第5話「揺れる心」
1. 変わり始めた日常
八月の中旬。蝉の鳴き声は一層強く、空気もどこか焦燥感を帯びていた。
シェアハウスのリビングでは、光莉がキッチンで麦茶を作っていた。窓から差し込む光の中で、彼女の髪が優しく揺れる。
ふと後ろから声がかかる。
「なぁ、光莉……これ、どう思う?」
彰人が手にしたノートには、作曲の途中らしい五線譜。
「わ、すご……。でも、ちょっと不安定かも。ここ、コード変えたほうが良くない?」
「やっぱり? お前、やっぱセンスあるわ」
ふたりは肩を寄せてノートを覗き込んだ。
その距離に、ふいに胸がざわつく――それを感じたのは、リビングの隅で本を読んでいた紬だった。
ページをめくる指が止まり、視線だけをそっと二人に向ける。
笑い合うその姿は、あまりにも自然で、あまりにも遠かった。
(……あの日の約束から、何かが変わった)
紬は思う。
光莉が“昔の約束”を果たし、彰人と通じ合ったあの花火の夜から――ふたりは、確かに近づいていた。
でも、その「近づき」に、自分の居場所はないのかもしれない。
そんな不安が、静かに胸を締め付けていた。
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2. 紬の秘密
その日の午後、紬はひとりで屋上にいた。
風が吹き抜ける屋上で、彼女はそっと、ポケットから小さな紙切れを取り出す。
それは、数年前に彼女宛に届いた古い手紙。
差出人の名はなかった。けれどその中には、確かにこう書かれていた。
「君に出会えたことが、僕の宝物でした。
でも、僕はもう行かなくちゃいけない。
もし次に会えたら、きっと――君に全部、話すから」
紬は中学時代、ある男子と“すれ違いの恋”をした。
ほんの短い時間の関係だったけれど、その人が突然転校してしまい、何も伝えられずに終わった。
――そして、その人の名前が、「彰人」だったことを、彼女は思い出したのだ。
「もしかして……同一人物なんじゃないかって、ずっと考えてた」
誰にも言えなかったその思いが、心の奥に積もっていた。
でもいま、彼は光莉を見ている。
笑うときも、何かに悩むときも、自然と視線は彼女に向いている。
だから紬は、その気持ちを封じた。
“昔の想い出”として、もう二度と開けない宝箱に閉じ込めようと決めた。
でも――心は簡単に、そんな風には割り切れなかった。
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3. 揺れる心
夕暮れ。リビングにいた光莉が、そっと紬に話しかけた。
「ねえ、紬。最近、ちょっと元気ない?」
「……え? そ、そんなことないよ」
紬は笑うが、目の奥の曇りは隠せなかった。
光莉は黙って、紬の隣に座る。
「もし、何か辛いことがあるなら……話して?」
「……私ね、バカなの」
紬の声が震えた。
「ずっと、彰人のこと好きだったの。でも、自分でも気づかないふりしてた。
あの子はきっと、光莉を選ぶだろうって、ずっと思ってたし……。
だから、自分の気持ちを“なかったこと”にしようって、何回も何回も――」
そのとき、廊下の先に立っていたのは、彰人だった。
――聞いていたのだ。
全てを。
紬が気づいた瞬間、彼の目が、そっとこちらを見た。
「……彰人……」
声が、震えた。
彰人は、ただ黙って、そして言った。
「……ごめん。俺、そんなふうに思われてたなんて……気づかなかった」
「……ううん。私のせい。言わなかったから。
でも、もう大丈夫。だから……気にしないで」
紬は、無理に笑ってみせた。
光莉もまた、何も言えず、ただ隣で手を握った。
その夜、三人の間に沈黙が生まれた。
どれも悪くない。誰も間違っていない。
それでも、想いは交差し、すれ違っていく。
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4. 静かな誓い
深夜、屋上にひとりでいた彰人に、光莉がそっと近づいた。
「……紬のこと、どう思ってたの?」
彰人はしばらく黙ってから言った。
「……大切な友達だよ。たぶん、ずっとそう思ってた。
でも、あいつが俺を見てくれてたって知ったとき――
……嬉しいと同時に、怖くなった。
俺は、ちゃんと向き合ってなかった。
それが情けなくて、何も言えなかった」
光莉は黙って、彼の隣に立った。
そして、そっと囁いた。
「じゃあ、これからは、ちゃんと見ていて。
紬のことも、私のことも、全部……逃げずに」
彰人は、深くうなずいた。
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エピローグ:そして次の季節へ
三人の日常は、少しだけ静かになった。
けれど、その静けさは「終わり」ではなかった。
誰かが誰かを想い、すれ違っても、
それでも前に進むということを、彼らは知った。
そして、秋の訪れとともに――
新たな人物がシェアハウスにやって来る。
彼女の名前は――佐野 美羽。
葵蘭と健太の娘であり、
彰人がまだ知らない“未来の扉”を開く存在だった。




