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作者: あきまり


 磯釣りしていたら亀がかかった。

 はなしてあげてサオをなげると、またおんなじ亀がかかった。

 運のないヤツねと、こんどは力いっぱい遠くへほうった。それなのに、またかかった。亀とはいえ、気の毒になった。釣針でくちをざっくりえぐられている。亀は痛くてもがいていた。

 目つきがわるいが、にくめなかった。まぬけなところが、気に入った。

 藻のついた甲羅をもって白い腹肉をつついていると、のろまなところも愛想のないところも、なにもかもが他人のようには思えなくなってきて、

「憐れなヤツね」

 なんて亀あいてにつぶやいていた。

 すると、

「おまえなんかに言われたくない」

 と亀がしゃべった。ながれるような流暢な、あっぱれな日本語だった。

 英語もできるのだろうかと思って、

「パードゥンミー?」

 と訊きかえしてみた。

 すると亀はみるみる血相かえて、

「英語だろう? バカにするなよ」

 とひとしきり怒りだした。

 亀相手に卑屈になることもなかったが、ついつい癖があらわれて、

「すいません」

 なんて頭まで下げてあやまっていた。

 亀は妙に世慣れていて、

「わかればいいんだ、わかれば」

 なんてなんども深くうなずいている。そうして手足をのばしてむずかって、

「それよりはやく釣針をはずしてくれ」

 とたのんでくる。

 釣針をとろうとすると、痛いからもっとていねいに扱えとか、傷口をひろげたらしばくぞこのエテ公めとか、こっちも一所懸命やっているのに、ああだこうだと難癖つけてジタバタもがいて大騒ぎした。

 苦労して釣針をはずして、テトラポットにのせてやった。するとこんどは喰いものをくれと言ってくる。仕掛の餌ていどでは喰った気がしないと言うのだ。袋から青いそめをとって差しだすと、いよいよもって亀は怒った。壱万年も生きるくせに、すこぶる短気なヤツだった。

「そんな虫、気味わるくて喰えるかよ」

「さっき食べてたけど」

「さっきはさっき、今は今だ」

「食べられるくせに」

「だから言ってんだろ、俺はちゃんとしたもの喰いたいんだ」

 ちゃんとしたものとは、人様が食べるお弁当のことだった。亀のくせに、バッグからただよいだす匂いを嗅ぎとったのだろう。知恵があるし、鼻もきく。頬の傷すら癒えている。妙ちきりんな、おかしな亀だ。

 すぐに出すのも癪なので、遠く水平線のむこうから吹きわたる潮風をあびながら、積み重なるテトラポットの一角にゆっくりと坐ってみた。

 顔や手足にていねいに日焼けどめクリームを塗りなおして、亀をさんざん焦らしてから、もったいぶってお昼ごはんをとりだすと、

「時間かけるな、さっさと出せよ」

 なんてかわいくないことを言う。いやな亀だ。

 鶏そぼろごはんを箸ですくって食べさせながら、こんなにおしゃべりでは呼び名がなくてはなにかと不便だなと思って、

「なんて名前なの?」

 と訊いてみた。

 目下ごはんを食べるのに夢中な亀は、

「名前はない。亀でいい」

 なんてつっけんどんに返事する。

 霊長類のはしくれとして、亀なんぞに威張られてはメンツだってたたないし不本意きわまりなかったけど、わざわざ張りあうのも大人げないしめんどうくさいので、

「じゃあ亀って呼ぶ」

 と言ってタコウインナーを食べさせた。

嗚呼(ああ)、亀でいい。亀って呼んでくれ」

 と亀は言い、タコウインナーにぱくついて丸呑みした。そうしてひと呼吸おいてから、できのわるい部下にでも説教たれるように、

「しかしな、ふつうじぶんを名乗ってから訊くもんだぞ。おぼえておけ」

 なんて偉そうに言う。亀のくせに、案外しっかりしている。

 張りあうわけではないけれど、こっちにだってわずかばかりにせよ自尊心はのこっている。

「かおる。小川かおる。それが名前」

 ぶっきらぼうに言ってやる。

 すると亀は噛みしめるように、

「小川、かおる」

 と言った。そうして鶏そぼろごはんをゆっくり飲みこんで、また言った。

「かおる。小川、かおる」

 ことばの響きをたしかめながら、神妙そうに首をのばして、亀はこっちを見あげてくりかえし言う。

「小川かおる、か。おまえ、いい名前さずかったな」

 まさか、亀に褒められるとは思ってもみなかった。口はわるいが、根はけっこういいやつなのかもしれない。

 照れくさくて恥ずかしかったけど、じぶんに正直に、素直にありがとうを言ってみた。

 聞こえているのかいないのか、亀は無感動にお弁当箱をながめながら、

嗚呼(ああ)

 とうなった。そうして、またぞろ鶏そぼろごはんにとりかかった。



「かおる、最近よく海に来るな」

 缶ビールを飲んでいたら、亀が言った。かおる、と呼んだ。

 亀はつよい陽差しに眼を細め、にぎやかに群がるカモメをながめている。

 亀と会話しているじぶんを不思議にも思ったけど、違和感はまったくなかった。

 どだい住む世界がちがうからこそ、亀にならば、なんだって相談できそうだった。

「海が好きか?」

 亀が訊いた。こっちをのぞきこんでいる。

 きらいではないけど、好きというわけでもなかった。

 しずかな宵の海の、月明かりが淡く輝く凪のひろがりに、なにかこう、遥かな太古から吹いてくる悠久の風のようなものを、かすかにではあるけれど、たしかに感じとることができた。奇妙にあかるい遠浅の、銀河の白んだ砂床へと、音もなくしずんでゆくような感覚もおぼえた。それは、好きという感情とはちがっていた。感情すら超えているような、そういう宇宙をくるむ沈黙を、海のひろがりに感じることができた。

 亀は遠くへまなざしをなげていた。その横顔は沈黙の重さを量っているようにも見えた。

 亀の期待にこたえるべく、気のきいたことを言ってみたかったが、そう思って実行すると、いつも決まってかならずと言っていいくらい、いらない誤解をみずから招きよせる結果におわった。じぶんでもうまく捉えきれていない、じぶんにしかわかるはずがない考えとか想い、それをだれかに伝えようとしては、ことごとく失敗した。挫折をくりかえしてきた。さびしくも哀しくもなかった。むしろ滑稽だった。沈黙する海の底に、裸身ひとつでとり残されているような気分だった。

 亀はまだ水平線のむこうをながめていた。

 亀のあたまをなでながら、

「海は、好きっていうか、なんとなく落ちつく」

 そうこたえてみた。

 亀はうなずきもせずに、

「俺は、迎えにきたんだ」

 とはっきり言った。

「かおるを迎えにきたんだ」

 波がテトラポットに打ちつけていた。満ち潮になりはじめていた。

 缶ビールの結露の汗が、しずくとなって足もとにたれていた。

「俺は竜宮界からやってきた。異次元というやつだ。もっとも、俺にとってはこの世界こそ異次元なんだが、さいわい高次元から低次元にうつってきたら平気なわけであって──と、いちいちこうして説明してると、ものすごく話がややこしくなっていって俺のほうこそ混乱しちまうんで詳細を語るのはやめておく」

 わけがわからなかったけど、亀の話が熱心なので、釣られてうっかりうなずいた。すると、亀も満足げに力強くうなずいた。

「ともかくだ、かおる――」

「はい」

「未練がないなら、いますぐにでも出発する」

「いますぐ?」

「すぐだ」

 とうとつに言われたって困るだけだったので、ふと疑問に思ったことを、訊いてみた。

「行くのはいいけど、もどってこれるの?」

 亀は笑った。亀が笑うと空気もふるえた。さっきの話でないけれど、もしかしたら、時空がつかのま歪んだのかもしれなかった。

「なに寝ぼけたこと言ってる、もどってこれるわけないだろ」

 そう言って、亀はまえあしで甲羅をたたいてみせた。

「さあ、行くんなら乗れ。出発だ」

 猫いっぴきなら可能だろうが、どう考えても、ヒトが乗るには甲羅のサイズがちいさすぎた。それに、もうもどれないのであれば、この世界のみんなに、さよならくらいは言っておきたかった。

「もうすこしだけ、時間がほしい」

 もうずっと悩んできたのだ。考えても、どうにもならないのはわかっていた。

「どれくらいだ?」

 首をひっこめ、亀が訊いた。

「あと、二日くらい」

「待てば結論をだせるのか?」

「たぶん」

 亀は考えた。しきりに唸っていた。唸りながら、てらてらの丸い頭を、まえあしでぺしぺしたたいていた。

「たぶんじゃなくて、かならず」

 ハッタリだった。でるわけないのに、大見得きって、そう言った。

 亀はくるりとくびをまわすと、

「ただし条件がある」

 と凛々しく言った。

「かおるが結論をだせなかったら、連れて行くかどうかは、俺が決める」

 異論はなかった。うなずいた。

 じゃあ二日後に、と言おうとすると、亀はしきりにまえあしをばたつかせて、はやく抱きあげるようにと催促してきた。

 両手でつかんで持ちあげると、もっとやさしく扱えだとか、落とさないように気をつけろだとか、くちのわるい小姑みたいに、ああだこうだと難癖をつけてきた。

 うるさいので抱きしめてやると、

「それじゃあ、かおるのところで厄介になることにしよう」

 なんて亀は言って、すぐに不機嫌がなおってしまうのだった。

 飼うというか泊まるというか、そんな話、ぜんぜん聞いてなかった。なるほど、高次元の生きものだけあって、一癖も二癖もある、なかなかに手強い亀だった。

「かおるは、ひとり暮しか?」

「あいにくね」

 こっちも負けずに、嫌みをこめて言ってみた。

「そうか、ひとり暮しか」

 亀のくせに、したり顔で話していた。



 サイドシートへひょこんと跳んで、かおるの生業はなんなんだとか、恋人はちゃんといるのかとか、近所の世話焼きおばさんみたいに、いろいろしつこく訊いてきた。てきとうに返事することだってできた。亀がまた怒ったところでこわくもなんともなかったし、亀に身のうえを相談してもしようがないだろうとも思っていたのに、それなのに、ハンドルをにぎって海をながめ、いちいちまじめにこたえているじぶんがいた。

 学校は中退したけど、パソコンがらみの会社に就職できた。資格をいくつか取得していたことが役だったのだ。適性検査の結果、コールセンターという電話受附にまわされた。わたしはそこで、現実というものをはじめて知った。

だれかが被害をこうむったという事実。それにもうしわけなさそうに同情するのがコツだった。先輩から教わったのかもしれないし、じぶんで編みだしたのかもしれなかった。もちろんあいても人間だからひとすじなわではいかないときもあった。それだから、わたしが受話器をにぎるたびに、あいてに同情するというわたしのスキルはより巧妙で精巧に磨かれていった。

ひたすらあやまった。

 そのときに解決できなければ、いったん電話をきってから問題を整理し、予想される原因とその解決策をしらべた。そしてあとから電話をかけなおした。じぶんがうけた電話は、じぶんで解決しなければならない規則になっていたからだった。うまく解決できなければ深夜まで続くこともよくあった。毎日がくりかえしだった。わかる人間に代われと言われてもわたしが対応しなければならなかった。

「おまえのその指のはらにできたたこ、そのころの名残りか?」

 亀はわたしの中指をじっと見ている。中指のはらはぷっくりふくらんでいる。

「それ、吐きだこだろ?」

 わたしはうなずいていた。うなずくつもりなんてなかったのに、うなずいていた。

「つらかったのか?」

 わたしはあいまいにくびをふった。つらかったのかもしれなかったし、苦しかったのかもしれなかった。でもつらいとも苦しいとも感じなかった。ただわたしは必死だった。たぶんわたしは、じぶんが必要であることを感じたかった。わたしがなにものであるのかなんてどうでもよかった。わたしがそこにちゃんといること──そのたしかな手ごたえを確認したかったのかもしれなかった。

「それだけでかい吐きだこだ。ずいぶん長い期間、喰っては吐いてをくりかえしてたんだろ? 本来、喰うとは生存に必要な栄養分を摂取するための絶対的行為だ。それは生物の原理原則だ。喰うとは生きることだ。生きるとは喰うことだ。それなのにせっかく喰ったモノをわざわざみずから吐きだすとはな。人間ってヤツはホントおもしろいな。おそろしく興味ぶかい」

 こんどは亀がうなずいている。付け足すべきコトバはない。亀の話は真正だった。

「しかしな、かおる、だれも否定しちゃいなかったと思うぞ、おまえの存在を」

 亀はそう言いつづけるが、ほとんど興味はなさそうだ。あくびをついている。

「気づいてたんだろ?」

 亀が訊く。早く結論だしたいのか、いっきかせいにたたみかけてくる。

「電話かけてくる連中はさ、じぶんが不利益をこうむったという事実、そいつをだれかに聞いてほしかったんじゃないか? 認めてほしかったんじゃないか?」

 気のないふうに話してくるが、的をしっかり射ぬいてくる。それだから、思わずうなずきかえしてしまう。

「技術的な問題はもちろん、そういう荒ぶる感情もふくめて、かおるはすべてをうけいれて、じゅうぶんにすくってやってたと思うぞ。たいしたもんだ。だからおまえは、じぶんなんていう陳腐さにしがみつくな。そんな連中みたいにじぶんにこだわるな。妙な幻想をいだくな。連中はかおるの存在を否定なんかしちゃいなかった。かおるという存在すら知らなかったんだからな。俺が言ってる意味、わかるよな?」

 このわたしに、見知らぬだれかへ与えうるなにかが秘められているとは思えなかった。だれかの気持ちをすくったおぼえもなかった。だいたいからして、じぶんになにかをすくえるなんて思えなかった。そんな器量があるとは思えないし、だれかをなにかをすくうという気分だって、なんとなく嘘っぽかった。

「電話からなんて聞こえるんだ?」

 亀の視線が額にささる。いったい心を読めるのだろうか。亀は臆せずキッパリ言う。

「電話が一日中鳴るようになったんだろ? ほんとうは鳴ってないのに鳴るようになったんだろ? こんなご時世に携帯電話機を持たないでいるのもそれなんだろ? 鳴らない電話からなんて声が聞こえるようになった? かおるにはなんて聞こえるんだ?」

 じっとこっちを見つめるから、ぐらぐら目線がゆらいでしまう。あいまいにくびをふってしまう。

 電話はずっと鳴っていた。家に帰るなり鳴ることもあったし風呂からあがって寛ごうとするそのときに鳴ることもあった。寝る前に鳴ることもあったし、寝ているときに鳴り響くこともあった。出ないでいると音はどんどん大きくなった。布団をかぶっても鳴ったし、耳をふさいでも音は響いてきた。太い金属の棒がやわらかく撓るような音が幾重にも波動になって部屋じゅうの建具や壁やわたしの頭蓋骨を執拗に震わせた。電話を床に叩きつけてもコードを引きちぎってもつづいた。

「望みを欲張るのはいいことだ。大きければ大きいほどいい。しかしな、かおる、その望んだところの重みでもって圧し潰れるなよ……ぜんぶを背負いこもうとするなよ……おまえもしょせん……ただの人間なんだ……」

 尻切れトンボにそう言うが、他意などまったくないのだろう。宵に浜辺へ波打つような、すこやかな寝息がしずかに気持ちよく聞こえてきて、亀といっしょであるかぎり、わるいことなんて、なにひとつ起こらない気がしてくる。

 望み――亀はそう言った。いったいどういうことなのだろうと思う。わたしはなにを望んでいたのだろう。なにかを望むこと、それがどうして欲張りなことなのだろう。おまえも所詮はただの人間だ――そう言った。亀は次元を行き来できるから、だれかとへだたる距離なども、まったく度外視できるのだろうか。いくら考えたって、ただの人間のわたしには解けそうになかった。たしかにハッキリわかるのは、まどろむ亀をながめるうちに、胸に蔵する想いの丈を、ひっしにつたえたがっているじぶんがいるのを感じることだった。

 ふと、磯の匂いをかぎたくなったのだった。

 暦が夏へと取って代わる、葉桜の繁るころ。とうとつに思いついて荷造りをはじめ、この海辺の町へと引っ越してきたのだった。岬があればどこでもよかった。なつかしい潮風を感じることができる――それだけでじゅうぶんだった。すべてをリセットしたかったのかもしれなかった。やりなおしたかったのかもしれなかった。見知らぬ土地と環境で、このわたしというものを、はじめからつくりなおしたかったのかもしれなかった。

 小鳥がさえずる木漏れ日の朝、公園そばのご近所に、こうばしく煙っているお店をぐうぜん見つけたのだった。足しげく通ううちに、コーヒーが好きになった。器具をそろえて仕事をまねて、見よう見まねで淹れるようになった。お湯の温度とか、粉を蒸らす湯量とか時間とか、抽出にかんする要素をおおむね均一にそろえても、それでも毎回かならず仕上がりの味はことなった。

 おもしろかった。

 南の風がふいてくると、胸いっぱいが噎せかえるくらい、緑がぬるく匂ってたった。若葉の光のざわめきとか、虫やら落ち葉の蒸れ朽ちて、温気をかもす土の匂いとか、めざめる季節の想いたちが、胸の奥まで甘酸っぱく染みわたるようになった。それは、心地よい痛みにも似た感覚だった。みずみずしい風のかたまりが、半袖シャツのわたしの肌へとやわらかくのめりこんでくるのだった。

 そのたびに、かすかな予感がよぎっていった。わたしにさいごにふれた手が、指が、もうどこにも存在しないことを、わたしは認めたくなかった。わたしへのモノの頼みかたとか、あたまを掻くしぐさとか、ほんのちょっとしたことが(いさか)いの原因になった。諍いになるまえに、意思の疎通をみずからこばむことだってあった。

 ふりかえってみるに、たぶんわたしはじぶんのことしか考えられなくなっていたのだろうと思う。いやなところが見えたって、ずっといっしょにいたかったら、そのアダには目をつぶって、がまんできたにちがいない。わたしはどうしてあんな気持ちになったのだろう。なにが気に喰わなかったのだろう。

 わたしは亀に、言うとはなしに、

「見とめてほしかったのかもしれない――」

 そうくちにはだしてみるが、なにを見とめてほしかったのか、なにを見とめたかったのか、つらつら考えはじめると、だんだんにわからなくなってくるのが率直な感想だった。じぶんの想いも考えも、ぜんぶを聞いてほしかった。見とめてほしかった。それがムリであるのなら、このわたしという存在を、まっこうから否定してほしかったのかもしれないとも思えてくるのだった。

 訊いてきたくせに、亀はねむっていた。首と手足をひっこめている。

 癖のある亀だから、芝居をうっているのかもしれないとも思って、

「寝てやがる」

 と言ってみる。

 亀は、ピクリともうごかなかった。腹肉をつっついても反応がない。あたまを甲羅へひっこめて、熟睡しているようだった。ひとの想いも考えも、高次元の亀になぞ、どうでもよいささいな事象なのかもしれなかった。

 窓をあけると髪がなびいた。

 もどるところなんてなかった。行くべき場所もみあたらなかった。

 ほとんど自失の態のうち、夕凪にまぶしく燃える海岸線をつたい、沈黙がうずたかく積もるアパートにたどりついているのだった。

 陽はすっかり暮れていた。

 甲羅をもって車のドアをしめると、

「着いたのか?」

 とねむたげに亀が訊いた。寝ぼけまなこをのぞかせて、にょっきりあたまをつきだしている。

「そうみたい」

 嫌みをこめて、言ってみた。


 階段そばの石塀に、白鳥さんが坐っていた。

 顔をあげると手をふって、

「ちょっと寄っちゃった」

 と笑顔がまぶしい。

「そう」

 とうなずきだまっていると、

「すぐそばまで来てたから」

 なんて弁解でもするみたいだ。妙にそわそわして落ちつきがない。

 タウン情報誌をつくっている白鳥さんは、会社の規模がちいさいからか、とにかく年じゅう暇なしで、来る日も来る日も町のあちこちを駆けまわっていた。ごくごくまれに、海外へとびだすこともあるようだったけど、基本的には国内取材──この町がおもな担当だった。

 それだから、たまに近くを車でとおると、こうして思いついたふうをよそおって会いに来てくれるのだった。

 甲羅にあたまをひっこめて、亀が声をひそめて、

「友人か?」

 と訊いてくる。 

 即答に窮する。

「たぶん」

 とだけこたえておく。

 たしかに仕事がいまほど忙しくなかったころ、白鳥さんはお店によくコーヒーを飲みに来てくれた。近所のスーパーのなかにある、小さなカウンター席の喫茶店だ。

 注文をうけたり、品物をだしたりするときに、きょうは風があっていいねとか、波があっていいねとか、ぎっしり書きこまれた手帳にさらにこまかく書きこみながら、屈託なく話しかけてくれた。

 サーフィンするんですかと訊くと、時間なくてぜんぜんできないんだとこたえ、釣りとかはと訊くと、あんまりと言い、そうしてモカの甘い香りにうっとりしながら、せっせと書きものに集中する。

 なにを書きこんでいるのか気になって、どうして記者をなさっているのですかと訊いたことがある。

 ペンをやすめてあたまを掻いて、遠くを見る眼でしばし考えこんでいた。まずいことを質問してしまったのだろうかと不安がっていると、臆面なくとてもまじめに、

「世界を知りたい」

 そう白鳥さんはこたえたのだった。

「歴史を知りたいんだ。見えないけれど、歴史にふれてみたいんだ。古生代デボン紀、カンブリアの海。原始社会、エルサレム。歴史を旅することは時間のながれを溯ることでもあるからね、なぁんてね」

 ふざけているのか本気なのか、つくづく妙なひとだった。

 歴史とか虚構とか、話の内容が複雑でなんのことかよくわからない。

 わたしの場合は世界というと、メルカトル図をじょうずに継ぎはぎした、あのまんまるの青い地球が映像的なイメージとしてまっさきに浮かびあがってくるけど、たぶん白鳥さんはもっと広漠とした、コトバではうまく説明しつくせないことを言いあらわそうとしていたのではないかと思う。

 たくさんのひとに出会って知らない土地のいろんな話を聞いてみたいとか、社会のしくみとその矛盾についてあれこれ考えてみたいとか、そういう現実はひとまずさておいて、わたしが海をながめるのに近い感覚で世界について知りたいと言っているのではないかと思ったけど、じっさいどう考えているのか、そのひょうひょうとした態度や雰囲気から推し測るのは困難だった。もちろん突っこんで訊いてみたことならあったけど、毎回、あいまいに笑ってごまかされた。袋小路のほほ笑みは、白鳥さんの常套手段なのだ。

 とにかくいつもそんなふうだった。

 会話はどこかちぐはぐだった。

 噛みあわないのではなかった。がっしり噛みあうのをおそれているふうでもあった。

 意味深で気がかりな夢を、どうしても思いだせずにいる消化不良のもどかしさにも似ていた。

 白鳥さんといっしょにいると、その忘れた夢をなんとか思いだそうとして、伝えようとして、気持ちばかりが空回りしてしまうのだった。白鳥さんはほほ笑んで、わたしはカラカラ回るのだった。

 甲羅をかかえて鍵をあけて、部屋にとおして窓をあけた。

 海につながる川すじから、風が涼しく吹きあげて舞いこんでくる。

 コンロに火をかけ湯をわかし、瓶から豆をとりだして、そうしてがりがりミルで回して挽いた。じっくり濃いめに淹れていると、手もちぶさたに白鳥さんは、甲羅をいじっては突っつきまわしていた。いつ怒りだすともしれず、愉快な反面、冷やひやした。

コーヒーを差しだすと、香りたつ湯気にうっとり鼻をひくつかせて、白鳥さんは、まじめな顔つきのまま目礼した。

 そうして、

「こいつ、ホンモノ?」

 と訊いてきた。訝しげに首をかしげている。

 たしかに甲羅の風合いは、精巧な模造品のようでもあった。見れば見るほど、玩具の塗料がぬられたような、安っぽくて現実味の乏しい、ただのオモチャになりさがった。

 成り行きがあるとはいえ、亀もここに居候をするわけだから、すこしくらいは気をきかせて、にょっきり頭をのばしてだして、景気よく鳴いてくれたっていいだろうにと思った。

「まだ寝てるみたい」

 コーヒーをすすって、不満そうに言ってみた。

「寝てるのか」

 おなじようにすすりながら、白鳥さんはさして残念でもなさそうに言う。

「寝たふりかもしんない。知恵があるから、こいつ」

「知恵か――」

 どこかよそよそしい、うわのそらの返事だった。

 川べりの道を子どもたちの一群がにぎやかに駆けていった。

 遠くでカラスが鳴いていた。

 亀はなかなか起きなかった。起きないことに、苛だった。厚かましさに、ムッとした。ひっくり返して、甲羅をくるくる回してやった。それでも亀は、ねむっていた。

 すこしムキになりながら、腰をうかしてうでまでかまえ、くるくる激しく回していると、

「こんど水族館に行かない?」

 と白鳥さんが言った。

 とうとつだった。

「つぎの日曜」

 にわかには信じられなかった。こっちを見つめる白鳥さんに、たしかに誘われ訊かれているが、このわたしが言い寄られるなんて、とうてい考えおよびがつかない。わるい夢でもみているようだ。

 どう返事したらよいかわからず、そのまま甲羅をまわしつづけた。まわしながら、うだったうつろな脳味噌で、きょうは木曜だから、日曜はおそらく三日後くらいになるのだろうなと、予定のない週末の天気でも気にかけるみたいに、ぼんやりあいまいに思っていた。

 日曜には、亀といっしょに旅立っていて、この部屋のこの椅子に、もうわたしは腰かけていないかもしれなかった。じぶんがいない世界について想うのは、すごく気楽ではある反面、案外さびしいものだった。さびしさを感じると、ほんのすこし、切なくなった。

「予定、どう?」

 白鳥さんが、訊いてくる。じっとこっちを、見つめている。

 返事に困って、うなずいた。頬が火照って、うつむいた。

 おそるおそる見あげると、白鳥さんはほほえんでいた。おいしそうにコーヒーをすすっている。

 せっかくのお誘いですがと言い直して、亀と遠くへ出かける旨を白鳥さんに話してみたかったが、目尻に皺をよせてエクボまでつくっているので、なんとなく言いづらくなってしまって、肝心かなめがうやむやになってしまうのだった。

 白鳥さんはお母さまの形見の品だという古めかしい腕時計をあらためた。そうしてカップをあおって立ちあがった。

 甲羅はまだ回っていた。

「ちょっと長居しちゃった」

 二〇分しかたってない。長居どころか、短かすぎる。

「また連絡するね。日曜日、考えてみて」

 皮靴をはいて、帰っていった。

 ドアが閉まって、しずかになった。階段をふむ足音が、すこしずつ遠のいていった。やがて車がうなって走りさり、壁の時計のきざむ音しか聞こえなくなるのだった。

「なにが不満なんだ?」

 亀だった。

「なんで俺を呼んだ?」

 亀は首をのばしていた。ひっくり返ったままなので、のばした手足がだらけている。

「呼ぶのはかおるの勝手だが、まだ迷いがあったんじゃないのか?」

 呼んだおぼえなんかなかった。迷いなんてなかった。

 ただ休み毎、海をながめに行っていただけだった。

「かおるの母親も今晩くる。おそらく、会うのは最期になるだろうな」

 母親へ、辞世の句でもおくっておけと、そう言っているのだろうか。

 亀は、あくびをついていた。


 傾き沈んだ太陽が、大きくふくらみにじんでいる。空の雲いちめんが暗く赤らんでいる。

 風はすっか歇んでいて、川面は艶なくよどんでいて、その深淵がのぞくような暗い水のながれのむこう側、しだいに深まる宵闇では、ぼんやり黒く家並みがうきだしはじめていた。どこかの家の小窓らしきが、沈みゆく太陽のさいごの光のまたたきを、ほんのつかのま、鏡のようにまぶしく反射していた。

しずかだった。クラクションひとつ鳴らなかった。犬いっぴきすら吠えなかった。

 それだから、ずっと遠い夏の日の、プール帰りの午後のように、時間が無限へ連なり溶けるような、あたたかなけだるさにくるまれていった。いっしょだから、不安なんてなかったのかもしれなかった。満ち足りていたのかもしれなかった。亀によりそいまどろみながら、ぬかるむソファの底なしへと、ゆっくりとのめりこんでゆくのだった。

「ねぇ、神さまなの?」

 たずねるつもりなんてなかった。なんとなく、訊いていたのだった。

 太腿のうえで、亀は気持ちよさそうにまどろんでいる。

「安易だな……おまえら人間の考えそうなことだ……」

「安易?」

「都合がわるくなると神さまだ……そういうの、安易だよ……神さまだって思いたいんならそう思えばいいが、しかしな、かおる……俺は亀だ、ただの亀なんだ、なんにも期待するな……」

 あたまをさすると、亀はまた眠りへとおちていった。老獪(ろうかい)さの消えた、あどけない寝顔だった。

 亀の額をなでながら、壱万年も生きるとなると、些細なことにいちいち傷つき悩んでいたのでは、苦しくて、亀なんかやってられないのだろうなと思った。


 来るというから待ったけど、8時すぎても来なかった。

 考えてみれば、ヘンだった。母さんから、連絡なんてこなかった。

 それなのに、期待して待っていた。妙なものだった。来ると言われ、来るものだと思いこんでいた。亀にすっかり、踊らされた。

 当の亀は、腹がへりすぎて気を失いそうだと怒って、じぶんだけ食事をすましていた。

 こちらから電話するのはためらわれた。待ち焦がれているみたいで気がひけた。よけいな心配をかけたくなかったし、それよりもなによりも、母さんには、ほんのすこしでもいいから体をやすめてほしかった。

 それだから、サラダとチーズを冷蔵庫へしまって、パンをラップで包んでおいた。

 浴室へ行って、汗をながした。火照った肌がひりひり痛んだ。鏡台に立って見ると、首すじから胸もとまで、みごとにまっかに灼けていた。体を拭くのも難儀したけど、気分はまったくわるくなかった。むしろ、その痛みが心地よいくらいだった。

 なまぬるい夜風が、白いレースのカーテンを揺らしていた。

 ドアの隙間からソファが見える。

亀は、テレビを観ているようだった。

 甲羅の重みで、やわらかくクッションにしずみこんでいる。

「ねえ、ほんとに母さん来るの?」

 たまりかねて訊いてみるが、亀は返事をよこさない。海が由来のくせをして、ブルーウェーブのファンではない。マリーンズでもない。どうやらジャイアンツがひいきらしい。二死満塁。九回裏の攻撃に、すっかり心酔みいっている。四失点のビハインド。あいてチームを揶揄(やゆ)して(わら)い、くち汚く(ののし)っている。だれにむかってか説教までたれている。

「チャンスはそうそうおとずれないが、そのめったにないキッカケをモノにしたやつが、けっきょくはさいごに勝つことになる。野球においても人生においてもそうだ。しかし勝負の本質とは、とつぜんにめぐってきたチャンスをバットの芯にとらえるかどうかにあるんじゃない。かんじんかなめは技術じゃない。拳をかためて脇までしめて、飛んでくるボールをとらえるすがたをイメージしながら全力で振りぬけるかどうか、それこそが重要なんだ──」

 いったいまるで、酔っぱらいのようだ。

うさぎと亀とか、つると亀、どちらの亀も誠実なのに、うちの亀だけやさぐれだった。天上天下唯我独尊。あたまに閃くこのコトバ、おそらくはこの亀のために創造準備されたのだろう。

「おい、あたしの声、聞こえてるんだろう?」

 それでも亀は、こたえない。

「こいつめ、なんとか言ってみろ」

 お仕置に、甲羅をくるくる回してやりたかった。

 ドライヤーで髪をかわかし、寝巻にからだをくるみながらつかつか部屋へはいってゆくと、流し台のまえに、母さんがいた。

 どうやったのか知らないが、亀が鍵を開けたのだ。

 母さんは、困惑しながらほほえんでいた。部屋を見渡し、戸惑っていた。

 冷蔵庫の食べものが、床のあちこちで喰い散らかっている。

 戸棚のなかも抽斗も、泥棒でもはいったみたいにめちゃくちゃになっている。

 まちがいなく亀の仕業だった。好きほうだい散らかしたのだ。

 それを証拠に甲羅の縁が、てらてら照って光っていた。ドレッシングのオリーブ油だった。冷蔵庫を荒らしたとき、器をひっくり返したのだろう。いかなる術をつかったか、かいもく見当つかないが、のろまな亀のくせをして、冷蔵庫だけではもの足りず、天井にほど近い戸棚まであけていた。

 甲羅を睨んでやったけど、詳しい事情がわからずに、母さんはうろたえていた。 

 なにか言わなければならないと思った。

 とっさに、

嗚呼(ああ)、来てたんだ──」

 そう言っていた。会うのはずいぶんひさしぶりなのに、どうにも不自然、ヘンだった。ともすれば、眼がすうっと涼しげに床面をおよいでしまうのだった。

 母さんは、瞳を愁いの色にそめて、なにも言わずに片づけだした。

 親子して、気まずいままに、掃除した。



 亀は、寝たふりをきめこんでいた。

 安っぽい玩具の甲羅になっていた。

 濡れふきんで床をていねいに拭きながら、亀がああして寝ていては、ひとりで喚きながら部屋をめちゃくちゃに荒らしたと思われたって、どうにも弁解のしようがないではないかと思った。

 ついさっき、亀を、神さまなんて言ってしまったけど、みごとなまでの鬼ではないかと、みずからを反省して、ふてぶてしい亀の面を、心のなかで蹴りつけてやった。こんど首をのばしたら、もぐら叩きよろしく、思いきりぶん殴るつもりだった。

「かおる――」

 母さんがよんだ。

 こっちを見ずに、黙々と床を拭いている。

「ねえ、お父さんの法要、どうするの?」

 おそるおそる訊いてきた。

「もうじきよ。再来週」

 忘れるはずがなかった。

 3回忌だった。

 わかっていても、行く気にはなれなかった。

 過去と故人を懐かしむ、まぶしい光の告げさすおめでたい法要なんて、ただひたすら白々しいだけだった。光に満ちみちる白々しい現実なんて、亀がしゃべるのとおなじくらい、うさんくさかった。

 あの日の朝、喧嘩したのがさいごだった。母さんにくちごたえしたじぶんをいさめた父さんに、うるさい死んでしまえと言った。死んでしまえと言ったらほんとうに父さんは死んでしまった。父さんはどこへ流されてしまったのだろう。海のずっとむこうへだろうか。いまごろどこにいるのだろうか。わたしをどう思っているのだろうか。父さんが死んでしまったことをうそだと思いたかった。死んでしまえなんて言ったことをあやまりたかった。あやまりたいけれど父さんはもうどこにもいなかった。

 父さんはやさしかった。いつだってわたしをいちばんに想ってくれていた。それなのに、あの日、わたしはそれを忘れていた。もっといっしょにいたかった。ずっといっしょにいたかった。会いたかった。会ってゆるしてほしかったけれど、ゆるしてもらうことすらできなくなった。じぶんには父さんに会う資格がなかったが、亀と旅立つかもしれないいまとなっては、すべては杞憂なのかもしれなかった。

 母さんの問いかけに、あいまいにかぶりをふった。

 すると母さんは手をやすめて、安堵の息をかるく洩らして、

「かおる」

 と呼んだ。膝をながめていた。スカートが、ドレッシングや汁物でよごれている。

「ごめんね、かおる」

 やんわり叱られると思ったから、意外だった。

「ごめんね、かおる」

 どうやらようすがおかしいと思われているようだった。

 おかしく思われてもしかたなかったが、母さんとは、心かよわせたかった。

 じぶんで話しても、ムダなのはわかっていた。真相は、亀に語らせようと思った。

 おもむろに立ちあがって、亀をつかみとった。そうして甲羅をなんども叩いて、

「散らかしたのは、こいつなの」

 と言った。

「いま寝てるけど、この亀しゃべるの」

 言わせるつもりが、けっきょくじぶんでしゃべっていた。

 とつぜんのことに、母さんは目を見開いている。

「ほんとなんだから」

 膝をついたまま、母さんは困りはてて、目を伏し気味にした。

「ほんとなんだから。喰い意地はった、この亀のしわざなんだから。しゃべるんだから」

 こんどは完全に目を伏せていた。全身に煙る困惑から、無言の痛みがにじんでいる。

 焦ってしゃべればしゃべるほど、みずから泥沼にはまってゆくようだった。わかっていたけど、母さんには話さなければならなかった。もう、ほとんどやけくそだった。

「この亀、異次元からやって来たの。昼間、海で会ったの。あたしに憑いてきたの」

 ぜんぶ言った。言いきってしまっていた。

 憐れみの眼差しで、母さんはゆっくり立ちあがって歩みより、手にもつ甲羅をうけとって、静かにクッションにもどしてやった。そうして、そっと背なかに腕をまわして、やさしく肩をだきよせてくれた。

「ごめんね、かおる――」

 亀のことは、あきらめた。


 亀がしゃべらないことには、気がふれた疑いを晴らせそうになかったけど、あるいは亀がしゃべってみたところで、さしたる効果はなかったかもしれない。おんな手ひとりで母さんは、あの日から今日までずっと、現実の、ねばっこい脂の海のごとき人間世界をわたりあるいてきたのだ。おかしな亀のコトバなんて、ぜんぶきれいに撥ねのけたってとうぜんだった。

 それだけに、いちばん手っとりばやいのは、うやむやにしてしまうことだった。

 うやむやというと印象がわるいけど、解かなくてもいい誤解だってあるだろうと思ったのだ。

「すこし疲れてたの」

 そう言って、ほほえんでみる。

「疲れてて、むしゃくしゃしてたの」

 つかのまこっちをじっと見つめ、母さんは注意ぶかく慎重にうなずいた。

 やっとのことでの首肯だけど、その重たげなうなずきは、了解の、「わかった」の意味ではないような気がした。話を聞き流すための、とりあえずの相槌のように思えた。

 坐ってやすんで待ってなさいと、エプロンつけてやさしく言うと、母さんは買ってきたゴーヤーとお豆腐とタマゴを冷蔵庫からとりだして、夕飯のおかずをつくりはじめた。豆腐をフキンでくるんで()して、入念に卵をときはじめていた。

 リモコンをとってテレビを消して、そうしてうっとり母さんをながめながら、甲羅を押しのけてクッションに坐ろうとした。

 するとどうだろう、あろうことか、亀が起きていた。

 首をちぢこめうす目をあけて、母さんのようすをうかがっていた。

 あまりの不逞に、罵倒のことばがでそうになった。

 言えなかったのは、流し台に立つ母さんの、なつかしい横顔が見えるからだった。黒く艶のある髪の毛がしなやかに揺れているからだった。手早くて小気味よい庖丁の音が部屋じゅうでおどっているし、ふんわり雲間にうかぶような、品のよいシャンプーの香りがただよってくる。あの母さんが、すぐそばに身近にいるのがたしかだった。かたわらにこの亀がいるのとおなじくらいたしかな現実なのだった。

 亀がこっちをちらと見る。感じわるいイヤな目つきだ。甲羅をかかえて、亀のおでこをつついてやる。気持ちいいのか痛いのか、びくびくあたまをふるわせる。しゃばればこっちのものだけど、亀もなかなか曲者で、息ひとつ洩らさない。悪事を白状させるべく、手強い甲羅と格闘すると、母さんが背なかごしに、

「どうかしたの?」

 と訊いてきた。

 甲羅を置いて、ふりかえる。

「なんでもない」

 そう言ってみる。まどろむふりをしてみせる。

 母さんはあいまいにつぶやいていた。そうして困惑をひた隠して、また調理台にむきなおるのだった。

「すこしねむりなさい……心配ないからね……」

 亀は首をひっこめて、じっと母さんのほうを見つめていた。母さんはフライパンをあおってゴーヤーを炒めていた。亀はちいさな鼻の穴を、小刻みにひくひくうごかしていた。

 たしかに亀の反応どおり、隠し味にお味噌をつかう、なつかしい母さんの手料理だった。まねするわけではないけれど、亀みたいに目をつむって、こうばしい匂いを嗅いでると、うしろから母さんの呻き声があがった。バタンと倒れる音がした。

 ふりむきざまに見えたのは、ふてぶてしい亀の面だった。

 亀のやつが、うつ伏せる母さんのうえに乗っかっているのだった。

 とびあがって行って亀のあたまをひっぱたくと、

「うまそうだからすこし味見させてくれって言ったらな、失神して勝手に倒れたんだ」

 なんて言いわけする。

「あたりまえでしょッ」

「あたりまえなもんか。これしきで倒れるようじゃ、かおるの母親は、かおるの抱える悩み苦しみをたぶん想像できてないな。親とはいえ、しょせんは他人だ。ま、とは言っても、かおるがかおるの母親のかなしみの深さをまだよくわかっていないのとおんなじ意味でだがな」

 言われて一瞬たじろぐが、亀はときどき真もつく。そんな気がした。


 ともかく、手足頭はださぬよう、亀にきつく言いつけた。

 退屈だの疲れるだの、亀はぐでぐで文句をたれて、やっとのことでクッションにもどった。

 意識をとりもどすと、母さんはぼんやりとこっちを見あげて、

「ごめんね……あたしちょっと疲れてるみたい……」

 そう言って、かるくかぶりをふる。

 だまってほほえみうなずくしかない。

「疲れるとさ、ふだん見えないものが、ふいに見えたりするもんだよ」

 じぶんで言うのも奇妙だった。ほんとにわたしは疲れているのかもしれない──つかのまそうも感じたけれど、じぶんへの言いわけを、じぶんで真摯に聞いているように思えてきて、わたしはかぶりをふってそっと母さんを抱きよせた。

「そうねぇ……」

 と母さんは感慨ぶかそうに相槌をうっている。そうして、

「なんだかねぇ……」

 と言って、亀の甲羅をながめている。

 またしゃべるのではないかと思って気が気ではなかったけど、亀はちゃんと言いつけをまもった。どこからどうながめても、キッチュなオモチャの甲羅だった。

 すすめてみたけど、呑まなかった。母さんは、缶入りのウーロン茶を冷蔵庫からとりだしていた。缶筒のふちを指のはらでしきりに撫でさすっている。癖なのだ。

 しゃべるのは、小川美容院がらみのことばかりだった。話しだしたら、とまらなかった。いつどこでだれさんが、なにをどうしたという類の、どこにでもある、よもやま話だった。不思議と退屈しなかった。ことばが不足していたのかもしれなかった。スポンジが水でも吸うように、渇いた体の奥のほうまで、母さんのことばが温かく染みこんでくるのだった。

 だいすきな冷酒をオチョコであおりつつ、ゴーヤーチャンプルーを食べた。そうしてときおり相槌をうち、手酌してはオチョコをかたむけた。

 うなずこうがうなろうが、わたしの目を見てうっすら笑んで、母さんはひたすら話しつづけた。コトバが膿んでいたのだろう。あとからあとから、とめどなくあふれだしてくる。

 亀は完全に首をひっこめて、母さんのとなりで、ねむったふりをしていた。

「あら――」

 話の途中で、母さんが言う。

 怪訝そうに母さんは、ウーロン茶のプルタブをおこしている。そうして缶をふっている。

「不良品かしら。中味がすくない」

 缶をうけとり、ふってみる。ほとんど中味はからっぽで、ぴしゃぴしゃひもじい音がする。

 冷蔵庫をあけてみると、もう一缶も、おなじありさまだった。

「このメーカーぜんぜんダメね。あした電話で苦情いれとくわ」

 とっさにくちからでたのだろうが、母さんは、すでにわたしの前職をすっかり忘れているようだった。

 苦情をいれるほうには実質的な損害もあるわけだし、それ相応の、ぬきさしならぬ負の感情がともなったりもするのだろうけど、受けるほうは至ってしらふ、態のいいサンドバックよろしく、運がわるいと、(とが)なき怒りの鉄拳を、それこそ嵐のように打ちこまれるのだ。

「ひとつだけならまだしも、ふたつもよ」

 母さんはまだ怒っている。

 ごくごくまれな機械工程上の欠陥なんて、これだけ自動化が進んでいる社会なのだから、悪質な人為的ミスとくらべたらカワイイものだろうとも思ったが、あら探しでもするみたいに缶の上下を仔細にながめて、なんだかんだ言って母さんは憤っていた。見ようによっては、うれしそうでもあった。

 ひとしきり文句がでると、母さんはすっきり爽やかに時計をあらためて、

「あした組合の会合があるのよ」

 そう言ってケータイをとりだしてタクシー会社に電話をかけて、気忙しくトイレに立った。

 母さんは、避難先の組合の連絡役をまかされているようだった。いそがしいのが生きがいみたいなひとだった。母さんからいそがしさをうばったら、すぐにもちぢんでとけてしまうのではないかと、こっちが不安をおぼえるくらい、とにかく仕事が好きだった。好きなふりをしていないとやっていけないのかもしれなかった。好きだと思いこまなければすぐにも参ってしまうのかもしれなかった。

 帰りしな、そういえば電源がきれていて繋がらなかったからなにかあったときすぐに連絡がとれるようにちゃんと電話をつないでおきなさいと言った。そうして、まだなにか言いたそうに母さんはじっと瞳をのぞきこんで、そっと肩に手をあてて、物憂そうに口もとをほころばせた。

「しっかりやすんで、静養しなさい」

 やさしく肩をなでるから、もちろんですと、うなずいた。うなずくしかない。

「こんどいっしょに診てもらいに行きましょうね。いいセンセイ、さがしておくから」

 やっぱりおかしく思われているのだった。亀がしゃべると言った手まえ、笑顔で見送るほかにない。

 疲れた感じで手をふって、母さんはタクシーに乗って帰っていった。


「あれでよかッ、──たのか?」

 ふりかえると、亀だった。

 クッションにしずみこんでいたはずの亀が、テーブルにのっかって、ゴーヤーを食べている。

「電話の、ことも知らんようだしな。もう母親の、ほうから会いに来る、ことはないぞ」

 おいしいゴーヤーを、亀はまずそうに苦そうに咀嚼している。

「なんでわかるの?」

 来ることを的中させて、こんどは来ないことを予想してみせたのだ。

 いまさらながら、いったいこの亀はなんなのだろうと、扉をしめながら疑問に思った。

「わかるもなにも、俺は竜宮ッ、──界から来たわけだからな」

 亀は飲みこみゲップして、満足そうに大儀に言う。

 また、次元が高いだの低いだのと、わけのわからない話がはじまるのだろうかと思った。

 退屈しそうだったので、冷蔵庫から缶ビールをとってきて、クッションに坐った。

「いいか、かおる。俺はおまえがあさって、最終的にどういう決断をくだすのか知ることができる。深海魚が知らん銀河をおまえら人間が知ってるのとおなじ意味で、おまえら人間が知らん世界を俺は知ってるんだ」

 要するに、じぶんはスゴイと、そう言いたいのだろうか。高慢ちきな、いやな亀だ。

 亀の話も理があるが、深海魚が銀河について知らないのとおんなじで、人間だって、深海についてほとんど知ってはいない。住む世界じたいが異なるし、それよりもなによりも、知ることを、知っているということを、どうしてそんなにも問題にするだろうと思った。深海魚は海の奥底で生きる。暗黒を熟知する。それでよいではないかと思う。それいがいになにを望んでいるだろうか。

 こっちの疑問は露ほど知らず、亀はうっとり話しつづける。

「しかし俺はな、かおるの意志を尊重する。こう見えても義理堅いんだ。約束は守る。かおるの未来はぜったいのぞかん。感謝しろ」

 返すことばなんてなかった。

 いちいち腹をたてたことが、無意味な消耗であるように思えてきた。

 めんどうくさいのでうなずくと、亀は得意げに鼻を鳴らした。ご満悦のようすだった。

「まあ、未来をのぞくなんて言っても、かおるには信じられんだろうがな。しかたあるまい。かおるの、人間としての限界だからな」

 よかれと思ってしたことが、とんだ亀をたすけてしまったものだった。

 苦々しさを噛みながら、缶ビールのプルタブに指をかける。

 すると亀が力んで言う。

「待て、かおる。その缶ビールをよこしてみろ。よく振って、中味がはいってるのをたしかめて、俺によこせ」

 ムッとした。さんざん呑み喰い散らかして、図々しいにも、ほどがある。

「あげないよ」

 見せ喰いならぬ、見せ呑みしてやろうと思った。

 こんどこそプルタブおこそうとすると、

「封をきらずに、その缶ビールを飲んでみせる」

 そう亀は得意げに言う。

「穴もあけんし、缶にもふれん。しかし飲んでみせる。よこせ」

 亀がしゃべることじたいヘンだから、指一本ふれずに缶ビールを飲むなんて言われても、いまさら不思議には感じなかった。ただただひたすらおかしな亀だと、いまさらながらに思いかえすだけだった。

 立ちあがって、重みのある缶をよくふって、亀のまえにそっと置いた。

 すると亀は、まえあしで缶の位置をずらした。不具合があるらしく、なんども調整しなおした。

「照明をくれ。影の輪郭をもっと濃くしたい。流し台の電燈でいい。点けてくれ」

 亀は、いつになく真剣だった。

 釣られて、

「はぁ」

 とこたえていた。

 電燈をつけても、影の姿見は淡くぼやけていたが、亀は満足そうにうなずいて、両のまえあしで影をなではじめた。

 すると、影がモッコリふくらんだ。亀はにゅるりと首をのばし、おぼろな球形の影のなかにあたまをつっこんだ。突っこむと、亀のあたまも淡くにじんで、とけて消えてなくなった。首なしの亀になったのだ。

 部屋じゅう空気がふるえだしていて苦しそうにわなないていた。なにかこう、球形の影を中心にして見えない波動が幾重にもひろがるような、太い金属棒がやわらかく撓っているような、奇妙な低い耳鳴りがしつこく絶え間なく頭の内側から響いてきて、しだいに気分がわるくなって、かるく目がくらんだ。

 目のまえが暗んでいるまに、亀はあたまをぬいていた。つかのまの出来事だった。影はいつのまにか平らにもどっていた。亀の頭は泡まみれだった。泡はしゅわしゅわ弾けていた。ビールの匂いがただよっている。

「缶をもってみろ」

 まえあしで頭の泡をなぜながら、亀が言う。

 口のわるさは、慣れてきた。言われたとおり、もってみる。

 はたして缶は、からっぽだった。穴ひとつ、あいてない。

「中味はぜんぶ、俺の腹んなかだ」

 亀はゲップした。眼もとがうっすら赤らんでいる。

「詳細は秘密だがな、おなじ要領で未来ものぞけるんだ」

 せっかくだから、拍手した。あばきようのない、みごとな手品だ。

 亀もまんざらではないらしく、いくぶん誇らしげだった。



 ときおり打ち上げ花火がひゅるひゅる発火しては嬌声がのぼっていた。

 宵っ張りのアブラ蝉が、ずっと遠くのほうで鳴いていた。

 食器を洗って寝床にはいると、風のながれがすうっと消えた。カーテンのすそが微動だにしなかった。蚊とり線香の煙が、細いまっすぐな線をえがいている。

 汗ばんだので、寝巻をぬいだ。がまんならずに、窓をしめた。そうして冷房をつけた。

 亀はかたわらでねむっているようだった。固い甲羅が太腿にあたっていた。ひんやりして心地よかった。

 天井は影だらけだった。影が濃すぎて闇だった。この闇も、あの影みたいにふくらむのだろうかと思った。ふくらみのなかに、いったいなにがあるのだろうと思った。わたしの望むものがあるのだろうかと思った。缶ビールの中味がなくなったのは手品だったとしても、あの球形の淡い影は、およそ理解できる範囲をこえているように思えた。

 亀が寝返りというか寝回転した。そうして屁をひった。

 やはり狡猾な悪鬼というよりは、まぬけな神さまという感じだった。竜宮界からやってきた、すっとんきょうな神さまだった。おかしな影のふくらみが日常茶飯事にありきたりに展開する、そんな不思議な竜宮界を想うと、胸がおどって高鳴った。こんなにも心はずむのは、ずいぶんとひさしいことだった。

 影がふくらみをもつということは、ひょっとすると、影の集合である闇からは、いろんなモノゴトをとりだせるのではないだろうかと思った。とりだせるだけではない。闇のふくらみにわけいって、時間とか空間とか次元とか、思うがままに自由に行き来することができるのではないかと思った。胸がつまって苦しくなった。恋するような気分だった。母さんや白鳥さんを想いうかべると、善意と好意を裏切るような、うしろめたい気持ちにも駆られた。

 あくびをついて、のびをした。

 まぶたが重くてずるずる落ちる。カフカの世界の門扉のように、鈍くて重くて頑強だった。あらがおうにもあらがえなかった。

 夢をみていたようだった。

 ドラマすらない、いきなりのクライマックスだった。

 白鳥さんに接吻されて、白鳥さんに愛撫されて、白鳥さんに抱かれていた。

 淡く夢だとわかっても、心地よさに押しながされて、すべてをゆだねてしまっていた。

 白鳥さんのカタマリが、熱くゆっくりと、まるで時間でも遡るように、粘つく襞をかきわけて、奥深くまではいってくるのがわかった。クラゲみたいな透けた体に、ほんのり赤く魂が色づくような、温かな充実感にくるまれていた。

 それだけに、夢からさめても、陶酔した。しばらくうっとり、とろけていた。

 股座が、モゾモゾうごいていた。うごくと気持ちよくなった。

 夢の余韻にひたりながら、暗がりをまさぐって、枕もとのスタンドを点けた。

 見れば、タオルケットが、もりあがっていた。股のあたりが、ふくらんでいる。

 はぎとってみると、亀だった。

 小刻みに、間断なくふるえるものだから、色っぽくため息がもれてしまう。

 ふにゃふにゃ手足をくねらせながら、なんとか上体をおこして、下着からねじこんでいる亀の首根っこをつまみとった。

 糸ひく頭をひきぬいて、乱れた息をととのえた。

 吸っては戻して吸うたびに、わたしの胸がふくらんだ。

 おいしい夢でもみたのだろう。亀は寝ぼけまなこで、涎までたらしていた。

 濡れた頭はてらてら光って、首には青すじがうかびあがっている。

「なんのつもり?」

 恥ずかしくて口惜しくて、つよくは難詰できなかった。

 亀はというと、こっちの気持ちはおかまいなしに、しごく平然と言ってのけた。

「冷房が寒くてな。かおるのココが、あったかくてちょうどよかった」

 タオルケットで乳房をかくして、亀の頭をひっぱたいた。

「ヘンタイッ」

 シッポをつまんで窓をあけ、ベランダへ放り投げた。サッシをぴしゃりと閉めるなり、鍵を二重にかけてみた。

 亀だと思って、侮った。まったくもって、不覚だった。

 ちゃんと寝巻を着て、腰紐をしっかり結んで、用心に用心をかさねて寝た。

 さすがにこんどは襲われなかったが、朝になって眼ざめると、蒲団のすみっこに、ひょっこり亀はもどっていた。どうやら懲りたらしく、行儀よく甲羅におさまっていた。窓の鍵はしまっていた。缶をあけずに中味を飲んだ、影のふくらむ妖しい術を、じっさいに応用してみせたのだろう。

 術の虜になってはいたが、すっかり亀には幻滅した。

 亀を無視して、朝ごはんをこしらえた。

 シシャモを焼いて、シジミの味噌汁を用意した。

 シシャモを食べると、亀が起きた。

 また食べると、亀が言った。

「俺にもくれ。腹がへってかなわん」

 人間をはずかしめておきながら、よくも言えたものだった。

「昨夜のことならあやまる。とにかく腹がへった。俺にもくれ」

 性には興味ないようだった。

 ホッとした反面、すこしさびしくもあった。

 亀相手に、すこしさびしくなっているじぶんが、なんだか意外だった。

 亀はせっせと歩いてきた。椅子まで来たので、抱きあげた。

 亀にシシャモを、一匹あげた。

 亀はシシャモを、べちゃべちゃ食べた。

 いつのまにか、亀をかわいく感じてしまっていた。そんな不埒なじぶんに気づいて、亀の頭をひっぱたいた。

 亀は怒って、

「なんだよ、なにすんだよ」

 といきりたった。

「罰よ。夜の」

 亀はなにも言わなかった。

 まずそうに、ししゃもを食べつづけた。


 部屋を荒らさぬようにきつく言いつけて、9時まえに部屋をでた。

 玄関先までやってくると、亀はまったく気のないふうに、

「きょうでこの世界も見納めだな」

 なんて台詞をはく。そうして事務的にまえあしをふる。

 どういう風の吹きまわしか、「行ってらっしゃい」のあいさつをしているつもりなのだろう。うれしいわけではなかったが、釣られていっしょに手をふった。

 ずっと旅立ちのことを考えていた。はたらきながら自省していた。

 旅にでたいなんて思ったことはいちどもなかったが、出会った亀に諭されて、どうやらじぶんがどこかへ行きたがっているらしいことが判明してきた。じぶんの気持ちを亀に告げ知らされるなんて、なんだか不甲斐ない気がしないでもなかったが、亀のコトバはただのキッカケであって、現にこうして亀の話す竜宮界とやらに行ってみたいと思っているじぶんがちゃんといるわけだから、やはりずっとずっとむかしから、海を感じる胎児のころから、不可知な世界へあこがれつづけてきたのだと言えるのだろうとも思う。

 それにしても影がふくらむだなんて、おもしろくておかしかった。仕事中、ランプの精でも呼びだすみたいに、カップと淡いその影を、なんどもなんどもこすってみた。むくむくもわもわふくれたら、いったいどうしてやろうかと、期待ばかりふくらましていた。

 あたらしいパートのおばさんが、怪訝そうにこっちをながめていた。

 たぶん知らないのだと思って笑いながら見あげると、潮でも引くようにたじろいだ。頬とくちもと引き攣って、ほほ笑みながら目をそらすのだ。モノの影がふくらむなんて、どう考えたって尋常ではないのだろう。それだからこそ、影がふくらむその事実は、ほかのだれでもないこのわたし、亀と出会った人間が、たしかに引きうけるべき現実なのだろうと思った。

 いずれにしても、亀をたすけたいまとなっては、もうあともどりできなかった。

 もうずいぶんと遠くまで来てしまっているのだった。亀が見えるし、影がふくらむのだ。亀と話すということは、そういうことなのかもしれなかった。やはり旅立つほかないのではと、決意と呼ぶほどでもなく、あいまいに思いながら影をなでさすっているのだった。


 店をでると、いきなり会った。白鳥さんが、待っていた。

 夢で抱きよせ入ったくせに、屈託なく笑っている。

 恥ずかしくて、眼を伏せてしまう。

「きょう、お邪魔していいかな?」

 亀がいるけど、うなずいた。すみやかに、力強くうなずいた。

 白鳥さんはほほえんで、車のドアをあけてくれた。

 こわばる体がさらに固まる。シートベルトでくくりつけられたお地蔵さんのように、ぎこちなくシートに身をゆだねる。ウインカーがはねる音──。ギアがセカンドで噛みあう音──。鼓動が高鳴る。強く打つ。となりに坐る白鳥さんを、赤道直下の日差しみたいに熱く感じる。沈黙をぬりこめるべく話しかけようと思うけど、なにを話したらよいかわからない。毎度のことだ。あれこれ悩んで腐るうち、家までたどり着いている。ホッと胸をなでおろす反面、残念にも思う。話すべきは亀ではなく、となりに坐る白鳥さんなのだから。

 そんなわたしの気も知らず、亀はしっかり待っていた。玄関先のマットのうえで、くびを長くのばしている。

「ただいま」

 とあいさつする。

 亀はやけにおとなしい。

 改悛したと思いこみ、よしと頭をなでてやる。

 亀は不機嫌そうに、

「もううごいてもいいのか?」

 と訊いてくる。

 これにはあきれた。

 ずっとうごかずいたらしい。

「いいよ」

 そううなずくと、くたびれただのつまらないだとの亀は不平不満をたらたら垂れて、

「とにかく腹がへった。なんかくれ」

 と言ってくる。歩く足へとまつわりつく。

「かわいい亀だね」

 車を停めてきた白鳥さんが、人懐こい猫みたいだと言って笑った。

 しゃべってしまえ、と思った。

 亀がしゃべればこっちの勝ちだ、そう思った。

 すると、どういうわけか亀がしゃべった。

 しょっぱなから、暴言を吐いた。

「カワイイだと? このキザ野郎、ふざけるなよ、俺を家畜なんかといっしょにするな」

 ふりむきざまに、言ってのけた。

 白鳥さんは、呆けていた。目をしばたたいていた。

「なんだキザ野郎、文句あるか」

 白鳥さんが、こっちを見る。不安そうに、首をかしげる。

 迷わずほほえみかえしてあげる。たいして意味なく、うなずいてみる。

 白鳥さんは、はじめぎこちなく笑った。

 つぎに困ったふうに笑った。

 そしてさいごには、わけがわからなくなったらしく、とりあえず笑ってみせていた。

 こんなにも笑われて、亀の自尊心がだまっていられるはずもなかった。

「おいキザ野郎――。おまえ、すごく失礼だぞ」

 亀はしかめ面で言った。額や首にあおすじがうかんでいる。

 ひとしきり亀をながめると、白鳥さんは苦笑いしてこっちを見た。半ば途方に暮れながら、瞳が助けをもとめている。

「こいつ、きのう回してあそんだ亀。おしゃべりでしょ?」

 亀を横目で一瞥すると、白鳥さんは壊れた機械みたいにうなずいた。

 ちらちら見られて苛だつらしく、亀はますます語気をあらげる。

「かおる、このキザ野郎をさっさと家にあげろ。そして飯だ」

 一介の居候が、いったいじぶんの部屋にいるみたいに亀は言う。まるで封建社会の家長のようだ。

 亀と白鳥さんは、テーブルへ斜向かいに坐った。

 白鳥さんはふだんどおり、終始うつむき気味だった。それだから、亀の気迫にまかされてしまっているように見えてしまう。

 気まずい沈黙へ背をむけて、焼豚と長ネギをゴマ油で炒めた。

 亀にはビールを、白鳥さんにはウーロン茶をお酌する。

 ビールを飲む亀を、白鳥さんはじっと見つめていた。奇蹟をまのあたりにしたような、おどろきともよろこびともつかぬ奥行のある顔つきだ。

 亀も見られて気になるようで、

「かおる、俺たちの馴れ初めをこのキザ野郎におしえてやれ。かるく混乱してるぞ」

 そう亀が言うのももっともだった。

 亀にはずかしめられたことだけははぶいて、残りぜんぶを白鳥さんにおしえた。

 亀はこっちを見なかった。白鳥さんはだまって聞いた。グラスを手のひらで包んで、液体に透けるむこう側をじっと見つめていた。

 説明し終わると、

「つまり」

 と白鳥さんは言った。また亀をちらと見た。

「つまりこちらの亀のかたは、かおるさんを竜宮界へと導くために、海のむこうの異次元からわざわざ出張ってきた、というわけか」

 確認するというよりも、疑り深いじぶん自身につよく言い聞かせているような感じだった。見ようによってはなにかたくらみがあるような、くちのわるい亀をこてんぱんに論駁してやるための足がかりをさぐっているような、そんな余裕すらただよっているようにも見えた。顎に指をそえて、白鳥さんは低く唸って、そうしてやっとのことで口をひらいた。

「かおるさん、さっき、深海魚が知らない銀河をオレたち人間が知ってるのとおなじ意味で、オレたち人間が知らない世界をこちらの亀のかたが知ってるって、そう言ったよね?」

 白鳥さんは一気に言った。淀みなく、すらすらと言ってのけた。

「かおるさん、考えてみて。魚が銀河へとびだすとき、たしかに銀河を体験する。でもね、その体験したところの銀河がなんなのかわからないまま、魚はすぐに死んじゃうんだ。エラ呼吸できなくて、ウロコがやぶれてちぎれとぶんだ。魚はただの魚だから、銀河では生きられないわけさ。魚が魚にとって未知であるところの銀河を知るには、スペースシャトルみたいな強靭な皮膚粘膜と、真空状態にも耐えうる特殊な心肺機能を獲得しなくちゃならないんだ。それは海を泳ぐ魚ではなくて、銀河を泳ぐ魚になるってことなんだ。いわゆる魚ではなくなるわけさ」

 こっちをずっと見ていたが、あきらかに亀を意識した発言だった。

 うんちくたれる亀だから、だまっていられるはずがない。

 キッと瞳を見開いて、白鳥さんを、睨めつけた。

「よおキザ野郎。おまえいったい、なにが言いたい?」

 舌鋒するどく亀は言う。白鳥さんを凝視する。じぶんだって長広舌をたれるくせに、やけに苛ついている。まるで電気でしびれるようだ。ふれればこっちも感電する、厄介きわまりない憤りだ。

 いっぽうの白鳥さんはというと、そんな亀の苛立ちとは打ってかわって、いつもどおりの冷静さだ。いくぶんねむたげな目つきでもって、まっすぐに亀を見つめている。亀はきらいじゃないけれど、のぼり調子の白鳥さんを、心ひそかに応援したくなってくる。えらぶる亀の鼻っぱしら、そいつをポッキリ折りとって、めっためったにとっちめてやってほしい。

「つまりだ」

 白鳥さんがウーロン茶を飲む。瞳が黒くて力強い。大いなる反撃の予感がただよっている。にらむ亀をものともせずに、白鳥さんはものごしやわらかく話しだす。

「深海魚は深海しか知らないってことさ。深海でなくちゃ生きていけないんだ。高いとか低いとか、劣ってるとか優れてるとか、そういうことではないのさ。ルールのちがう野球とサッカー、どっちがスポーツとして優れてる? どっちが球技としてレベルが低い? そんなもの、くらべようがないんだ。世界をかたどる枠組じたいがまったくちがうんだ。人間だっておんなじさ。人間はこの世界でなくちゃ生きていけない。この世界にいるからこそ、人間として生きられる。かりにだれか人間がその竜宮界とやらで生きることができたとしても、すでにそのひとは人間ではなくなっているのさ。霊かもしれないし、化物かもしれない。もしかしたら神さまかもしれない。そういう霊とか化物とか神さまがうじゃうじゃいるところに、かおるさんはこちらの亀といっしょに向かおうとしてるんだ。海のむこうの竜宮界に辿りついたら、こちらの亀がただの亀でないのとおなじ意味で、かおるさんはただの人間ではなくなる。かおるさんは、かおるさんですらなくなる。いまのかおるさんからはおよそかけ離れた、不可解なかおるさんになってしまうんだ」

 白鳥さんこそ不可解で、つかみどころがなかったが、たったいまの理路整然とした話を聞いて、彼のヒトとナリをおぼろげながらつかめた気がした。つかめたように錯覚して、すこし愛着ふかまった。亀の世界へ行かなくても、いろんな不思議と出会えそうな、そんな気がした。ハッキリ決めたはずなのに、一瞬おおきく心ゆらいだ。

 白鳥さんはうつむいて、ウーロン茶の缶をいじっていた。まだなにか考えている。

「おいキザ野郎――」

 亀が呼ぶ。焼豚を食べて、両のまえあしでもって器用にじょうずにグラスをつかんで、あおるようにビールを呑む。そうしてただでさえわるい眼つきをさらに険しくして、切りつけるように鋭く言う。

「きれいごとばかり並べやがって、いちいちムカつくんだよ。かおるはな、人間であることに執着しないんだ。たったいま聞いただろ、昼間の職場での影の話を。おまえらの世界で言うところの影のなかに、豊かな世界がひっそり隠れてるっていうのに、愚かにもそれを知ろうともしない。ないと勝手に決めつけて、知りたがる人間をうとんじさえするのが世の大半だ。いいか、キザ野郎、かおるには資格があるんだ。すべてを知る資格がな」

 亀はまえあしで食卓のモノの影をなでまわした。モノの影はみるみるふくらみ、生きものみたいに温かそうな、淡い暗い球形にうかびあがった。軟らかな泥でもいじくるように、亀は影をこねくりまわしていた。いつからか厭な感じの耳鳴りが低く長く轟いていて、しだいに気分がわるくなった。

「罠さ」

 不快そうに眉をひそめ、白鳥さんは断言する。

「罠にきまってる。聞けば体よく語ってるが、この亀は悪霊さ。ひとを過つ悪霊なのさ」

「おい、その寝惚けまなこしっかりあけて、よく見ろ。俺は亀だ。亀以上でも以下でもない、ただの亀だ。わかるか?」

「かおるさん、騙されちゃいけない」

「騙すだと? おとなしく聞いてやってりゃいい気になりやがって。いいかキザ野郎、かおるという個体が消えてなくなるわけじゃないんだ。住む世界を変える、それだけなんだ。わかるか?」

「詭弁だ」

「詭弁はどっちだ。おまえこそ偽善家だ」

 こっちを見つつ、ふたりは激しく言いあった。行くか行かぬかはやく決めろと、こたえを強く迫ってくるようだった。いつやむともしれぬまま、淡い影の球体はしつこいくらい唸っていて、聞いているうちに、とりあえず行くか行かぬかのどちらかを択んで気持ちのブレはあとから修正すればよいのではないかと、そんなふうに思えてきた。

「よく考えろよ、かおる」

 亀が言った。言って顎の部分あたりをしゃくってみせた。

「いいか、キザ野郎。かおるはな、世界をかたちづくる枠組だとか、存在の不可解さだとか、そんなこと思い煩ってるわけじゃないんだ。おまえだって気づいてるんだろ? かおるの母親にはむずかしかったようだが、おまえにはちゃあんと俺が見えてるんだ。俺はまぼろしなんかじゃない。この影のふくらみだってそうだ。ぜんぶ現実なんだ。かおるみたいに素直になれ。悪あがきはよせよ」

「うるさい、こんなものッ」

 そう言って、白鳥さんはふわふわ浮かぶ淡い球形の影をやわらかく手にとった。

「やめておけ。ひどいめに遭うぞ」

 亀の投げ捨てるような忠告を無視して、白鳥さんは影をひきちぎろうとした。激しくかきむしっていたが、淡いだけあってつかみどころはまったくなかった。むしろうにもまるでむしれず、あがけばあがくほど、逆に影へとひきこまれていった。そうしていつのまにか両腕が肩まで深くのめりこんでいた。

「かおるさん、ひっぱってくれないかな?」

 とれなくなって、そう言った。わからぬ事態をうけいれようと、おどろきと困惑とをひた隠している。

「やめておけ。かおると言えど、まだ影は扱えん。こんなヤツ放っておけ」

 放っておけるわけがなかった。脇をかかえて思いっきり引っぱった。影の引きは、なかなかに強力だった。運動会のつなひきの要領で、体をうしろへ傾けて、力いっぱい引っぱった。息までとめて烈しく力んで、そうして白鳥さんといっしょに吹き飛んだ。どうにか抜けたようだったが、起きあがって見てみると、白鳥さんのうでは肩からきれいに消えてなくなっていた。

「バカなやつめ」

 亀が言った。

 あおむけに倒れたまま、白鳥さんは忽然と消えた左右の肩をながめ呆然としていた。

 よく見ると、両のうでは消えてなくなったのではなく、うっすら透けているのだった。色を失っているのだった。その重みのない透けたうでをいくらうごかしても、白鳥さんはモノにふれることができずにいた。ウーロン茶の缶をにぎりとるべく努めていたが、なんらの手ごたえもなくすりぬけてしまっていた。どうやらその透明な手や指では、なにもつかむことはできないようだった。

「こわがるから呑まれるんだ。おまえとかおるのちがいはそこだ」

 おこった出来事があまりにも突飛すぎたらしく、白鳥さんは飄々とさえしていた。そっと抱きおこし、椅子まで連れそい坐らせた。

亀は忌々しげに淡い球形の影をなでつけてもとの平らな影にもどしていた。

 ふたりともなにも言わないので、

「うではどうなるの?」

 そう訊いてみた。

 亀はまったく興味がなさそうだった。

「見てのとおりだ。そのうち完全に消える。欲しけりゃ取り戻すしかあるまい」

「どこから?」

「さあな」

 言いたいことはぜんぶすっかりぶつけあったのか、たがいを嘲笑するわけでもなく、口唇かんで口惜しがるわけでもなく、お酌すると大人っぽくしんみりと、亀も白鳥さんもちびりちびり呑みはじめた。光が閃いて雷鳴が轟いていた。涼しげな雨脚が、にわかに気忙しく通りすぎていった。雨垂れが聞こえて、蝉が鳴いていた。ひんやり夜気が涼しかった。

「けっこういけるな、この肴」

 頬をうっすら赤らめて、だれに言うわけでもなく、焼豚を咀嚼しながら亀がしゃべっていた。

 ストローさしてビールを飲んで、白鳥さんもときおり困ったふうにほほえんでいた。



 上役からの言いつけがあって、あすの昼までに竜宮界へもどっていなければならないと亀がしきりに訴えるから、朝はやくに海へむかって、それまでに結論をだすことになった。

 夜ふけ、まずはじめに亀が酔いつぶれ、うつむき無言の白鳥さんも、うでがどうして透けたのか、たぶん理解がおよばぬままに、坐りこんだまま疲れはてて泥のねむりへとしずんでいった。

 亀のうるさい(いびき)のあいま、うつむき夢みる白鳥さんの、さざなみのような心地よい寝息がかすかに聞こえていた。

 昨夜に懲りて、冷房はいれなかった。タイマーをセットして、扇風機をまわした。

 灯かりを消して床につくと、亀がぼそりと寝言をしゃべった。

「かおるは生まれ変わるんだ……むにゅむにゅ……」

 そんなことを言われても、いまひとつ実感がわかなかった。

 とにかくねむかった。ねむりたくなかった。ひたすらまぶたが重たくて、意識がうすれて朦朧した。せっかくそばにいることができるというのに、おかしなわたしは、どうしてか気を失いかけていた。

 まだなにか亀がぶつぶつ呟いていたが、とうとつに暗幕がたれてフッと消えた。


 ねむりが浅かったのかもしれなかった。

 まどろむまぶたのすきまから、白鳥さんがかすんで見える。

 窓ぎわサッシにもたれかかって、やわらかな月の光をあびながらじっと川すじをながめている。

「かおるさん――」

 わたしの気配を察してか、白鳥さんはささやいた。

 ぼんやりあたまが靄がかり、うなずくことすらできないが、とくに気にとめるふうもなく白鳥さんはつづけていた。

「かおるさん、オレはね、むかしブラックホールってあだ名つけられてたことがあるんだ。小学から中学にかけてだったかな。なに考えてるかよくわからないから暗黒のブラックホール。みんなオレをうらやんでそんなあだ名をつけたんじゃないと思うけど、言われるとなんとなくうれしかった。オレがニンマリよろこぶから、気味わるがるやつもいた。べつにいじめられたりはしなかった。人畜無害だったからね。だれちゃんとだれそれは仲がわるいとか、相性がよくないとか、そういう現実の学級生活には興味がもてなかった。星ばかりながめていたからね、妙なやつだっておもしろがられていたんだと思う。ちょうどかおるさんが海をながめるのとおなじかな。星をながめて本を読んで、相対論とか量子論とか、なんとなく理解できたような気分になって、そうしてようやく、ブラックホールってよばれてなんとなくうれしくなってた気持ちの謎が、なんとはなしにとけてきたんだ。

 ブラックホールは重力が強すぎて物質はおろか光すら吸いこんでとじこめてしまう暗黒の天体だって言われてるけど、それはとうぜんブラックホールの外から観察した場合の客観であって、光の粒子とか物質の原子とか、そういう吸いこまれる側がひとしく体験するところの現象ではないんだ。吸いこまれる光や物質は、ブラックホールの潮汐力があまりに強すぎるから、安定することができずに次々と崩壊してゆく。物質は崩れて分子から原子にくだけ、原子核がつぶれて素粒子になり、質量が無限大に近いから時空のゆがみも無限大にちかくなって、崩れた素粒子はもちろん時間とか空間までも、ぜんぶがとけだしていっしょくたにまとまって、なんだかよくわからない不可解な、オレたちのことばでは記述不可能な、それとしか言いようのないそれになってしまうんだ――」

 もともと、できがわるいのだ。あまたがぼやけていなくても、いちど聞いたくらいでは、いったいなんのことやらか、意味などわからなかっただろう。それなのに、ことばがくっきり鮮明に、仔細もらさず聞きとれた。まるで水を吸いとるスポンジだった。一滴たりとも洩らさなかった。

 それにつけても、亀をふくめずふたりっきりで、せっかく話せるチャンスなのに、おかしなわたしは、ただただひたすらねむかった。白鳥さんに見つめられたままねむりにおちてゆける……そう思うと笑みがこぼれた。こぼれおちているのがハッキリわかった。

「かおるさん、オレはね、それを知りたかった。さがしてみたかったんだ――」

 もっともっと、たくさんの話を聞いていたかったけど……


 オトコを家に泊めるだなんて、以前のじぶんには考えられないことだった。

 朝陽がさしこむ食卓でも、海へむかう車のなかでも、白鳥さんはうつむいていた。昨夜のことはおくびにもださず、サイドシートでなにかを考え巡らしていた。対照的に、亀は終始ご機嫌だった。

「異界にこれほど長居したことはなかったからな、じつに有意義だった。機会があったら、またぜひ来てみたいものだ」

 亀のことはどうでもよかった。白鳥さんが青ざめているから気になって気になってしようがない。

「酔いました?」

 と訊いてみる。

 白鳥さんは首をふる。

「トイレですか?」

 こんどはうなずく。もうしわけなさそうに白鳥さんは伏目ぎみにしている。

 道ばたに車をよせて、左へまわってドアをあけて白鳥さんに肩をかした、というか、肩をささえた。

「まったく、かおるがいい迷惑だ」

 亀がぼやいていた。

「ごめんね、かおるさん……」

 気にするなと言っても、気になるに決まっていた。だまってうなずいた。

 道路から見えなくなるまで土手をくだって、白鳥さんのかたわらにしゃがみこんだ。

「ごめん、ホントにごめん……」

 動悸が強く打っていた。ふるえる指でジッパーをおろし、白鳥さんの性器をつまみとった。そうして眼をつむって引きだした。オトコのひとの用のたしかたなんてくわしく知るはずがなかった。

「これでいいですか?」

 そう訊くと、つまんだ性器がびくびくふるえだした。ふるえるたびに、すこしずつふくらんで固くなった。気まずくなって、そのまま性器をつまんでいた。すると勢いよくほとばしる音が聞こえた。温かな水しぶきが手にかかった。ころあいをはからって目をあけると、つまんだ性器はたくましく反りかえって怒っていた。昨夜の亀の頭より立派だった。

「ごめん、落ちつくまで、もうちょっとだけ……」

 どうしたらよいのかわからなかった。立ちあがって背をむけて、そのまま待つしかなかった。

「なにしてる、はやくしろッ」

 亀だった。

 ふりかえると、亀が窓をあけて身をのりだしていた。

「こんなとこで油うってる暇なんかないんだぞ。はやくしろッ」

 車を見あげて性器をあらため、あきらめたように白鳥さんは歩きだした。

「おいッなんだッ、みっともないぞッこっち来るなッ、ちゃんとしまってこいッ」

 白鳥さんをよびとめて、恥ずかしくて顔から火がふきでそうなのを必死にこらえて、慣れたふうをよそおって性器をにぎりとり、苦労して押しこんでジッパーをしめた。

 とうぜんのごとく、車中コトバはすくなくなった。

 よほど図太い神経をもっているのだろう。ついさっき怒鳴ったばかりなのに、亀はすこやかにねむっていた。かたわらの白鳥さんは窮屈そうに前屈みになり、あいかわらず股間をふくらませていた。うでをなくした無力感、そこにオトコとしての恥ずかしさ口惜しさまでながれこんでいっしょくたになって、古い木造家屋みたいな頼りない顔つきになっていた。

 しゃべろうにも、どうきりだしたらよいものかうまく判断がつかなかった。きのうまでの白鳥さんとは、あきらかに雰囲気がちがっていた。雲のような飄飄さがその影をひそめていた。うでのこともあったけれど、氷山の一角、わたしはようやく白鳥さんの、芯に肉づく考え想い、その片鱗をうかがいしることができたのかもしれないとも思った。そしてそう思うそれだけで、わたしの胸のずっと奥のほう、錆うく空虚な内燃機関が、緩やかな音をたてて滑らかに火を浮かしうごきはじめるように感じるのだった。

 窓をあけて潮風をあびながら半島を海岸沿いに南下して、おととい亀を釣りあげた浜辺へともどってきた。左うでで亀をかかえて、ほとんど付き随うように注意ぶかく白鳥さんを見守りながらテトラポットをとびわたった。波しぶきが舞っていた。ウミネコたちが鳴いていた。太陽は中天にさしかかり、わたしたちを痛いくらい照りつけていた。亀をたすけたのはほんの二日前だけど、もうずいぶんむかしのことのような気がした。

「で、どうするんだ?」

 置くなり亀がそう言った。

 行こうとは決めていたけど、「行く」と言うのがためらわれた。ためらっているうちに、じぶんが行きたかったのか行きたくなかったのか、だんだんわからなくなってきた。わからないというこたえが嘘いつわりない正直な気持ちだった。しかしわからないというこたえは亀がもとめるこたえではないはずだった。わからないというこたえは、たぶん「行く」というこたえに翻訳される、そう契約した。高慢ちきなこの亀が、わざわざ出張ってやってきて、手ぶらでかえるはずがなかった。亀のまえでわからないとこたえるのは、「行く」とこたえるのと同等だった。ふりだしにもどってきたわけではなかった。

 行ったがさいご、もう二度ともどってこれないのだ。行きたいわけではなかった。かといって行きたくないわけでもなかった。淡い球形の影をあやつる術を、じっくりと気がすむまで習ってみたかった。この世界のすべてのヒトが生きものが、どうして死にゆく滅びゆく定めにあるのか、その謎をといてみたかった。そうやって理由をいろいろこしらえてきたけれども、ただひと言、「ごめん」と父さんにあやまりたいだけなのかもしれなかった。しかしこの世界においては、消えるモノは消えることによってそのモノじたいが意味をうしなう。つまりじぶんが消えると同時に謎がとけるのでは意味をなさないし、じぶんが消えるのでは父さんにあやまれないのだ。だから行くわけにはいかなかった。

「どうする?」

 亀が訊いた。

「まさかわからんなんて言うんじゃないだろうな?」

 苛だっていた。

 風がやみ、浪はないでいた。ウミネコたちが消えていた。

 熱くまぶしい光みちみちる豊穣な沈黙が、えんえんこんこん海へと広がるかのように感じられた。それは、澄んだ光の屈折する、遥かなカンブリアの海なのかもしれなかった。海の浪すべてに沈黙がとけだしていたころの、黎明原初の風景なのかもしれなかった。

「じぶんで決められんのなら俺が決めるぞ」

 そのときだった。

 白鳥さんがまえへすすみでた。

「オレが行く。オレを連れてってくれ」

 亀もこっちもコトバに詰まる。

「たのむ。オレを連れてってくれ」

 亀がうさんくさそうに白鳥さんを見あげる。

「うでか? うでをとりもどしたいのか?」

 白鳥さんは深くうなずいた。

「うでもそうだが、腕時計がさきだ。母の形見なんだ」

 亀は笑った。ナンセンスだと首をふった。

 いい意味でもわるい意味でも、見えるモノふれるモノにとらわれてしまう人間心理の強固な機能が、亀には理解できないようだったし、理解したくもないようだった。

「ただの腕時計だろ、バカらしい」

 白鳥さんも引きさがらなかった。

「たいせつなんだ」

 亀は嘲笑った。いいかげんにしてくれ、そう言いたげだった。

「おまえにとってたいせつなのは腕時計か? そこにいる、かおるじゃないのか?」

 ハッとした。

 亀が視線をこっちになげる。

 白鳥さんもこっちを見る。黒く力強い瞳だ。

「かおるはな、おまえのことを想ってるんだぞ。おまえに抱かれる夢までみてるんだぞ」

 白鳥さんはじっとこっちを見つめていた。怒っているのではないかと思えるくらい真剣な澄んだまなざしだった。あの夢をのぞかれているのではないかと思えてきて恥ずかしくて眼をそらしそうになったけど、またここで逃げだしたら、こんどこそほんとうに亀としか話せなくなってしまうのではないかと思えてきて、白鳥さんを、真正面から見つめかえした。

 白鳥さんは凛々しく胸をはっていた。湛えられたほほえみには、決意が色濃くにじんでいた。

 やっとはじまったばかりなのに、そう思った。そこにくっきり映るのは、まるで別れの情景のようだった。

「かおるさん─」

 白鳥さんが言う。わたしはくびをよこにふる。瞳で強くうったえる。

「かおるさん、もどってくるよ、かならず。オレにはもどる意志があるんだ――」

 抱きしめてほしかったけど、抱きしめるためのうでが白鳥さんにはなかった。

 亀はこんどは茶化さなかった。急かしたりもしなかった。

「行くぞ」

 亀はまえあしで甲羅をたたき、さっさと乗れと合図した。

 白鳥さんは靴をぬいで、つぶれてしまうのではあるまいかと心配そうに、ゆっくりとつまさきから体重をかけて甲羅にのっかった。すると吸いつくように足裏から貼りつくのだった。亀は平気そうだった。白鳥さんはわたしを見つめ、やさしくうっすらほほえんだ。行ってくるよ──そうつぶやいたように聞こえた。

 行かせたくなかった。もうだれも行かせてはならなかった。この招かれざる珍客を、現実へとひきとめておかなければならなかった。うまく手懐けなければならなかった。そうでなければわたしたちは、あの白鳥さんのうでのように、雲散霧消と化してしまう。

 亀はうしろあしをふんばって、きらめく水平線をながめたまま、

「かおる、また会えるのをたのしみにしてるぞ」

 と言った。

 待ってとうでをさしだしたその次の瞬間、亀はふんばりを解いて強靭なバネのように弾けていた。旋風が舞って髪が乱れて、ふりかえれば、波が切り裂けうねっていた。亀も白鳥さんも、すでに見えなくなっていた。

 ウミネコたちが空にもどっていた。浪しぶきがテトラポットに弾けていた。行儀よく脱いである皮靴のみが、白鳥さんの存在を痕跡としてきざみ残していた。

 追いかけなければならないとは思ったが、追いかけてはならなかった。追いかけて行ったら、海を泳ぐ魚が銀河を泳ぐ魚になるのとおなじ意味で、じぶんはこのじぶんではなくなっているのだった。とうぜん白鳥さんもじぶんの知る白鳥さんではなくなっているのだ。

 それだから待つしかなかった。

 まぶしく光の充溢する海の彼方をながめながら待つしかなかった。


 その部屋は、夜の暗がりへと潜水していた。気泡がたちのぼるその深海で、わたしは白鳥さんの皮靴ばかりをながめていた。

 このくたびれた靴に白鳥さんのいろんな物語がきざまれている――そう思うと、なぜかしら不思議な気持ちにくるまれた。深い深い海の奥底でじっと耳を澄ましていると、せわしなく駆けまわる白鳥さんの足音が、遥かな地上から聞こえてくるようだった。モカの香りが甘くひろがるときのあのほほえみだって感じられるし、夜空を見あげる白い端整な横顔だって想いうかんでくる。

 そこは光のとどかない、水の世界だった。皮靴に、影なんてなかった。ただ皮靴らしき物体が、波すら絶えた沈黙の海で停止するだけだった。けれどもそれでじゅうぶんだった。白鳥さんの皮靴らしき存在を感じる、それだけで、わたしは想いが満ち足りてあふれだしてくるのだった。いなくなってしまったようには思えなかった。なくなってしまったようには思えなかった。そう、このわたしみたいに海へと潜っているだけなのだ、そう思えてくるのだった。

 あの浜辺へと、亀を手懐けひきつれる白鳥さんがもどっているように思えてきて、気がつけば、靴をかかえて沈黙の世界からとびだして、階段をかけおりていた。息をきらして海をめざしているわたしがいるのだった。



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