目覚めの朝4
アスターは、イオルを置き去りにしてシルヴィアの部屋を訪れた。中に入るとシルヴィアは椅子に腰掛け、小さな花瓶に生けた花を見つめていた。なずなの花。シェファーズの国花。
その花を見たアスターの眉間に深いしわが刻まれる。花からイオルの気配を感じたからだ。静かに近づくとアスターは横から花瓶を奪い、勢いよく壁に叩きつけた。
「きゃあ」
アスターの突然の訪問と凶行にシルヴィアは驚き、おびえた。震えるシルヴィアに対するアスターの眼は冷ややかだが、彼のとった行動は、その瞳とはまるで正反対だった。
アスターはおもむろに首に下げていた鍵を取り出し、シルヴィアの足を戒めている枷をはずす。
「アスター様?」
突然のアスターの行動にシルヴィアは戸惑う。初めて、はめられた時から今まで外されたことなどなかったからだ。
「きゃっ」
鎖を外したのに動こうとしないシルヴィアに痺れを切らしたのか、アスターはそのまま彼女を立たせると手を引き、扉のほうへと向かった。
「あの、アスター様?」
「黙ってろ」
シルヴィアがアスターに問いかけようとしてもぴしゃりと拒絶する。シルヴィアの心臓が緊張で早鐘を打つ。どこに連れて行かれるのだろうか。不安だった。今まで、アスターが動くたびにシルヴィアは何かを奪われてきた。初めは、父を。それと同時に国を。そして純潔を奪われ、自由さえも奪われた。これ以上、何を奪われるのか。その怯えがシルヴィアから言葉を奪っていく。
彼は扉を開け、部屋を出ると、そのまま通路を進み、奥の階段を降り、そして裏口から王宮の外へと出た。外へ出たところでアスターはシルヴィアの手を放す。
それから顎をしゃくりついて来るよう、シルヴィアを促すと、シルヴィアのことはお構いなしにどんどん奥へと進んでいく。颯爽と歩くアスターに遅れまいと必死についていくシルヴィア。
だが小柄なシルヴィアはアスターとの歩幅にかなりの差があり、それを埋めようと、少し小走りになりながらついていった。
「待ってください」
ハアハア言いながらも必死に足を動かすシルヴィアの小さな声にも立ち止まらず、アスターは一人先を行く。結果、アスターが立ち止まった所にたどり着いた頃には、シルヴィアは汗だくになっていた。
「アスター様?」
息を整え、アスターを呼ぶ。彼はシルヴィアの方をようやく振り返った。
「あの……。ここは?」
シルヴィアの問いにアスターは無言である方向を指差した。そこにあったのは、小さな池。そしてその池の中心に向かって道が伸びていて、その道の果てには質素な四角い石碑が置かれていた。シルヴィアは驚きに目を見張ると、その石碑に向かって走り出した。
『まさかっ!』
そこにたどり着くとシルヴィアは跪き、石碑に刻まれた文字を読む。
―シェファーズ最後の王。ここに眠る―
そう書かれていた。
『お父様……』
鬼神アスターのことだから父の亡骸など、どこかに打ち捨てられていると思っていた。だから、父を丁重に葬ってくれたことに対しては、素直に感謝の念がこみ上げてくる。
「ありがとうございます」
シルヴィアの涙にぬれた微笑にアスターは息をのむ。
「一応、一国の王だった人間だからな。それに、俺が指示したわけではない。家臣たちが勝手にやっただけだ。礼ならやつらに言うがいい」
ばつが悪そうにアスターは顔を背けた。彼の気まずそうな表情にシルヴィアから自然と笑みがこぼれる。アスターのこんな人間くさい表情を見るのは初めてだった。先ほどまであった緊張感がとけ、シルヴィアはアスターに許しを求めた。なぜだか今のアスターなら、自分の願いを聞いてくれると思ったのだ。
「アスター様。一つお願いがあるのですが……」
アスターは顔をあげ、シルヴィアを見つめる。
「なんだ?」
シルヴィアは両手を組み跪いたまま、アスターに懇願した。
「ここで歌を歌わせていただけませんか」
「歌?」
「はい。お父様が安らかにお眠りになられるように。鎮魂歌を歌わせてはいただけないでしょうか」
アスターは二拍ほど間をあけた後、そっけなくシルヴィアに答えた。
「好きにすればいい」
「ありがとうございます」
穏やかな微笑みをアスターに向けたあと、シルヴィアは立ち上がり石碑に向き直った。
「お父様。どうか安らかにお眠りください」
石碑を愛おしそうになで、そこに漂う清風を胸いっぱいに吸い込んだ。シルヴィアから癒しの歌が聞こえてくる。心が洗われるような美しい響きにアスターはいつのまにか聞き惚れていた。すると、その歌声に誘われるように空から小鳥たちが、森からはリスなどの小動物たちが顔を出し、シルヴィアとアスターを囲んでいる池の周りに集まってきた。
「天の花園」
アスターの口からシェファーズの異名が零れ落ちる。
温暖な気候に支えられた美しい景色と豊かな大地の恵み故にシェファーズは【天の花園】と呼ばれてきたと思っていた。
しかし、本当はこのような奇跡を目の当たりにできるからなのではないかとアスターは思った。この世のものとは思えない光景。シルヴィアからは神々しい光が放たれていて、その姿はまるで天使のようだった。白い翼を広げ、天に昇っていこうとする天使のように……。
『天に昇る……』
そのときアスターの胸がズキッと激しく痛む。
そして、気がついたら叫んでいた。
「シルヴィアッ!」
その切迫した大声にシルヴィアが驚くと、集まっていた小動物もそれが伝達したかのようにビクッと身体を震わせ、一目散に逃げていった。
その後、辺りを静寂が包み込む。
アスターの異変に気がつき、シルヴィアが何か言いたそうに唇を開きかけたが、その前にアスターはくるりと背を向け、来た道を戻っていった。
「もういいだろう。そろそろ戻るぞ」
その言葉だけを残して。
「えっ? あっあの、待ってください」
シルヴィアの身体は慌ててその背を追いかけ、動くが、彼女の頭の中もアスターのことでいっぱいになっていた。
そっけない態度で思いやりもない。だが、この日、シルヴィアのアスターに対する印象は少し変わった。アスターはその名に相応しく人間の心など持たない鬼のような人だと思っていた。だが、父王の墓を作り、そこへ自分を連れてきてくれたのは私への気遣いであり、アスターの優しさではないかと。
『父を殺し、国を滅ぼした張本人。憎むべき仇。気を許してはいけない。純潔を奪い、自由を奪い、私を日々苛む人。だけど…』
『シルヴィアッ!』
彼の熱い声。
そして自分を捕らえて放さぬ力強い両腕。この日、本人も気づかないくらい小さな、小さなともし火がシルヴィアの心にともったのだった。