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*小説・エッセイ・散文・その他*

真珠のあなた

作者: a i o

  戸上さんの薄い耳たぶには、小粒の真珠のピアスがつやつやと光っている。若者向けのジュエリー店で見かけるような、乳白色の優しい色合いのものではなく、夜空になる手前の妖しいブルーグレーのそれが、私には楚々とした雰囲気の戸上さんのちょっとした反骨心のように思えて、とても好きだった。

 だから、いつもは緩くウェーブのかかった黒髪に隠されているほっそりとした耳が、受話器を取った戸上さんによって剥き出しにされると、ついつい盗み見てしまうのは、もう私にとって抗えない癖のようなものだった。その度に、戸上さんへの自分勝手な期待に対する罪悪感と、それにもかかわらず抱いてしまう、秘密主義の戸上さんの内面を垣間見たような優越感に、臆病な心が揺れ動いていたとしても。

「新津さん、お昼どうする?」

 いつの間にか話を終え、受話器を置いていた戸上さんの声に気付き、ハッと視線を上げる。戸上さんの耳にかけられていた髪が、カーテンのように閉じてしまうのを残念に思いながら、私は取り繕うように笑みを返した。

「今日は寝坊しちゃったので、コンビニでお弁当買ってきます。先に食べていてください」

「あ、じゃあ私も飲み物買いたいから、ご一緒させて」

 ついでに買って来る、という私の申し出を戸上さんにやんわりと断られ、二人連れだって勤め先の耳鼻咽喉科クリニックの入っているメディカルビルを出る。もうすでに午後の予約の患者さんが外の待合室で待っていたけれど、入れ替わりで休憩から戻った藤田さん達が、今頃対応しているだろう。

 お昼のピークを過ぎたコンビニで手早く買い物を済ませ、秋晴れの澄んだ空に誘われるように、今日はクリニックの休憩室ではなく、近くの公園で食べようと私が提案すると、戸上さんは喜んで賛成してくれた。

 市民の憩いの場として最近できたその公園は、傾斜の多い土地に合わせて小高い丘につくられている。見晴らしの良い場所に置かれた真新しいベンチに腰掛け、再開発された街並みを見下ろすと、そこには着飾ったすまし顔の建物と、くたびれた背広色の建物を、無理やり綺麗な額縁に収めたような滑稽さがあった。

「何だか随分変わっちゃったよね、ここも」

 黄金色の卵焼きをつつきながら、戸上さんが言う。

「戸上さんの地元って、もしかしてこの辺ですか?」

 今のクリニックに就職する前は、派遣社員として病院を転々としていたと聞いていたので、私が不思議に思いそう訊ねると、戸上さんは一瞬しまったというような表情をして、

「ううん、ここじゃないけど。でも、一時期住んでたことがあって」

 そう言うなり、丁寧な箸使いで食事を再開した。普段は人当たりの良い戸上さんの、薄く膜を張ったような拒絶がピリピリと肌を刺す。戸上さんがクリニックに入って来て三年。それなりに親しくなったつもりでも、戸上さんはなかなか自分のことを話してはくれない。私はそれ以上聞き出すことを諦め、買った弁当のピンク色の鮭を黙々と口に運んだ。平らな時間に乾いた風が吹きつけて、露わになった戸上さんの耳に貼りついた真珠が、陽を受けてぐるりと輝いていた。

 遅すぎず早すぎずのペースで昼食を食べ終え、弁当の濃い味付けをお茶で洗い流す。いつもなら、聞き上手の戸上さんにここぞとばかりに喋りかけるのに、先程の拒絶が尾を引いて到底そんな気分にはなれなかった。それなのに小花柄のハンカチで弁当箱を包みながら、今までの沈黙などさも無かったかのように話しかけてきた戸上さんに、どろりとした悔しさが込み上げる。

「この前話してた喧嘩、ちゃんと決着ついた?」

「ええ、まぁ」

 先週、怒りに任せて愚痴を吐いてしまったことに今更ながら後悔する。夫婦喧嘩なんて犬も食わないというのに。

「いつも通りです。どっちも折れることなく、うやむやになるんです」

 気恥ずかしさに動転して、余計なことまでつい口走ってしまう。戸上さんは案の定返答に困ったようで、少し間を空けて「そっか」と小さく頷いた。

「すみません。しょうもない話を聞かせて」

 私が情けない顔で謝ると、戸上さんが眉尻を下げて首を横に振る。本当にしょうもない喧嘩だった。浴槽の使い方でせっかくの週末を険悪な雰囲気の中過ごすはめになった。でも、そんなしょうもない喧嘩ですら、もう私たち夫婦はきちんと終わらせられない。私はその事実に、今はもう焦りよりも諦めを感じていた。

 こちらを気にかけてくる戸上さんの様子に、ますますいたたまれない気持ちになる。どうして私は戸上さんに、こんな情けないところまでさらけ出してしまうのだろう。この人は私に何も見せてやくれないというのに。


「ただいま」

 狭い玄関に並んだ革靴に呼びかけると、リビングの方からくぐもった返事が聞こえた。

「今日は早かったね」

 そう言って、買い物袋をリビングと繋がった対面キッチンの作業台に置き一息つくと、いつもの部屋着ではなくなぜか私服に着替えた圭太が、ソファに寝転びながらスマホをいじっていた。いつもなら二十一時近くにならないと帰って来ない圭太が十九時台に家にいるのは、なかなか新鮮だった。

「営業先から直帰した。あ、俺これから飲みに行くから夕飯いらない」

「あのさ、そういうのは前もって言ってって、いつも言ってるじゃん!」

「家に着く直前に連絡があったんだよ。お前すぐ帰って来ると思ったし、実際すぐ帰ってきたんだから同じことだろ」

 圭太がスマホから視線を外すこともなく、面倒くさそうに言い放つ。まただ。何度同じような言い合いをしたのか数えるのもうんざりする。喉元に出かけた反論を、私はぐっと飲み込んだ。

「……あっそ。勝手に行けば」

「ああ。そうする」

 そう言って圭太はのそのそと起き上がり、リビングのドアを乱暴に閉めて出て行った。台所のシンクに両手をついて吐いたため息が、コポリと落ちる。そう、勝手にすればいい。どこへでも行っちまえ。排水溝めがけて次から次へと湧き出る悪態を垂れ流しながら、強く目を瞑る。この涙を、こぼすわけにはいかなかった。

 一体、いつからなのだろう。彼の目がガラスの瞳に変わったのは。六年の歳月が、そうさせたのだろうか。私は窓越しの住人で、彼から隔てられた場所で手を振るばかり。睨みつけても、結局は自分を睨んでいるようなものだ。馬鹿馬鹿しさに眩暈がする。

「あーあ」

 つけっぱなしのテレビから、ドッと笑い声がした。


「美穂ちゃん、顔色悪いけど大丈夫?」

「え? あ、すみません。大丈夫です。寝不足気味なだけで」

 診療開始十分前。受付カウンターの中で隣に座る藤田さんが、椅子をくるりと回転させ私の顔を覗き込んだ。くっきりと彩られた唇が大きく開く。

「それならいいけど。でも若いからって、あんまり夜更かししちゃダメよ。夜遊びも続くと体に毒だからね」

「そうですね。気を付けます」

 神妙な顔をして反省の態度を見せると、藤田さんは満足げに「ほどほどにね」と言ってまた椅子を回転させ仕事に戻っていった。いつの間にか夜更かしが、夜遊びに変換されていても訂正はしない。藤田さんの思い込みが激しいのは周知の事実で、それを正そうとしても後からネチネチと文句を言いふらされるだけなのだ。顔のつくりがどちらかというと派手な私は、藤田さんの中で私生活も派手ということになっているらしい。羨ましいことだ。似ても似つかない藤田さんの描く私の方が、現実の自分より余程幸せそうに思えて、私は乾いた笑みを浮かべた。左隣にいた戸上さんと目が合うと、小さく肩を竦めてみせる。戸上さんは目を伏せながら唇の片端を上げた。

「新津さんって、忍耐強いよね」

 休憩室で昨日の夕飯の残り物を詰めた弁当を食べていると、同じく休憩中の看護師の工藤さんが突然そんなことを言った。

「今朝の藤田さんとのやり取り見ちゃったけど、あの人に反論してもしょうがないって分かっていても、私なら苛立ちが態度に絶対出そうだもの。その点、新津さんは上手に受け流してるでしょ? それって結構すごいと思うんだよね。戸上さんもそう思わない?」

「確かに。新津さんはしっかりしてるから。でも、新津さん、あんまり溜め込みすぎちゃだめよ。ああいうのって、気付かないうちにダメージがひどくなるんだから」

 心配そうにこちらを見つめる戸上さんに、思わず縋りつきたくなる。優しい言葉にすぐにぐらりと揺れてしまうほど、私は弱り切っていた。藤田さんの言葉よりも、藤田さんの思い込みにすら羨望を抱く惨めな自分に傷ついていることを知ってほしい。そんな衝動に駆られながらも、私はゆっくりと二人を交互に見つめ、大人として、社会人として望まれる選択をする。

「ありがとうございます。私はどちらかというと短気な方なんですけどね。藤田さんって、あれで面倒見がいいから、憎めないっていうか。さっきも缶コーヒーをおごってくれたんです。あの人、やってないけど本気で私の夜遊び心配してくれてるんです。だから平気なのかも」

 私の言葉に、工藤さんが大きく頷いた。

「そうなのよねぇ。あの人の思い込みってイラっとしちゃうけど、あの人自身は完全に悪い人間ってわけでもないのよね。だから行き場のないストレスが溜まることになるんだけど! 私も新津さんを見習って割り切るようにしなきゃね」

 もごもごと「いえ、私なんて」と言いつつ、話題を仕事の方に逸らしていく。工藤さんも戸上さんも話を藤田さんに戻すことなく、話題は私の目論見通り患者さんの話に移っていった。藤田さんが憎めないというのは本当だけれど、感情という情報をほんの少し差し出すのは、女同士のコミュニケーションの常套手段だ。女性スタッフだらけの、開業医がやっているこのクリニックも、もちろん例外じゃない。家族の些細な愚痴、職場内の人間関係の悩み、業務で起こったトラブルなど、塩梅をみながら少しずつ弱みを見せ合うことで、互いに敵ではないことを示すのは、握手の代わりのようなものだと思う。ただし、右手で友好的な握手を交わしていても、左手には何かを隠し持っていると考えた方が賢明かもしれないけれど。

 それでも、今の私にとってここは職場であると同時に数少ない弱音を吐ける場所だった。もちろん、誰にでもというわけにはいかないし、深刻になり過ぎないよう気を付けてはいる。家庭を持って疎遠になった友人たちや、遠方の実家にはなかなか頼れないとなると、身近にいる気心の知れた同性は良くも悪くもここにしかいないのだ。その中で、落ち着いていて口の堅い戸上さんは、一番信頼の置ける人だった。

「あの、戸上さん」

 工藤さんが休憩室から出て、二人っきりになると同時に、私は戸上さんに思い切って声をかけた。

「もし今夜予定がないなら、飲みに行きませんか?」

「夜遊びバレたらまた藤田さんに怒られるわよ」

 戸上さんがいたずらっ子のような目で私を見つめ「今夜ね。大丈夫よ」と右手の人さし指と親指で円を作る。それに答えるように、私は控えめなガッツポーズをしてみせた。昨日の今日だ、圭太には文句は言わせない。もちろん嫌味ったらしく今のうちに連絡を入れることも忘れない。脳裏に、昨夜の空っぽのシンクがちらつく。これでチャラだ。何度そう言い聞かせても、工藤さんに褒められたような割り切った心持ちには、到底なれなかった。


「永遠の愛ってどこにあるんですかね」

 そうぼやきながら、四杯目の生ビールに口をつけ、柔らかな豚の角煮を箸でほぐす。クリニックから一駅の繁華街にあるこじんまりとした居酒屋は、ちょくちょく戸上さんと利用する店だ。飲食店のたくさん入ったビルの一角にあるから、滅多に混みあうこともないし、料理も美味しい。ちまちまと角煮を食べる私の向かいで、戸上さんは私の唐突な言葉に目を丸くして、呆れたように笑った。

「なに? また喧嘩でもしちゃった?」

 これ以上同僚に醜態を晒したくないという気持ちと、このもやもやを聞いてほしいという欲求がぼんやりとした頭の中で尚、せめぎ合う。

「いえ、何もないですよ。ただ、人恋しいっていうか、変化についていけないっていうか。うまく言えないんですけど。所詮、諸行無常なんですかねぇ」

「やだ、新津さんもしかしなくても酔ってる?」 

「酔ってませんよー」

「酔ってる人は皆そう言うの。もうお水にしときなさい」

 戸上さんの忠告を聞き流しながら、私は髪を後ろで一つに束ねた戸上さんによって現れた、あの真珠のピアスをうっとりと見つめていた。

「それ、そのピアス、すごく綺麗です。戸上さんに似合ってます」

 戸上さんがサッと自分の耳に手を伸ばす。

「そう? ありがとう。気に入ってるの」

 心なしか悲しそうなその表情に、私は思わずテーブルに残っていた戸上さんの左手に自分の右手を添えた。

「戸上さん、私、戸上さんにいつも愚痴聞いてもらって本当に助かってるんです。だから、愚痴でも悩みでも、私でよければ聞きますから。私じゃ力不足かもしれないけど、戸上さんに恩返ししたいんです。だから、ええっと、反響しない穴だとでも思ってくれれば」

 なんだこれは。安っぽい青春ドラマのようじゃないか。中高生のような青臭い台詞を吐くなんて、私は絶対酔っている。素面じゃとてもじゃないけど言えない。明日にはどうか戸上さんも私もこのことを忘れていますように。言い切った後、すっかり羞恥に襲われている私を可笑しそうに見ながら、戸上さんは残り少ない自分のウーロン杯をゆっくりと飲み干した。

「気持ちだけ頂いておくわ。ありがと、新津さん。新津さんって意外とアツい女なのね」

「私、酔ってるんです」

「さっき酔ってないって言ったのは誰?」

 こんな時の戸上さんは意地悪だ。私がいくつになっても手に入れられない『オトナの女』の余裕をまざまざと見せつけられたようで、私はいじけたようにテーブルに突っ伏した。テーブルに額をくっつけて沈む私の肩を、戸上さんはポンと軽く叩く。

「新津さんって、まだ三十二、三だっけ?私より八つぐらい下だったよね」

「来月で三十三です」

 顔を上げないまま私が答えると、戸上さんは「まだまだこれからじゃない」と今度は二回、肩を叩いた。

「時間さえあれば、愛についてじっくり考えられるわよ。でも、変わっていくのは仕方ないのよ。生きてるって、走り出しちゃってるってことだから」

 むくりと起き上がり、私は片手で頬杖をついて戸上さんの言葉に耳をすませる。すっかり聴衆になりきった私に、戸上さんはどこか居心地悪そうに咳ばらいをした。

「流れる景色の変化には気付いても、自分の変化には気付かないものよ」

 戸上さんはそう短く言って「お説教はおしまい」と早々に話を打ち切ってしまった。

「戸上さんは、自分が変わってしまったと思ったことはありますか?」

 無理やり話を続ける私のいつになく真剣な様子をみて、戸上さんはゆっくりと頷いた。

「呼吸の仕方を覚えるの。苦しくないやり方を。変わるって、別に悪いことばかりでもないわ」

 そう言い終えた後の戸上さんの沈黙に、今度こそこの話題の終わりを感じ取り、私はさして興味もない俳優の話を戸上さんに提供することにした。いつの間にかその話が、医療ドラマへのツッコミに変わっていったのはほとんど職業病だろう。意外やそのドラマは戸上さんも観ていたらしく話は大いに盛り上がり、デザートの黒ゴマアイスを食べ終わる頃にはすっかり夜も更けていた。


 帰宅すると予想通り、圭太は寝ていた。酔い覚ましにシャワーを浴び、面倒だと思いながらも、肩まである髪をドライヤーで乾かす。寝支度を終え、真っ暗な寝室に入り、スマホの明かりを頼りにベッドへと近づくと、いつも通り壁際に、圭太が掛け布団を頭まで覆いこんもりと盛り上がった山のようになって眠っていた。掛け布団をそっと引き寄せベッドの中に潜り込む。布団から自分の身体がはみ出ないように、圭太の方を向いてしっかりと包まると、まだ温まっていないシーツの半分がひんやりと冷たく感じた。ここ数年、彼の背中ばかり見ている気がする。圭太が気まぐれに体を求めることもあるけれど、最後のソレがいつあったのかもう思い出せなかった。圭太のスウェットの端をこっそりと握ってみる。圭太は軽く身じろぎをしたけれど、結局起きることはなかった。カーテンの隙間から、月明りが波打つように漏れる。セミダブルのベッドを置けばいっぱいになってしまう寝室に、圭太の寝息がはっきりとした輪郭を持って響いていた。ふと思い立って、圭太の寝息に自分の呼吸を合わせてみる。重なった吐息が闇に溶け、私は不意に悲しくなった。自分で用意した罠に嵌ったような、間抜けな悲しみだ。とうの昔に忘れようと追いやったそれは、旧友のようにひょっこり現れる。私は、圭太との子どもが欲しかった。子どもをつくることについて何度か話し合ったこともあったけれど、圭太はあまり積極的ではなかった。彼は実家の両親と不仲だ。もしかすると家庭にあまり良いイメージがないのかもしれない。もしくは、私との間には子どもをつくりたくなかったのだろうか。さもすれば、すり抜けてしまいそうな寝息を追う。でも年々ぎくしゃくとしてくる関係の修復を試みては失敗し、それどころではなくなった。呼吸が徐々にずれる。どうして、圭太は私を見ないのだろう。どうして、私は彼の背中を振り向かせられないのだろう。合わせようとすればするほど息苦しくなる。圭太の寝息を追いかけて追いかけて、力尽きると、月はますます明るく輝いた。

 その晩、不思議な夢をみた。戸上さんの夢だ。戸上さんがぼんやりと暗闇に後ろを向いたまま立っていて、私が声をかけると勢いよく振り向いた。戸上さんは笑っていた。いつものように、穏やかな笑顔で。ただその瞳だけがいつもの戸上さんとは違っていた。戸上さんの両眼にはあの真珠が嵌め込まれていたのだ。戸上さんの真珠の目は怪しいほどに輝いて、光沢の深さがそのまま苦しみのように思えた。青みがかったその色は雨が降る寸前の空のように美しくて、私は慰めや同情ではなく、ただその好奇心から戸上さんが泣いてしまえばいいのに、とさえ思った。そしてその薄情さに、吐き気がした。夢の中ですら私は、自分勝手なのだ。


 その日、クリニックはいつも以上に混みあっていた。冬が近づくにつれ患者さんは増える傾向にあるけれど、今日は日曜にあった運動会の代休なのか、平日にもかかわらず小学生とその保護者が何組も来院しており、普段、日中は幼児と高齢者ばかりの長閑なクリニックも、どこか騒々しく、スタッフは朝からてんてこ舞いだった。それでも十五時を過ぎるころにはだいぶ落ち着いてきて、何とか減ってきた会計入力を捌いていると、会計に呼ばれた女性がカウンター越しに、私の隣でレジを務める戸上さんの顔を見るなり「あっ」と呟き、驚いたような表情で戸上さんに話しかけた。

「東さん?東さんでしょ! お久しぶりです。私、安田三秀の母です。トウヤ君と小学校のサッカークラブで一緒だった」

「あ……。安田さん、お久しぶりです。ご無沙汰しています」

 戸上さんはたじろぎながらも、周囲の視線を感じ取りすぐにいつもの落ち着きを取り戻した。

「トウヤ君は元気かしら? ウチの子とは違う中学校に行ったから、なかなか顔を見る機会もなくて。今日は次男の受診についてきたの。急性中耳炎ですって」

 戸上さんの首からぶら下げた名札にどうやら気付いていない女性は、カウンターの下にいるであろう男児の頭を軽く撫でる素振りをみせた。

「ええ、おかげさまで。ボク、よく頑張ったわね。お薬出てるから、ちゃんと治そうね。では安田様、本日の料金ですが」

 戸上さんが患者さん用の作り笑いを浮かべ、安田と名乗った女性の世間話が広がる前に支払いを促すと、女性の方もようやく視線を集めていることに気付いたのか、そそくさと会計を済ませ「お世話様でした」と小さくお辞儀をしてクリニックを後にした。思いがけず知ることになった、戸上さんのプライベートに驚いたのもつかの間、狭いカウンターの後ろで、聞き耳を立てていた藤田さんの行動が手に取るように分かって私はひとり小さくため息を吐いた。

「戸上さんって結婚なさっていた上、お子さんまでいたのね」

 終業後、いつもなら他のスタッフを押しのけ我先にと帰る藤田さんが、案の定待ちかねたようにもの凄いスピードで受付で書類整理をしている戸上さんに近寄って、真相を問いただした。

「ええ」

 戸上さんのあっさりとした肯定に、藤田さんは面白くないのか、あからさまに眉をひそめる。

「全然知らなかったわぁ。戸上さんってば、ちっとも教えてくれないんだもの。美穂ちゃん、あなたもしかして知ってたんじゃないの? あなたたち仲良いみたいだし。もう、水臭いんだから! 何でも相談に乗るのに。で、お子さんはおいくつ?さっきの女性の話しぶりからして中学生かしら。ウチの末っ子も中学生なのよ! もしかしてウチの子と同じ学校かしら?」

 次から次へと飛び出す無遠慮な質問に、私は藤田さんの口を塞いでやりたくなった。前夫の職業まで聞いてきた藤田さんに、さすがに我慢できず私が口を挟もうとすると、戸上さんが勢いよく頭を下げた。

「藤田さん、これ以上は勘弁してください」

 きっぱりとした一言に、出鼻をくじかれた私も、久々の話のタネにテンションの上がっていた藤田さんも一瞬にして固まった。

「そんな、ねぇ。頭なんか下げなくても。これじゃ私が悪者みたいじゃない。ただ初耳だから気になって聞いただけよ」

 そう言って引き攣った笑いを浮かべ、藤田さんは私に同意を求めてきたけれど、私は決して目を合わせることはなかった。頭を上げる気配のない戸上さんに堪えかね「それじゃ、お先に」と藤田さんが逃げるように更衣室へ駆け込んでいく。きっと、更衣室で戸上さんのあることないことを言いふらすのだろう。ただ、ここのスタッフの中で彼女の話を鵜呑みにする人がいないというのが、不幸中の幸いだった。

「話すことなんてないから」

 すっかり人気のなくなった受付で、俯いたままの戸上さんの声が冷たく響く。一瞬、何を言われたのか分からず私が呆気に取られていると、

「ごめんね」

 そう言って戸上さんは、その緩やかな黒髪を耳にかけながら顔を上げ、やはり困ったように微笑んだ。夢にまで見た真珠のピアスが、きちんとその耳に収まっていたのを、私はまだどこか呆けた頭で見ていた。

 それから二か月後、冬もとうに深まった頃、戸上さんの退職が決まった。


「なぁ」

 私たちにしては概ね平穏な休日を過ごしたあと、圭太は生乾きの髪のまま暖房の効いたリビングでコーヒーを啜りながら、ソファの端に座る私の方を向いた。戸上さんの退職が決まって以来、意気消沈した私は圭太と諍いを起こす元気もなく、それが功を奏し我が家はつかの間の平和を取り戻していた。

「なに?」

 圭太の涼し気な目元をこんなにもまじまじと見つめるのは久しぶりで、何だか照れ臭くなり思わず目を逸らす。

「俺たち、別れよう」

 プロポーズした時と同じように硬い声が、真っすぐに私の耳に届く。今日に限ってテレビは消されていて、この茶番を笑い飛ばしてくれる声はいつまでたっても聞こえてこなかった。揃いのコースターが並べられたローテーブルに視線を落とし、私は「分かった」と短く答えた。圭太は「ごめん」とだけ言って、残ったコーヒーを飲み干した。最近、私は謝られてばかりいる。私はふと、戸上さんの放った「ごめんね」の意味を考える。話さなくてごめんね。友達になれなくてごめんね。どれも当て嵌まるような気がしたし、どれも理解はできた。私と戸上さんは所詮、職場の同僚というだけだ。それ以上でもそれ以下でもない。そんなの。分かってる。こんな時にこんなことを考える意味も。大丈夫。分かってる。

 その夜、圭太は背中を向けなかった。こんな日に、暗闇に二人ぴったりと並んで横たわるのが何だか可笑しくて、私はこっそりと圭太の手を繋いだ。圭太が起きているのは微かに動いた手で気付いていたけれど、圭太は私の手を振りほどこうとはしなかった。

 静かな夜だった。目を瞑ると瞼の裏で何度も星が降るような、安息に満ちた夜だった。耳をすませば、あの日と同じようにいつしか圭太の寝息が聞こえてきた。私はそれを子守歌のように聞き入りながら、微睡みに身を任せた。私たちは、二つに分かれてようやく、一つの夜を見出した。もう私は、彼の寝息を追いかけるような真似はしなかった。いっそ今この瞬間が幸せな夢のようで、私は優しい暗闇に安心して身を投げ出し、眠りについた。

 離婚が決まってから、圭太は私に優しくなった。でも私も圭太に優しくなった自覚はあるから、お互い様だろう。今住んでいるアパートの更新がちょうどこの春だったので、それまでにそれぞれ新しい住まいを探そう、ということで話はついた。私の実家の両親は離婚に反対していたけれど、うすうす不仲なのには気付いていたようで、あまり強くは言ってこなかった。

 圭太の食事の準備を気にせずに過ごせるようになったので、私はちょくちょく仕事帰りに寄り道をするようになった。最近は、再開発で出来た新しい駅ビルに、ぶらりと立ち寄っては中のテナントを冷かしている。

 その日の午後は有休を取ったので、どんよりと重たい曇り空から逃げるように駅ビルの中に駆け込み、まだゆっくり周ったことがなかった二階のジュエリーコーナーを一軒一軒覗くことにした。

 シンプルなデザインのアクセサリーが並ぶ、シックな色調のジュエリーショップに、思わず足を止める。磨かれたショーケースの中で、戸上さんのつけているものとよく似た真珠のピアスが輝いていた。

「こちら、よろしければお手に取ってご覧になりませんか?」

 食い入るように見つめていた私に、隙のない化粧を施した店員が声をかけてきた。きっともの凄い形相をしていたのだろう。自分が恥ずかしくなったものの、断りづらくて私は「お願いします」と消え入りそうな声で呟いた。

「あこや真珠のピアスですが、ブルー系は日常でも使いやすくて、重宝すると思いますよ」

 にこやかに差し出されたフェイスミラーの前で、勧められるがまま耳たぶにピアスをあててみる。

「よくお似合いですよ」

 その言葉にカッと頬が熱くなる。似合う? これが? まさか。「あの、もう結構です。ありがとうございました」そう言って素早くピアスを返却し、怪訝な表情で見つめてくる店員に目も合わせず足早にその場を立ち去る。そのまま駅ビルから出ると、いつの間にか勢いよく降りだしていた雨の中、私はがむしゃらに歩きだした。

 なにがよくお似合いだ。私に似合うわけがないのに。ずんずんと歩調を強め、凍てつくような寒さをものともせず足の赴くままに歩き続ける。容赦のない雨足が私を隈なく濡らしていった。

 あれは戸上さんの苦しみだ。戸上さんが許し添わせた苦しみだ。誰にも分け与えることのない、彼女だけの苦しみなのだ。水たまりをショートブーツで踏んづけると、跳ねた泥水がスカートの裾を汚した。悔しかった。戸上さんに信頼に値しないと言われているようで。本当は悲しかった。圭太に、お前なんか必要としていないと、何度も突きつけられているようで。思い出す度に、鼻の奥がツンと痛くなる。でも、私は絶対にこぼさない。こぼすわけにはいかない。この悔しさも、この悲しみも取り除いてなんかやらない。幾重にも大事に包んで、守ってやる。守り抜いてやる。そうじゃないと、可哀そうだ。このまま諦めに似た方へ変わってしまう私が、あまりにも可哀そうだ。白い息を何度も吐きながら繁華街を抜け河川敷に行き着くと、弱まった雨が川面の上をヴェールのように降り注ぐ。ブーツの中はぐっしょりと濡れていて歩くたびに甲高い水の音がした。足の指先の感覚が、もうほとんどない。真冬の寒空の下、ずぶ濡れのひどい有様に私は笑った。ガタガタと震えながら声を出して笑った。涙の代わりに流れてきた鼻水を、思いっきり啜る。確かに、戸上さんの言うとおりだ。この世界は、どうしようもなく、走り出している。

 雨雲が薄くなり、その隙間から弱い光が射す。温度など感じないはずなのに、その明るさが暖かかった。


 戸上さんの送別会は、職場の飲み会でよく使う、鍋の美味しい広々とした座敷のある居酒屋で行われた。あれから、私と戸上さんは何事もなかったかのように淡々と日々を重ねた。もちろん私は胸中穏やか、というわけにはいかなかったが、戸上さんが一貫して態度を変えないので、私もそれに倣うことにした。さすがに二人で飲みに行くことはなかったけれど、お昼はいつも一緒に食べていたし、ちょっとした世間話をするのもいつも通りだった。離婚したことは結局伝えきれず、時間だけが過ぎていった。でも、私の薬指に結婚指輪がなくなっていることを、戸上さんならきっと気付いているだろう。戸上さんとはそういう人だ。藤田さんはあの日から戸上さんに苦手意識が芽生えたらしく、仕事以外では滅多に近寄ってこない。仲が良い(と藤田さんが思い込んでいる)私にも話しかけて来なくなったのは、私生活に関して今は嗅ぎまわれたくない私には幸運といってよかった。工藤さん曰く、戸上さんの離婚歴を自分の憶測含めやはり言いふらしていたそうだけれど、皆適当に聞き流していたようだ。あの女性とのやり取りは、他のスタッフも見ていただろうけど、他人の語りたくない過去にあえて面と向かって言及するような人はいなかった。

「えー、戸上千紗さんは今月末を持って、退職になるわけですが、退職後はご実家のある長崎県へ帰られるそうです」

 院長が挨拶を終えた後の、突然の発表に席のあちこちから驚きの声が上がる。もちろん私も寝耳に水だった。だけれど、長崎とは随分遠くに行くものだ、と意外にも冷静な感想が浮かんでいた。

「戸上さん、三年と半年、お疲れ様でした。それでは、スタッフを代表して新津さんより花束の贈呈をお願いします」

 司会のスタッフに名指しされ、慌てて自分の座布団の横に用意しておいた花束を抱える。院長の隣に立って微笑む戸上さんは、紺色のラインの綺麗なワンピースがとても似合っていて、私は思わず見とれてしまった。

「患者さんにもスタッフにもいつも笑顔で接していて、戸上さんは私の憧れでした。今まで本当にありがとうございました。長崎へ帰られても、どうかお元気で」

 短い定型文のような挨拶の後、ブルーのリボンでまとめられた花束を戸上さんに手渡す。酔いのまわった拍手が響き、戸上さんは「ありがとうございます」と角度を変えてお辞儀を繰り返した。お辞儀を終えた戸上さんに、私はにっこりと笑って右手を差し出す。戸上さんが花束を持ち直して伸ばした手を、私はほんの少し力を込めて握り、自分の方へそのまま引き寄せ、空いた左手でハグをした。

 これは、意趣返しだ。右手を差し出したのなら左手も差し出せばいいなんて考えもつかなかった、私自身への。

 突然の抱擁に身体を強張らせた戸上さんの耳元で「私、酔ってるんです」と呟けば、ゆっくりと力を抜いた戸上さんが視界の端で小さく笑う気配がした。

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