02
作者は原稿持ち込みエアプです。
広大な畑と連なる山々しかない田舎を見限り、上京して早三年目。この地でなら自分の才能を活かせると夢見ていたのはとうの昔のことだ。この二年間で築き上げたものといえば、無数に書き散らした原稿の山と、新人賞不採用通知の束。自分がどれだけ能力が無かったか、どれだけ脆い夢に囚われていたか、この短い期間でよくよく思い知らされた。
それでも、今更筆を折ることはできない。浮かぶ情景、言葉を必死に書き連ねていく。昔は叶えたい夢の為にペンを走らせていたが、今では過去の自分を肯定する為だけに文机にしがみついている気がする。この有様を過去の自分が見たら、一体なんと言うだろうか。惨めに思うだろう。情けないと蔑むだろう。だとしても、今の自分には振り返る覚悟も筆を置く勇気も持ち合わせていない。だから僕は只管書き続けるしかないのだ。
絶え間なく紙面にペン先を走らせる。痛む指先に構わず、必死に思い描いた情景を綴っていく。しかしふと、見ていた景色がぴたりと止まる。主人公もヒロインも、表情が動かない。次のセリフが、展開が、思い浮かばない。書き起こしたプロットには、肝心なところが空白になっている。
苛立ちが募る。原稿の隅にペンを突く。トントン、トントン。リズムが早くなる。案は一向に思い浮かばない。
「あぁっ、全然だめだ!」
ペンを放り出し、背もたれに身を預けた。机の脇に退けてあったタバコの箱から一本を取り出し、オイルライターで火を付け、深く煙を吸い込む。苛立ちは煙に紛れてうやむやになった。
煙がゆらゆらと昇っていく。なんとなしに見渡せば、すっかり黄ばんだ天井と壁。入居当初は1Kのぼろアパートにしてはきれいな内装だったが、上京してから始めたこれのせいですっかり変わり果ててしまった。灰を落とそうと腕を伸ばせば、灰皿には既に吸殻の山ができていた。苛立ちを誤魔化せると思って始めたタバコだが、この二年ですっかり手放せなくなっていた。
こんなはずではなかった。
煙を吸い込み、半身になって振り返る。こげ茶の小さなちゃぶ台の上には、無造作に広げられた母さんからの手紙。字面は随分やんわりとしているが、言いたいことはただ一つ。『帰ってこい』だ。真面に話し合うことなく勝手に家を飛び出し、二年間も碌に連絡を寄こさなかった息子の夢をどうして応援できるだろう。
僕自身、今の生活に限界を感じていた。深夜のコンビニアルバイトと、たまにもらえる物書きの仕事で食い繋ぐ毎日。それ以外の全ての時間を執筆に充て、小説を書いては賞に応募していた。それでも、二次選考を通過したことはない。こんな自分が物書きとして成功できるはずがない。大人しく田舎へ帰って、親に頭を下げて畑を継ごう。最近は、そんな考えが脳裏を過ぎるようになった。
だが、母さんは最後のチャンスをくれた。父さんの知り合いだという、とある出版社の人に話を通してくれたのだ。いわゆるコネというものだが、今の僕にはそれに縋る他なかった。
手紙を受け取ってすぐにその人へ電話を入れた。電話はある出版社へ繋がり、父さんの名前を出せばすぐに担当者に代わった。その人は物言いの柔らかい、澄んだ声の女性だった。
『お電話代わりました。担当の速水です。清水義孝様でいらっしゃいますか? ありがとうございます。お父様よりお話は伺っております』
日頃の会話がアルバイトの接客のみだった僕にとって、電話を通しているとはいえ、人と話すことに随分緊張したことを覚えている。何度も言葉を噛み、声が裏返った。それでも相手の人、速水さんは特段気にするでもなく話を進めた。
『はい、それでは原稿ないし企画書をお持ちいただいて打ち合わせをしましょう。その場で私が読ませていただいて、内容が十分であれば本社にて検討させていただきます』
それはまさに蜘蛛の糸であった。追い詰められた中で最後に見つけた希望の道。打ち合わせは来週に決まった。それまでに、何としても速水さんを唸らせるものを書き上げなければいけない。
短くなったタバコの火をもみ消し、居住まいを正す。目の前には書きかけの原稿。これの出来次第で未来が決まる。案が浮かばないなどと抜かしてはいられない。
大きく深呼吸をし、再びペンを執る。
***
「だめね」
それはあまりに唐突で、無慈悲すぎる宣告だった。頭を思い切り殴られたような衝撃に、僕は呆然とした目で彼女を見つめることしかできなかった。
空調の効いた喫茶店の二人席で、僕は今日会ったばかりの速水さんと向かい合っていた。電話を入れて一週間後の今日、速水さんとの例の打ち合わせの日だった。だが、どうやらそれもすぐに終わりそうだ。
速水さんは小柄で朗らかそうな印象とは裏腹に、一切眉を動かすことなく原稿を机に置いた。きっちりとスーツを着こなした彼女は、そのまま背もたれに体を預けて腕を組んだ。彼女の鋭い視線は、今も原稿に注がれている。
涼しい店内にも関わらず、背中に嫌な汗が浮く。焦りと恐怖が胸の奥でむくむくと膨れ上がる。
「残念だけど、この作品を採用するわけにはいかないわ」
「どど、どうしてですか!? 一体どこがいけなかったんですか!?」
ここが喫茶店であることを忘れ、気付けば速水さんに詰め寄っていた。
どうしてこんなにも簡単に切り捨てられるんだ。この作品には、僕の将来がかかっているというのに。この人は自分の言葉一つで他人の未来を潰すということを理解していないのか。
原稿から顔を上げた速水さんと目が合う。眉を一切動かさず、しかし人を見下すような冷たい視線が僕を貫いた。
速水さんは仕方なさそうに大きく息を吐いた。
「確かに。理由も言わずに突き放すのは違うわね。いいわ、教えてあげる。まずは展開についてだけど、全体的にありきたり過ぎるのよ。世界観とか、設定とか。どれも他の作品で見たことのあるものばかり。しかもちゃんと練り込んでないから途中でボロが出てる。これはキャラクターについても言えることね。もちろん、すべてオリジナルな小説を書ける人なんていないでしょう。でもね、売れる小説を書きたいなら、一つだけでも読者の興味を惹く設定、驚かせる展開を仕組まないと」
無表情のまま紡がれる言葉が刃となって突き刺さる。手元に届くのはモノクロの不採用通知だけだった僕にとって、人から意見を貰うこと自体初めてだった。けれど、嬉しさなんて欠片も感じない。絶望だけが脳内に渦巻いていた。彼女が批判を口にする度、僕は言い様のない呻きを上げた。
彼女は再び原稿へ視線を落とし、ぱらぱらと捲る。
「それに、どのキャラクターも個性がはっきりしていない。これは大きな問題よ。設定もそう、性格もそう、口調もそう。あなたの描くキャラクターには、全くと言っていいほど魅力を感じないわ」
速水さんは机に広げた原稿を整え、僕の前へ突き返す。
「はっきり言って、あなたの小説は単調で、読んでいて何も面白くない」
その言葉が幾度となく反響する。それは死刑宣告にも等しかった。
夢と共に上京して二年間、必死に努力してきた。物書き自体は子供の頃からの趣味で、良い文章を書く自信がそれなりにあった。こちらに来てからは人気の小説を自己流に分析し、売れる小説を書くために研究してきた。その結果がこれか。
何も言い返せなかった。これまでの積み重ねなど、プロからしたらほんの戯れにも等しかったのだ。
彼女の表情は、石膏で塗り固めたように冷たかった。人ひとりの夢を潰したというのに。
「本当は、今日こうしてあなたと会うこと自体億劫ではあったのよ。こんな裏で手を回すような卑怯な真似、私は大嫌いだもの。だから、あなたのお父様に頼み込まれて、断りきれなかったというのが正直なところなの。だけど、私達も仕事で本を出版しているから、何でもかんでも本にするわけにはいかない。良い原稿であれば前向きに検討する積もりではあったけれど、さすがにこれを受け取ることはできないわ」
速水さんの言う通りだ。こうして速水さんと会えたのも親の口利きのお陰。言わば、不正をしているようなものだ。それくらい理解している。けれど、僕にはもうこの機会しかないんだ。
「そんな……は、速水さん! そこをなんとか、お願いします!」
「二言はないわ。これで打ち合わせはおしま――」
「お願いします! これが最後なんです! これを逃したら僕は!」
「……本日はご足労いただき、ありがとうございました」
軽蔑するような冷たい視線を向けると、その言葉で締めくくり、彼女は席を立つ。立ち去ろうとする背中へ咄嗟にに腕を伸ばす。
終わってしまう。この地での生活が。夢を追い続ける日々が。……もし終わったら、一体僕には何が残るだろう。それはきっと、二年間を棒に振った後悔と、勝手に家を出たことへの後ろめたさ、そして、物書きへの執着心だけだ。そんな風には絶対なりたくない。
いやだ! 手放したくない! 折角掴んだまたとないチャンスなんだ!
「速水さん! 待ってください!」
考えるより先に体が動いていた。歩き去ろうとする彼女の前に飛び出し、体を畳んで額を床に押し付ける。
「ちょっ、清水さん!? 何してるんですか! 止めて下さい、公衆の面前で土下座なんて」
先ほどまでの冷たさとは打って変わり、明らかに動揺した声。彼女の制止を聞き入れず、必死に懇願する。
「お願いします! もう一度だけ! もう一度だけチャンスをください! お願いします! この通りです!」
店内がざわめきだす。店員だろうか、駆け寄ってくる足音が聞こえる。店内が騒がしくなるほど、速水さんの声に動揺の色が強くなる。
「ああ、わ、わかりました! わかりましたから落ち着いて、土下座なんて止めてください」
恐る恐る顔を上げれば、周囲から注がれる視線と速水さんの焦った表情が見えた。彼女は急かすように言葉を掛けてくる。
「ここじゃアレですから、場所を変えましょう。さ、行きましょう」
僕は速水さんに手を引かれ、逃げるように喫茶店を後にした。
速水さんに引かれるままに走れば、着いた先はとある小さな広場。周囲を木々で囲われ、ベンチ数台と時計台が置いてあるだけの簡素な空間だった。
近くのベンチに速水さんが座り、一人分離れて僕も腰掛ける。速水さんは疲れきったように大きく息をついた。
「まったく、さっきはさすがに驚いたわ。いい大人が公衆の面前で土下座するなんて」
「す、すみません、必死だったもので……それで、原稿の話ですけど」
その瞬間、彼女が顔を上げ、今度はきつく睨みつけてきた。落ち着く前に話を戻そうとしたのがまずかった。その目に射竦められ、取り繕おうと言葉を探す。
「す、すみません……僕のせいでこんなことになったのに」
「謝るなら初めからしないでください。けれど、まあ、いいわよ。あなたみたいな人、経験がないわけじゃないし」
彼女は居住まいを正すと、何事も無かったかのように澄まし顔をこちらに向ける。しかしその目は先ほどと比べようのないほど冷たかった。涼しい顔をしているが、明らかに怒っている。当然だ。あんなことをされて腹が立たない人などいない。
だとすれば、やはりもう、チャンスは無いのだろうか。
「さて、あなたの原稿についてだけど、先ほども言った通りあれは受け取れないわ。お金を掛けて出版するほどの価値はないと判断したから。それに、受け取ったとしても、編集長がどうせ許可しないもの。けれど、焦っていたとは言え自分の言葉は曲げられない。もう一度だけ、貴方にチャンスをあげます。一週間だけ待ちましょう。それまでに見込みある原稿ないし企画書を提出してもらえれば、この話はもう一度検討します。これでどう?」
一瞬、頭が理解に追いつかなかった。つまり速水さんは、もう一度原稿を書き直すチャンスをくれると言っているのか。それは、願っても無い言葉だ。
これは本当に現実か? 試しに頬をつねってみれば、じんじんと痛みが走った。夢じゃない、現実だ。僕は許されたんだ。もう一度、夢を見てもいいんだ。
「本当に、いいんですか?」
「断ったら、また変なことをされそうだもの。恥ずかしい思いは御免よ」
「あ、ありがとうございます! ありがとうございます! 次こそは、きっといいものを書いてきます!」
何度も何度も頭を下げる。速水さんは困ったように眉を寄せているが、それでも感謝の言葉を述べないわけにはいかなかった。
しかし、浮かれてばかりもいられない。この人のことだから、きっと二度目はない。次に速水さんのお眼鏡に適うものを書き上げられなければ、今度こそ情けをかけてはくれないだろう。
だから、これが本当に最後のチャンスだ。次こそは絶対、速水さんを唸らせるものを書き上げないと。