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04

主人公は夢見がちなお年頃なのでしょう

 家に帰り着いた後は執筆に専念する心積もりだった。時間の猶予はたったの一週間のみ。無駄にできる時間などないのだから。

 だが、執筆はてんで進まなかった。文机に向かいペンを握っても、原稿用紙には文字一つ書けなかった。常に頭の中には、小説以外のことが居座り続けていた。先ほど、山の中で出会った彼女。気が付けば水瀬さんのことばかりを考えるようになっていた。

 このままでは埒が明かず、気分転換に掃除や柔軟体操、折り紙などをしてみたが、どれも効果はなかった。いつの間にか彼女の姿を瞼の裏に映し出し、手元がおろそかになっているのに気付く。結局どれも放り出し、諦めてベッドの上に横になる。ヤニに塗れた天井が目に入り、そういえば帰ってきてから一本も吸っていないことを思い出した。いつもなら何かにつけてタバコに火を付けていたのに、今はそんな気すら起こらない。今はただ、何にも邪魔されずに彼女のことだけを考えていたかった。

 目を閉じれば、彼女と出会ったあの瞬間を鮮明に思い出せる。脳が茹るほどの暑さの中、彼女の周りだけは空気が違っていた。風は星を散りばめたように煌いて、降り注ぐ光は絹に触れるようにやわらかい。彼女の近くは甘い花の香りがして、時間の流れがゆったりとしていた。

 彼女と過ごした時間、交わした言葉。その全てが脳に焼き付いて離れない。純粋で眩しい笑顔。彼女はその顔で、僕の小説を『面白い』と評したのだ。言われたかった、でも、誰にも言ってもらえなかった言葉。応募した新人賞に悉く落選し、速水さんにあれほど貶された僕の小説を、水瀬さんは受け入れてくれた。水瀬さんだけが、認めてくれたんだ。

 そんな彼女は、まるで、


「天使だ……」


 天から舞い降りた存在。人ならざる神聖なもの。

 水瀬さんは天使なんだ。だからこそ、この僕を認めてくれた。励ましてくれた。

 彼女の言葉を、笑顔を、過ごした時間を心の内で反芻する。床から足が離れたようなふわふわした感覚。こんな気持ち、初めてだ。

 浮かれた気分に浸るあまり、時間の経過などとうに忘れていた。思い出したように窓の外を見遣ると既に日が暮れていた。カーテンの無い窓から夕陽が射し込み、空ではカラスが鳴いている。


「……やっちまった」


 結局一文字も進むことはなかった。

 後悔の念を噛み締める。今更そんなことをしても、時間は巻き戻らないと知っているのに。

 過ぎてしまったことは仕方ない。時計を見れば、そろそろバイトに出かける時間だった。どの道、今からでは原稿に向かうことはできない。とりあえず明日こそは、真剣に取り組むことにしよう。


 ***


 昨日の決心は結局実現することはさそうだ。

 今日は忘れもしない水瀬さんとの約束の日。昼前の十一時に、昨日彼女と出会った山の入り口で落ち合う予定だ。

 その前の時間に少しでも原稿を進める予定だった。だが、目の前に広げられた用紙は真っ白。握ったペンの先は宙に文字を書くだけで、一文たりとも進んでいなかった。

 昨日からずっと水瀬さんのことばかりを考えてしまう。あの光景を、あのやり取りを、もう何度繰り返したか分からない。そして、思い出す度に胸の奥が熱く、締め付けられる。約束の時間が近づくほどに、ペンを持つ手から力が抜けていった。

 結局、一文字も進むことなく時間がやってきた。机を離れ、身支度を済ませる。玄関の扉を開くとき、僕が感じていたのは後悔ではなく、期待と高揚感だけだった。

 外へ足を踏み出した僕を暑苦しい太陽が出迎える。梅雨が明けたせいか、もうしばらくは雨を見ていない。照りつけるような日射しにはいい加減うんざりだ。

 心の内で文句を垂れるが、足は羽が生えたように軽かった。

 昼間の郊外は思いのほか人が多かった。そのほとんどは女性で、日傘とアームカバーを身に着けている人が多い。都会の女性は日射しを特に気にするらしい。彼女たちに紛れて、一人歩いていく。

 気分が上がれば目線も上がる。周囲へ目を向ければ、新しい発見もあるものだ。飛び立つスズメ、柱の落書き、草間の花。川に沿って歩けば、珍しくトンボを見かけた。しばらく僕の周りを飛び回った後、トンボはある方向へ飛んでいった。それを目で追った先には、一本の砂利道が伸びていた。その先は、青い木々が覆う山。砂利道の手前には『ハイキングコース』と刻まれた看板が立っていた。

 昨日、水瀬さんと出会った山。そして、今日の待ち合わせ場所だ。

 看板の前に立ち、水瀬さんを待つ。高まった心を持て余しながら、時間を確認する。十一時の十分前。少し早めに着いてしまったようだ。

 早く水瀬さんに会いたい。声を聞きたい。気持ちばかりが先行してそわそわする。しきりに腕時計を見る。あと八分。あと五分。あと二分。もう少し。

 そして、約束の十一時。

 水瀬さんは、来ない。見回しても、彼女の影はない。


『約束! 忘れずに来てくださいね~!』


 その言葉に何の意味もないと何故気付かなかった。僕らは偶然出会っただけの他人だというのに。

 一人で舞い上がって。こんなに惨めな気分は久しぶりだ。


「ほんと、何やってんだろ。バカみたい」


 今になって、都会の暑さを思い出した。汗が一つ、二つ、アスファルトに落ちていく。

 こんなところで油を売っている余裕はない。


「……帰ろう」


 自分に言い聞かせるように呟いた。声は夏の風に攫われて、手元に残ったのは虚しさだけだった。

 山を横目に見ながら奥歯を噛み締め、足を踏み出そうとした。


「義孝さん……?」


 そのとき、後ろから聞き覚えのある声が届いた。人の流れが交差する中、それは間違いなく僕に向けられた言葉だった。

 首を回して振り向けば、僕を見上げる彼女と目が合った。その瞬間、心臓が脈打ち、目を瞠った。

 水瀬さんがいた。探していた水瀬さんが、今目の前にいた。

 彼女は白を基調としたTシャツに紺のミニスカートという涼しげな服装に身を包み、鍔の狭いベージュ色の帽子を被っている。昨日より少し子供っぽい印象なのに対し、神聖さを感じさせる雰囲気だけは変わっていなかった。

 彼女はこの暑さの中でも澄ました笑顔を見せてくれた。それは、まるで天使の微笑み。それを向けられただけで、この暑さも疲労もすべてが吹き飛んでいくようだった。


「よかった。やっぱり義孝さんだ」


 彼女は声を弾ませてこちらへ近づいてくる。その無邪気な様子が、僕の心を逸らせた。

 返事。何か、何か返さなければ。

 しかし、焦れば焦るほど言葉は見つからない。せめて心の準備ができていれば違ったのだろう。結局、


「ど、どうも」


 と、素っ気無い返事を返してしまった。それを気に留めない様子で、水瀬さんは僕の顔を覗き込む。


「こんにちはです! すみません、ちょっと遅れちゃって」


「いえ、全然大丈夫ですよ。僕も今来たばかりなので」


「そんなに汗を垂らしながら言われても、説得力ないですよ。全く、義孝さんは嘘が下手ですね」


 水瀬さんは口許を隠してころころ笑う。

 彼女の声が耳に心地いい。彼女の音色にずっと包まれていたい。


「それはそうと、今日は来ていただいてありがとうございます。こうしてまた、あなたと会えてよかった」


 何気ない言葉。その裏の意味を勘繰ってしまう自分がいた。こんな自分が、ほんの少し嫌になる。


「でも、本当にお時間は大丈夫ですか? 作家さん、でしたよね? お忙しかったりしませんか?」


 彼女は下から僕の顔を覗き込んでくる。けれど僕は素直に目を合わせられず、人見知りの子供のように目を泳がせた。


「全然大丈夫です! 忙しくないです。むしろ、今日も暇してたところなので」


「あら、そうなんですね。よかったぁ。昨日はちょっと無理矢理約束を取り付けてしまったので、内心心配してたんです」


 水瀬さんはころころと笑っている。無垢な少女のような笑顔は、目が眩むほど輝いている。


「でも、そうじゃないならよかった。わたし、義孝さんにお礼がしたいんです。ほら昨日、山を降りるのを手伝ってくださったでしょう? 丁度時間もいい具合ですし、是非お昼をご馳走させてください」


「え? そんなの悪いです! 女性に奢らせるなんて。お金は僕が払いますよ」


 財布に碌にお金が入っていないことも忘れて見栄を張る。けれど、水瀬さんは人差し指を立てて僕の言葉を制した。


「だ~め。昨日のお礼、と言ったでしょう? 大人しくわたしに奢られてください。年上だからって、ヘンに格好つける必要はないんですから」


「分かりました。水瀬さんがそう言うなら」


 納得はできないが、水瀬さんにそこまで言われては反論もできない。それに、たとえ見栄を張ったところで、貧乏な身の上では碌なご馳走をできないのだ。女性に、しかも水瀬さんにご馳走になるのは恐縮で気が進まないが、ここは彼女の厚意に甘えさせてもらおう。

 渋々頷けば、彼女は満足そうに鼻を鳴らした。


「ふふん、分かればいいんです。じゃあ、早速行きましょう。いいお店を知ってるんです」


「ありがとうございます。では、せめて車椅子押させてください」


 しかし、ただで彼女の世話になるわけにはいかない。僕の心がそれを許さない。

 彼女の背後に回り、グリップに手が触れる。


「止めてください!」


 静かな空に、鋭い声がこだまする。

 止めて? どうして。僕はただ、あなたの手助けがしたいだけなのに。

 腕を引き、彼女から後ずさる。きっと、今の僕は絶望に歪んだ顔をしているだろう。水瀬さんは慌てて振り返ると、明らかに焦りの表情を見せた。


「い、今のは違うんです! 決して押してもらいたくないとかではなくて……義孝さん、ずっと暑い中わたしを待っててくださったんでしょう? これ以上ご迷惑をかけるわけにはいきません。わたし、ちゃんと自分で押せますから」


 言い終わる頃には、彼女はそれまでと同じ笑顔を浮かべていた。優しい笑顔。天使のように、包容力のある眼差し。


「分かりました。お気遣い、ありがとうございます」


「いいんですよ。義孝さんには、昨日十分過ぎるほどお世話になりましたから。じゃあ、早速行きましょう! 遅くなるとお店が混んじゃいますからね!」

 

 元気な声とともに、水瀬さんは市街地の方向へ進み出す。僕も急いで彼女の隣に並ぶ。

 二人で歩く住宅路は静かで、つい先ほどのやり取りを思い出す。

 よかった。水瀬さんは僕の身を案じてくれていただけなんだ。拒絶されたわけじゃ、なかったんだ。

 あのとき、一瞬でも水瀬さんを疑った自分を恥ずかしく思う。


 ***


 水瀬さんの案内でたどり着いたのは、市街地の外れにあるイタリアンレストランだった。


「ここのスープパスタが絶品なんですよ。わたしも大好きで、ここの常連なんです」


 メニュー表を開くなり、例のパスタを指差している。その声は、はしゃぐ子供のように楽しげだ。

 田舎から都会に移り住んで来てそれなりだが、恥ずかしいことにこの手の店には来たことがなかった。家賃を払うので精一杯な生活を送っている身としては、外食などもってのほか。自炊用の機器を買う余裕もないので、カップ麺とバイト先の期限切れ弁当だけが食生活を支えていた。見栄を張って自分が奢ると言ってしまったのだが、彼女が譲らなくて内心助かった。

 なので、貧乏な身の上としては、レストランなどという横文字の店に来ること自体が夢のような出来事だった。


「わたしはやっぱりこれですね。義孝さんは何にします?」


 メニュー表を回し、僕の前へ差し出してくる。

 彼女を待たせるわけにはいかない。早く決めないと。

 気持ちが逸る中ページをめくれば、どれも目が回る数字が並ぶ。とても自分からは決められない。

 散々悩んだ末、


「水瀬さんのと同じにします」


 と一言だけ告げた。

 水瀬さんは「わかりました」と頷き、机脇のボタンを押した。どうやら都会では手を挙げず、これで店員を呼ぶようだ。すぐに店員はやってきた。


「ご注文をお伺いします」


「スープパスタ二つ、お願いします」


「かしこまりました」


 僕らに一礼し、この場を後にする。水瀬さんはメニューを机脇に戻し、両手を組んでこちらを見つめてくる。

そうか、僕は今、水瀬さんと一緒に食事を摂ろうとしているのか。

意識し始めると途端に気恥ずかしくなり、逃げるように辺りへ視線を移す。

 今になってよくよく見れば、この店の内装は中々のものだった。様々な色彩が散りばめられ、意匠の凝られた造形や模様がいたるところを飾っている。もしや、これが都会の食事処では一般的なのだろうか。子供の頃に連れられて入った定食屋は、家の台所とあまり変わらなかったのだが。


「義孝さんって、もしかしてこういうところ初めてですか?」


 心を見透かしたような言葉を掛けられ、思わず心臓が跳ねた。


「そ、そんなことは――」


 田舎者だと思われたくない。そんな思いからつい否定しようとした。だが、すんでのところで何とか言葉を飲み込んだ。水瀬さんに見栄を張ってどうする。嘘がバレたときを思えば、初めから素直に明かしたほうがいいじゃないか。それに、仮に田舎産まれだと知ったとして、水瀬さんはそれを理由に僕を嫌うようにはならない。

 意を決し、正直に話すことにした。


「……実はそうなんです。僕、産まれが田舎なんです。そんじょそこらの田舎じゃありません。超が付くほどの田舎なんです。なので、こういう所にはまるで馴染みがなくて。上京してからも、全く機会がありませんでしたから」


「へぇ、そうだったんですね。この歳でレストランが初めてなんて人、初めて見ました」


 話を聞いた彼女は、やはり嫌な顔一つしない。それどころか、楽しそうに相槌を打ってくれた。


「じゃあ、今日はレストラン記念日ですね」


「レストラン記念日?」


「はい。義孝さんが初めてレストランに来た記念日です」


 水瀬さんはにっこりと歯を見せて微笑む。その清らかさが自分だけに向けられているという事実を受け止め切れず、目線を泳がせる。


「そんな、記念日にするような事じゃないですよ」


「いいんですよ。記念日は多くたって困ることはありません。むしろ、思い出が多くなって幸せになれますよ」


 記念日で幸せになれる。水瀬さんの言う通りかもしれない。レストラン記念日。僕ら二人だけの記念日。心の中で呟けば、胸の奥がじんわりと熱くなった。


「それにしても、義孝さんって遠いところからしらしてたんですね。わたし、産まれてから今までほとんどここから出たことがないので、ちょっと興味あります」


 水瀬さんは目を輝かせて身を乗り出す。


「田舎って、どんなところなんでしょう?」


 水瀬さんの匂いを近くに感じ、心臓が跳ねた。

 これは、どうしようか。興味を持ってくれたことは素直に嬉しいが、水瀬さんが田舎にどんな理想を抱いているか分からない。もし本当のことを言えば、幻滅されるだろうか。……いや、そんなことを気にして取り繕おうとするのは止めようと決めたではないか。

 顔を上げれば、水瀬さんから期待に満ちた視線を向けられている。それから逃げるように右上を見上げ、故郷の風景を思い出す。


「どんなところと言われても、何も面白いところではないですよ。僕の家の周りは、見渡す限り畑と山しかありませんでした」


「見渡す限りの畑と山」


 水瀬さんは意外にも興味深そうに頷いている。ふと、心が軽くなる。


「そんな光景、テレビの中でしか見たことがありません。それが目の前に広がってたら、それは壮観な風景なんでしょうね。それで、その畑は義孝さんのお家のものなのですか?」


「はい、うちは農家をやっているので。といっても、田舎はほとんどが畑なり田んぼなりを持ってますが。うちの実家は専門なので、辺りでは大きめの畑を持ってます。ダイコンとかトマトとかキュウリとか、いろんな野菜を育ててるんですよ」


「すごいです。視界いっぱいに広がるお野菜ですかぁ。想像しただけで圧巻ですね! お家が農家ってことは、採れたての野菜とかをそのまま食べられたりするんですよね? テレビの旅番組で見たことあります。あぁ、羨ましいなぁ」


 水瀬さんは大きな目を輝かせ、口許を緩ませている。採れたて野菜を頬張る場面を想像しているのかもしれない。

 やがて夢の世界から戻ったのか、再びこちらへ身を寄せてくる。


「そういえば、田舎の方は『山』を持っていると聞いたことがあります。義孝さんのお家もそうなんですか?」


「山ですか? うちは持ってますが、他所はどうでしょう。全員が持っているわけではないと思いますが」


「そうなんですね。でもすごいです。山を持ってたら、山菜やキノコを採ったり、タケノコを採ったりして食べるんですよね?」


「そ、そういう家庭もあると思います。うちは専らほったらかしていましたけど」


「そんな! もったいないです! ここなんかじゃ絶対にできない経験ですよ!」


 これまで山に何の感情も抱いたことはなかったが、水瀬さんに言われるとそう思えてしまう。いつか実家に帰ることがあったら、散策がてら何か採ってみよう。

 それにしても、水瀬さんはよくしゃべる方だ。一緒にいると自然と元気になれる。それに、僕の田舎話を面白そうに聞いてくれるし。水で喉を潤しながら、つい笑みがこぼれた。


「それにしても、水瀬さんは田舎に憧れてるんですか? ずっと田舎のことばかり話してますけど」


「え? う~ん、田舎というより、他の土地のことに興味があるんです。わたしの行ったところのない場所とか、地域とか」


「へぇ、それはどうしてです?」


「それは――」


 彼女が口を開いたとき、丁度店員が僕らの席にやってきた。


「スープパスタになります。ごゆっくりどうぞ」


「おぉ……」


 目の前に置かれた皿を見て、思わず息を漏らしてしまった。黄色の麺が汁に浸り、その上をほうれん草やしめじが飾っている。パスタとは汁なしの蕎麦だと思っていたが、これはある種のラーメンだ。皿の前にフォークとスプーンがあるが、これはどうやって食べるのが正解なのだろうか。机の脇に箸を見つけたが、何となくこれを使うのはマナー違反な気がする。

 お手本のため顔を上げれば、水瀬さんと目が合った。そうだった、まだ話の途中だった。


「すみません、話のタイミングが悪くて。えっと、何の話でしたっけ?」


 訊くと、彼女は大げさに首を横へ振った。


「いえ、いいんです。お料理が来たんですし、折角ですから冷める前にいただきましょう」


 彼女に倣い、手を合わせる。いざフォークとスプーンを握るが、これをどうしたものか。


「そういえば、義孝さんはこういうのに慣れてないんでしたね」


 こちらの様子に気付いたようで、彼女が優しく声を掛けてくれた。


「すみません、田舎者で。恥ずかしい所をお見せしてしまって」


「いいんですよ。誰だって初めは初心者です。恥に思う必要はありません。わたしもあまり上手ではありませんが、食べ方をお教えしますね」


 水瀬さんはにっこりと笑顔を浮かべた。その笑顔が眩しすぎて、彼女の周りに光が散るような錯覚を覚える。水瀬さんは本当に天使なのではないか。そんな馬鹿げた考えが浮かび、心の内で笑い飛ばした。


 ***


 水瀬さんと二人きりの食事を終え、今は帰り道だ。もっと同じ時間を過ごしたかったが、彼女も用事があるようなので引き留めるわけにもいかない。


「わたし、そろそろ帰らなきゃ。今日はお付き合いくださって、ありがとうございました」


「そんな、お礼を言うのはこっちです。お昼をご馳走になりましたし」


「あれは昨日のお礼だと言ったじゃないですか。あれくらいなんてことないですし、それに、今日は義孝さんのお話が沢山聞けて楽しかったです」


 そよ風が吹き、彼女は横髪を手で押さえて微笑んでいる。その表情が、今だけは胸を締め付けた。

 今度はいつ会えるだろう。都会は人が多いから、もう彼女に見つけてもらえることはないのかもしれない。今日は、昨日の約束が僕らを再び引き合わせてくれた。そうでもしなければ、奇跡にでも縋るしかない。

 けれど、奇跡はそうそう起こるものじゃない。これが最後になるかもしれない。


「なぁに暗い顔をしてるんですか?」


 その言葉に、僕は現実に引き戻された。ぱっと目を開いた先で、水瀬さんがこちらに向き直り、僕の顔を覗き込んでいた。彼女はおかしそうに笑みを浮かべる。


「もぉ、なに驚いてるんですか」


「いえ、少し考え事をしていたので……次にこうして水瀬さんと会えるのは、いつなんだろうと考えていました」


「なぁんだ、そんなことですか」


 水瀬さんは僕の言葉を笑い飛ばした。もしかして、水瀬さんは僕とはもう会う積もりはないのだろうか。

 ところが次の瞬間、彼女は目を細めていたずらっぽく微笑んだ。


「義孝さん、もしかして、わたしに惚れちゃいました?」


 彼女の言葉に、思わず胸がきゅっと締め付けられる。


「そそ、そんなこと! 無いに決まってるじゃないですか! 年上をからかわないでください!」


「そうですよね。すみません、冗談です」


 僕にとっては冗談では済まない。今もまだ心臓の高鳴りが収まらない。落ち着け、勘違いするな。水瀬さんが僕に対して本気になるはずがないだろう。だって、水瀬さんは……。

 胸に手を当てて深呼吸をする。一方で、水瀬さんは口許を隠してくすくすと笑っていた。一頻り笑った後、落ち着きを取り戻した彼女は言葉を続ける。


「ただ、わたしも思ってました。わたしたち、ご近所でもないので、中々顔を合わせる機会ってないですよね。それって、ちょっと寂しいなって思ってました。折角仲良くなれたのに」


 彼女は膝上の鞄を開き、何かを取り出した。手の平ほどの大きさの、機械だろうか。電車の中で都会人がよく使っているのを見たことがある。名前は確か、携帯電話だったか。

 それを僕の鼻先に突き出し、彼女は微笑む。


「なので、連絡先を交換しましょう! 昨日はできませんでしたが、今日はちゃんと持ってきましたので!」


 連絡先の交換? それはつまり、電話番号を教え合うという意味か。そうするとどうなるんだ。その番号に電話をかければ、いつでも水瀬さんとお話ができるのか。だとすれば、まさに夢のような世界じゃないか。

 けれど、今一気は進まなかった。水瀬さんとそんなに距離を縮めてもいいのか、僕には分からない。


「でも、いいんでしょうか」


「どうしました?」


 携帯電話を持った腕を引っ込め、水瀬さんは首を傾げている。目を丸くした彼女と目を合わせられず、右へ左へ視線を泳がせる。


「僕たち、つい昨日知り合ったばかりじゃないですか。なのに、急に距離が縮まったような気がして。友達と言ってくれたのはとても嬉しいです。でも僕は、この距離感をどう扱ったらいいか、分からないんです」


 そのとき、水瀬さんは大袈裟にため息をついた。正に「呆れた」と言わんばかりの表情を浮かべていた。


「もぅ、義孝さんは難しく考えすぎなんです。出会ってからの時間なんて関係ありませんよ。そもそも、わたしが連絡先を交換しようって言ってるのは、義孝さんともっと仲良くなりたいからです。義孝さんはそうは思ってくれてないんですか? 友達だと思ってるのはわたしだけでしょうか」


「そそ、そんなことないです! 僕も水瀬さんのこと、友達だと思ってます!」


「なら、全然問題ないですね」


 水瀬さんが悪戯っぽく笑うのを見て、上手く口車に乗せられたと自覚した。けれど、悪い気はしない。むしろ、背中を押してくれたんだ。

 しかし、問題が一つ。


「でも僕、恥ずかしながら携帯電話を持ってないんです」


「あら、そうなんですか? 現代にしては珍しい。あ、でも大丈夫ですよ。お家の電話番号を教えていただければちゃんとお話できますから」


 そうなのか、良かった。

 安堵の息をつき、彼女の促されるまま電話番号を伝える。彼女の電話番号は、紙に書き写してくれた。


「はいこれ、わたしの番号です」


 手渡されたそれを、金一封のように恭しく戴く。


「あ、ありがとうございます! 大切にします!」


「義孝さんったらおかしい。そんなにお礼を言わなくても。別に有難いものでもないですよ?」


 そんなことはない。これに電話をかければ、いつだって水瀬さんと繋がれるのだから。これでもう、彼女との別れを惜しむ必要がなくなる。これ以上に有難いものはない。

 大事にポケットにしまえば、彼女は携帯電話で口許を隠しながら上目遣いでこちらを見上げていた。じっと見つめられ、落ち着かない。


「ど、どうされたんですか? そんなにこっちを見て」


 聞くと、水瀬さんは焦ったように目を泳がせた。こんな水瀬さん、初めて見た。


「あぁ、いえ、なんでもありませんよ。あはは……。ただその、義孝さんとは本当に良いお友達になれそうだなって思っただけです」


 彼女は居住まいを正し、僕を真っ直ぐに見つめる。落ち着きを取り戻したようで、口許はやわらかい笑みを浮かべ、穏やかな目をこちらに向けていた。

 彼女は口を開き、言葉を続ける。


「これからもよろしくお願いしますね、義孝さん」

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