おんな傭兵ウーファ
第一章 おんな傭兵ウーファ
護衛任務の七日目だった。
霧の中を歩いている。街道と呼ぶには荒れすぎた、獣道と呼ぶにはわずかに踏み固められた森の道を、十五人の傭兵が列になって進んでいる。私はその列から少し離れ、右手の森の縁を歩いていた。
「フゥ……」
吐いた息が霧に溶け込んでいくようだ。森の木々を二本超えた向こうの様子が何もわからないくらい、濃い霧だった。
自作の火縄銃の重さが肩に食い込む。使い慣れた重さだ。十二のとき初めて担いだ銃は大人の男のものだったから、銃床が膝裏に当たって歩くたびに青痣ができた。今ではどこが痛いのかもわからない。体の一部になっている。
列の真ん中に馬車が一台ある。カーテンは閉め切られたままだ。七日間ずっとそうだった。中の人物が誰なのか、傭兵たちには知らされていない。報酬は一人につき銀貨二十枚。通常の護衛任務の数倍だった。それだけで、訊くなという意味だとわかる。
「後方警戒! 常に自分のうしろにいる人数を確認しろ!」
隊長のロウランは元騎士だ。普通の傭兵じゃ一生かけても買えないようなフルプレートの全身鎧を身につけている。この霧深い森の中で鎧は邪魔でしかないが、それでも脱がない。鎧が彼の身分であり、名前であり、傭兵たちとの境界線だった。
ロウランは馬車を守るというより、何かから逃げているように見えた。休憩のたびに背後を振り返り、森の奥に目を凝らしている。
傭兵たちが馬車を見ている。
傭兵の一人、べゼールが何度も振り返る。黄ばんだ高価なひだえりを首に巻いた男だ。どこかの貴族から剥ぎ取ったか、死体から抜いたか。
「今度こそ見えた。白い手が」
べゼールの言葉を聞いて、ショーンが毒付く。
「やっぱりか! 俺らは貴族の逃避行のお守りなんだな!」
赤髭で、太い腕に新しい傷と古い傷が交互に並んでいる男だ。
「隊長だけが近づけるってのが気に入らねえ。あの貴族気取りめがよぉ、いつか背中から刺してやる」
声を落としてもいない。ロウランに聞こえても構わないという態度だった。こんな小規模な傭兵隊では、度を越した悪態など日常茶飯事だ。いちいち気にしているようでは、荒くれ者どもの頭は務まらない。
事実、ロウランは似たようなセリフを何度も耳にしているはずなのに、どこ吹く風だ。言った本人たちも、あいさつ程度にしか思っていないのだ。
若い傭兵が私を見る。帽子に安い羽根飾りを挿している。まだ二十にもなっていないデュラという男だった。
「このくそったれフクロウ女がいなけりゃ、分け前が増えるのにな」
ショーンが赤髭の下に黄ばんだ歯を剥き出して笑う。
「ゲヒャヒャ、この下女より劣る売女の娘がよぉ。母親と同じ商売をしてりゃいいんだ。そっちの方が稼げるだろ」
私は何も言わない。
傭兵たちは私を軽蔑している。女だから。娼婦の娘だから。男たちと同じ距離で睡眠をとらないから。
群れの中で一人だけ距離を取る者は、集団の秩序にとって異物だ。だが同時に恐れてもいる。私の火縄銃が、遠くの敵を確実に撃ち抜くことを、彼らは知っている。
私は戦場生まれだ。傭兵について回る娼婦の私生児として生まれた。父親は知らない。知る必要もなかった。母は私に一つだけ教えた。忘れれば死ぬ、絶対の鉄の掟だ。
(戦場では誰も助けてくれない。自分で自分を守れ)
だから私の哲学は単純だ。火縄銃を手放さない。
遠くから撃つ。近づかない。関わらない。生き延びる。
剣や槍を振り回し、怒号を上げて殺し合う傭兵たちとは違い、私は常に距離を取る。前線から離れ、高所や森の縁から敵を撃つ。そのため傭兵たちは私を「フクロウ女」と呼んだ。勝手に呼べばいい。本当の名前、ウーファと呼ばれるのは、関わりの始まりだ。私はそういうのを徹底的に避け、常に距離を取って仕事をこなす。そうして生きてきたし、これからもそうするつもりだ。
傭兵の中には、悪態にも加わらず、かといって庇いもしない者たちがいた。片目に古い刀傷があって痩せているリズルキは、私が近くを通ると黙って半歩ずれる。避けているのではない。銃の射線を塞がないようにしているのだ。戦場を知っている者の動き方だった。
別の男……背中に二本の短剣を交差させて括りつけているカシュレイは、私と目が合うと何でもない顔で逸らす。敵意でも好意でもなく、面倒を避ける目だ。傭兵隊の大半はそういう男たちだった。生き延びるために必要なものを値踏みし、不要なものには関わらない。私と同じだ。
その日の昼、森の縁に影が見えた。霧の隙間だ。
追手だろう。誰よりも早く気づいた。見えるものを見つけるのは、私の仕事だ。
列を離れ、倒木の背後に膝をつく。火薬入れから取り出し、槊杖で装填し、火縄に火を移す。手順は体に刻まれている。考えるより先に指が動く。
傭兵たちが騒ぎ出す前に、一発だけ撃った。
ズバァーン。
そんな音だった。キレの悪い発砲音。湿気で火薬の燃えが悪いせいだ。肩の付け根に、馴染んだ衝撃が来る。骨を通って顎まで抜ける硬い振動。銃床が体に食い込む角度で、今日の火薬の燃え具合がわかる。少し弱い。だが十分だった。
白煙が顔の右半分を覆い、硝煙が鼻腔の奥を焼く。この匂いは十二の頃から変わらない。母の寝床に染みついていた男たちの体臭より、ずっと馴染みがある。
耳の中が詰まっている。発砲の圧が鼓膜を押して、森の音がひと呼吸ぶん遠くなる。その無音の隙間に、遠くの木陰で何かが崩れ落ちるのが見えた。
「警戒! 警戒しろ!」
ロウラン隊長は大袈裟に騒いだが、私の一発で追手は退いたようだった。傭兵たちは黙った。流石に悪態をつく者はいない。私の銃が誰かの命を奪った瞬間だけは、誰もフクロウ女だのなんだのとは言わない。
銃身に手のひらいっぱいの土をかけて冷ましながら言った。
「まだ何人かいる」
それを聞いて、私をバカにしていた羽飾りの若い傭兵や、赤髭のショーンは黙ってしまった。
べゼールだけが、私の顔を一拍長く見た。それから森の奥を見て、何かを胸の内で勘定し、ひだえりの内側に指を入れて首を掻いた。彼が黙って歩き出すと、迷っていた何人かがそれに倣った。誰も命じていないのに、彼の後ろに自然と列ができる。そういう男だった。
刀傷のリズルキが死体に最初に近づき、装備を確かめていた。追手の素性を見ているのだ。略奪ではなく偵察の手つきだった。それを見て、他の何人かも散開して周囲の茂みを調べ始める。命じられたからではない。一発の銃声が、だらけた列に緊張を戻したのだ。短剣のカシュレイは木の根元にしゃがみ、地面の足跡を指でなぞっていた。何人で来たのかを数えているらしい。
これが私の生き抜き方だった。
*
護衛団の最後尾に、名を呼ばれない若者がいた。
粗末な麻のシャツ。サイズの合わないびっちりした革の上着。痩せた背中。肩甲骨が布の下に浮いている。彼は何度も列を離れて茂みに入るため、「小便小僧」と呼ばれていた。
後頭部に大きなこぶがあった。そこだけ髪が生えていない。丸く盛り上がった皮膚が、霧の中で薄く光る。
ショーンがそれを見て笑った。赤髭を撫でながら、自分より背が低い痩せっぽちの名無しを指さして。
「おい、こいつ後ろにも目玉があるぜ」
羽飾りの若い傭兵も同調して言った。
「サイクロプスだ」
傭兵たちが笑った。
この森にはサイクロプスが出るという噂があった。一つ目の巨人。人の罪をその大きな瞳で見つけ、にらみつけられた者は死ぬという、怪物。傭兵たちは噂を笑ったが、誰も焚き火の番を一人でやりたがらなかった。
私はそんな噂を信じていない。怪物など見たことがない。見えるものだけを信じる。
(この目で見えるもの、撃ち殺せるもの。それしかいないだろ。この世には。暴れ雄牛ですら撃ち殺してみせるさ)
誰にも自慢なんかしないが、私は私の銃の腕を誇りに思っている。これがあるから、私は母と同じ職業を選ばずに済む。もちろん、いつだってそういう仕事をする覚悟はあるが……。
だが、今の生活こそ、私が誇りを持てる生き方だ。そうに違いない。そう信じている。
戦場を遠くから見て、殺されずに殺す。いいことじゃないか。卑怯? 私は女だ。甘く見てほしい。
*
私はなるべく列の後ろの方を歩いた。霧が深い朝、名無しの若いあいつが列の後ろを歩いているとき、後頭部のこぶが一つの目のように見える瞬間があった。
(まあ、不気味なやつなのは確かだ)
私がじっと見ていても、時々振り返る名無しは、何も言わなかった。ショーンやデュラたち、嘲笑する者たちを、名無しはただ見ていた。
その目を見て、私は思った。
あの目は知っている。娼婦の馬車で見たことがある。何か悪い病にかかって、もうすぐ死ぬ娼婦の目。何もかも奪われた者の目だ。
戦場の外縁で育った私は、あの目を何度も見てきた。略奪されて殺される村々でも見た。母も溜め込んだ金を取られた後、死ぬまでずっとあんな目をしていた気がする。戦場の跡を漁る商人たちもそうだった。馬車も荷車もないような、最下級の徒歩で傭兵団についてくる商人たち。
何もかも失った後に残る目は、怒りでも悲しみでもない。ただ見ているだけの目だ。見ることしかできなくなった目だ。
(見ることしかできない、か……)
私はどうなのだろう?
(イラつく気づきじゃないか)
私は意識して火縄銃の銃把をギュッと握りしめた。
これだけが私を無力なただの女以上のものにしてくれる。
第二章 二人の女
その夜、一行は森の中で野営した。
私は馬車の真上の楢の木に登り、太い枝に背を預けた。火縄銃を膝の上に横たえ、見張りにつく。馬車に近づく外敵を撃つ。それが私の仕事だ。向こうでは焚き火が燃えている。炎が傭兵たちの顔を赤く照らし、森の木々に長い影を投げている。湿った薪が爆ぜる音が、断続的に夜を刺す。
深夜になって、ロウランが馬車に入った。
木の上からそれを見る。彼を迎えるように扉が開いた時、女の姿が少し見えた。
若い女だった。絹の衣装が焚き火の光を微かに反射している。宝石の髪飾り。喉元には細い金の首飾りがあって、鎖の輪の一つ一つが火の色を拾い、息をするたびに小さく光が動いた。白い手。爪の先まで手入れされた、労働を知らない手。ただの貴族令嬢ではない。
ロウランの声が低く聞こえた。
「……追手は……この森を抜ければ……」
女の声が答えた。
「もう何日ですか」
「あと三日です、姫」
姫。
(ふーん……姫、ねえ)
私は目を細めた。おおかた政略結婚の相手国から逃げ出したか、あるいは謀略で命を狙われたか……。そしてロウランが密かに護送していると。銀貨二十枚の理由がわかった。
姫の声は震えていた。扉から少し姿を現した時も、絹の袖を握りしめ、爪が白くなるほど布を掴んでいた。恐怖だった。ただの高慢ではない。追手に捕まることを心底恐れているようだった。
だが、聞こえてくる声によれば、その恐怖は傭兵たちへの侮蔑として吐き出されたようだった。
「あの者たちの視線が嫌です。獣のような目で私を見るのです。特に、あの女……」
ロウランが答えた。
「ウーファは腕の立つ銃手です。森を抜けるには必要です」
姫は吐き捨てた。
「娼婦の娘が、男の真似をして銃を持っているのでしょう? 傭兵どもが口々にそう言っていましたよ? あんなに泥にまみれて……恥を知らないのね。同じ女だと思いたくありません」
木の上で、私は表情を変えなかった。
怒りはある。腹の底が熱くなる感覚はある。だからといって見張りの仕事に身が入らなくなることはない。銃を撃つにしても冷静にやれるだろう。怒りで銃を構えたことは一度もない。怒りは照準を狂わせる。
(同じ女だと思いたくない、か)
だが、その言葉だけは私の中で木霊する。
(あんたも、私からすれば同じ生き物だと思えないよ)
逃げるために馬車に乗り、騎士に守られ、周囲を固めてくれる者に悪態をつき、絹の袖を握りしめて恐怖に震える女。その恐怖は本物だろう。
(どこの姫様だか知らないけど、今の姿はひどく哀れだな)
私の母は逃げる馬車も、守ってくれる騎士も持たなかった。女として扱われることすらなかった。ただの娼婦だった。
膝の上の銃を握りしめる。
(フフ、何か我慢できないことがあれば、こいつで……)
不真面目な想像すら湧き上がってくる。いけないいけない。バカなことを考えるな。どうもこの森は落ち着かないようだ。早く終わってほしい、不気味な任務だ……。
*
焚き火のそばでは、賭博が始まっていた。
木の上からよく見える。炎に照らされた男たちの輪の中に、名無しの若者がいた。赤髭のショーンがサイコロを握っている。名無しに向かって振るよう促す。親しげな声だが、表情は笑っていない。
名無しは負け続けていた。なけなしの銅貨が、ショーンの手元に積まれていく。他の傭兵たちは囃し立てている。
囃し立てる者ばかりでもなかった。刀傷のリズルキは輪から少し離れた場所で、自分の短刀を研いでいた。砥石の音が規則正しく、笑い声の合間に硬く響く。こちらに背を向けているが、耳だけはそちらを向いている気配がある。
短剣のカシュレイは輪の中にいたが、賭けには加わらず、ただ火に手をかざしていた。名無しが負けるたびに、短剣の男は火に手をかざしたまま、一度だけ瞬きした。それだけだった。
ベゼールが唇を歪ませながら言った。
「ノロマが傭兵なんかやるからだ」
それは優しい忠告でもあったかもしれない。ベゼールの目は名無しではなく、名無しの手元に残った銅貨の方を見ていた。数えるような目だった。
しかし赤髭のショーンはそんな機微なんか拾わずに、ただただ罵倒し続ける。
「ゲヒャヒャ! 豚小屋へ帰れ!」
そしてデュラが同調する。
「いや、豚にも負ける!」
どれだけ言われても、名無しは黙っていた。黙って賭けを続ける。だが負けるたびに体が小さくなっていく。痩せた肩が体の内側に入り、顎が胸につきそうになる。
最後に、名無しは震える手で何かを出した。
指輪だった。
「母の形見なんだ」
名無しの声を、私はそのとき初めて聞いた。思ったより低い声だった。
「ああん? 形見だぁ?」
ショーンがそれをつまみ上げた。焚き火にかざし、金色の光が走るのを見て、鼻で笑った。赤髭が揺れる。
「真鍮じゃねえか。こんなゴミ、賭けの足しにもならねえ」
そう言って、指輪を焚き火に投げ込んだ。
「ああっ!」
名無しが動いた。
膝から崩れ落ちるように火の前に突っ伏し、燃えさしの中に両手を突っ込んだ。
「ギエッ!!」
焼ける肉の匂いが立ちのぼった。甘い、不快な匂いだった。風に乗って木の上まで届いた。名無しはそれでも構わず焚き火の中をあさり、真鍮の指輪を探ろうとする。
「ぎゃははははははは!!」
傭兵たちが腹を抱えて笑っている。ベゼールだけが目を逸らし、ひだえりを引っ張って隙間から首をボリボリかいた。羽根飾りのデュラが地面を叩いている。
「笑い殺す気かよ、ぎゃはははは!!」
「外道どもが……」
私は銃を構えた。
火縄は挟んでいない。火蓋も切っていない。膝の脇で、縄の先の赤い点が静かに息をしているだけだ。撃てない銃。ただの鉄と樫の重さ。
それを、構えた。
一発目。ショーンの右手。距離は四十歩。焚き火の熱で空気が揺れているから、半指ぶん下を取る。鉛玉は手の甲から入って、サイコロごと指を持っていく角度だ。
唇の先だけで、言う。
「ばーん」
肩に、来るはずの衝撃は来ない。来ない衝撃を、骨の方が勝手に覚えている。
銃口を滑らせる。二発目。デュラの帽子。あの安物の羽根の付け根。頭蓋まで二寸を残して、帽子だけが夜に舞う。
「ばーん」
ぎゃはぎゃはと笑う声の、ちょうど切れ目に落ちた。誰の耳にも届かない発砲音。私一人の夜戦だった。
三発目。焚き火の中。燃えさしの隙間で鈍く光っている真鍮。一番難しい。だが、できる。薪を散らして、指輪だけを火の外へ弾き出す。
「ばーん」
三発。火薬は一粒も減っていない。硝煙も上がらない。装填の手間さえ要らない。
頬の内側が、緩んでいた。
笑い声と同じ拍子で、私の唇が動いていた。
名無しがついに我慢できずに両手を火から出す。白い煙が肌から上がり、彼は転げ回った。けたたましい笑い声の中、地面をゴロゴロ転がって苦痛に顔を歪めているのが見える。ショーンが笑うのが見える。デュラが笑うのが見える。べゼールが散った焚き火を直すのが見える。
見えていた。全部見えていた。
火縄を挟めば、三十数える間に、本物の一発目が出る。
挟まない。
撃てば、関わることになる。関われば、巻き込まれる。巻き込まれれば、死ぬ。母が教えたことだった。
名無しは焼けただれた手で焚き火の外に落ちた指輪を拾い上げた。皮膚が赤黒く膨れ、水膨れがいくつもできている。指の間に灰が詰まっている。その手で真鍮の指輪を握りしめ、懐にしまった。何も言わず、寝床へ戻っていく。
そのとき一度だけ、名無しがこちらを見た。目線は上、間違いなく木の上にいるこちらを見ていた。絶対に偶然ではない角度。
(あ……?)
目が合った。
暗がりの中で、焚き火の光が彼の目に反射している。怒りではなかった。恨みでもなかった。ただ、見ていた。
見られた、と私は思った。
銃口を向けたのを、見られた。三発ぶん、どこへ向けたのかも。唇の動きまで、読まれたかもしれない。
(ふーっ、ちくしょう。不気味な奴め。ゾッとしたよ……)
だが、それも考えるのをやめた。考えれば、関わることになる。
夜半過ぎ、見張りを交代して木を降りた。
焚き火は熾になっていた。男たちは雑魚寝している。名無しは輪から離れた木の根元で、膿んだ手を胸に抱えて座っていた。眠ってはいない。あの手では痛みで眠れないだろう。
私は自分の革袋から軟膏の小壺を出した。豚脂に煮た樹皮を練ったやつだ。銃手は火傷と暮らしている。火皿の火の粉。過熱した銃身。湿気た火薬が銃口で吹き返すこともある。だから軟膏は、弾丸と同じ袋に入っている。予備がもう一壺ある。
寝床へ向かう道筋を、半歩だけ曲げた。歩く速さは変えなかった。小壺を一つ、奴の足元の落ち葉の上に落とした。立ち止まらなかった。振り返らなかった。
(袋が軽くなったな)
背中で、落ち葉の鳴る音がした。
それだけだった。
第三章 手
翌朝、最初の死体が見つかった。
ショーンだった。
私と夜の見張りを交代した直後、茂みに入ったまま戻らなかった。朝の出発準備で人数を数えたとき、いなかったのだ。ロウランが捜索を命じた。森の縁の倒木のそばで見つかった。
金は盗まれていなかった。昨夜の賭博で巻き上げた銅貨も、腰の袋に残っている。
ただ、両手が焼けただれていた。
指の間に、焚き火の燃えさしが一本ずつ挟み込まれていた。まるで指輪を嵌めるように。十本の指のすべてに、黒く焦げた木の棒が差し込まれている。皮膚はただれ、肉が開き、焼けた脂が乾いた血と混じって黒い塊になっていた。
そして、右耳がなかった。
傭兵たちが騒いだ。誰かが追手だと言い、誰かが獣だと言った。
「サイクロプスだ」と、羽根飾りの若者が言った。冗談ではない声だった。
べゼールが片手を上げた。もう片方の手はいつものように、ひだえりの内側を掻いている。
「騒ぐな。追手にしちゃあ芸が細かすぎる。獣ならもっと食い散らかす」
傭兵たちの方を順に見回し、それから死体の手元にもう一度目を落とした。
「サイクロプスだの何だの言ってる暇があるなら、自分の持ち場を確認しろ。次に転がるのは、怯えて足が止まった奴だ」
冷たい言い方だったが、怯えた声よりずっと効いた。傭兵たちは口を閉じた。黙ったのは納得したからではない。べゼールの言う「次」が自分かもしれないと思ったからだ。
私は木の上から、べゼールの目を見ていた。口は冷静だ。だが、ひだえりを掻く指だけが止まらない。黄ばんだ襞の奥で、爪が首の皮膚を何度も引っ掻いている。
(あいつも怖いんだ。ただ、怖がり方を知ってるだけだ)
刀傷のリズルキは死体の手を見て、一歩退いた。彼が退くのを見たのは初めてだった。短剣の男は死体には近づかず、周囲の地面を見ていた。足跡を探しているのだろう。だが、しゃがみ込んだその膝が微かに震えている。
他の傭兵たちも同様だった。死体そのものより、燃えさしを十本の指に一本ずつ差し込むという、その手間が怖いのだ。獣にはできない。人間にしかできない。だが、人間がやることとも思えなかった。
歴戦の者たちが皆怖がっていた。
私は木から降りて、死体に歩み寄ると、そのそばに膝をついた。傷を見る。銃ではない。矢でもない。獣の爪痕でもない。近くから、強い力で殺されている。首の角度から見て、後ろから首を折られたのだろう。音を立てずに殺し、それから手に燃えさしを挟んだ。
「人間の仕事だ」
私は言った。
「化け物だなんて、くだらない」
傭兵たちは黙った。だがその沈黙は安心ではない。人間の仕事であるほうが、怪物より怖い。怪物ならばまだ全員の恐怖を一致させられる。憎しみへと束ねれば、団結して対抗できるかもしれない。だが人間ならば、殺し屋は隣で寝ている者かもしれない。
だが、口にしなかったことがある。
指の間の燃えさし。焚き火から拾い上げた指輪。焼けた手。そして、あの夜、私の銃口が最初に向いた先が、サイコロを握ったこの右手だったこと。
唇の裏で、あの音がひとりでに鳴った。
ばーん。
私の視線が、焚き火のそばで寝ている名無しに向いた。名無しは高熱を出していた。焼けた手は腫れ上がり、膿が滲んで麻のシャツの袖を汚している。まともに剣も握れないように見える。
あの手で人を殺せるのか。
私はショーンの死体から離れた。それ以上考えなかった。考えれば、関わることになる。
だが、何かが引っかかっていた。喉の奥に小骨が刺さったような感覚がある。飲み込むこともできず、吐き出すこともできない。
ロウランが進軍を急がせた。
「追手が近い。ここに留まるな」
その声には焦りがあった。だが、彼が恐れているのは追手だけではない。それは私にはわかっていた。
*
第四章 帽子
その日の昼前、霧が薄れた。
七日間、私たちを包んでいたものが、引き潮のように木々の間から退いていく。見通しが戻る。それはこちらの目にも、向こうの目にも、同じだけ戻るということだ。
最初に気づいたのは私だった。見えるものを見つけるのは、私の仕事だ。 右手の斜面。楢の幹の間に、灰色が動いた。一つではない。扇形に開いて、稜線の下をこちらへ降りてくる。数えた。十二。木に隠れている分を足せば、十五。初日の斥候と同じ、音を消した歩き方だった。
「右手の斜面! 十五、散って降りてくる!」
私の声で列が固まった。ロウランが剣を抜くより早く、べゼールの声が通った。
「荷を背に固めろ! 馬車は窪地へ! 間を空けるな、二人一組だ!」
誰も命じられた覚えのない序列が、その場で立ち上がった。男たちが動く。べゼールは最後に私を見た。
「フクロウ、任意の場所から撃ってくれ」」
命令の形はしていなかった。だが命令だった。私は答えず、もう走っていた。倒木と岩の重なった高みに膝をつく。火皿に口薬。火縄は生きている。風は左から、弱く。
一発目は、向こうの足が揃う前に出した。
パァァン。
乾いた、いい音だ。肩の付け根から顎へ抜ける衝撃。白煙が顔の右半分を流れ、耳が詰まる。その無音のひと呼吸の間に、扇の右端がひとつ、若木ごと斜面に崩れるのが見えた。
銃を立てて槊杖を取り、火薬と鉛玉を紙で巻いた早合を込める。三十数える間、私はただの女だ。だから高い場所にいる。だから遠くにいる。
「ウラァ! 死ね!」
眼下で男と男がぶつかった。金属同士がぶつかる音が遅れて届く。金属と木と人の声が、ひとかたまりになって斜面を上がってくる。乱戦は煙と木立で切れ切れにしか見えない。
リズルキが、突き出された槍の内側へ半歩で入るのが見えた。短剣の男が低い姿勢のまま誰かの脇を抜け、抜けたあとで相手が膝をつくのが見えた。ロウランのフルプレートは、この七日間で初めて邪魔ではなくなっていた。打ち込まれた剣が胸甲の曲面を滑り、滑った男の顔を籠手が潰す。鎧は彼の身分で、名前で、今日だけは本当に、壁だった。
(あいつら全員、私の壁として信頼できるな)
火薬の圧搾が完了する。二発目。また乾いた音。いい。横に流れて窪地へ回り込もうとする一人。三十五歩。胸の真ん中より半指右に命中。倒れた。再び装填作業。指は手順を知っている。目は次の標的を探すのに集中できる。
べゼールの声が、二度、煙の向こうで通った。
「左を畳め!」
「深追いするな!」
「よし、固まれ……」
四度目の声は来なかった。黄ばんだひだえりが煙の切れ目に見えて、次に煙が流れたときには、もう見えなかった。
三発目は外した。枝が弾いた。
四発目。窪地の縁まで来た男。二十五歩。私の戦場では、近すぎる距離だった。撃った。男は馬車のカーテンに手をかける前に、車輪の下へ崩れた。
五発目を込め終わる前に、終わっていた。
灰色が退いていく。来たときと同じ扇形で、稜線の向こうへ。誰も追わなかった。追える者が、残っていなかった。
*
戦のあとの森は、静かで、忙しい。
生きている者は水を欲しがり、死んだ者は持ち物を欲しがられる。傭兵たちが倒れた敵から剥ぎ取りを始めた。刀傷のリズルキが敵の死体の袖をまくり、装備をあらためて、初日の斥候のときと同じ顔で頷いた。同じ雇い主。これだけの数を森に置いていったのなら、次があるとしても、当分は先だ。
味方の死者は四人だった。
べゼールは斜面の下にいた。胸に槍を受けて、武器を握ったまま、前を向いて死んでいた。傭兵の死に方としては、ほとんど上等の部類だ。ひだえりが血を吸って黒く重くなり、首に貼りついていた。
私はそのそばに膝をついて、それから、自分が何を確かめようとしているのかに気づいて、一瞬、手が止まった。
耳だ。
右耳。ついていた。両方、ついていた。
「ふーっ、馬鹿らしい……」
立ち上がって、柄にもなく死者を悼む祈りのポーズだけして、次の死体へ歩いた。私は敵も味方も、一人ずつ確かめた。ついやらずにはいられなかったのだ。槍で死んだ者。剣で死んだ者。私の鉛玉で死んだ者。全員、耳はついていた。
一人を除いて。
「おい、羽飾りのついた帽子のガキがいねえぞ」
リズルキが言った。べゼールが死んだ今となっては、彼が一番戦場生活が長い。イニシアチブを発揮しなければならないと決め込んだのだろう。
デュラは、戦列から外れた木の裏にいた。体の前に傷がない。武器は鞘に入ったままだ。首の角度がおかしい。後ろから、音もなく。
「ショーンと同じだ」
刀傷のリズルキが言った。上等な羽飾りがついたままの帽子は、脱げてもいなかった。いや、誰かがあとから被せ直したように、まっすぐに、深すぎず浅すぎず、きれいに載っていた。安物の羽根が一本、行儀よく立っている。
私は近寄って確認する。その帽子の下に、右耳がなかった。
(またか……)
あの夜、私はこの帽子に銃口を向けた。脅すだけの一発。羽根の付け根、頭蓋まで二寸を残して、帽子だけを夜に飛ばす。
火縄は挟んでいなかった。音は、唇の先で鳴らしただけだ。
誰にも聞こえないはずの音だった……はずだ。
乱戦は、いい覆いだ。誰も死因を調べない。誰も耳をあらためない。
私以外は。
帽子の下の異常に気づいたのは、私だけではなかった。もはや物言わぬ持ち主の帽子から羽根を頂こうとしたカシュレイがうっと声を上げ、それで全員が見た。
「こいつ、戦って死んだんじゃねえ……サイクロプスだ」
誰も何も言わなかった勝ち戦の昂ぶりが、その一語で冷えていく。敵は退いた。なのに、殺人鬼はいる。敵味方の死体からの剥ぎ取りの手が鈍り、男たちは互いの背後を見るようになった。
皆の動きが鈍っていく。しかしロウランが進軍を急がせた。
「勝ったんだ! もう何に怯える必要がある!? 戦場で後ろから後頭部を一撃、戦利品に変えられてしまうことなんかいくらでもあると知っているだろう! さあさあ、怯えるな、先を急ぐぞ!」
その声には焦りがあった。彼だって恐れている。その対象は、もう追手ではない。それは私にはわかっていた。
夕刻、姫が初めて馬車から降りた。
絹の裾を両手で持ち上げ、泥を踏まないように歩いてきた。その仕草だけで、彼女がどういう世界の人間かがわかる。喉元では金の首飾りが、夕方の最後の光を拾っていた。
姫は生き残った十人余りの前で背筋を伸ばし、名乗った。
長い名前だった。国の名があり、家の名があり、称号が連なっていた。私の耳は二つ目で追うのをやめた。私のような文字を知らない者の耳の中で、それはただの長い音だった。
名乗り終えて、姫は待った。
何かが起きるのを待つ顔だった。膝が折れ、頭が垂れ、足元の泥が大理石にでも変わるのを待つ顔。
何も起きなかった。
傭兵たちは突っ立ったまま、互いの顔を見た。リズルキが顎の傷を掻いた。誰かが小声で言った。
「……で、誰だって?」
姫の顔の上を、何かがさーっと滑り落ちていった。
ロウランが慌てて進み出て、姫の前に片膝をつき、頭を垂れてみせた。フルプレートが重たい音を立てた。それを見て、男たちはようやく、帽子を取るでもなく、ぞんざいに顎を引いた。下げられた頭は、名前への頭ではなかった。鎧と、銀貨二十枚への頭だった。
姫はそれを見ていた。
見て、それから、震える声で告げた。
「私を無事に届けなさい。報酬は倍にします。死んだ者の分も、生きている者に払います」
その言葉は失敗だった。
傭兵たちの目が変わった。恐怖が消えたのではない。恐怖の上に欲望が重なったのだ。彼女がただの貴族ではなく、莫大な金に変わる存在だと知ってしまった。
姫は私を見た。
「あなたもでしょう。金が欲しくてここにいるのでしょう」
短く答えた。
「そうだ」
姫は一瞬黙った。それから、低い声で言った。
「であれば理解できるかどうかわかりませんが……。私は帰りたくないだけなのです。あの国へ戻されるくらいなら、死んだ方がいい。で、でもこの森で死ぬのは、ちょっと……」
私は何も言わなかった。
姫の苦しみは本物だった。白い指が、自分の腕を爪で抉るように握りしめている。だが、それは私の苦しみではない。私に想像が及ぶことでもない。
第五章 騎士の空洞
その夜、私は木の上で見張りについていた。
また霧が深くなっていた。月明かりが霧をぼうっと白く染め、森の地面はほとんど見えない。木の幹が白いモヤモヤの中から黒い柱のように飛び出ている。冷たい空気に音が吸われている気がした。風もなく、木々の揺れも動物たちの鳴き声もない。火縄の火を絶やさぬように息を吹きかける自分の呼吸だけが、やけに大きく聞こえた。
目を凝らす。そんななかでも見えるものを探す。それが仕事だ。
霧の切れ間に、二つの影が見えた。
一つはロウランだった。金属鎧の輪郭が月光を反射している。背が高く、鎧が体の線を拡張して、霧の中では実際より大きく見える。彼は馬車から離れ、一人で森の奥へ向かっていた。見回りか、あるいは逃げ道を探しているのか。
もう一つの影は、痩せていた。
麻のシャツ。サイズの合わない上着。膿んだ手を庇うように、片腕を体に引き寄せている。
名無しだった。
名無しはロウランの後を追っていた。足音を立てない。高熱で立てなかったはずの体が、獣のように静かに動いている。木の根を避け、落ち葉を踏まず、霧の濃い場所を選んで進む。
私にはそれが見えていた。
(やはり、やつが……)
私は火縄を銃の火バサミに挟み込み、火蓋を切って銃を構えた。
距離はある。霧が邪魔をしている。だが、見えている。名無しの痩せた背中が、霧の切れ間に浮かんでいる。火薬は乾いている。火縄も生きている。照準を合わせれば、名無しの肩を撃ち抜ける。
ロウランが足を止めた。何かの気配に気づいたのかもしれない。鎧の中で体が強張るのが見えた。振り返ろうとする。
その瞬間、名無しが動いた。
私は見ていた。
霧の向こうで、短い揉み合いがあった。金属鎧の擦れる音。甲高い、短い音だった。低い呻きが聞こえた。声にならない声だ。何かが地面に倒れる音。鎧が地面を打つ、どっちゃりという鈍い重さのある音だ。
静寂が戻った。
霧が二つの影を飲み込んだ。
私は銃を構えたまま動かなかった。
撃てた。
見えていた。
止められた。
撃たなかった。
「関わらない」からではない。もう、そんな言い訳は使えなかった。
あの夜、私は三発撃った。火縄も挟まず、唇の先だけで。
一発目は、ショーンの手に当たった。三日遅れて、火の形で。
二発目は、羽飾りの帽子に当たった。乱戦に紛れて、首の骨の形で。
三発目……指輪……だけが、まだどこにも着弾していない。
私の照準には、引き金がついている。私のものではない引き金が。
ならば今、この霧の中で名無しの背中に合わせている照準は……。
分かっている。分かっていて、撃たない。私は自分でも理由がわからなかった。
銃口を下ろした。指が震えていた。引き金にかかった人差し指が、自分のものではないように震えていた。寒いのではなかった。恐怖でもなかった。もっと深い場所にある何か……自分の内側の、まだ名前をつけていない場所が揺れていた。
*
翌朝、ロウランが見つかった。
彼の鎧は、馬車の前に整然と並べられていた。兜。胸甲。籠手。具足。一つずつ、順番に、地面に置かれている。まるで中身のない騎士が跪いているようだった。
からの鎧は、ロウランそのものだった。身分であり、名前であり、境界線だった鎧。中から人間を抜き取れば、あとにはこれだけが残る。
ロウラン自身は少し離れた場所にいた。騎士の紋章が刻まれた剣が、腹に突き立てられていた。自害に見えるように。だが自分で腹に剣を突き立てた者は、あんなふうに両手を開いて倒れたりしない。剣を握りしめているだろう。
右耳はなかった。
馬車の扉は、閉じたままだった。
中から衣擦れの音がした。姫は生きている。守る者だけが、いなくなった。
男たちの目が、一斉に同じものを見た。報酬を約束した騎士は、からっぽの鎧になって馬車の前に跪いている。倍の報酬。死んだ者の分も払う。あの約束を担保するものは、もうどこにもない。
残ったのは絹と、宝石と、女が一人。
リズルキが扉を叩いた。返事はない。もう一度叩こうとしたとき、扉が内側から開いた。
姫は、自分で降りてきた。
泥の上に裸足のまま立ち、裾も持ち上げず、男たちの顔を見回して、背筋を伸ばした。怯えて閉じこもることを、彼女の血が許さなかったのだろう。
そして、名乗った。
あの長い名前。国の名と、家の名と、称号の連なり。
今度は、最後まで言えなかった。
称号の途中で、誰かが笑った。短い、湿った笑いだった。
「その名前で」と、別の誰かが言った。「誰かお前を守ってくれる人間が帰ってくるのか?」
姫は言葉を切らなかった。声を張り直し、続きを名乗った。それが彼女の知っている唯一の武器で、唯一の鎧だったからだ。
名前が終わる前に、最初の手が絹を掴んだ。
「きゃっ! ぶ、無礼者!」
「無礼者」という単語はそれきりで、そのうち「助けて」に変わった。
気づけば、私は楢の木の上に戻っていた。馬車の真上。いつもの枝。いつもの高さ。体が勝手に、見える場所を選んでいた。
銃口を、森へ向けた。
見張りは外を見るのが仕事だ。追手はまだいるかもしれない。サイクロプスは昨夜も殺した。外を見ろ。外を。それが仕事だ。
布の裂ける音がした。悲鳴がした。金の首飾りが千切れて飛び、泥の上で一度光って、誰かの拳の中に消えた。視界の端で、全部見えた。見える。見えてしまう。遠くのものを見る目は、近くのものも見えてしまう。
からの鎧が、馬車の前で跪いている。
兜の覗き穴の暗がりが、まっすぐにそちらを向いている。
火縄は生きていた。挟めば撃てる。一発で、男たちは散る。サイクロプスに怯えきった連中だ。揉み合う頭の上へ、闇からの一発。それで散る。散らなければ、三十数えて二発目……。
数えていた。
手順を、数えていた。
気づくと、左手が火縄を握り込んでいた。挟むためなのか、挟んでしまわないように握り潰しているのか、自分の手なのにわからなかった。
悲鳴が、言葉になった。
「ウーファ!」
私の名前だった。
この護衛団で誰一人呼ばなかった、母がつけた方の名前。ロウランが一度だけ口にしたのを、姫は覚えていたのだ。
名前で呼ばれるのは、関わりの始まりだ。
銃口は、森に向いたままだった。
……同じ女だと思いたくありません。
いつかの夜の絹の声が、木の上に戻ってきた。
……あんたも、私からすれば同じ生き物だと思えないよ。
そう返した、私の声も。
(同じ女が……)
私は森を見ていた。最後まで、森を見ていた。
どれだけの時間だったのか。雲が低くなり、光が変わり、雨の前の土の匂いがした。男たちが馬車に群がり直したとき……奪うものが女から宝石に変わったとき……姫はまだ、生きていた。
姫は時間をかけて立ち上がった。誰も見ていなかった。馬車の中では怒号と、布を裂く音と、短剣が鞘を滑る音がしていた。
姫は破れた絹を体に巻きつけ、裸足のまま、歩き出した。
街道の方ではなかった。
森の奥へ。
……この森で死ぬのは、ちょっと。
いつかの声が、耳の奥で言った。
森の縁で、姫は一度だけ立ち止まり、振り返った。男たちを見たのではない。馬車でもない。
私のいる楢の木を、見上げた。
私の姿を発見できたかは知らない。
それから森に入り、霧が彼女を消した。
最後まで、見えていた。
見えるものを見つけるのが、私の仕事だからだ。
その日のうちに、護衛団は終わった。
誰が言い出したのでもない。金貨は分けられた……いや、分けたというのは綺麗すぎる。早い者が多く掴み、遅い者が喚き、刃物が一度か二度光って、それで終わった。男たちは二人、三人と組んで、別々の方角へ消えていった。契約はない。雇い主もいない。届ける相手も、もういない。
リズルキが去り際に、一度だけ楢の木を見上げた。何か言いかける口の形をして、やめて、行った。
私は何も取らなかった。
宝石には手を出さない。泥に踏まれた衣装にも触れない。空になった金貨袋も見ない。
自分の火縄銃と火薬入れだけを確かめた。乾いている。弾丸もある。まだ撃てる。
(まだ撃てる、か)
誰に向かって確かめているのか、自分でもわからなかった。
名無しは、いなかった。
散っていった男たちの誰一人、名無しが消えていることに気づきもしなかった。最初からいなかったかのように、誰の頭数にも入っていなかった。
私だけが知っていた。そして、それも言わなかった。
夕方、風が出た。
森が鳴り始め、遠くの雷の音が地面を転がってきた。楢の葉が裏返って、白く波打った。
嵐が来る。
私は木を降りた。
第六章 サイクロプスの恋
嵐は夜と一緒に来た。
雨は最初から本降りだった。横殴りの雨が森全体を叩いて、世界から輪郭を消した。楢の木は、もう見張り台にならない。枝の上では火縄が保たない。火薬が保たない。目が保たない。
見えるものだけを信じる。見える相手なら撃てる。
その私から、嵐は見ることを取り上げた。
屋根は、一つしか残っていなかった。
馬車だ。
扉を開け、雨に濡れないように大事に抱えていた火縄の赤い火を先に入れた。
小さな赤が照らせるものなどほとんどない。かろうじて見えたのは、引き裂かれた絹。潰れた長椅子。床に散った装身具の残骸。豪奢だったものの死骸が、狭い箱の底に積もっていた。
赤い円を、隅から隅まで二度回した。動くものはなかった。
乗り込んで、扉を閉めた。閂はない。長椅子の残骸を扉に噛ませた。
屋根を雨が叩いている。何千本もの指で叩いている。馬車ごと水の底へ沈んだような音だった。この音の中では、外の足音は聞こえない。枝の折れる音も、忍び寄る足も、悲鳴も。
目の次は、耳が取り上げられたというわけだ。
だから私は、残った仕事に集中した。
火縄だ。
縄の先の赤い点を、消さないこと。湿気に殺されないこと。火薬入れから乾いた火口を足し、手のひらで囲い、呼吸の半分を火にやる。膝の上には銃。火蓋は閉じたまま。火縄は、まだ挟まない。
挟めば撃てる。
撃つ相手が、見えれば。
赤い点を見つめる。点のほかは、闇だった。
火口を足す。囲う。呼吸をやる。
手順。手順。手順。手順をやっていれば、頭は静かでいられる。
どれだけの時間がたったのか。雨は弱まらず、雷が骨に届く低さで鳴って、馬車の木組みが軋んだ。
……匂いがした。
雨と、濡れた木と、古い香水の死骸の下から、別の匂いが浮いてきた。
甘い、不快な匂い。
あの夜、風に乗って木の上まで届いた匂い。焼けた肉が膿んで、熱を持っている匂いだった。
背後で、声がした。
「俺は、お前が好きだ」
体が固まった。あまりにも想像の埒外だった。最初は幻覚かと思った。唇の先でばーんと唱えたような、あの音の幻聴のようなものかと思った。
「ウーファ」
低い声だった。一度だけ聞いたことのある声。母の形見なんだ、と言った声。
体が動かなかった。
振り向けば、赤い点の円の中に顔が浮かぶはずだった。見えるはずだった。見えれば、撃てるはずだった。
指の一本も動かなかった。
いつからいたのか。
長椅子で扉を塞ぐ前からか。赤い円を二度回したときも、そこにいたのか。私が火に呼吸をやっている間じゅう、この狭い箱の中で、ずっと私の背中の後ろにいたのか。
雨が屋根を叩いている。
「似たもの同士で……」
声が近づいた。膿んだ熱が、背中に届く距離まで来た。自分の呼吸が荒れていくのがわかった。
「……正反対」
肩の上を、何かが越えた。
争う動きではなかった。ゆっくりと、丁寧に、頭の上から胸へ、それは降りてきた。
重さが、鎖骨に乗った。
「俺の、本当の名前は」
私の指が勝手に動いて、胸元のそれを掴んだ。その時初めて自分の指が震えているのがわかった。だがそんなことは今はどうでもいい。
(首飾り……?)
最初は、ここにあった姫の持ち物の一つかと思った。
だが違う。
革紐だった。
金の鎖ではない。乾いた、ざらつく革。
紐の先に、まず硬いものが触れた。小さな金属の輪。指が一本、入るほどの。
指輪だ。
手先が他のものを探っていく。
その並びに、吊られたものがあった。一つ目に指が触れる。軽い。乾いている。干した杏のような……違う。縁がある。渦を巻く柔らかな硬さがある。折り重なったひだがある。
二つ目。三つ目。太いの。薄いの。少し尖ったの。
数えるな。
荒くなり始めた私の呼吸は、はっきりと喉をひゅうひゅう鳴らし始める。
指が勝手に数える。
四つ目は、小さかった。柔らかい、小さい。丸いところに、細い金の輪が通ったままだった。
指が止まった。
その先は、ただの革紐だった。
そして、今し方まで触っていたものは、人間の耳だった。
声が出た。
「うわ」
自分の声だとわからなかった。言葉ではなかった。罠にかかった獣が出すような音だった。
「うわぁあああああああああああああ!!」
革紐を引きちぎった。めちゃくちゃに動いた手、紐が手のひらに食い込んで、切れたのだ。闇の中で、乾いた小さなものが床を跳ねた。一つ。二つ。木の床を転がる、軽い音。
やつの名前は、聞こえなかった。
言われたのかもしれない。私の声が、それを潰したのかもしれない。
振り向きざま、銃を振った。
狙いはない。見えない。匂いと熱のする方へ、十二の頃から抱えてきた鉄と樫の塊を、力の限り叩きつけた。
「うわ、うわぁああ!!」
鈍いものに当たった。もう一度振った。今度は硬いものに当たって、何かが長椅子の残骸の上へ崩れた。
雷が落ちて、箱の中が一瞬、白く満ちた。
私は目を閉じていた。
手の中で、銃が知らないものになっていた。
銃身が熱い。火薬の熱ではない。あの男の、病んだ熱だ。
「ひいいいい!!」
指が開いた。手放したのではない。体が拒否したのだ。十二の頃からしがみついてきたこの重さに、体が悲鳴を上げていた。
私は銃を、床に置いた。
投げ捨てたのではない。音を立てないように、置いた。なぜそうしたのか、わからない。眠った者を起こさない手つきで、私は私の銃を、闇の底に横たえた。
長椅子の残骸を蹴りのけ、扉を開けた。
ざーっという雨音が、一気に爆音に化けた。
大量の雨粒が私の剥き出しの顔を殴った。
びちゃっと雨水に踊り狂う泥の上に飛び降りて、走った。
泥が足首を掴み、枝が顔を裂き、雨が目を潰した。元々暗闇で何も見えなかった。見えないまま走った。火も持たず、銃も持たず、世界中の闇と水の中を、私は死んでも構わないような気持ちで走った。
(こわい、こわい、こわい、こわい)
私の内側にあるのはそれだけだ。
追ってくる足音は、聞こえなかった。聞こえるはずもなかった。雨がすべてを叩いていた。
それでも走った。
右耳を、押さえながら。
濡れているだけだ。削がれてはいない。血も出ていない。わかっていた。わかっていて、手が離れなかった。
聞こえない私の右耳。
聞こえないということも、やつは気づいていたのだろうか。
「ひいいいいあああああ!!」
何か気づくたびに怖気に支配される。だめだ、考えては。ただただ走るんだ。
夜が明けても、走っていた気がする。
昼すぎに、森が切れた。
畑が見え、煙が見え、街の塀が見えた。
門をくぐるとき、両手には何もなかった。
私はもう二度と、銃を持つことも戦場に出ることもなかった。




