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『バースデイ/誕生日』

作者: 上野ニッカ

 独り身になってから歳を取ると自分の誕生日を忘れるものだ。元々忘れやすいのもあるが、今の僕にはささやかな部屋で平和と静謐を味わうのが一番良いのだ。思い返せば、小さい頃から音が絶え間なく聞こえる環境で、そのせいで聴覚過敏を引き起こして、目は引き攣って、顔は強張り、神経衰弱の病理が内在した僕の躰は今や点滴を打ち込まれている患者のように痩せ細ったのだ。一寸の物音で僕の心臓は毒を帯び、上の階の足音が僕の顔面を強迫するのだ。誕生日のその日、僕はピクリとも動かない表情筋といい、いつのまにか昨日の日付で止まったデジタル時計といい、時計を買おうと扉の先の外にそぞろ歩きの群衆を見ると嫌悪と恐怖を抱き、扉を閉めたのだ。玄関にまた戻った時に覚えるものはやはり、安堵である。洗面所の蛇口を捻り、水を顔にパシャパシャとかける。そのとき、冷たいその水に極めて深い安らぎを覚えたのだ。ふと、鏡に映る水に濡れた自分の顔を見た。何とも醜い男がそこにいたのである。馬鹿げたオブジェのような失敗作が鏡像に映ったのだ。俯くと蛇口の水が一瞬泥水に見えたのだ。思わず、流しっぱなしの蛇口を閉め、鏡の電気を消して、いつもの部屋に還った。

僕の生まれは3月なのだが、同学年が今年28歳になる中で、僕だけが27歳のまま今年を終えるのだ。昨日止まったデジタル時計と必死に書いたカレンダーに記された僕の誕生日のところの丸印が虚しさを物語る。無機質で意味のないように思えるその物体が僕を祝福するのだ。

Alles Gutes zum Geburtstag

ドイツ文学者の祖父が僕に中学の頃、言った言葉だ。北帰行は12月の寒さが身に染みる冬だった。それは実に2003年以来、10年ぶりに祖父の下を訪れたのだ。祖父は僕の誕生日を祝ってやれなかったことを少し悔いたのか、ウィリアム・バロウズみたく僕に突飛に言ってみせた。僕は頷いて、来春の来るべき僕の誕生日に想いを馳せた。

気づけば、自室の机にはビール缶が置かれていた。500mlのそれはもう既に飲み干されていた。隣にはデスクライトがあって、それら全てが僕の誕生日であり、僕の日常でもあった。中学の頃はまだ、歳をとるよりも日を迎えることに慈しみを感じていたが、今やこの日に感情はない。僕の顔に起こる漣のように堪えるチックと手の震えと目の痙攣と朝の目覚まし時計のアラームだけだが神からのプレゼントだ。空瓶には向精神薬が80錠はあって、僕は酒を飲んでは薬を決めていた。うつ病の薬に気分を高揚させる効果を知ったあの日、僕はアルコールと共にそれを飲んだ。気づけば、布団に横になる自分の肉体があった。気怠い気概で僕は起きるともう既に夕方だった。休みをとって家に籠る背徳心ほど僕の人生に勝るものはない。YMOの1980年のサーヴィス、PERSPECTIVEに針を落とす。灰皿に落とした煙草をゴミ箱へ、まだ残っているマルボロも捨て僕は禁煙することにしたのは、きっと自分の健康とかを気にしてだろう。煙草の吸いすぎで風邪を引いたこともある。これはまずいと思い、外の空気を吸っている頃には20歳を過ぎていた。気づけば、実家で空港にて両替していたドル札をばら撒き警察に逮捕されていた。悪魔がいたのだ。あれは20歳の誕生日、僕は悪魔に金をばら撒けと言われたのだ。

Everyday I see your face

悪魔に言われたことだ。坂本龍一もPERSPECTIVEで歌っている。つぎはぎの誕生日の断片がとてもカオスでとてもトラウマティックで僕は幾分の安堵をこの部屋で覚えるのだ。

友人から貰った3Dプリンタで作った拳銃に弾を込める。馬鹿のふりをしていたと笑って僕は悪魔の下へ行こうか。

きっとやくざに言ったところで今の労働も、この時間に対する価値も変わらないのだ。向精神薬が宥めるストーリーを日々素通りするのは、帰るべき道筋が僕の部屋ではなくて、全く違う意味のある宗教観に満ちた世界でそこには母胎の漿液に満たされていて、僕は母の子宮に戻るようにその世界で再び生まれてきた歓びを知るのだ。今、モーツァルトのファンファーレが僕を妙なる響きと共に道すがらで会ったたメフィストフェレスの悪魔なる笑いで僕を六道の一歩前の日本人的な部分と西洋人的な部分が融合した新しいアザーサイドへと誘うのだ。

2021.7.10. What’s gonna happen.

僕の賃貸の壁に書かれた文字が最後に僕の感じた静と動の空間、そして、最後の生きた感覚なのだ。それ以上は言うまい。

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