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03

森の中は本当に静かで好きです。

 電車に乗り込み、帰路を辿る。都会の電車は昼間でも人でごった返していた。その多くはサラリーマンで、外は相変わらずの猛暑にも関わらず、律儀にスーツなぞを着込んでいる。車内は冷房は効いているが、人がこんなに密集していては蒸し風呂と何ら変わらない。それでも駅に止まる毎に人は減り、僕の下車駅である都会の外れまで来れば乗車客はまばらになっていた。

 電車を下り。日の光に晒される帰り道。湿気を持った空気が足を絡めとる。実家の田舎と比べると、日射しは変わらないがここまで蒸し暑くはなかった。都会の夏にはいまだ慣れない。

 何度も息をつきながら、所々自然の残る風景を横目に歩く。等間隔に並ぶ街路樹、芝生の広い公園、濁った池や川。そして、もっとも目を引かれるのは、青々とした木の群れに覆われた山と、それに続く砂利道。その入り口には、ハイキングコースと書かれた木製の看板が立っている。

 ふと、先ほどの速水さんとの会話を思い出す。


『どうせあなた、碌に家も出ずに机に齧り付いてばかりいるんでしょう』


『どうして分かったんですか!?』


『そりゃ分かるわよ。だってあなた、肌は白いし、見ていて辛気臭い顔してるし、それにタバコの臭いがプンプンするんだもの。家に引きこもってばかりじゃいいものは書けないわよ。たまには外に出て、タバコの煙じゃなくて新鮮な空気でも吸ったらどう?』


 すべてを見透かされていた。思い出しただけで顔から火が出るほど恥ずかしい。


「たまには外に出ろ、か」


 与えられた猶予は一週間。暢気に遊んでいる暇はない。

 ただ、速水さんの言葉は言い様のない説得力があった。この二年以上、小説を書くことだけを考えてきたが、ついぞ努力が実ることはなかったのだ。今更家で缶詰になったところで何が変わるだろう。


「今のまま帰っても原稿は進まないだろうし、少しは羽を伸ばすのもいいか」


 足が横道へ逸れる。硬いアスファルトから砂利道へ。小石を踏む感触が心地いい。

 これは単なる気まぐれだ。森に入り、足を前に出すのが億劫になったら帰ればいい。そんな軽い気持ちで、僕は粗い砂利を踏む。

 道はすぐに山道へと変わった。緩い傾斜がつき、辺りは青い森に囲まれる。木々の合間からは木漏れ日が射し込み、その下には赤い野花が咲いている。

 懐かしい感覚。昔、実家の裏にある山に登ったときのようだ。

 体の凝りをほぐすように高く伸びをし、再び足を踏み出す。

 ハイキングコースなだけあって、この山はよく整備されていた。転落防止のため、コースの両脇には木の杭が打ち付けられ、その間はロープで繋がれている。随分人の手が入った森だが、都心などに比べたら心の軽さが段違いだ。木の葉がさらさらと音を立て、小鳥たちはちろちろと歌う。大きく息を吸ってみれば、山の香りが胸いっぱいに広がる。隣近所の雑音とタバコの臭いに満ちた自宅とは正反対だ。

 道なりに進み、更に山の奥へ。小鳥たちの声や自然の香りは心地いいが、さすがに気温まではどうにもならない。ムシムシとした空気を引きずるように歩く。坂は緩やかだが、しばらく歩けばそれも辛くなってきた。体中から汗が流れ、足を一歩踏み出すたびに顎から滴り落ちる。


「はぁ、はぁ、け、結構しんどいな」


 ハイキングという文字を見てすっかり高をくくっていたが、出不精な体にはかなり堪えた。息を荒げながら体の限界を感じていた。昔は軽々と山中を駆け回っていたが、家に篭りきりになる内にすっかり衰えてしまったようだ。この調子ではいつ倒れるか分からない。不用意に奥に進むのはよしたほうが良さそうだ。

 帰ろう。引き返せるうちに。

 心の中で決意を固め踵を返したとき、ふと、ある一点に目が留まった。コース脇には常にロープが張られていたのだが、山側のある箇所だけ張られていなかった。いや、切れていた。地面に刺さった杭から、ロープが力なく垂れ下がっている。コースを外れた先も、よく見れば所々草のはげた道が右へ左へ波打ちながら上へと続いている。これは、かつて人が歩いた道の名残なのだろうか。

 この先に、何かがある気がする。

 胸の奥がざわつくのを感じた。これは、きっと好奇心。山を駆け回っていた頃の感覚だ。懐かしさを感じつつ、気付けばコースの外へ足を踏み出していた。

 次第に辺りの緑が色濃くなっていく。整備された道から外れたからだろうか。まばらに生えていた木々はみるみる密度を上げ、背の高い草が足を絡めとろうとする。ハイキングコースから景色は打って変わり、完全な山中に僕はいた。

 緑は増えても、暑さは増すばかりだった。風は吹かず、湿気が纏わりつく。時折射し込む木漏れ日が肌を焼くように鋭い。熱い息をつきながら、汗が際限なく溢れ出る。袖で必死に拭うけれどきりがなかった。

 微かに残った踏み均された道の跡。唯一残った人の痕跡も、次第に薄れていく。背の高い草に覆われ、今や見る影もない。

 深い深い山の奥。変わり映えのしない景色の中、どれだけ歩いたかすら検討がつかない。もしかすると、この道には延々と終わりが来ないのかもしれない。そう思い始めたときだった。

 前方の木々の間から、眩しい光が射している。目が眩み、右手でそれを遮る。手庇の下で薄目を開けば、長く続いた坂道の先に大きな光が見えた。果てのないこの道の終わりが、ついに見えたのだ。

 あそこだ。

 直感が告げる。あの先に何かがある。僕を誘う何かが。

 気分が高揚し、足が軽くなる。根拠の無い確信が心を逸らせる。

 息を荒げ、手を伸ばす。光は大きくなり、やがて指先が触れた。


「……ここは」


 僕は、だだっ広い空間にいた。輝く太陽の下には、ここだけ森に穴を開けたように青い草原が広がっている。やわらかな風が吹き、周囲の木々は葉を揺らす。これほど日射しに晒されているはずなのに、肌に突き刺さるような暑さはなかった。

 草原をぐるりと見渡せば、中央には不自然に立つ一本の大木。その陰の中の光景に、僕は目を奪われた。

 そこには、一人の少女がいた。

 少女は小さい背中をこちらに向けて大木を仰いでいる。顔は見えないが、その後姿から目が離せない。風になびく亜麻色の髪。耳元に輝く花を模った髪飾り。フリルで飾られた純白のノースリーブワンピース。白く透き通るような肌。そして、色味の無く無機質な車椅子。

 なぜ、こんなところに人がいるのか。車椅子でどうやってここまで来たのか。この光景を見れば浮かぶであろう疑問を、僕は抱くことはなかった。ただ純粋に、少女の後姿に見蕩れていた。

 少女の周囲だけ、違う空気が漂っている気がした。時の流れはゆったりしていて、木陰の下にも関わらず、少女の周りは光に満ちている。まるでその空間だけを、世界から切り取ったように。

 やさしい風が吹き抜ける。それは草木を鳴らし、香りを運び、艶やかな少女の髪をなびかせる。そして、風は僕に音符を運んでくれた。ピアノの旋律のような繊細な音楽。少女へ近づくほど、それは少しずつはっきりと、美しく聞こえてくる。そしてそれは、幻聴でもなんでもなく、彼女自身の歌声だった。少女の息遣いが風に乗って聞こえてくる。


「~~~♪」


 感情豊かな澄んだ歌声。心地いい。ずっと聞いていたいと思えるほどに。

 いつだったか、こんな夢を見た気がした。人の立ち入ることのない森の中で一人佇む少女。顔の見えない彼女の姿は絵画のように幻想的で、口から紡ぐ歌声は何よりも繊細で美しい。そして、彼女と出会えたこの巡り会わせは、小説の一ページから切り取ったかのように儚げだ。

 そんな夢を、いつか見た気がした。

 彼女の歌をもっとよく聞きたい。頭で考えるより体が先に動いていた。少女へもう一歩足を踏み出す。このとき、草を踏む音が一際大きく響いた。

 歌は途切れ、少女はすばやく背後を振り返る。その瞬間、僕らの視線は引き寄せられるように重なった。

 凛とした大きな瞳。その輝きに吸い込まれそうになりながら、僕は呼吸すら忘れかけていた。名を知らぬ彼女も、驚いたように瞬きを繰り返していた。

 愛おしいとさえ思える沈黙が僕らを包んでいる。しかし永遠にも思えた静寂は、突如彼女の言葉によって破られた。


「あはは、恥ずかしいな。知らない人に、歌ってるとこ見られちゃった」


 彼女は慣れた手つきで車輪を回し、僕と向かい合った。木陰の中で、彼女は照れたように眉を曲げていた。


「ごめんなさい。まさか、こんなところに人が来るなんて思わなかったから」


「い、いえ、こちらこそすみません。お邪魔してしまって」


 にっこりと微笑む彼女が眩しくて目を逸らす。足を止めると、今度は彼女の方からこちらへ近づいてきた。小さな手で、大きな車輪を回して。

 大木の陰から日向へ出れば、彼女の姿がより鮮明に見える。眉は美しい弓なりを描き、長い睫毛の下には切れ長の大きな瞳が覗く。鼻は小さくてかわいらしく、薄めの唇は淡い桜色で艶やかだ。その顔立ちは、見ていてため息が出るほど端正で、まるで作り物であるかのよう。

 視線を下へずらせば、彼女の雪のように白い肌が見えた。線の細いシルエットは触れれば壊れてしまうほど華奢で、しかしながら堂々とした空気を漂わせていた。

 太陽に照らされた彼女は、神々しささえ覚えるほど美しい。


「別に謝らなくてもいいのに。……それにしても珍しいですね、こんな山奥に人が来るなんて。何かここに用でもあったんですか?」


 彼女は目を細め、声のトーンを落として訊ねる。

 心が焦る。まるで、ここに来たことを咎められているようで。神聖な領域を侵しているのだと責められているようで。


「よ、用があったとか、そういう訳じゃないんです。その、ハイキングコースを歩いてて、途中でロープが切れてるのを見つけて、それでその先に進んでみたらここに着いてしまったんです。別にあなたの邪魔をしようとか、そんな積もりは微塵も無かったんです! 本当に!」


 必死な弁明を聞いて、彼女は口元を隠して可笑しそうに笑っていた。それに合わせて周囲の木々も枝葉を揺らしていた。空気や森全体が彼女に同調するように音を鳴らしている。


「ごめんなさい、笑っちゃって。だってあなた、自分が悪いことしたみたいに言うんだもの。別に責めてるわけじゃないんですよ? ここ、わたしの家でもなんでもないんですから」


「それもそう、ですよね。済みません、変なことを口走ってしまって」


 彼女の言葉に、ひっそりと安堵する。

 そうだ。僕は好奇心の向くまま歩いてきただけ。ここに来たのは全くの偶然。

 じゃあ、彼女はどうなんだ? たった一人、こんな山奥で。まさか、歌を歌いに来たわけでもないはずだ。

 少女へ再び目を向けると、彼女はにっこりと笑顔を返してくれた。


「そっちこそ、どうしてこんなところにいるんだ? って顔をしてますね」


 心を見え透いたような彼女の言葉に、心臓を握られたような感覚を覚えた。


「どうしてそれを! い、いえ違います! そんなこと全然思ってないですよ!」


「一々反応が面白いですね。顔に大きく書かれてましたよ。それに、いいんですよ。わたしも同じこと訊いたんですから、お相子様です」


 口許を隠して笑う彼女は、そのまま車椅子を横向きにし、中央の大木を振り返る。虚ろな目をした横顔。それでも、息を呑むほど美しい。

彼女はそのまま、その木に語り掛けるように言葉を紡ぐ。


「わたし、ここが好きなんです。たくさんの自然に囲まれて、人もだれも来なくて、一人になれる。嫌なことがあったら、必ずここに来るんです。それで、この木の下でのんびりしてると、嫌なこととか全部忘れちゃうんです」


 今もこうしてここに来ているっていうことは、何か辛いこととかあったのだろうか。

 浮かんだ疑問を静かに飲み込む。初対面で根掘り葉掘り訊くようなデリカシーのない人間だと思われたくない。悟られないよう、すまし顔を作る。


「そう、だったんですね」


 相槌を打てば、彼女は僕と向き直る。まっすぐに見つめられて落ち着かない。故意では無いにしろ、彼女の一人の時間を邪魔してしまったのだから。罪悪感が肩にのしかかり、居たたまれなくなる。


「その、一人の時間を邪魔してしまってすみません。長居しすぎました。僕はもう帰ります。それでは」


 踵を返し、来た道へ戻ろうとする。ところが、一歩目を踏み出したそのとき、背後から「待ってください」と呼び止められた。半身になって振り返れば、僕を見上げながら彼女が近づいてくる。


「わたしも、丁度帰ろうかなって思ってたところなんです。それで、ひとつお願いしたいことがあるんです。初対面なのに恐縮ですが、これ、押してもらえないでしょうか?」


 彼女は控えめに上目遣いをしながら、車輪をトントンとたたく。

 気が回らない自分を恥じた。彼女は車椅子に乗っている。緩やかとはいえ、その状態で山道を下るのは危険すぎる。途中で転んだりして彼女が怪我をしたら大変だ。


「わかりました。僕でよければ、是非」


「本当ですか! ありがとうございます。とっても助かります」


 二つ返事で了承すると、彼女は屈託のない笑顔を僕に向けた。穢れを知らぬ無垢な少女のような、真っ白な笑顔だった。


 ***


 ブレーキレバーをやさしく握りつつ、緩い坂道を下っていく。ついさっきまで汗を垂らしながら歩いた道のはずなのに、彼女と一緒ならまったく景色が違って見えた。緑が輝き、小鳥たちの声は風鈴のように涼やかだ。

 木々の合間を細い風が抜けていく。すぐ目の前で彼女の髪が揺れ、花の香りが届いた。彼女とこんなにも距離が近いからか、それとも慣れない車椅子を押しているからか、さっきから心臓の高鳴りが収まらない。

 その途中、彼女は思い出したように僕を振り返った。


「そいえばわたしたち、まだ自己紹介をしていませんでしたね」


 言われてみれば。すっかり忘れていた。こんなにも近くにいて、なおかつこうして車椅子を押しているのに、僕は彼女の名前すら訊こうとしなかったのか。

 でも、いいのだろうか。理由も根拠もないけれど、何となく、彼女と距離を詰めることに大きな罪悪感を感じる。

 この僕に、何一つ取り柄のない僕に、彼女の名前を呼ぶことが許されるのだろうか。


「どうしました? なにやら難しい顔をしていますが。ちゃんと話聞いてくれてますか?」


「え? ああはい! もちろんです! 自己紹介の話ですよね。いいと思います。こうして一緒に山道を歩いているのにお互いの名前も知らないなんて、おかしな話ですもんね!」


「全くですね。じゃあ、わたしから。わたしの名前はミナセユイカ。水の瀬に咲く、唯一の花で、水瀬唯花です」


 水瀬唯花さん、か。良いお名前だ。説明の仕方の情緒的で、情景が一瞬で目に浮かぶ。美しい彼女に相応しい。


「あなたは?」


 それに比べて、僕の名前には情緒もへったくれもない。


「僕は、清水義孝と言います。清水は清い水で、義孝は……義務の義に、親孝行の真ん中の孝」


 漢字の説明をしていて、自分でもなんだか混乱してくる。それでも彼女、水瀬さんには伝わったようだ。


「へぇ、清水義孝さん。いい名前ですね。それに、苗字が水繋がり」


 パズルを解いた子供のように、水瀬さんは声を弾ませた。ふとした偶然を嬉しく思う彼女がなんとも微笑ましい。

 僕自身も、名前だけであっても彼女と繋がりが持てたことが内心嬉しく思えた。別に嫌いではなかったが、産まれて初めて、自分の苗字を好きになった。


「それで、平日のこんな時間にハイキングしてたってことは、義孝さんはひょっとして大学生さんですか?」


 思わず心臓が脈打った。いきなり名前で呼ぶ辺り、水瀬さんはもしかして、人との距離が近い人なんだろうか。慣れない距離感に戸惑う一方で、湧き上がる高揚感を持て余していた。

 胸の高鳴りを抑えつつ、必死に言葉を選ぶ。


「えっと、大学生ではないです」


 答えが意外だったのか、水瀬さんは目を丸くして振り返る。その声は好奇心に満ちていた。


「え、そうなんですか。ってことは、もう働いてらっしゃるんですか?」


「はい……物書きをやってます」


 嘘はついていないはずだ。物書きの仕事も少ないながらに持ったことはあるのだから。なのに、根拠のない罪悪感が湧き上がってくる。まともに仕事を貰えていないことを知られたらと思うと、体が震えた。


「物書き? あぁ、作家さんですね。すごいじゃないですか。本とか出されているんでしょう?」


「いえ、本はまだ……。ほんのたまに、雑誌なんかへ寄稿するくらいしかできたことなくて。今日、実はとある編集さんに原稿の持ち込みをしたんですけど、ものの見事に扱き下ろされまして」


 何かを誤魔化すように乾いた笑いをこぼす。そんな僕を振り返り、水瀬さんは微笑んでいた。


「そんなに卑屈にならないでください。そうだ、その原稿って今持ってますか? よかったら見せてください」


「い、いいですけど……本当に大したものじゃないですよ」


 平坦な道で一旦足を止め、彼女へ紙束を渡す。散々言われた後だ。こんな無価値な原稿、今更誰に何を言われても同じこと。

 けれど、水瀬さんは真剣な眼差しで読み進めていた。次に振り返ったときには、彼女は満面の笑みを浮かべていた。


「あんなに自信なさげでしたのでどんな感じなのかと思いましたが、普通にすごいじゃないですか」


 それは、予想もしていない言葉だった。


「まだ途中までですけど、読みやすいし、ストーリーも分かり易い。青春小説って言うんですかね。わたしはプロじゃないので分からないですけど、面白そうだと思いました」


 速水さんの言葉とまるで反対だ。水瀬さんは、僕の小説を認めてくれた。

 彼女は素人。だから、この言葉に価値がないことは分かってる。それに、もしかすると僕を元気付けるための嘘かもしれない。それでも、彼女の言葉が何度も頭の中で反響し、胸が一杯になる。

 きっと今、嬉しさで変な顔をしてることだろう。そんな顔を見られたくなくて、僕は顔を逸らす。


「すごいだなんて、そんな、ことないです。経験だって浅いので。高校卒業してから上京して、これで三年目ですから。まだまだペーペーですよ」


「もう、またまた謙遜しちゃって。わたしは褒めてるんですよ?」


 水瀬さんはくすくすと可愛らしく笑っている。よく笑う人だ。きっと、感情が豊かな人なんだろう。僕とは違って。


「そっか。三年目ってことは、わたしより二つお兄さんですね。わたし、今年高校を出たばかりなので」


「そう、なんですね。とてもそうは見えませんでした。とても、大人な風貌でしたので」


「ありがとうございます。でも、わたしのほうが年下なんですから、そんなに畏まらないでください。年上の人から敬語を使われると、なんだか落ち着きません」


「そ、そうはいきません」


 自分でそう言っておきながら、はっきりとした理由を見つけられなかった。ただ何となく、僕と水瀬さんの間には高く厚い壁があって、それを超えてはいけない気がするのだ。

 彼女は案の定、どうしてですか、と不思議そうに振り返った。


「それは……」


 こういう時に限って言葉が見つからない。作家志望が聞いて呆れる。それでも、必死に頭を捻って言い訳を搾り出す。


「……まだ会って間もない人に馴れ馴れしくなんてできませんよ。年上だからといって、いきなり大きな顔はできません」


「それは、確かにそうかもしれません。礼儀って大切ですもんね。義孝さんは、律儀で誠実な方なんですね」


 そう言って水瀬さんは頷いているが、それに似合わず声は嬉しそうだ。まるで、何か妙案でも思いついたような。


「なら、お友達になりましょうよ」


 突然飛び出した提案に思わず耳を疑った。友達という単語と、ついさっき会ったばかりの彼女の存在を繋げることができなかった。

 友達なんて一人もいない。故郷には友人と呼べる人は数人いたが、彼らを切り捨ててこの地にやってきた。それ以降碌に人間関係を築こうとしなかった僕には、現在友達と呼べる人はいなかった。そんな僕に、友達になろう、と声を掛けてくれたのか。

 多分、今の僕はぽかんと間抜けな顔をしていただろう。水瀬さんはこちらを振り返って優しく微笑んでいる。


「だってほら、こうしてお会いできたのも何かの縁ですから。わたし、義孝さんとはいいお友達になれる気がするんです。今もこうしてお話してて楽しいですもん。そうと決まれば早速連絡先の交換を……あっ! ケータイ、家に置いてきちゃいました」


 水瀬さんは鞄の中に手を入れたままうなだれている。だが、すぐに気を持ち直したようで、ずいと身を寄せてきた。


「義孝さん! 明日はお時間はありますか!? その前に、お住まいはこの近くですか!?」


 唐突に質問を浴びせられ、特に考えを巡らせることなく答える。


「は、はい、家はここからそう遠くないですし、明日も時間は作れます」


 軽々しく口にした時間は作れるという言葉。言ってすぐ、自分に残された時間は短いことを思い出した。速水さんから与えられた猶予は一週間。執筆以外に充てられる余裕はないはずだ。

 だが、今更出てしまった言葉は取り消せない。気づく前に、彼女がほっとしたような笑顔を浮かべていたから。


「よかったぁ。でしたら、また明日お会いしましょうよ! 次はケータイを持ってくるので、そしたら連絡先を交換しましょう。折角義孝さんとお友達になれたのに、そのままお別れは悲しすぎます」


 友達、という単語が耳の奥で何度も反響する。耳に馴染まない、けれど、胸の奥がじんと熱くなる。


「なので、是非とも明日、またお会いしましょう! 時間はお昼前の十一時、場所は山の入り口の立て看板の前とか!」


 僕を見上げ、水瀬さんは無垢な笑みを浮かべている。

 こんな笑顔を向ける彼女の言葉を、どうして否定できるだろう。執筆は大事だが、今の僕にはそれ以上に彼女の言葉が重かった。だから、僕の用意できる返事は一つだけだ。


「はい、喜んで!」


 ***


 彼女と言葉を交わすうちに、気付けばハイキングコースの入り口まで来ていた。上るのはあれだけ長く辛かったのに、帰りは一瞬だ。

 広い道を時折車が走っている。僕らの他に人はいないようだった。


「ありがとうございました、義孝さん。ここからはわたし一人で帰れます」


 アスファルトの道に戻ったとき、彼女は振り返ってそう告げた。その瞬間、満ち足りた心の中にぽっかりと穴が開いたような感覚を覚えた。

 その言葉は、僕らの関係の終わりを意味していた。ここから先は僕の助けなど要らない。それは、僕と彼女を繋ぐ理由はもうないということ。

『明日もここで会おう』。道中で交わした約束すら、彼女が手から離れた途端に心許なくなった。


「わたし、こっちですけど、義孝さんはどちらですか?」


 彼女は右の市街地を指差した。僕は大人しく左を指差す。


「……僕はこっちです」


「そうですか。では、今日はここでお別れですね」


 視線を落として、小さくつぶやく。彼女も残念そうに見えるのは気のせいだろうか。


「義孝さん。ここまで送っていただいて、本当にありがとうございました。また明日、ここでお会いしましょうね」


 最後に一度頭を下げると、僕の言葉を待たずに背を向けて進んでいく。別れの言葉を掛けようとしたが、勇気が出ず口の中で転がすばかり。そのうち、水瀬さんの背中はみるみる遠ざかる。


「帰ろう」


どうしてこんな気持ちになるんだろう。偶然彼女と出会って、少し言葉を交わしただけなのに。この別れに、何故こんなにも虚しさを感じるんだろう。

分からない。分からないまま、家の方角へ歩きだす。そのときだった。後ろからよく通る彼女の声が響いてきたのだ。


「義孝さ~ん!」


 振り返れば、遠くで手を大きく振っている水瀬さんの姿があった。


「約束! 忘れずに来てくださいね~!」


 胸の中に温かい気持ちが満ちていく。

 その言葉に答える代わりに、僕も大きく手を振った。彼女が朗らかに笑うのが分かった。

 ひとしきり手を振り合った後、僕らはそれぞれの帰途へつく。僕の心に居座っていた虚しさは、ほんの少しだけ軽くなった気がした。

彼女はあそこで何してたんでしょう?

一人じゃ山を降りられないのに。

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