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08

美術館に興味はあるけど中々足が向きません。

 青年は少女に一冊の日記帳を買い与えた。女の子らしい、桃色の花があしらわれたものだ。

 それを受け取り、不思議そうに首を傾げている少女に、青年は優しく微笑みかけた。


「これは日記帳だ。日々見聞きしたいろんなことを、これからここに記録するといい」


 どうしてですか、と少女は理由を尋ねた。


「日記は記憶そのもの。日記をつけることは、単なる出来事の羅列じゃない。身の回りのことを文字に起こすことで、そのときの感情も一緒に記録される。後になって読み返せば、あぁ、あの時は楽しかった、悲しかったって、感情を呼び覚ますことができるんだよ」


 感情という言葉に少女はぴくりと反応した。少女の細い指先が、日記帳のカバーに触れた。


「感情を教えてと言ったね。これは、君の願いをきっと叶えてくれるよ」


 青年は少女に頷きかけた。少女も、コクリと小さく首を振った。

 それから青年は、少女の助けになると考え、多くの経験をさせた。美味しい料理を食べさせたり、多くの本や映画に触れさせたり、いろんな観光名所に連れ出したり。その時に青年が感じた感情を言葉にして、少女に伝えようとした。けれど、どれも反応は芳しくなかった。


「美味しいものとか甘いものを食べると、なんとなくこう、幸せだなって思えるんだ」


「こういう悲しい話を聞くと、胸が締め付けられる感覚がするんだよ。分かるかい?」


「花って綺麗だろう? ずっと見ていられる。こうしてるとさ、心が落ち着くんだよ。波風の立たない水面みたいにさ」


 感情を表す言葉はどれも曖昧で、あやふやで、雲のように形がない。そして、雲のように掴めない。

 少女の胸に、青年の言葉が響くことはなかった。


「ありがとう、わたしのためにいろいろしてくれて」


 その言葉には、感謝という感情は勿論含まれていない。少女はただ、そういうときにそういう言葉を言う、という世間一般の常識を知っているだけなのだ。

 少女は青年の言葉の通り、毎日日記をつけた。何を食べて、何を見て、何をしたか。それらを毎日、細かく記録した。一月も経たない内に、気付けば日記帳は四冊目に入っていた。しかし、少女の中に感情が芽生える気配は微塵も感じられなかった。

 ある日、青年は少女を学校に通わせることを思いついた。自分が手を尽くしても少女に感情が芽生えることはなかったが、もっと多くの触れ合う機会を作ることで、より感情というものを知れるのではないかと考えたのだ。


「なぁ、学校に興味はないか?」


 少女は小首を傾げた。学校で習うことなら、既に全部知っていますよ、と。青年は首を横に振った。


「違う違う。勉強のためじゃない。いいかい、学校には、年頃の子供たちが大勢いる。子供ってのは、俺よりもずっと感情豊かなんだ。その子たちに囲まれれば、きっと感情を知る近道になると思うんだ」


 どうかな、と迫る青年に、少女は普段通りの無表情で頷いた。


 ***


 周囲が背の高い建物に囲まれているためか、自宅は薄暗く、風通しも悪い。外から湿気がかき集められるかのように、じっとりとしたものが肌に張り付くようだった。さすがに耐え切れず、渋々出した扇風機が小さく音を立てている。開けっ放しの窓からは蝉の声も遠くに聞こえている。日が経つのは早いもので、既に七月中旬だ。


「まあ、こんなもんかな」


 書きたての原稿を天井に掲げてみる。まだまだ枚数は少ない。ほんの導入部分に毛が生えた程度だ。それでも、素人目にはそこまで悪くはないと思うのだが、どうだろう。

 全て決めるのは速水さんだ。卓上カレンダーへ視線を移せば、打ち合わせまであと二日。それまでに原稿を進めるとまでいかなくとも、先の展開について構想を練るくらいはしなければ。

 原稿を置き、高く伸びをする。時計を見れば三時過ぎ。朝から書きっぱなしだったから、疲れるのも無理はない。アルバイトまではまだ時間があるし、少し休もうか。

 机を離れ、畳んだ布団の上へと腰を移す。そのまま天井を仰げば、もう何週間も煙草を吸っていないことに気が付いた。だが、不思議と口は寂しくない。これも、水瀬さんのお陰だろうか。


「水瀬さん……」


 今頃、どうしてるだろう。最後に会ってからしばらくが経ったが、あれから音沙汰はない。視線をずらせば、古ぼけた黒電話が目に映った。

 偶には、こっちからかけてみようか。ふと浮かんが思考を掻き消すように頭を振った。

 別にこっちから連絡を取ってはいけないという約束はない。それに、友達同士なら電話くらい普通にするだろう。田舎で過ごした子供時代もそうだったし、都会であっても何らおかしなことはないはずだ。

 自分を説得するように言い聞かせてみるが、しかし腕は力なく垂れ下がったまま。

水瀬さんの声が聞きたい。水瀬さんに会いたい。なのに、最後の一歩が踏み出せない。勇気が出ないんだ。それはきっと、怖いから。お出かけなんかに誘ったら、下心があると思われるかもしれない。そうしたら水瀬さんは、僕のことを嫌うだろうか。

 僕は多分、水瀬さんに嫌われることを恐れている。


「うおお!?」


 狭い部屋を右往左往していると、見計らったように電話がけたたましく音を立てた。


「び、びっくりした。驚かせないでくれ」


 呟くけれど、もちろん電話主からの返事はない。

電話の主は一体誰なのか。それは考えなくとも想像できる。彼女のはいつだってそうだから。

二、三度深呼吸をし、受話器へ手を伸ばす。


「も、もしもし」


「もしもし。水瀬です。お久しぶりですね、義孝さん」


 あぁ、やっぱりだ。水瀬さんからの電話。久しぶりの彼女の声だ。

 心臓が高鳴り、口角が上がる。抑えようとしても、声のトーンが上がってしまう。どうか、この気持ちが水瀬さんに伝わりませんように。


「あぁ、水瀬さん、お久しぶりです。お元気そうでなにより。それで、今日はどうされたんですか?」


「えっと、今日は特段用事があるわけでもないのですが……」


 一瞬間を開けたあと、遠慮でもしているように、彼女は搾り出すようにこう言った。


「もしお時間がありましたら、今から少し付き合っていただけませんか?」


 ***


 水瀬さんに呼び出された場所は、とある展覧会場だった。電車で三駅先で、さほど遠くは無い。すぐに駆けつければ、彼女は既に建物の入り口で待っていた。


「すみません、遅くなりました」


「いえいえ、こちらこそ、急にお呼び出ししてすみません。でも、来ていただいてありがとうございます」


 久しぶりに見た彼女の様子は、以前と一見変わりないようだった。紺のシャツにクリーム色のフレアスカート。亜麻色のウェーブがかった髪は珍しく後ろで纏められ、心が洗われるような笑顔を浮かべている。


「本日は急にお呼び出ししてすみません。一人で来ようかとも思ったのですが、結局勇気が出なくて」


 恥ずかしそうに目線を逸らし、膝の上で指先をもじもじとさせている。その仕草に思わず胸が締め付けられる。まるで僕らが恋仲の男女で、これから『デート』に行くかのようで。

 いやいや、変な考えは止めろ。水瀬さんにそんな感情を持つとはなんともおこがましい。彼女の混じりけの無い笑顔を汚すことなんて許されない。

 自分の気を紛らわすように、少し声を張り上げる。


「いいんですよ。水瀬さんが望むなら、何にだって付き合いますから」


「本当に!? ありがとうございます! やっぱり、義孝さんとお友達になれて良かった!」


 そう、僕らは友達。決して恋仲にはなれないし、ならない。たとえ他人がどう思おうとも、水瀬さんは僕にとってそういう存在ではないのだから。

 それにしても、展覧会とはまた縁のない所だ。二階建ての建物。滑らかに湾曲する白い外壁に覆われ、大きな窓ガラスから中の静謐な様子が伺える。外壁の一画にはのぼりが掲げられ、この展覧会のメインテーマだろうか、『不完全な芸術』と書かれている。その隣には誰かの名前が添えられている。この中に飾られた作品の作者だろうか。

 この様相に圧倒され、若干場違い感を否めない。


「それにしても、展覧会ですか。恥ずかしながらこういう場に来るもの初めてなので、少し緊張してます」


「……もしかして、こういうのは肌に合いませんか?」


 何となく零した言葉が不安を誘ったらしい。しゅんとした水瀬さんを元気付けようと笑顔を贈る。


「いえいえ、全くそういうわけではないんです。むしろ興味はありました。ですが、切欠がないと中々足が向かなくて。なのでこれはいい機会です。小説を書くからには、多くを経験するべきでしょうから」


「そうだったんですね。よかった。……実は、わたしも展覧会に来るには初めてなんです。面白そうだとは思ってたんですが、わたしも一人では勇気が出なくて。なので、今日はお互い初めて同士ですね。展覧会記念日です」


 記念日。僕らだけの共通点。

 その単語を聞くだけで気分が高揚する。しかも、今回は水瀬さんですら初めての体験。ほんの少しだけ、今日という日を特別に感じる。

「さて」と話しを切り上げ、水瀬さんは入り口へ向き直った。その目はいつになく爛々と輝いていた。


「早速ですが行きましょう。早くしないと、全部見て回れませんからね」


 見るからに上機嫌な様子。水瀬さんはそのまま入り口へ向かおうと車輪を回す。だが、その前に。


「待ってください、水瀬さん」


 呼び止めると、彼女は不思議そうな目で振り返った。その目を真っ直ぐ見つめ、呼吸を一つはさむ。


「車椅子、押しますよ。今日は長く歩くことになりそうですから」


 これまで何度も断られてきた。もしかしたら、この言葉自体が迷惑に思われているのかもしれない。気を遣わさせていると思われているかもしれない。だとしても、僕は少しでも水瀬さんの手助けになりたい。

 束の間の逡巡。水瀬さんは目を伏せ、控えめに一度頷いた。


「……ありがとう、ございます。じゃあ、お願いしてもいいですか?」


「も、もちろんです!」


 瞬間、全身が粟立ったのが分かった。僕は許されたのだ。再び、彼女の車椅子に触れることに。

 彼女の後ろへ移動し、手元のグリップを握る。懐かしい感触。緊張のためか、鼓動が早くなる。

 

「では、行きましょう!」


 水瀬さんの重みを両腕に感じながら、自動扉へと進んでいく。


 ***


 彼女とともに館内へ足を踏み入れる。その瞬間、涼やかな風が吹き抜けてきた。外の熱が奪われ、心地よさにため息が出る。

 さすがは都会の建物だ。外観から想像はしていたが、館内はそれ以上にきれいだった。壁や天井は白く滑らかで、薄茶色の石床は磨きたてのように光を反射していた。見渡せば数々の衝立で部屋が区切られ、壁や衝立に絵画がずらりと掛けられている。経験にない新しい光景に、思わず声が漏れそうになる。


「じゃあ、順に回りましょうか」


 受付を済ませ、僕らは早速展示エリアへと向かう。

 展示場は広く、見渡しただけで数え切れない枚数の絵画が飾られている。これは確かに、ゆっくりしていては全て回りきれないかもしれない。

 絵画の掛けられた壁に沿って歩けば、彼女は熱心そうにそれらを見つめていた。時折足を止めながら、ゆるりと進んでいく。館内は以外にも人が多かった。若者から老人まで、ぽつぽつと見かけた。

 館内は静寂に満ちていた。僕らも長い沈黙が続く。彼女の視線は一秒たりとも壁の絵画から離れない。


「水瀬さんは、絵がお好きなんですか?」


 驚かせないように小声で問いかけると、水瀬さんはこちらを振り向くことなく、考えるように口許に指を当てた。


「う~ん、好きといえばそうですが、取り立ててってほどでもないですね。興味こそありますが、普段は絵を見る機会はありませんので」


「そうなんですか。でも、こうして展覧会に来たってことは、この絵の作者さんが気になってたり?」


 彼女は一瞬、くすりと笑った。


「いえ、そういうわけではないんです。ただ先日、街中を歩いていたらパンフレットを見つけて、折角だし入ってみようと思っただけです。丁度、心強い友達もできましたし」


 彼女の気持ちも分かる気がした。田舎上がりで出不精な僕にとって、展覧会とは遥か遠くの西洋文化だと思っていた。それが今、目の前にある。確かに一人では入り辛いが、二人なら大丈夫。そんな気持ちだろう。


「でも、やっぱり来てよかった」


 最後のそれは、彼女自身に向けた言葉のように思えた。

 ゆっくり、ゆっくり、車椅子を押していく。もう十枚は通り過ぎただろうか。今度は水瀬さんから話を切り出した。


「そういえば、ただ見るばかりで感想を交換していませんでした」


 彼女は振り返って笑顔を見せる。何かを期待しているようだった。

 ある一枚の絵を前に足を止める。


「義孝さんも、こういうのに来るのは初めてと仰ってましたよね?」


「はい、そうですが」


「どう思いましたか?」


 唐突な質問。

 その言葉から顔を背けるように改めて絵画を見つめる。何と言い表したらいいか、掴みどころのない景色がそこにはあった。油絵というのだろうか。黒を基調とした中、宝石を散らしたように豊かな色彩で彩られている。けれど、色と色の境界ははっきりしているのに形があやふやで、一見しただけでは何が描かれているのか判断つかなかった。絵画の下の題名を見れば、『夜景』の文字が刻まれていた。なるほど、言われてみれば確かに、高台から見た町の景色に見えてくる。

 だが、絵画とは無縁の僕にとって、人の作品を評することは難しかった。


「えっと、すごいと思います」


「え~、それだけですか? もっと他にあるでしょう? 感想がすごいの一言だけなんて、語彙力をお家に忘れてきたんですか?」


「すみません。これまで美術に慣れ親しんだことがほとんど無くて、そういう目が一切養われていないんです」


「目が養われていない……そうですよね。わたしもそうです。さっきは偉そうなことを言いましたが、わたしも美術には慣れていません」


 水瀬さんは寂しそうに目を細めている。その視線が、どうも心をざわつかせる。

 彼女は僕の手から離れ、絵画と向かい合う。見上げながら、薄い桜色の唇から吐息を零す。


「わたしは、この絵がどれほど凄くて価値のあるものなのかを知らない。だからこそ、ありのままの感想を持てるんです。子供の落書きをバカにする人は多くいますが、彼らはピカソの絵を悪くは言わないでしょう。知らないほうが気が楽です。でも、もし知ってしまったら、きっと認めざるを得ない」


「水瀬、さん……?」


 彼女はうつろな目で絵画を眺め続けている。

 もう一度絵画へ目を向ける。『夜景』。言われなければ気付かないその正体は、見れば見るほど形は乱れ、一個の黒い造形のように見えてくる。

 僕にも、この絵の素晴らしさを感じ取ることはできない。


「すみません、急にヘンなこと言って。次の絵に行きましょう」


 彼女の言葉に促され、グリップに手をかけようとしたときだった。僕らの前に一組の男女がいた。二人は手を繋ぎ、一枚の絵を眺めている。きっと恋人同士なのだろう。

 初めに口を開いたのは、女性のほうがった。


「ねぇねぇ、知ってる? ここの絵を描いた人、盲目なんだって」


「目が見えないってこと? 何で?」


「なんかね、初めは普通に見えてたんだけど、画家になって一年目で病気にかかって見えなくなちゃったんだって。ほら、パンフに書いてある」


 静かな館内、二人の会話を遮るものはない。僕は足を止め、二人の声に耳を傾ける。


「マジか。これ全部見えない状態で描いたのか」


「凄いよねぇ。一見あやふやに見えて、ちゃんと見ればいい味出してる きっとこの人は、見えない世界の中、自分にしか見えない芸術を見つけたのよ。諦めずに努力して、そして結果を出した」


「そうなんだ。俺たちも見習わなきゃな」


 僕も水瀬さんも、一言も発さない。もう一度夜景を振り向く。うやむやになった輪郭。これが、作者の見た風景。知らない人の、その人にしかない芸術。努力の結果。

 水瀬さんは、このことを知っていたのだろうか。知っていて、ここを訪れたのだろうか。


「さ、この辺りはあらかた見たし、次はあっちよ」


 その声に引かれるまま、二人はその場を後にした。再び僕らだけが残される。水瀬さんはずっと黙りこくったままだ。

 目の見えない画家、足の動かない水瀬さん。少しだけ、境遇が似ている。もしかして、さっきの男女の会話を気にしているのだろうか。

 後ろから顔を覗き込む。その横顔を見た瞬間、心臓を鷲づかみにされたような感覚に陥った。

 丸く開いた目に光は無かった。唇は一文字を引き結び、両手は膝の上で硬く握られている。そして小さく、こう呟いたような気がした。


「……人のこと、何も知らないくせに」


 これまでに見たことのない表情。朗らかな印象とまるで反対の様子に恐怖すら覚えた。

 崩れていく。僕の中の水瀬唯花が。足元から綻び始める。それを繋ぎとめたくて、気付けば名前を呼んでいた。


「水瀬、さん?」


 彼女はゆっくり振り返る。その顔には、少し前までの笑顔が戻っていた。今の表情が嘘であったかのように。水瀬さんは明るく、眉を八の字に曲げて頭を下げた。


「あ、あぁ、ごめんなさい。ちょっとだけぼぉっとしてました。それで、何のお話でしたか?」


「いえ、別に……」


 何でもないことはない。さっきの表情が頭から離れない。天使である水瀬さんがそんな感情を持つはずがないのだから。けれど、それについて訊くことはできなかった。彼女から目を逸らし、体を引く。

 そして、次なる水瀬さんの言葉を待った。


「そうですか? まあいいです。さて! 気を取り直して行きましょう! まだまだ絵画が残ってますから、のんびりしてると日が暮れちゃいますよ」


 ***


 夏の夜が寝苦しいのは田舎も都会も変わらない。扇風機に当たりながら、この一時間で何度寝返りをうっただろう。瞼は重いのに、意識だけは頭にしっかりと残っている。噂では、部屋の気温を自由に操れる機械があるらしい。是非とも欲しいものだが、機能が機能だけに値も相当張るらしい。今の稼ぎでは到底手に出せるものではない。金のない身としては、眠れぬ熱帯夜を過ごす他ないのだ。

 ……いや、違うな。眠れない理由は何も暑さだけではない。目を瞑る度に鮮明に思い出す。今日の、水瀬さんの姿を。


『今日は本当にありがとうございました。義孝さんと一緒に見て回れて、すっごく楽しかったです。それにここまで送っていただいて。義孝さんにはお世話になりっぱなしですね』


 別れの情景が瞼の裏に浮かぶ。彼女は普段と変わらない笑顔を湛えていた。磨き上げた水晶のように、穢れを知らないような笑みだった。

 だがそれは、夕日の中で次第に陰り始めた。彼女は俯き、恐る恐る口を開いた。


『義孝さんは優しいお人ですね。何も聞かないんですもの、わたしの過去について。普通、知り合いにこんな人がいたら、誰だって興味を持つでしょう? それとも、興味がないのでしょうか』


 館内で見かけた男女の会話を思い出す。二人は、あの画家が盲目だと話していた。そのことを彼女は、もしかすると、知っていたのかもしれないと思う。

『ねぇ、義孝さん』と、彼女は静かに問いかけた。


『わたしのこと、知りたくなりませんか……?』


 彼女の瞳は、人間の色をしていた。あの時僕の前にいたのは、穢れ無き天使などではない、ただの一人の人間だった。思い出の中で彼女の姿が揺らぐ。夏の日射しの中、アスファルトの上に立つ陽炎のように。

 知りたくない。興味もない。もし知ってしまえば、水瀬さんはきっと僕の天使でなくなる。天使が天使である理由を、この世の誰が求めるだろう。僕はただ、ひたすらに天使の微笑みに照らされていたいだけなのだから。

 それなのに、あのときの水瀬さんは天使ではなかった。

 タオルケットを剥ぎ、はっきりとしない頭のまま文机に向かう。卓上ランプを点け、隅のファイルに閉じていた原稿を取り出す。パラパラと捲れば、浮かぶ情景の中に天使が佇んでいた。白く美しい、天使の姿が確かに見えた。

 だが、天使は既に翼をもがれていた。羽の無い天使はもはや人間。人として生きれば、人の醜さが染み込んでいくもの。白は何にでも染まるのと同じように。

 水瀬さんも、そうなのだろうか。

 眉間を揉み、ペンを執る。どの道眠れない夜を過ごすなら、少しでも原稿を進めよう。丁度今、先の展開を思いついたところだから。

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