第8話「心の再生」
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梅雨の終わりを告げる蒸し暑い午後。
雨音が止み、シェアハウスの庭には淡い陽光が差し込んでいた。
その日、久しぶりに「葵蘭」はひとりだった。
健太は舞台の地方巡業に、舞は孫の世話に出かけ、傑もサッカーのイベントで外出中。
静かな家。
かつてはこの「静寂」が嫌いだった。
俳優一家で育ち、何かと注目される存在で、常に“人の目”と“期待”にさらされてきた自分。
でも、それに応えられない時もあった。
何より――自分の心がついていけなくなった時期もあった。
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忘れかけていた音
ふと、ピアノの音が聞こえた。
家のリビングに置かれたグランドピアノ。
それは彼女が18歳の頃、父・勇介が贈ってくれたものだった。
だが、最近ではすっかり触れられていなかった。
理由はひとつ。
――音楽が、怖かったから。
過去の自分、理想の家族、夢を追うこと、それを支え続けるプレッシャー。
ピアノの音はいつも、自分の“弱さ”を映し出す鏡のようだった。
でも今、そこに座っていたのは、小さな女の子――
莉央(舞の孫)だった。
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小さな手がくれたもの
「……莉央ちゃん、それ……」
葵蘭が声をかけると、彼女は恥ずかしそうに振り向いた。
「えへへ……勝手にごめんなさい。
でも、前におばあちゃんが言ってたの。“葵蘭おばちゃんのピアノ、すごく綺麗だった”って」
小さな指が鍵盤の上をたどっていた。
その旋律は、かつて葵蘭が作曲した舞台のテーマソング――。
驚きと、なぜか涙がこみ上げた。
莉央は続けた。
「ねえ、もう一回弾いてよ。ちゃんと聞いてみたいの」
葵蘭はしばらく黙っていたが、そっと彼女の隣に腰を下ろした。
鍵盤に手を置く。
――最初は、震えていた。
でも、音が重なるごとに、過去の記憶が“温かさ”に変わっていく。
そこにはプレッシャーも重荷もなく、ただ「音楽を愛していた自分」がいた。
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再生の光
曲の最後の音が消えた時、莉央は拍手を送った。
「すっごく綺麗だった……また聴かせてね」
小さな笑顔に、葵蘭は深く頭を下げた。
「ありがとう……ほんとに、ありがとうね」
――再び音楽に向き合えた。
いや、「向き合いたい」と思えた。
それだけで、この日という一日は、人生の宝物になった。
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それぞれの“再生”
その夜、帰ってきた舞に葵蘭はそっと伝える。
「莉央ちゃんね、きっとすごい子になるよ。
あの子のピアノを聴いたら、心がほぐれたの」
舞は優しく微笑みながら答えた。
「そっか……じゃあ、あの子に“秘密のシェアハウスの魔法”が届いたんだね」




