第2話「思い出の詩と、未来の灯り」
1. 忘れられた引き出しの手紙
春の陽射しが徐々に力強さを増していた。季節は確かに進んでいる。
しかし、紬の心はまだ少しだけ冬の名残を引きずっていた。
退職から数ヶ月。時間はある。けれど、何をすればいいのかはわからない。
そう思いながら自宅の書斎を整理していると、古びた引き出しの奥から、小さな封筒が出てきた。
──「紬へ」とだけ書かれた、懐かしい文字。
「……苑香?」
手紙の主は、かすみ草のママであり、大学時代からの友人、苑香だった。
封を切る手が、かすかに震えた。
紬へ。
もしも、私たちが人生の後半を迎えたとき、
また“かすみ草”で会えたら──そのとき伝えたいことがあります。
私ね、あなたのこと、ずっと尊敬してたの。
だけど、ずっと嫉妬もしてた。
賢くて、落ち着いてて、誰にも優しくて。
でも、そんなあなたにも寂しさがあるって、知ってたの。
だから、私たちがまた出会えたら、
今度は「心の話」がしたいと思ってる。
苑香より
紬はそっと手紙を胸に当てた。目元がじんわりと熱くなる。
──あの日から、もう三十年以上が経っているのに。
なぜこの手紙を、彼女は書いて、送らずにいたのか。
いや、送らなくてよかったのかもしれない。
今、このタイミングで読めたことが、大切だった。
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2. かすみ草での“心の話”
「それ……覚えてたのよ、実は」
数日後、かすみ草で紬が苑香に手紙の話を切り出すと、苑香は静かに笑った。
「送る勇気がなかったの。でも、紬の家に行ったときに、引き出しにこっそり入れたの。きっと、いつか見つけてくれると思って」
「見つけたわ。……泣いた」
「私も書きながら泣いたよ。あの頃の私たち、表面だけじゃ見えない部分がたくさんあったから」
静かに流れるBGMのピアノ曲が、ふたりの言葉に色を添える。
「修斗とのことも、ずっと気にしてたの」
「……うん。私もね」
紬は深く息を吐いた。
「別れて正解だったと思うの。でも、寂しかった」
「……うん」
ふたりはしばらく、言葉を交わさずにコーヒーを啜った。
その沈黙が、かつての語られなかった感情を包み込むようだった。
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3. 娘との対話──選ばれなかった人生たち
その夜、紬のもとを訪れたのは、遠方に住む娘・**悠依**だった。
「久しぶりだね、お母さん」
「ゆい……来てくれたのね。嬉しいわ」
悠依は、東京の出版社に勤める編集者だ。仕事は忙しく、母との時間は長らく取れなかった。
「退職したって聞いたから……ようやく、ゆっくり話せるかなと思って」
紬は笑った。
「あなたも忙しいのに。……でも、ありがとう」
二人で紅茶を飲みながら、ぽつぽつと会話が始まった。
「お母さんって、ずっと強かったよね。私、小さい頃から思ってた。何でもできて、感情を抑えて、大人だった」
「……そう見えてたのね」
「うん。でも最近、自分も歳を重ねて……気づいたの。強く“見せてる”だけだったんじゃないかって」
紬はしばらく黙っていたが、やがてゆっくりと頷いた。
「そうね。あの頃は、私も何かを守るのに必死だったの。夫婦関係、家庭、仕事。……本当は、怖かった」
「……お母さんも、怖いって思うことあったんだ」
「あったわよ。何度も。でも、それを見せたら、誰かが壊れそうだったの」
母の告白に、悠依は静かに目を伏せた。
「……私ね、最近パートナーと別れたの。結婚寸前だった人。でも、お母さんに言えなかった。なんとなく、笑われる気がして」
「笑わないわよ。むしろ、私がちゃんと聞いてあげなかったことが、悲しい」
ふたりの間に、新しい絆が静かに芽生えていた。
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4. 彰人と碧──過去の名残と新たな夢
一方、碧はある地方都市でサッカー指導を始めていた。元プロ選手としての経験を活かし、引退後の第二の人生として「育成」に力を入れていた。
「……っていっても、こっちは60代ばっかりだけどな!」
彰人が笑いながら言う。
「地域の“シニアチーム”って、案外面白いよ。みんな、ボール蹴るの30年ぶりとかさ」
「碧くんがいると、若返る気がするってさ。嬉しそうだったよ」
「彰人も、詩の朗読会、始めたんだって?」
「うん。“定年詩人”って肩書きでな。どう? 似合う?」
「なんか、ジワるね……」
ふたりは笑い合った。
昔は激しくぶつかり合った。意見も、進路も、恋愛も──。
だが今、ようやく「同志」として歩けるようになっていた。
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5. 未羽の新しい光
未羽は、近所の図書館で「絵本の読み聞かせボランティア」を始めていた。
「子どもたちの目って、本当に綺麗なの。読むたびに、私のほうが癒されちゃって」
「いいわね……子どもたちに囲まれる時間」
苑香が微笑む。
「若い頃は、“自分がどう見られるか”ばかり気にしてた。でも今は、“誰かに何を残せるか”を考えられる」
その言葉に、紬は静かに頷いた。
「そうね……。ようやく、人生を“紡ぐ”ことができるのかも」
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6. それぞれの夜、それぞれの光
その夜、紬は書斎で机に向かった。
新しいノートを開き、ペンを取る。
「誰かの言葉が、未来を照らす
誰かの記憶が、今日を支える
そして、私は書く
かつて泣いた自分のために」
かつて教え子に語っていたように、自分のためにも言葉を残そう。
紬はそう決めた。
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7. 最後のページ──未来の灯りへ
「かすみ草」は、来月から“語り場”としての新たな試みを始める。
名前は──**「未来の灯り」**
毎月最終金曜日、過去の詩やエピソードを語り合う場。
第一回目のゲストは、紬。テーマは「言葉が残すもの」。
「人生は一度きりじゃない。選び直してもいい。何度でも」
そんなメッセージを胸に、紬はスピーチの原稿を読み返していた。
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エピローグ
桜が散り、若葉が芽吹き始めた季節。
それぞれの場所で、それぞれの“未来”が灯っていた。
涙も、笑いも、すべてが織り交ざった「いま」を抱きしめながら──
彼らは、新たな季節を迎えていた。
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第2話「思い出の詩と、未来の灯り」──完




