真夏の肝試し
夕方、まとわりつくような湿った空気が、私の心をさらに重くしていた。
本当はこんなところに来たくはなかった。幽霊が出るなんていう噂のある古びたトンネル。
大学生にもなって、そんな子供じみた肝試しに付き合わされるなんて。それでも、いつものように「嫌だ」の一言が喉の奥で引っかかり、結局、このじめじめとしたトンネルの入り口に、所在なさげに立っている。
とある県の山奥にあるトンネルには、事故で亡くなったという女の幽霊が出るらしい。
だいたい一キロ近くあるトンネルの手前に車を停めて、徒歩で入り口から出口に行き、また戻る。その最中に異変が起こるというのが、ネットの噂だ。
トンネル照明の微かな光が漏れてくるものの、入り口はひどく暗い。
ひび割れたコンクリートの壁は、長年の風雨に晒され、薄気味悪い模様を描いている。その奥に続く闇は、さながら底なしの穴のように見えてしまう。
想像力を掻き立て、様々な恐ろしいものを連想してしまった。
先に歩き出した友人たちの騒がしい声が、少し遠くから、壁に反響して聞こえてくる。
彼らはきっと、この状況を楽しんでいるのだろう。恐怖を共有することで、仲間意識を高めようとしているのかもしれない。
でも、私にはただただ、早くこの時間が終わってほしいという気持ちしかない。
「ねえ、早くおいでよ!」
トンネルの内部はひんやりとした空気が肌を撫で、外の蒸し暑さが嘘のようだった。
じめじめとした地面は、歩くたびに嫌な音を立てた。壁に張り付いた苔が、微かな光を反射して、不気味な緑色に光っている。
「どした? もしかして怖い?」
友人の一人がこちらを向かって手招きしている。仕方なく、私は重い足を一歩、また一歩と、先に進めた。
暗闇の奥には、一体何が待ち受けているのだろうか。そんなことを考えると、心臓が嫌な音を立て始める。
進むにつれて、トンネルの壁はますます湿り気を帯び、冷たい水滴が不意に顔に落ちてきた。
まるでトンネルそのものが巨大な生き物で、その体内に入っていくような錯覚をおぼえる。
まっすぐな道は、距離感を薄れさせて、現実味も薄れさせていく。
私の耳には、友人たちの声よりも、自分自身の心臓の音が大きく響いていた。
ドクン、ドクンと脈打つそれが、やけに生々しい。
それでも出口にたどり着いた。
特におかしな様子はない。入り口側と同じように、同じような山奥の県道といった景色が暗闇の中に広がっているだけだ。
でも雨が降っている。
ザァザァ……
まるで横から息でも吹き掛けているような斜め降り。
きっと入り口に戻っても、雨は、止んでいないだろう。車に戻るまでに濡れることを考えると、今から憂鬱だった。
「なんか、変な匂いしない?」
誰かがそう言った。
確かに、かすかに鼻をくすぐる、土と錆と、そして何か別のものが混じったような、形容しがたい匂いがする。
それは時間が止まった場所特有の、久しぶりに開けた押し入れや倉庫みたいな古く澱んだ空気の匂いなのかもしれない。
あるいは、もっと別の、私たちが触れてはいけない何かなのか。
その時だった。
雨の向こう側から、はっきりと聞こえる音がした。
それは、何かを引きずるような、低い音。
ゾクリと背筋に冷たいものが走る。友人たちも、一斉に動きを止めた。
冗談めかしていた彼らの顔から、笑顔が消え失せていくのが分かる。
「今の、なんだ……?」
震える声で誰かが呟いた。私も、同じように問いたかった。
しかし声が出ない。呼吸すらままならない。
ただ、その音のする方へ、雨のヴェールの向こう側へと、目が吸い寄せられるように向いてしまう。
闇の奥。私たちの持っている懐中電灯の光も届かない、その先に、確かに何かがいる。
そしてその闇の中から、ゆっくりと、しかし確実に、何かが現れ始めた。
あれは人間ではない、と本能が叫んでいた。輪郭が曖昧で、しかし確実に存在している、異質な何か。
私が、この肝試しにどうしても来たくなかった理由が、今、目の前で形になりつつあった。
みんなその場に立ち尽くすことしかできなかった。足は鉛のように重く、逃げ出すことすら出来そうにない。
闇の中から現れたその「何か」は、私たちが持つ懐中電灯の光を吸い込むかのように、輪郭が揺らめいていた。
明確な形を持たない、黒い靄のような塊。
その靄の中に浮かぶ、いくつもの人間の目のようなものが、ぎょろぎょろと動いてこちらを見つめている。
全身の毛穴から汗がにじみ出す。
友人の一人が、小さく悲鳴を上げた。もう一人は、恐怖で声も出ないのか、ただ口をパクパクさせている。
体が金縛りにあったように固まり、ただその異形を見つめるしかなかった。
黒い靄は、ゆっくりと、しかし確実に私たちの方へと近づいてくる。
トンネルのひんやりとした空気が、さらに温度を下げ、私たちの吐く息が白く見えるほどになった。
パァン
どこかで手を叩いたような音がした。
トンネルに反響する音が聞こえた瞬間、体が、がくっと動いた。
「逃げ、逃げろ……!」
誰かがかすれた声で叫んだ。
その言葉が合図だったかのように、それまで固まっていた友人も私も、狂ったように走り出した。
これ以上の全力疾走は経験したことがない。そんな走りで私たちは出口へ、いや入り口へと戻っていく。
「えっ」
ふと入り口からこちらに向かってくる人影が見えた。
長い黒髪の、女子高生くらいの美しい女の子だ。こっちに来ちゃダメ! 叫ぼうとしても、肺の空気は喉を震わせない。
トンネルの半ばで交差する時、その女の子は口を開いた。
「こういう危ないことは、しない方がいいですよ」
すれ違う瞬間、この世の全てを諦めたような、あるいは全てを見透かしているような……そんな目が見えた。
私は立ち止まらなかった。それとも立ち止まれなかったのだろうか。
びしょびしょに濡れて車に戻ったあと、車はすぐに発進した。
街の明かりが見えるまで、誰も口を開かなかった。ようやくコンビニの駐車場に車を停めて、ホッとした息を吐いていると、運転をしている彼が「これ」、と言う。
手のひらの上には、小さく折りたたまれた紙切れがあった。
誰かが、わずかに開いていた窓の隙間から滑り込ましたのだろう。
まるで置き手紙のようだった。震える指を伸ばし、私はその紙を拾い上げる。
開くと、そこには走り書きされた文字で、こう書かれていた。
「あそこへは、二度と行かないこと」
後日、私はそのトンネルの噂が書かれているサイトを眺めていた。
実際に行ったという人たちは、「何もなかった」、「拍子抜け」、あるいはありきたりな話を書き込んでいる。
私たちが見たような話は、ひとつもない。
あの黒い靄のような存在は、私たちの前にたまたま現れただけ、なのだろうか。
それとも、もういなくなってしまったのだろうか。
もしもいなくなったのだとしたら、いったい誰が。どうやって。
私はサイトにあるコメント欄に、「女の子に助けられた」とだけ書き込みをした。
その文字は、特に誰かが反応する訳でもなく、あの日に見た雨のように流れていく。
祓い屋先輩シリーズです。
良ければ他のも見てください。