第63話 俺は黒ではない!
1階のエレベーターホールの脇に立って、階段から下りてくる連中を5分ほど眺めていたら、階段から出てくる人の数がまばらになってきた。その中に、おやっ? コイツは俺たちが追ってきた反社じゃないか? そう見えるヤツが何人もいたのだが、人違いかもしれないので放っておいた。
5分経ってもアズランが戻ってこないということは、白鳥麗子はかなり遠くまで逃げていったようだ。
人が玄関ホールからだいぶ少なくなってきたので、俺も少し出入口方面に移動したところ、外からわずかにサイレンの音が聞こえてきた。
「あのサイレンの音は消防車かな? どこかで火事でもあったか? 今日はそんなに乾燥した感じでもないから大火事にはならないだろう。まさか、このビルに消防車がやってくるわけじゃないよな」
などと、思ってもいないことを口にしてみたが、口とは裏腹に懸念通りサイレンの音はだんだん大きくなってきた。
俺のやったのは、天井の出っ張りを2、3個叩き壊して天井を少しだけ平らにしただけなんだが。ちょっとのことで大騒ぎが過ぎるんじゃないか?
俺からすれば、火事など起きていないことは、自明かつ明白な事実ではあるが、現にスプリンクラーまで作動してしまっているわけで、消防車の出動は仕方がないと言えば仕方がないのか?
早くアズランが白鳥麗子を見つけて連れてきてくれないと、こんなところで一人ポツンと立っていると目立ってしょうがない。なんとなくアズランの気配が近づいてきている気がするが、気付けば、俺のいまいるビジネスビルの前あたりで消防車?のサイレンが止まってしまった。
すぐに銀色の消防服に身を包んだおっさんが数名出入り口から駆け込んできて、まだビルの中にいる人を誘導し始めた。その中の二人が一人でじっと立っている俺の方に駆け寄ってきて、
「危険ですから急いでこのビルから退避してください」
そう言って、自分たちは階段のあるドアの中に入っていった。ありもしない火元の確認か逃げ遅れた人がいないかビルの最上階まで走って登っていくのだろう。いい運動にはなる。頑張ってくれたまえ。
俺は指示された通りまだ残っていた連中の一人になってビルの外に急いでいるような恰好をしてビルから出てやった。
火元責任者というのか分からないが、その人物が消防の人に説明するのが大変だろうなー、などと考えながらも、どうせ他人事なので気にせず出入り口から少し離れてビルを見上げていたら、当たり前だが煙などはどこからも出ていない。そうこうしていたら、アズランらしい俺だから気付けるわずかな足音とバタバタとした足音が近づいてきたので振り向いたところ、アズランが白鳥麗子を連れて戻ってきたところだった。
「なんだか、大ごとになってしまったが、抜き打ちの避難訓練が真剣にできたと思ってくれればいいよな」
「えーと、ダークンさんが今の火事騒ぎに関係しているんですか?」などと、白鳥麗子が怪訝な顔をして俺に聞いてきた。
「このビルを丸ごと壊すと無関係の連中に迷惑が掛かると思って、ちょっと天井の出っ張りを均して平べったくしてきただけだから、俺は黒ではない!」
他人さまに迷惑をかけないとあれほど心に誓って生きてきた俺が他人さまにこういった形で迷惑をかけてしまった事実が俺のガラスの心を粉々にしそうだ。心の中の『ごめんなさい』。これすなわち口から出た『俺は黒ではない!』なのだ。俺の眷属たるアズランは俺の犯行現場にいたにもかかわらず、俺の言葉に頷いている。アズランこそは眷属の鑑だ。
とは言うものの『完全なる身体に完全なる精神が宿っている』とまでみんなの前で言ったてまえ、ほんの少し後ろめたさがあったのは事実だ。事実を事実として認める心の広さと強さが俺にはあったということでもある。
「ここであったことはすっかりすっきり忘れて、白鳥麗子のアパートに行こうか?」
「そうしましょう」
「は、はい」
何であれ忘れてしまえばいいだけだ。
俺とアズランは平気だが白鳥麗子は生身なのでそろそろ腹も空いただろうと思い、白鳥麗子に向かって、
「そろそろ昼だが、どうする?」
「お腹は空いていないので大丈夫です」
「なら、赤羽に急ごう」
アズランでも大勢の人が歩道を塞いでいるような場所ではタクシーを捉まえるのが難しいようで、少し離れたところでタクシーを拾った。3人でそれに乗り込んで、白鳥麗子のアパートに向かった。後ろの席に3人並んで座ったがアズランは小学生サイズだし白鳥麗子も小柄なので狭く感じることはなかった。
白鳥麗子のアパートへの途上、
「直線距離なら新宿と赤羽ならそんなにないのだろうが結構時間がかかるな」
などと言ったら、自動車免許皆伝のアズランが、
「直線で道があるわけじゃあありませんし信号やら一方通行もあるから仕方ないですよ」
などと答えた。アズランのことだから、東京の主要な道程度すでに覚えているのかもしれない。
「なんだか、向うの方で煙が上がっているようだが、白鳥麗子のアパートの近くじゃないか?」
タクシーのフロントガラスの先、建物に隠れて現場は直接見ることはできないが、モクモクと黒い煙が上がっている。民家の火事にしては煙が黒いので、飲食店かなにかの火事かもしれない。なぜ、飲食店の火事だと煙が黒いのかというと、何となくてんぷら油とかそんな油類が沢山置いてあいるんじゃないかと勝手に俺が思っているだけなので全くの根拠レスだ。
タクシーが進んでいくと、消防車が何台も並んで道を塞いでおり、その後ろを乗用車が10台くらい並んでた。それ以上は進めなさそうだ。消防車の先で黒々とした煙と赤い炎を巻き上げてあまり大きくないアパートが勢いよく燃えている。どう見てもあれでは完全燃焼。略して全焼だ。
「あれ? あれれ? わたしのアパートが、……」
確かに昨日見た白鳥麗子のアパートがあった場所のようだ。なぜあんなに真っ黒な煙が上がっているのか謎だが、ここでタクシーを降りてしまっても困るので、
「白鳥麗子。火事の現場を見ても今さら仕方がないからいったん恵比寿に戻ろう。
運転手さん、ここを引き返して恵比寿に行ってください」
「恵比寿のどちらまで?」
そう言いながらも運転手さんは車を側道で器用に切り返して来た道を戻っていく。
俺は恵比寿の高層マンションということしか覚えていないのでアズランに助けを求めた。
「アズラン、頼む」
「はい。
えーと、エビスのXXXです」
「分かりました。高速に乗っていきますがいいですね」
「適当にやってください」
アズランを挟んだドア側の席に座った白鳥麗子がうわごとのように「私の部屋が、……」「私の持ち物全部、……」などとうわごとのように言っていた。
新宿では消防車が空出動したが、赤羽では本当の出動になったようだ。今日の俺はなぜか消防車に縁がある。




