神
リビングのソファーに座り、ただぼんやりとテレビを見ていた。
何かしら音が鳴っていないと寂しさでまた泣いてしまうかもしれないから。
結婚して二年目、ローンもまだ三十年以上残っているこの家でたった一人きりは広すぎる。
お笑い番組がやっているけれど、話しが入ってこない。話が入ってきたとしても、今は笑える心境にない。
そう思った時だった。
がちゃがちゃと鍵を解除する音が聞こえ、はっとした。
「まさか……」
思わず、言葉が漏れる。
私たちに子どもはいない。
家の鍵を持っているのは、私たち夫婦と両家の両親だけ。
うちの親も、慧さんの親も、来るときは連絡をくれるはず。
だからこれはもしかしたら――。
「ただいま、恵美子」
玄関の戸が開く音と共に、慧さんの声が聞こえた。それも、いつも通りの声で。
一か月以上、何の連絡もなしに帰ってこなかったのに、それが嘘だったかのような調子だ。
本当は玄関まで迎えに行きたかったけれど、安心感からか、私は立つことができなかった。
代わりに涙が出てきた。
聞きたいことがたくさんある。
何をしていたのか。
どこにいたのか。
なんでこんなことになったのか。
でも、生きていてくれてよかった。
警察に失踪届を出したけれど、それを取り消さなければいけない。
本当に良かった。
そしてリビングの戸が開いた。
「戻ったよ、恵美子」
そこに立っていたのは、慧さんじゃなかった。
驚きのあまり、声も出なかった。
「どうした? 久しぶりじゃないか。帰ってこられて嬉しいよ」
着ているものは、腰には何かがぶら下がっているけれど、失踪したときに着ていた慧さんのスーツで間違いない。
背恰好も慧さんだとわかる。
でも顔が……。
「見てくれ、恵美子。すごいだろう。僕は神になったんだ」
両手を広げ嬉しそうに、ぶひぶひと笑っている。
「け、慧さんなの……?」
「ああ、そうだよ」
そう言われても、どっからどう見ても、豚にしか見えない。
「でもそんなもの、ただの名前に過ぎない。僕は選ばれたんだ」
そう言って近づいてくる。
「悪い冗談は、やめて……。その、お面取ってよ……」
私は後ずさりしながら言う。
「冗談? いやいや、お面じゃないよ、ほら」
そう言って髪をかき上げる。
見たくもないけれど、自然に視線がいってしまった。
髪の生え際に、乱暴に糸で縫ってあるのがわかった。
これはお面ではない。本当に豚の顔になっている。
気が付くと私は嘔吐していた。
「驚かすつもりはなかったんだ。ごめんよ、美恵子」
私の背をさする、豚の男。
「やめて!」
私は豚の男の手を払った。
慧さんの声をしているし、本能が慧さんだと認めているけれど、この男は私の知っている慧さんではない。
「最初は僕もそうだった。受け入れられなかった。でも、わかったんだ。選ばれたんだよ」
何を話しているのか全然わからない。
慧さんが帰ってこない寂しさのあまり、変な夢を見ているのだろうか。
そんな事を考えている中、豚の男は話を続けている。
「選ばれたけれど、適合せずに死んでいったものも見た。でも僕はこうやって神になれたんだ。恵美子、一緒に世界を変えよう」
手を差し伸べる豚の男。
「いや……。いやよ……!」
豚の男の手を払いのけ、リビングを出た。
二階の自室に向かう。
例えあの豚の男が慧さんだとしても、もう私の知っている慧さんではない。
この家から出て行く。
荷物をまとめて実家に帰ろう。
「恵美子。わかってくれよ」
足音がゆっくり近づいてくる。
「来ないで!」
そう叫んだが、豚の男は私の部屋のドアのところに立っていた。
「受け入れられないか?」
「当たり前でしょ!」
私はリュックに必要最低限のものを詰め込む。
「しょうがない……」
豚の男は、ぶつぶつ言いだした。
「恵美子。残念だけれど、神として君に天罰を下さなくてはならない」
「何言ってんの!? もう関わらないで!」
私は近所の目もはばからず、大声で叫んだ。
豚の男は腰にぶら下げていたものを手に取った。
斧だった。
「恵美子、君は死罪だ」
そう言って、豚の男は斧を水平に振り、綺麗に研がれた刃を私のこめかみに食い込ませた。