第5話 赦されぬ世界、赦したい心
このエピソードから物語が動き、これからの大事な布石になります。
ルナとシュウの関係性、過去の出会い。
既にこの二人の関係性と過去はしっかり頭の中にあり、バックアップ保存してありますが、自分で書いておきながら涙が出ます。
ステージのライトが淡く消え、最後の旋律が静かに空中に溶けた。
静寂——観客の誰もが息を呑み、目の前の“歌姫”に心を奪われたまま、動けずにいた。
リエルはゆっくりとマイクを口元から離し、穏やかな微笑を浮かべながら前を見つめる。彼女の姿はまるで天使のようで、その声は祈りにも似た静けさを帯びていた。
「……ありがとう。今日という日に、こうして集まってくれて本当に嬉しい。」
甘やかなその声が、全観客の胸に染み渡るように響く。
「私はずっと夢を見ていました。誰もが優しく、互いを思いやり、傷つけ合わずに生きられる世界を……。争いのない、ただ美しい世界を。」
歓声が上がる。だがリエルは手を静かに上げ、それを制した。
「でも、目を逸らしてはいけないの。現実は、あまりにも醜いわ。差別、搾取、支配……人は欲に飲まれ、優しさを踏みにじり続けている。そんな現実を、誰かが変えなければならないの。」
その声に、ざわめきが走る。背筋に冷たいものを感じた者もいた。
「だから私は、ここに宣言します。」
彼女の瞳が、紅く輝いた。
「神を殺し、この世界を、すべてを……“正す”。」
その瞬間、ステージの背後に巨大な魔法陣が浮かび上がった。
客席の上空に不可視の波動が広がり、観客や警備の騎士団員たちの一部が突然苦しみ出した。
呻き、膝をつき、瞳が虚ろになっていく。
「醜く穢れた者たちは、今ここで裁かれる。」
それは、宣戦布告だった。神に、そして、この腐りきった世界に対する。
精神支配の波は、静かに、しかし確実に広がっていく。
観客の中の多数の人が無表情のまま立ち上がった。彼らの目は焦点を失い、リエルの存在だけを見据えている。
まるで信仰に酔った者のように、ゆっくりと歩き出した。
一方で、その中には眉をひそめ、違和感に立ち止まる者たちもいた。中には隣の者が急に無言で動き出したことに恐怖を覚え、声をかけようとする者もいた。
「おい……どうした? なぁ、おい!」
だが、返事はない。精神を掌握された者たちは、もはや人間としての意志を持たず、リエルの命令だけを待っていた。
ステージを見つめていた警備騎士団の一人、若き男が耳元の通信機に手を伸ばす。
「こちらB4区域、異常発生! 突然会場の観客達が操られたように……!」
叫びの途中で、彼の腕が何者かに掴まれた。
「……君は、裁かれる側じゃない。」
その声は、リエルのものでなかった。観客の一人に見えた女性が、真紅の瞳を輝かせて微笑んでいた。
男の体から力が抜ける。だが、倒れる直前に彼は見た。自分の隣で同僚が、まるで操り人形のようにリエルに跪く光景を。
「安心して。良い人には、私は何もしない。悪いのは、あなたたちの神。そして、神に媚びた者たちよ。」
リエルが再び口を開く。彼女の声はそのまま、全国ネットの中継カメラ、配信サーバーを通じて、世界中に流れ続けている。
「あなたたちは、ただ生まれただけで選ばれなかったわけじゃない。心の底から、誰かを思いやれたか。踏みにじられた誰かに、手を差し伸べられたか。私は見ていた。ずっと、ずっと…。」
観客の中で、ただ一人、涙を流す少女がいた。支配の波に飲まれず、ただ胸を抑えて震えている。
リエルはその少女にだけ、微笑んだ。
「あなたは綺麗な子。大丈夫。」
その瞬間、少女の周囲にだけ、支配の気配は訪れなかった。
そして次の瞬間、観客席の奥から響いた銃声と怒号。騎士団の別部隊が突入したのだ。
会場は混乱に包まれ、地獄のような光景が幕を開けた——。
混乱が、加速する。
精神を支配された観客たちは、理性の残滓すら失い、制圧に入った騎士団に牙を剥く。群衆の波が怒り狂ったように暴れ、鋼鉄の装備を纏った騎士たちですら、防戦一方だった。
「クソッ、何なんだこいつら……効かねぇッ!銃弾を受けて止まらねぇ!!」
「もっと撃て!全員撃てぇぇ!!」
銃声が、爆発が、断末魔が交錯する中で、騎士団の一人が叫んだ。
「誰でもいい……近寄るなッ!斬るぞッ!!」
錯乱したその男の目は、正気を保っていた少女——ステージ前に蹲っていたあの泣きじゃくる少女に向けられていた。
「や……来ないで……!」
少女は涙を流し震えている。足が絡まり、立ち上がれない。騎士の剣が振り上げられる。
その瞬間だった。
「やめなさい!」
透き通るような、だが空気を断ち切る鋭さをもった声。
リエル——いや、紅咲ルナの声だった。
その声が響いたと同時に、振り上げられた剣が空中で止まる。
騎士の瞳から光が消えたように空ろになり、まるで操り人形のように立ち尽くした。
「あなたのような“穢れ”が、この子に触れる資格なんてない。」
ルナは静かに指を鳴らす。
その合図とともに、騎士の身体がギシリと軋みながら、自らの剣を逆手に持ち替えた。
「や、やめ……あぁ……うああああああああッッ!!」
悲鳴とともに、鋼の剣が騎士自身の腹を貫いた。
何度も、何度も、何度も。
血が噴き出し、彼の装甲を朱に染める。彼の周囲にいた者たちは思わず後ずさり、その様子を見つめることしかできなかった。
ルナは少女の前に膝をつき、微笑みかける。
「大丈夫。もうあなたに危害を加える者はいないわ。」
少女はただ、口をパクパクさせるばかりだった。目の前で起きた“地獄”を、まだ理解できていない。
舞台の上、ルナは再び立ち上がり、マイクを握った。
「これが……“綺麗な世界”を創るということ。みなさん、もっとよく見て。穢れた者が裁かれる様を。」
その声に、人々は恐怖と敬意の混じった眼差しで、女神のように彼女を見上げていた。
焼け付くような熱気と、絶望の叫びが交錯するライブ会場。
小さな体を抱えて蹲るその少女に、また狂気と恐怖を乗せた騎士の剣が振り下ろされようとした、その瞬間。
「……守れ。」
ルナの声が低く響く。
直後、斬りかかろうとしていたその騎士の背後から別の騎士が現れ、無言のまま盾を構え、少女を覆うように守りに入った。
泣きじゃくる少女を傷つけることは、決して許されない。
ルナの精神支配下にある騎士たちは、彼女の「美しき選別」によって完全に統率されていた。
悪意ある者、欲にまみれた者、他人を蹂躙することにためらいのない者——
そんな「醜き者」だけが、粛清の対象となる。
だが、混乱の中にいるのは彼女の支配下にある者ばかりではなかった。
精神支配を受けていない騎士の一人が、恐怖と混乱のあまり、錯乱状態で剣を振るう。
「離れろ! もう誰が敵かも分からん……ッ!!」
斬りかかるその剣の先には、逃げ遅れた市民。
その刃が振り下ろされる寸前——
ガキィィンッ!!
鋼の音が響く。
青白い火花が散り、騎士の剣は弾かれて空へと舞った。
「……落ち着け。剣は、人を守るためにあるはずだ。」
現れたのは、黒いコートの青年。
その背には、鍛え上げられた剣術の気配が漂っていた。
「誰……だ……?」
錯乱した騎士が、震えながら問う。
彼はゆっくりと振り返る。
漆黒の瞳に、まっすぐな光を宿して——
「……暁月シュウ。死隠部隊の者です。」
その言葉と同時に、会場の空気が一変する。
ステージに立つルナが、静かにシュウの姿を見つめていた。
「……来たのね。」
ルナの口元に浮かぶのは、微笑か、それとも哀しみか。
彼女の背後では、精神支配された騎士が、少女を護りながら一歩下がる。
二人の間を隔てるのは、血と闇と、すれ違った過去。
ルナはシュウを見つめ一瞬自分の頭の中に映像が浮かんだ。
(……あの、光景……)
剣を持つその姿。
迷いなく人を守るその在り方。
──どうして、知ってるの?
耳鳴りがする。頭の奥が軋むように痛む。
ステージの上でルナは、震える手で胸元を押さえる。
目の前の騎士、あの人は――“あの時”の……?
──幼い日の記憶。
炎で焼け尽くされる教会の前で蹲っていた自分。
恐怖で動けなかった。
誰も助けてくれなかった。
けれどその時、現れたあの子だけは――
「大丈夫。僕が、君を守るから。」
まだ幼かった少年の声。
汚れた服。小さな背中。
……そう、あれは、確かに――
「……シュウ……?」
かすれた声が、ルナの唇から漏れる。
しかし次の瞬間、鋭い頭痛がルナを襲った。
(違う……それ以上は思い出せない……思い出したくない……)
彼女は無意識に後ろへ一歩、下がる。
その目に一瞬だけ浮かんだのは、“迷い”。
一方、剣を構えるシュウの瞳には、確信が宿っていた。
「……全て思い出した。やっぱり、君だったんだな。ルナ。」
その名前に、ルナの肩がピクリと揺れる。
「忘れたのか。あの夜、泣きながら俺にしがみついてきた小さな君を。君を守れなかったことが、ずっと俺の傷だった。」
静かな言葉の中に、燃えるような悔しさが滲んでいた。
「……でも、今は違う。もう一度、君を救いたい。あの頃の君を、取り戻したいんだ。」
その言葉に、ルナの中で何かが揺れる。
だが、それでも彼女は目を伏せて、静かに首を横に振った。
「……何を言っているのか…。でもあなたのことは思い出した。
…あの時に私を守ってくれた…。
でも、この世界を変えるって決めたの。」
声は冷たく、震えていた。
心のどこかで何かが叫んでいた。それでも、止まれなかった。
ステージの光が、今、二人の間を隔てる壁となる。
ルナとシュウ、ふたりの間に風が吹き抜ける。
互いに剣も、言葉も、まだ交わさないまま、ただ視線だけを絡ませていた。
「シュウ。あなたは、それでも人間を信じるの?」
ルナの声には、微かな怒りと哀しみが混ざっていた。
「神にすがって、醜さを正当化するこの世界を。
裏切りと欺瞞の中で、それでも人は生きる価値があると、そう思えるの?」
シュウは静かに剣を構えた。だが、それは攻撃の構えではない。
まるでルナを――いや、彼女の心を、守ろうとするような姿だった。
「……それでも俺は、人を信じたい。
たとえその中に醜さがあっても、それを変えていけるのもまた、人間だ。」
ルナの目が揺れる。
「綺麗ごとだわ。変われなかったから、あたしはこうしてここに立っているの。
誰も助けなかった。見て見ぬふりをした。
あたしが守りたかったものは、もうどこにもない。」
「それでも――」
シュウは一歩、前に出る。
「今、ここに“君”がいる。
怒りも、悲しみも、全部抱えて、まだこの世界に声を届けようとしている。
なら俺は、君を止めるためじゃなく、守るために、もう一度剣を握るよ。」
その言葉に、ルナは目を見開いた。
だがその瞳に浮かんだのは、痛みのような微笑だった。
「……やっぱり、あたしの邪魔をするのね。
なら、戦うしかないじゃない。
……あなたのその甘さを叩き潰すわ!」
そして、ルナが指を鳴らす。
再び観客の中から、精神支配された者たちがシュウを取り囲む。
ステージの上、白と黒、光と闇。
二人の“正義”が今、真正面から交錯する。