第8話 痛みは贖いとなりて
この8話から第二章になります。
新たなキャラクター、セシリア・ローレントが登場します。
冒頭から異常なシーンですが、セシリアという人物もまた社会と権力にふんぞり返る者達の犠牲者です。
このキャラクターがどういう物語を作るのかお楽しみに。
郊外の外れ。人里から遠く離れた丘の上に、廃れた教会が建っていた。
その鐘はもう何年も鳴っておらず、代わりに教会の地下からは時折、人のものとは思えぬ呻き声が微かに漏れる。
蝋燭の灯りに照らされた礼拝堂。
十字架の前に跪く一人の若い修道女がいた。
彼女の名は──セシリア・ローレント。
白銀の美しい長髪、清らかな修道服を身に纏うその姿は、誰の目にも“聖女”と映るだろう。
しかしその瞳は、どこか空ろで、微笑みすら儚い幻のようだった。
「今日も、またひとつ……穢れが浄化されます…。」
静かに立ち上がると、セシリアは祭壇の奥にある扉へ向かう。
分厚い鉄の扉の先──そこには異様な空間が広がっていた。
長い階段を降りた先の教会の地下室。
そこはもはや“祈りの場”ではなかった。
蝋燭の火が揺れるなか、鉄製の拷問器具が整然と並べられている。
中世に使われたであろう拷問器具や道具が数多く並んでいる。
真っ赤に染まった弓ノコギリ、、逆さ吊りにされた拷問台、内部で開く仕組みの体内を傷つけて出血・苦痛を与える、ペア・オブ・アンガッシュ(苦悩の洋梨)、アイアンメイデン、鉄の爪など様々な種類のものがある。
壁には血痕が幾重にも塗り重ねられており、それはまるでステンドグラスのように、光を浴びて鈍く輝いていた。
「神はわたしを見放した。でも──堕天の光だけが、わたしを抱いてくれました。」
祈るように語るセシリアは、中世の修道服を模した黒を基調とする装いに身を包み、首には逆十字のペンダントが揺れていた。
彼女が崇拝するのは“神”ではない。
聖典に記される天使の堕落──堕天使を崇拝するノクティア教である。
神に見捨てられ、地に堕ちた者たちにこそ、真の救いがあると信じている。
そして、その救いは痛みの先にあると──心から信じている。
「これは、贖罪です。これは赦しです。
神がくれなかった救いを、堕ちた天使が与えてくださりました。」
彼女は一人でそれを行っているわけではない。
かつて搾取され、苦しんだ子どもたち、女性たち、孤児や社会から苦しめられた人々が跪き静かに祈っていた。
セシリアが“救った”人々は今、この教会に共に暮らしている。
彼女たちは、食事をし、祈りを捧げ、時に儀式の手伝いをする。
それを“共同生活”と呼び、拷問を“儀式”と呼んでいる。
「ここにいる皆は、誰一人、泣いていないでしょう?」
セシリアの微笑みはどこまでも優しい。
その優しさが、恐ろしいまでに“本物”だからこそ、狂気は深く、強い。
そこは地下深くに造られた「堕天使の聖域」――セシリアがそう呼ぶ空間だった。
石造りの壁には祈りの詩篇が血で刻まれており、蝋燭が並ぶ長い通路の先に、鉄格子で囲まれた祭壇がある。
血と鉄と祈りの香が混ざり合い、言葉では形容できない空気が漂っていた。
「始めましょう。今日もまた、穢れが一つ清められますように。」
セシリアが静かに両手を組んだ。周囲には彼女に“救われた”子どもたちや若者たち――孤児、被害者、裏切られた者たちが揃っていた。
彼らは皆、白いローブを着ていて、目を伏せ、神妙な面持ちで立っている。
鉄の祭壇に縛られたのは、かつて彼女たちを搾取していた一人。
政治家か、騎士団関係者か、教会の神父か――もう誰かもわからないほどに、血と叫びにまみれた姿。
「恐れることはありません。これは、救いです。
この方が地獄に堕ちる前に、罪を背負って汚れし神の元へと返してあげましょう。」
セシリアはそっと、鉄製のノコギリを手に取った。
その手付きは、まるで儀式の聖具を扱うかのように慎重で、穏やかだった。
ローブの子どもたちは、祭壇の周りに円を描くように立ち、低く祈りを唱えはじめる。
その詠唱は徐々にリズムを帯び、まるで賛美歌のように響き始める。
――ギリギリギリ。
ノコギリが骨に届いた瞬間、呻き声が上がる。
が、それは誰の耳にも届かない。彼女たちの“祈り”がすべてをかき消す。
セシリアは時折、苦悶する男の額に手を置き、こう告げた。
「あぁ…素晴らしい…。これが救い…。あなた達のような罪人にはこれが最上の救い…。」
その顔に、迷いは一つもない。
むしろ慈愛に満ちている。
“生かされるより苦しい死”を、彼女は“天に昇る手段”だと信じて疑わない。
一人の少女が、赤く染まったペンチを持って祭壇に歩み寄る。
セシリアは頷く。少女は震えながらも、ペンチをゆっくりと、男の爪へとあてがった――。
「大丈夫、これはあなたの清め。あなたの祈りになるのですよ。」
セシリアの声はやさしい。
その声がある限り、彼女たちは罪の意識を持たずにいられる。
こうしてまた、“儀式”は繰り返される。
この地下室で、今日もまた、狂気の正義が一つ執行されていく――。
--------
地下本部の作戦室。
蒼井レイモンドは、静まり返る室内で一枚の報告書に目を落としていた。机に叩きつけられるように並んだ文書の数々──それらは、ライブ会場での混乱、リエルの正体、紅咲ルナの関与を伝えるもの。
「騎士団の上層は、我々に“処理”を命じている。」
低く落ち着いた声。誰よりも冷静に見えるその姿は、内側の葛藤を隠す仮面に過ぎない。
(少女を殺すか、生かすか──俺は……何を選ぶ)
ふと、隣の席で座り込んでいたエリック・モーガンがコーヒーを啜り、肩をすくめる。
「なんつーかさ。上は『悪魔の手先』だの『市民への扇動者』だの騒いでるけどさ……おれには、どうにも彼女が“被害者”に見えるんだよなぁ。」
蒼井は目を細めた。
「被害者?」
「生きる世界を選べなかった子供ってだけさ。選べないまま、武器にされたやつの目だったよ。……昔、似たような奴を腐る程見てきた。」
エリックの目がわずかに曇る。その背後に、かつて戦場で見捨てられた子供たちの姿がよぎっていた。
シュウは黙っていた。
剣の柄を握る右手は、未だ微かに震えている。
(あの時、ルナと対峙して断片的だった記憶が全て蘇った。忘れるはずのない記憶なのに、なぜ。
小さかったあの子を無我夢中で助けた時に見たあの瞳…、その時と同じ瞳だった。)
***
――灰が舞っていた。
黒煙が空を覆い、教会の鐘楼が崩れ落ちる音が、雷鳴のように響いた。
「誰か、いるのか……!?」
少年の声は、炎の咆哮にかき消される。
けれど、そのとき──
石畳の先に、膝をついてうつむく少女がいた。
煤まみれの純白のワンピース。
長い黒髪が焦げて、顔は見えなかった。
助けを求める声ひとつない。ただ、静かに、そこにいた。
「おい、大丈夫か……!」
駆け寄ろうとした瞬間、
瓦礫の影から──黒い、異形の何かが現れた。
それは人ではなかった。背丈は少年の数倍はある。
手足は異様に長く、背中には赤黒い腫瘍のようなものが脈打っていた。
(やばい──逃げろ!)
脳がそう叫ぶのに、少年の足は止まらなかった。
──ここで逃げたら、あの子はきっと、死ぬ。
ボロボロの短剣一本しか持っていない。
けれど、彼は地面を蹴った。
動きは速かった。異形の爪が振り下ろされる寸前、滑り込むように飛び込み、右脇腹へ一閃。
断末魔が、火の粉を震わせる。
少年は、まだ震える腕で刃を構えたまま、少女の前に立っていた。
そして──少女が、ゆっくりと顔を上げた。
キレイな緑の瞳。
だが、泣いていた。助けを乞わなかった彼女の瞳が、少年を見つめる。
「……助けに、来たんだ。」
それが、少年──シュウと、少女──ルナのはじまりだった。
***
助けた過去と、目の前で人を操り殺した少女の姿が重なる。
シュウの心は、いまだ切り結ばれていた。
一方、部屋の隅ではセラ・アルバーノが壁に背を預けていた。
赤黒いレザーのコートを羽織り、口元にタバコをくわえてはいるが、火はつけない。
「ルナは、敵だ。……でも、私の中の“怒り”が、彼女に惹かれる。恐らくルナは私と似ている。」
ぽつりと落とされたその言葉に、空気が一瞬張り詰める。
「母を殺したのは“世の中”そのものだった。男も、法も、正義も……みんな、あたしの前で母を売った。」
天井を仰ぎ、目を閉じる。
「ルナは、私がなれなかった“復讐者”なんだ。」
誰も言葉を返さない。
“敵”とされる少女に、どこかで共鳴している自分たち──そのことに、皆が気づいていたからだ。
「……だが、任務は任務だ。」
蒼井が静かに呟いた。
ソファに沈むセラ・アルバーノは、脱ぎ捨てた上着の袖から包帯の隙間を覗かせている。
目元には疲れと苛立ち、そしてどこか諦めたような虚ろさがあった。
そんな彼女の前に、湯気の立つカップがそっと差し出される。
「……甘いの、好きだったでしょ。」
ユミナ。死隠部隊では寡黙で冷静な彼女は、今、静かにセラの前に腰を下ろしていた。
「ありがと。こういうの、地味に沁みるわ……ユミナって意外と、お母さんみたいよね。」
「……からかってるの?」
「褒めてんの。ユミナが隊にいてよかったって話。気の合う女の子いないし。」
少しだけ、ユミナの視線が揺れる。
「私、こういう部隊でも誰かが人として壊れないでいてほしいだけ。
だから、セラも無理しないで。」
セラはその言葉に、ふっと目を伏せて笑った。
「……私が壊れるって?アハハ…、無くもないかもね……、ユミナ。ルナを見てて、ちょっと思ったんだ。」
「うん?」
「アイツ……あたしに、ちょっと似てた気がした。歪んでて、壊れてしまうほどの強い憎悪と激しい怒り、でも――どこかバカみたいに真っ直ぐで。」
ユミナは目を見開き、そして言葉を選ぶように答える。
「……怖かった?」
「まあ…あれだけの能力があって化け物まで作られちゃあね。でも……嫌いになれなかった。
自分がちゃんと壊れてるって、認めてる目をしてた。
あたしはそれすらできてないのにさ。」
「……セラ。」
「たぶん私、ルナに会って……少しだけ、自分のことが許せなくなったの。
アイツみたいに、もっと壊れた方が良いのかって…。」
「そんなことないよ!」
ユミナの声は、いつもより少しだけ強く、温かかった。
それが、セラにとってどれほど救いだったかは――本人にもまだ、よくわかっていなかったが自然と慣れない笑顔がこぼれていた。
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——喧騒と熱気が渦巻く街頭。巨大なスピーカーが通りに向かって怒鳴るように言葉を投げつけていた。
「我々はこの腐った社会を――真の力で! 正すのだッ!」
白いスーツの男が壇上で拳を突き上げる。彼の背後には、異様な熱気を放つ政党の旗。集まった民衆の一部は歓声を上げ、もう一部は眉をしかめて通り過ぎていった。
そんな演説の最中——。
「正す? 貴様らが言う正義でか?」
乾いた銃声が一発、空気を裂いた。
壇上の男の額に穴が空き、彼は何が起こったかも分からず仰向けに倒れる。民衆が悲鳴を上げて逃げ惑い、次の瞬間、演説台から離れた路地裏を一人の青年が駆け抜けていく。
黒いパーカーにフードを被り、息を切らしながら路地を走るその男の目は、どこか虚ろで、けれど信仰にも似た光が宿っていた。
「俺は……俺は間違ってない。救われたんだ。だから、俺も救う……セシリア様のために。」
銃を握る手が震えていた。
通報を受け、騎士団の追跡部隊がすぐに展開される。街中に警報が響き、男は更なる混乱を引き起こしながらも逃走を続ける。
彼の脳裏には、教会で手を差し伸べてくれた一人の修道女セシリアの姿があった。
——純真で優しさに満ちた笑顔。
——「あなたの痛みを、神に返してあげましょう。」
ビルの屋上。
彼は、息を荒くして駆けあがった。地上からは追いかけてくる騎士団の怒号、ヘリのプロペラ音が混ざって聞こえてくる。
膝にはすでに弾丸が一発、太ももからは血が滴り、右腕は震えていた。
けれど、彼の目には怯えはなかった。むしろ、晴れやかだった。
「……これで、俺も……誰かを救えた……かな……?セシリア様の役に立てたかな……?」
遠く、騎士団の隊員たちがこちらを狙っている。
怒鳴る声が聞こえるが、彼は聞いていない。
彼の唇が、静かに動いた。
「我らが光、堕ちた天の神子に……この命、捧げん。」
その目は、まっすぐに空を見上げていた。
かつて彼を救ったセシリアの言葉が、脳裏に蘇る。
――悪を裁くことを恐れないで。それは、あなたの罪ではなく、赦しの道だから。
乾いた音が響く。
彼の頭から、鮮やかな赤が咲いた。
その体は、重力に従って落ちていく。ゆっくりと、羽のように、風に乗るように。
そして――
大衆の前に、ぐしゃりと落ちた死体は、奇妙なほど美しい微笑みをたたえていた。
誰かが叫び声をあげる。
誰かが目を背ける。
だが、その男の存在が、この街の記憶から消えることはなかった。
セシリアというキャラクター像は実はこの作品を描く前からずっと頭にありました。
悲惨な犠牲者めありながら、自分の残虐さに気づかない人物。
しかし普段は弱きを救い、献身的な愛と憐れみで救うべきを救う。
このセシリアをずっと描きたかったのです。