。年齢や職業も偏らないようにし、広く異世界の文化を吸収できるように。
もちろん、良からぬ思想をもった人を異世界留学させてしまうのはまずいので、しっかりと身上調査は行う。受け入れる家庭も無作為抽出で決め、念入りに身上調査を行う。
市長の提案に、あちらの偉いさんも同意してくれたらしい。
そして南川島市とエルンベルク国との<特別交換留学制度>が成立した。
「ちょっと、ウィル!ただでさえ図体でかいんだから、そんなとこにしゃがまないでよ!」
「ユウ、猫」
廊下をふさいでうんこ座りした外人と猫。違和感ありまくりだが、突っ込んだら負けだ。
「お隣の猫よ。お父さんが餌やるから入っていくんの」
「かわ…い?」
「かわいい、ね」
首をかしげるウィルに言うと、奴は正確に音を真似た。
優が実家に戻ってまだ3日だが、ウィルの規格外なところはたっぷり味わった。さすがエルンベルク国からの特別交換留学生、というわけか。
まず、こいつは耳がいい。こちらがどんなに早口にしゃべってもしっかり聞き取る。その上で正確に模倣する。
そして記憶力が半端ない。長い文章もしっかり覚えていて、あれはどういう意味だ、これはなぜこのように表現するのだ、とこと細かに訊いてくる。
おかげで優は常にスマホが手放せない。なにせ、こちらは普通のOLなのだ。日本語を使うのに不自由はしていないが、正しい文法、正しい用法で、ことばの意味を正確に!なんて無理だ。
ありがとう、ウィキ。ありがとう、ネット辞書。
さすがに、初日の食事時に両親に話した彼氏との顛末まですべて記憶されていたのには、閉口した。どうせ話の内容なんてわからないからいいか、とウィルの前で話したのがいけなかった。
「優、いわんこっちゃないとは何のことですか?ごくつぶしとは?いきおくれは?」
訊かれた優はスマホを足元に投げ、ウィルの白いほっぺたをグイグイつねってやった。
イタイイタイと半泣きの顔を見たら、ちょっと溜飲が下がる。
「あんた、それを江本家以外にもらしたら、ただじゃおかないから」
「わかった」
ドスをきかせた優のことばに、コクコクと頷くウィル。
「優、会社お休み?」
涙を拭いた奴が顔を傾けると、サラサラの金髪がそっと流れた。美容院に通って、トリートメントをし、それでも枝毛に悩む人もいるというのに、不公平なものだ。
「休みよ。…今日と明日はお休みです」
男に逃げられた勢いで部屋を解約し、働く意欲もわかなかったのでまとめて有休をとったのだ。
端的に答えようとして、正しく言い直す。耳の良いウィルのため、正しい日本語で接するように!と両親から厳しく言われている。ついでにあんたのその悪い口も直しなさい、とも。余計なお世話だ。
「優、ラーメン食べたい」
「ラーメン?昨日も食べたじゃない」
食べたことがない、と言うので昨日の夜に近所の中華料理店に連れて行ったばかりだ。
うまく啜れず、必死に手繰り寄せる様はまさに外国人。
「違う味も食べてみたい。ラーメン大好き」
えへ、と照れ笑いをしながらウィルが言う。
いいよ、と反射的に答えようとした優はため息をついた。
出会ってまだ三日だが、家にいる間はずっと優の後ろをついて回るウィルに、絆されてきてしまっている。
図体はでかいが、気配りができて優しい。子どものように何も知らない。きらきらした蒼い瞳に、ふわふわの金髪。本当に昔飼っていたタロウみたい。
全力で傾けられる好意は、くすぐったいけど悪い気はしない。
「ラーメンは私も好きだけど、毎日食べると太るの。昼は定食を食べに行こう」
「テイショク?」
近所の定食屋で焼魚の食べ方を教えてやったら、真剣に箸を握りしめ、中骨をとっていた。
……ちょっとだけかわいい、と思ったのは、悔しいので絶対おくびにも出さないけれど。