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ホテルや旅館ってワクワクします。

「……たかさん……義孝さん……義孝さん!」


「は、はいっ!」


 名前を呼ばれ、はっと我に返った。


「大丈夫ですか? なんだかぼぉっとしてましたけど」


 隣を振り向けば、水瀬さんが心配そうに顔を覗き込んでいた。

 普段より顔が近い。それに、彼女から花の香りが漂ってくる。意識し始めた途端に心臓が高鳴り始めた。その気持ちを誤魔化すように、僕は笑顔を作る。


「大丈夫ですよ。ただ、ちょっと疲れただけです」


「えぇ? ダメですよ、今からそんな調子じゃ。これからもっと楽しいことがあるんですから、元気だしていきましょう。ね?」


 僕とは対照的に彼女の笑顔は眩しく、目は爛々と輝いていた。

 僕らは今、新幹線に乗っている。今日は件の約束の日。福引で当てた温泉旅行に向かっている最中だ。もう二時間は揺られているだろうか。水瀬さんは隣に座り、飽きもせずに旅館のカタログを眺め続けている。

 折角の水瀬さんとの旅行。楽しい思い出にしたい気持ちがある一方、思い出すのはあの日のこと。約束を結んだ日の夕暮れで放った言葉を、僕は今でも後悔する。どうしてあのとき、あんな押し付けがましいことを言ってしまったのだろう。

 あれから電話越しに謝り、こうして二人での旅行は決行された。それでも、水瀬さんの隣に立つと落ち着いていられない。


「……あのこと、まだ気にしてるんですか?」


 心の中を見透かすように、水瀬さんが顔を覗き込んでくる。


「気にしないでと言ったはずじゃないですか。ずるずると引き摺らないでください。折角の楽しい温泉旅行なんですから」


 彼女の迷惑になっていることは理解している。その証拠に、今日出会ってからの水瀬さんはこれまで通りだった。何気ない言葉を交わし、何気なく微笑んでいる。僕は笑えなかった。水瀬さんも何となく意識していると知っていたから。


「きっと、友達ってこういうことなんだと思います」


 そう呟く彼女の瞳はカタログを映していない。やがておもむろに顔を上げると、見慣れた瞳で僕を見上げた。


「わたし、友達がいたことないので分かりませんが、友達だって喧嘩をすることもあると思います。それでも仲直りして、これまで以上に仲良くなれる間柄を、友達を呼ぶんだと思います」


 喧嘩して、それが一層二人の仲を強くする。

 水瀬さんはそれを僕らの間に求めている。それなら、このままうじうじしているわけにはいかない。


「そうですね。水瀬さんの言う通りです。気付かせていただいてありがとうございます。この旅行、一生の思い出にしましょうね」


「それでこそです!」


 水瀬さんの朗らかな笑顔。それが、僕らの仲の何よりの証明。せめて彼女の輝きを汚さないよう、精一杯この二日間を盛り上げていこう。


「そう言えば」


 気持ちを切り替えたタイミングで、水瀬さんは話の区切りとばかりに手を叩き、丸い目で僕を振り向く。


「こうして義孝さんから誘っていただけるのも二回目でしょうか。一度目は、ゲームセンターで遊んだときですね。あの日のことも、わたしにとっては大切な思い出になりました。わたし、嬉しいです。いつも奥手な義孝さんがようやく積極的になってくれて。お会いして初めは義孝さんからの遊びのお誘いが全然なくて、正直もやもやしてたんです。でも、義孝さんもその気になっていただけてよかったです」


「その気になるって……なんだかその言い方だと、別の意味に聞こえるんですが……」


「あら、わたしとしてはそう捉えてもらっても構いませんよ」


 水瀬さんはそう言って、いつものように僕をからかって面白がっているだけ。分かってはいても、意識せずにはいられなかった。


「義孝さんったら、耳まで真っ赤ですよ? 照れちゃって、可愛いですね」


「止めてください。年上をからかうものじゃないですよ」


「それもそうですね。これ以上やると義孝さんが可哀相ですもんね。すみません、ちょっと楽しくなり過ぎちゃいました」


 全く、水瀬さんは何を考えてるんだ。僕と彼女がそういう関係なんて、天と地がひっくり返ったってありえない。けれど、ふと、福引のおじさんの言葉が甦る。


『二人まで行けるから、彼女さんでも連れて行ってきな!』


 決してそんな積もりじゃない。水瀬さんは友達だし、いつもお世話になってるから。ただそれだけ。僕たちには絶対、そういう関係にはならない。

 分かっていても意識してしまう。すぐ隣には水瀬さんが座っているのだから。ほんの少し身じろぎをしただけで肩が触れ合ってしまうほど近い。普段と違う角度から見える彼女は、いつもより大人っぽく感じた。


「でも、こうして男女二人で温泉旅行に行くなんて、端から見たら完全にそう見えますよね」


「そんなの分からないじゃないですか。友達同士で泊りがけの旅行なんてそこらじゅうでやってますよ」


「う~ん、でも、わたしだったらそう思っちゃうなぁ。義孝さんは、隣にいるのがわたしじゃイヤですか?」


 返事に困る話ばかり。今日の水瀬さんは珍しく浮かれているらしい。それもこれも、温泉旅行のせいだろう。でも、喜んでくれているなら悪くはないか。

 そのとき、車内にアナウンスが響いた。降りる駅までもうすぐのようだ。


「ほら、水瀬さん。あと少しで着くみたいですよ。早めに準備しておきましょう」


「むぅ、逃げましたね」


「逃げてないです。さあ、早くこれに乗ってください」


 彼女は不服そうに目を細めているが、これ以上構ってはいられない。折りたたまれた車椅子を開けば、彼女は頬を膨らませつつも素直に乗ってくれた。

 新幹線を降りた後はバスでの移動になる。旅館までの直通便だ。見知らぬ土地。バスに乗り込めば、栄えていた町並みの景色は次第に自然に呑まれてゆき、青く茂る草木で彩られる。


「着いたら、初めに何をしましょうか?」


 水瀬さんは変わらずカタログを眺め続けている。その様子はまるで、小さい子供がおもちゃのカタログを見ているようで、何だか微笑ましい。


「温泉旅館ですから、やっぱり温泉でしょうか? 何回でも入っていいみたいですから。長旅の疲れもとれるでしょうし」


「そうですね。折角ですから、沢山堪能しましょうか」


 彼女の提案を受け入れた結果、まさかあんなことになるとは、このときの僕は思いもしなかった。


 ***


 案内された部屋は広々とした二間続きの部屋だった。寝室の奥には広縁があり、そこから右へ曲がれば、青い山々を一望できる露天風呂付き。美しい景観を楽しみながら、ゆっくり旅の疲れを癒せる、はずだったのだが。


「義孝さん、ちゃんと前向いて歩かないと危ないですよ? 足を滑らせたら大変です」


「そう言われても、前見たら、その、つい見てしまいますから」


「タオル巻いてるので大丈夫ですって」


「水瀬さんは大丈夫でも、僕が大丈夫じゃないんですっ」


 僕らは今、露天風呂に入ろうとしている。そう、水瀬さんと混浴だ。

 初めは共用の大浴場に行くはずだった。しかし、なんと浴場は現在清掃中。風呂はまた後にしようと提案したが、水瀬さんは部屋の露天風呂に食い付いてしまった。


『なんだ、部屋にお風呂ついてるじゃないですか。しかもこんなに良い眺め。折角ですから、一緒に入りましょう。日が沈む前にこの景色を二人占めするんです』


『一緒に!? だだ、だめですよ! 景色だけなら風呂に入らなくても――』


『いいからいいから! 大丈夫ですよ、ちゃんとタオルを巻きますから。マナー違反かもですけど』


『そういう問題では……』


 そして、結局彼女に押し負けて今の状況があるわけだ。後ろを向いている間にタオル一枚に着替えた水瀬さんを、こうして抱きかかえながら露天風呂へ向かう。足の不自由な彼女は、こうでもしないと露天風呂には入れない。

 これまで彼女と手を繋いだことすらなかったのに、まさか先に裸を見ることになろうとは。両腕で彼女の重みを感じる。あぁ、女の子って、こんなにやわらかくていい香りがするんだ。

 い、いけないいけない。危うい思考に陥るところだった。自分をしっかり持つんだ、義孝よ。


「義孝さん、顔真っ赤ですよ? そんなに照れなくたっていいじゃないですか」


「て、照れないほうがおかしいですよ。逆に、なんで水瀬さんはそんなに余裕綽々でいられるんですか」


「だって、義孝さんの反応が面白いんですもん。温泉旅行に誘う勇気はあるのに、一緒にお風呂に入る度胸はないなんて。からかうとすぐ顔が真っ赤になっちゃうのも面白いです」


「……年上をからかわないでください」


 本日二度目の抵抗。勿論効果はなし。

 ようやく露天風呂に着き、水瀬さんを湯船へゆっくり下ろす。


「ありがとうございます。重くなかったですか?」


「明日は筋肉痛かもしれません」


「む、さっきの仕返しですか。女の子に重いって言うなんて酷いです。罰として、義孝さんも一緒に入ってください」


 彼女は風呂の縁をたたき、期待を込めた眼差しを向けてくる。ここで逃げれば、一生このことを出しにしてからかってくるに違いない。ここは、覚悟を決めるしかない。


「分かりました。少し待ってください」


 一度裏に引っ込み、服を脱いで再度露天風呂へ。勿論、腰にタオル一枚を巻いて。

 湯船にゆっくり浸かる。湯温は高くなく、少しぬるめだった。夏ではあるが、都会に比べて涼しい風の吹くここでは、丁度いい湯加減だ。


「ふぅ、これで満足ですか?」


「はい、大満足です。わたし、こういうのに憧れてたんですよ。裸の付き合いっていうんでしょうか。一緒にお風呂に入ると、絆がより深まるんだそうです。わたし、義孝さんとはもっと仲良くなりたいので」


「気持ちは嬉しいんですが、男女では少し違うような……」


「何か言いました?」


「な、何でもないです。あぁ~、気持ちのいい湯だなぁ」


 話はすれども、視線は真っ直ぐ森の中。少しでも隣を見れば、水瀬さんのあられもない姿が目に焼きついてしまう。これ以上、彼女をそんな目で見てはいけない。

 なのに、水が跳ねる度に意識してしまう。あの水瀬さんがすぐ隣にいて、しかも裸だなんて。否応にも変な想像ばかりが脳裏を過ぎる。

 邪な考えを振り払うように頭を振る。それとは対照的に、水瀬さんは妙に落ち着いていた。


「わたし、こうしてお友達と旅行に行くのが夢だったんです。友達もいませんでしたし、わたしの足、こんなんですから」


 ゆったりとした語り口。ふと視線を逸らした先で、彼女は自分の足を見下ろしていた。


「元からあまり出歩くほうではなかったのですが、それでも、こうなっちゃったときは悲しかったです。もう、前と同じように外は出歩けないんだなって。何日も塞ぎ込みました」


 車椅子に乗る前の水瀬さん。足が自由な水瀬さん。過去の彼女を知る由はない。

 胸が締め付けられるような感覚。

 僕の知らない彼女の過去を知りたいと思う僕がいる。

 気持ちを押し殺した先で、水瀬さんは眩しい笑顔を浮かべていた。


「でも、こうしてまた一つ夢が叶いました。義孝さんのお陰です。今になって考えると、義孝さんには沢山夢を叶えてもらってばかりですね。お友達になって、いろんなところに遊びに行って、そして今も。義孝さんにはいくらお礼を言っても足りないですね」


「それを言うならこちらもです。僕だって、水瀬さんには沢山もらいました。それまで一人だった僕と友達になってくれましたし、僕の知らない都会のことも沢山教わりました」


 それと、小説のこと。彼女がいなかったら決して書けなかったはずだ。


「だから、お礼を言うのはこっちのほうです。水瀬さんと出会えて、本当に良かった」


「そんな、面と向かって恥ずかしいこと言わないでくださいよ。照れるじゃないですか」


 彼女は目をぱちくりさせ、顔を背けてしまう。僕も、今になってさっきのセリフがとても恥ずかしく思えてきた。顔から火が出る程熱い。それに、体も火照ってきた。

 思えば今、僕は女性と同じ風呂に入っているんだった。お互い裸の上にタオル一枚だけを巻いて。意識し始めたら余計に体が熱くなってきた。

 横目で彼女を見る。タオルに包まれた白い肌。手足は細く華奢だが、体のラインにはメリハリがついている。きっと、着痩せするタイプなんだろう。上気した頬に雫が伝い、後ろで括られた亜麻色髪は艶やかだ。

 気付けば生唾を飲み込んでいた。

 少し長く浸かりすぎたようだ。熱さのせいか、正常な判断が出来なくなっている。


「そろそろ上がろうかな」


 独り言のように呟けば、水瀬さんも顔を上げて便乗する。


「わたしもそうします。手伝ってもらえますか」


「も、勿論です」


「ありがとうございます。あの椅子まで運んでください」


 彼女は背後にある背もたれ付きの椅子を指差している。体を拭いて涼むのには丁度良さそうだ。


「分かりました。では、失礼します」


 水瀬さんの感触を思い出して手が震える。だが、僕も男だ。彼女の前で情けない姿は晒せない。

 自分自身に喝を入れて湯船から立ち上がった。その時だった。


「きゃあッ!!」


 唐突に水瀬さんが悲鳴を上げた。彼女は顔を手で覆い隠し、指の隙間からこちらをちらちらと見ている。火照った頬は更に赤く染まっていた。

 どうしたんだろう。見ちゃいけないものでも見てしまったみたいな反応は。


「急にどうしたんですか。悲鳴なんて上げて」


「わわわ、わたし、見てないです! ほんとに見てないですから!」


「見てないって、何をです?」


「なにだなんて! そんな、わたしの口からは言えません! いいから早く隠してください!」


「隠す?」


 水瀬さんは左手で完全に目を覆い、右手で僕を指差している。指差す先は僕の下半身。見下ろすと、湯船に浮かぶ白いタオルと、露になった股間が見えた。

 湯に浸かっていたばかりなのに、背筋が一瞬にして凍りついた。


「ち、違うんです! これはそういう積もりじゃなくて! すみません、変なものを見せてしまって。ちゃんと縛ったはずなんですが」


「全然ヘンじゃないです! とても立派で……あぁ、いや違います! 見てません! 全く見えてませんでしたから! とと、とにかく大丈夫ですから、早く隠してください!」


 ***


 いやな事件が起こったが、何とか場は収まった。露天風呂から上がり、お互い団扇を扇ぎながら涼んでいるところだ。開け放った窓からも時折風が吹き込み、庇に吊るされた風鈴が涼しい音を鳴らす。山の奥には夕陽が傾いている。夕食にはまだ早く、外を出歩くには遅い。


「義孝さん」


 呼びかけられ、体がびくりと跳ねる。水瀬さんを見るとついつい先ほどの事件の光景が脳裏を過ぎる。あんなに取り乱した水瀬さんは初めてだったが、振り向いてみれば彼女は普段の冷静さを取り戻している。無性に悲しくなってくるのは何故だろうか。


「何ですか?」


「わたしが言うのもあれですが、旅行なんてして大丈夫なんですか? お仕事、忙しいんじゃないですか? なんだか気を使わせてしまったようで申し訳なくて」


 水瀬さんは手をもじもじさせながら、伺うように視線をこちらに向けている。

 ついさっきあんなことがあったのに人の心配をしてくれている。水瀬さんは本当に優しい人だ。

 不安な気持ちを晴らすように目いっぱいの笑顔を作る。


「心配には及びませんよ。仕事は順調ですし、こういった経験も仕事に活きると思いますから。それに……」


 自分の荷物を引き寄せ、中から原稿用紙とペンを取り出す。


「丁度今暇ですし、今から続きを書こうと思っていたところです」


 これで彼女の心配も晴れるだろう。そう思っていたのだが、思惑とは対照的に、水瀬さんは口をへの字に曲げ、半目になって僕を睨んできた。


「へぇ~、そうですか。女の子と旅行に来てるのに、わたしには構わないでお仕事ですか。へぇ~」


 おかしいぞ。さっき言ってたことと違うじゃないか。いや、でも確かに、二人で旅行に来ているのに自分だけ仕事をするのは言い過ぎだ。


「も、勿論今のは冗談ですよ。いやだなぁ、旅行にまで来て仕事するわけないじゃないですか」


 慌てて用具を鞄に戻そうとすると、水瀬さんが声を抑えて笑っていた。


「すみません、意地悪してしまって。ちょっとからかってみたくなっただけなんです。いいですよ、お仕事しても」


「え? いいんですか? 本当にしちゃいますよ?」


「結構ですよ。わたしも少しのんびりしますから。あ、でも、夜ご飯までにしてくださいね」


 そう言うと、水瀬さんは背もたれに体重を預け、目を瞑った。思えば、新幹線の中でもずっとはしゃぎっぱなしだったから、きっと疲れてるんだ。ここはお言葉に甘えて、原稿を進めさせてもらおう。

 用紙を広げてペンを執る。書き始めてしまえば、後は成るに任せるだけだった。展開は既に脳内に出来ている。その情景が右腕を通して原稿に書き連ねられていく。


「ふむふむ、なるほど」


 小さく呟く声に振り返ると、すぐ隣に水瀬さんの顔があった。


「うぉっ!? み、水瀬さん!?」


 思わず後ろに飛び退けば、彼女は口許を手で隠して可笑しそうに笑っていた。


「すみません、驚かせてしまって。義孝さんの仕事ぶりを少し覗きたかっただけなんです。それにしても……このご時勢に手書きって珍しいですね。普通はパソコンで書くんじゃないんですか?」


「そうなんですが、僕にはそんなお金はありませんので。って、何見てるんですか。見ないでください」


 慌てて原稿を引き寄せ、彼女と距離をとる。すると、彼女は頬を膨らませ、あからさまに不満そうな態度をとった。


「いいじゃないですか。別に減るものでもないんですから」


「そういう問題じゃないんです。その、まだ未完成ですし、見せるのは恥ずかしいというか……」


「ふぅん、見られて恥ずかしいものを書いてるんですね? やだ、義孝さんったら」


「そそ、そんなものは書いてません! 僕の小説は健全ですよ!」


 ただ、水瀬さんをモデルにしているだけあって、もしバレたらと思うと見せるのは気が引ける。必死に原稿を守ろうとする僕に対し、水瀬さんはまた顔を綻ばせた。


「さっきのも冗談ですよ」


「じょ、冗談?」


「すみません、義孝さんの反応が面白くて、ついからかっちゃうんです」


「と、年上をからかわないでくださいよ。いい加減にしないと、さすがに怒りますよ」


 この言葉を今日だけで一生分使った気がする。僕は彼女から見て、頼れる大人には見られていないということなんだろうか。


「義孝さんが怒るなんて逆み見てみたいかも、なんて。すみません。気にせず続きをなさってください。わたしも、ちょっとした日課がありますので」


 そう言うと、水瀬さんは小さな鞄からメモ帳とペンを取り出した。メモ帳の表紙は黒い革でできており、華やかな水瀬さんとは対照的だ。彼女はメモを開き、ペンを走らせる。自分は原稿を見せるのを嫌がっておきながら、彼女が何を書いているのかが気になって仕方ない。ちらちらと視線を送っていると、それに気付いた彼女は口端を上げた。


「日記ですよ。わたし、日記をつけるのが昔からの日課なんです」


「そういえば、以前もそう仰ってましたね」


 もう何週間も前のことだ。電話越しにちらっと日記の話を聞いて、そこから小説の構想を思いついた。水瀬さんの日記のお陰で、今の僕があると言っても過言ではない。


「毎日日記をつけるなんて大変じゃないですか? それを続けているなんて、立派だと思います」


「そうでしょうか? でも、そんなに大変でもないですよ。書きたいことを書いてるだけですし。短いときなんて一行で済ませちゃいますし。それに、これが役に立つこともあるんです。読み返すと、そのときの景色や感情が甦ってくるんですよ」


「なるほど。それで、今日のこともそれに書き残すんですね」


「そうです。今日は思い出深い一日ですから」


 日記か。あの中に、僕の姿も書き取られているんだろうか。僕の姿は、水瀬さんの中でどのように描かれているのだろう。


「もしかして中身が気になりますか? ふふん、ダメですよ。乙女の秘密を盗み見ようとしたら。これだけは、何を引き換えにしても見せてあげません」


 どうやら、僕の心は彼女にとってはお見通しのようだった。


 ***


 程なくして配膳された夕食は目を瞠るものだった。山間だからか野菜が多く、煮付けや酢の物など、どれをとっても美味しかった。小鉢が多く並ぶ中、一際目を引いたのは大皿に盛られた多種多様な魚のお造りだった。獲れたてを捌いたのだろう、とても新鮮で脂も載っていて、それはそれは美味だった。このような高級料理を僕が戴いていいのかと疑問に思うほどに。

 食事を終えた後は、先ほど入り損ねた大浴場へ向かった。ここはさすがに男女別で、水瀬さんとはしばらくの別れ。後で部屋で落ち合う予定となった。

 大浴場という名だけあって、温泉はどれも泳げるほどに広かった。効能が違うのだろう。それぞれの湯船の壁には文字の書かれた板が打ち付けられていた。特に体を悪くしていないので、取り敢えず疲労回復の湯に浸かることにした。これが程よい熱さで気持ちよく、縁にもたれて天井を眺めていると瞼が重たくなってくる。このまま寝てしまおうかと思ったが、水瀬さんを待たせてはいけないので、眠気を振り払って温泉を後にした。

 だが、部屋に戻れば既に水瀬さんが待っていた。僕と目が合うなり、彼女は頬を膨らませた。


「もぉ、義孝さんったら遅い」


「そうですか? すみません、なるべく早く出た積もりだったんですが」


「早くって、もう一時間も経ってるんですけど」


「そんなに経ってましたか……」


 時計を見上げれば、確かに一時間弱針が進んでいる。窓の外では夕陽が山の陰に隠れようとしていた。


「女の子を部屋に一人にして楽しんでたんですか? こっちはずっと退屈してたんですからね」


「すみません。温泉が思いの他気持ちよくて」


「まぁ、その気持ちは分かりますけど……代わりに、今からはちゃんと付き合ってもらいますからね」


 そう言うと、いつの間に用意したのだろう、水瀬さんは机の上のビンを開け、紙コップに注ぐ。机の上には他にもスナック菓子などが沢山置かれていた。

 目の前の光景に戸惑いつつ、座布団を取って彼女の隣に腰を下ろす。


「これ、どうしたんですか?」


 訊いてみると、彼女はにんまりと笑った。


「ふふん、これ、下の階で売ってたので買ってきたんです。折角の温泉旅行ですから、晩酌しましょう」


「晩酌って、またまたそんな」


 水瀬さんは未成年だから酒は飲めないのに。まあ、ただの冗談だろう。苦笑いしながら、彼女からコップを受け取る。


「では、乾杯しましょう。わたしたち初めての旅行を記念して、かんぱ~い」


「かんぱ~い」


 彼女の音頭に続き、コップを掲げる。そのまま口許へ近づければ、独特な匂いが鼻についた。普段嗜まない僕でも判別できる。


「あの、水瀬さん、これ――」


 その時、彼女の細くやわらかい指先が僕の唇に当てられた。彼女と目が合う。人差し指は離れ、彼女の唇にあてがわれた。


「しー」


 その仕草に思わず鼓動が早くなる。僕の唇から彼女の指が離れていく。けれど、その感触はずっと残り続けているようだった。

 水瀬さんは躊躇うことなくコップに口を付ける。それを一度に飲み干し、再びこちらへ視線を向ける。


「実はわたし、結構嗜むんです。そんなイメージ、全然無かったでしょう。どうです? 幻滅しましたか?」


 言葉とは裏腹に、彼女は楽しそうだった。そんな彼女と目が合わせられない。


「幻滅なんて……」


「いいんですよ、強がらなくて。逆の立場なら、わたしだって引いてます。未成年の内からこうなんて」


「だったら、どうして」


「……忘れたいことが多いから。義孝さんのほうがお兄さんですから、分かってくれると嬉しいんですが」


 分からなくも、ない。僕も以前は煙草をストレスのはけ口にしていた。今はもう、吸い方すら忘れそうだけれど。

 だから僕は水瀬さんを責められない。それでも、やるせない気持ちは感じてしまう。

 彼女の秘めた過去。僕の知らない顔。


「少し分かります。でも、忘れたいことってなんですか?」


「訊かなくても想像つくんじゃないですか?」


「……さっきの、露天風呂でのこと、とか」


「ぷふ、あれはそんなんじゃないですよ。立派な思い出です。日記にもちゃんと書きましたから」


 何ということだ。僕の醜態が記録されているだなんて。


「まあ、今話す内容じゃないです。とにかく今は楽しみましょう! 折角の旅行なんですから。さぁ、義孝さんも飲んでください。お菓子も食べて食べて」


「は、はい」


 勧められるままコップを呷る。

 酔いが次第に回ってきたのか、水瀬さんは頬をほんのり赤く染めている。普段は見せない艶めかしい表情を直視できない。コップの酒を舐めつつ、恥ずかしさを紛らわすように菓子へ手を伸ばす。少しすれば、頭がぽかぽかするような、頭がぼぉーっとしてきた。これが酔うということなんだろうか。不思議な気分。何だか眠たくなってきた。


「義孝さん」


 一方、水瀬さんはまだ平気そうだった。結構日頃から飲んでるようだし、酒には強いのかもしれない。彼女の呼びかけに応えなければと思う一方、瞼はどんどん重くなる。まだ夕暮れ時なのに。水瀬さんの隣にいるのに。意思とは裏腹に意識が遠のいていく。


「わたし、義孝さんと出会えて本当に良かった。あなたが、わたしの歩く道を見つけてくださったんです。あなたのお陰で今、とっても楽しいんです。これからもずっと、傍にいてくださいますか?」


 その言葉を最後に、意識はぷつりと途切れた。


 ***


 静かな夜。風は吹かず、木の葉の擦れる音すら聞こえない。染み入るような静けさを、振り子時計の無機質なリズムが際立てている。

 どうやらあのまま眠ってしまったらしい。目を開けば、窓から差し込む月明かりが眩しかった。机に突っ伏していたようで、背中にはブランケットが掛けられていた。隣に水瀬さんの姿はない。菓子なども中途半端に開けられたままだった。水瀬さんには申し訳ないことをした。自分が酒に弱いことを知っていたらちゃんと加減したのに。

 月明かりを頼りに時計を見上げると、針は二時を指している。なるほど、草木も物言わぬわけだ。

 水瀬さんはどこだろう。奥の寝室だろうか。覚束ない足取りで立ち上がり、襖を少し開く。隙間から覗き込めば、水瀬さんが布団に仰向けになっていた。安らかそうに小さく胸を上下させている。

 僕ももう一眠りしようか。けれど、まさか彼女の隣で眠るわけにもいかないし、何より眠気は晴れてしまった。この丸い月のように、目も頭も冴えきっている。このままではどの道眠れそうにない。どうしようかと首を捻っていると、あるところに目が留まった。寝室奥の広縁、その机の上に置かれた一冊のメモ帳。水瀬さんが日記と呼んでいたものだ。

 足を忍ばせて水瀬さんの傍を抜ける。彼女の日記を前にして、、急に心臓が高鳴りだす。

 もう一度寝室を振り返る。水瀬さんは気持ち良さそうに夢の中だ。

 水瀬さんの過去。水瀬さんの秘密。

 ずっと抱いていた黒い感情。それは月の光に溶け込み、心の隙間に入り込む。

 唾を飲み込む。もしかすると、まだ酔っているのかもしれない。そう、これは仕方の無いこと。酒など飲まなければ、きっと。


「少しだけ。バレなければ大丈夫」


 自分に言い聞かせるように呟き、日記を手に取る。月明かりにかざしてみれば、所々に付箋が張ってある。どうやら、月の変わり目の目印にしているようだった。取り敢えずスピンの挟まったページを開く。

 水瀬さんらしい丸っこく可愛らしい字が並んでいる。最新の、今日の日記だ。


八月九日

 今日は待ちに待った温泉旅行の日! 義孝さんが誘ってくれたときからずっと楽しみにしてた! 遠くの県に旅行に行くなんて初めてだから少し緊張してる。あと少しで出発の時間。もう一度持ち物を確認しておこう。楽しい旅行になるといいな。

 電車とバスの移動はちょっと疲れたけど、とっても自然豊かな旅館に着いた! 仲居さんもみんな人が良くて親切だし、お部屋もきれい。露天風呂がついていて、そこから見える景色も素敵だった。露天風呂で思い出したけど、義孝さんと混浴しちゃった! 男の人と一緒にお風呂に入るなんて初めてだったから、ずっとドキドキしっぱなしだった。それに、お互いタオル一枚だけだったから、ちょっとしたアクシデントも。思わず見ちゃったけど、あれを見るのも初めてだった。どうしよう、その光景が頭から離れない。何を見ちゃったかは、やっぱりここには書けないや。


 あぁ、やっぱり露天風呂でのことが書かれてる。恥ずかしい。にしても、あんな澄まし顔してた水瀬さんも、内心はやっぱり緊張してたんだ。彼女の気持ちが知れて、言いようの無い感情が胸に溜まるようだった。

 もう止めようか、と良心が呼びかける。もう満足だろう。バレる前に日記を閉じよう、と。だが、手はページを遡り始めた。まだ知りたい。彼女のことを、彼女の秘密を。文章を読み飛ばしながら、次々と日付が過去に戻っていく。


七月十八日

 今日は義孝さんと映画を見た。前から見たかった恋愛物だ。誰かと映画に行くなんて何年振りだろう。それも、男の人と恋愛物なんて、端からみたら完全に勘違いされちゃうかも。


七月十二日

 今日は義孝さんと展覧会に行った。街を歩いていたら偶然見つけて、連絡したらすぐに来てくれた。あんまり絵には興味が無かったけど、よくよく見てみると面白い。


七月四日

 今日は義孝さんと買い物に出かけた。普段はタクシーだけど今回は歩き。義孝さんには申し訳なかったけど、義孝さんと沢山話せて楽しかった。


 度々登場する僕の名前。その度、瞼の裏にそのときの情景が浮かぶ。笑った顔、意地悪そうな顔、不満そうな顔。その時々の彼女の気持ちを知る毎に、もっと深く彼女を知りたくなる。

 知りたい。水瀬さんのことを、もっと知りたい。

 気持ちが逸り、ページを捲ろうと手を伸ばす。そのとき、開け放たれた窓から風が吹き込んだ。風はパラパラとページを捲り、日付を過去へ遡らせる。

 開かれたのは、僕と水瀬さんが出会う前の日記だった。


「……なんだ、これ」


 そこには、異様な雰囲気が漂っていた。書き殴ったように乱れた文字。具体性の無い言葉たち。日付すら碌に記されていない。


 どいつもこいつも変な目で見てくる わたしが出歩いちゃいけないっていうの?

 電車に乗ったら舌打ちされた むかつく 一発殴ってやりたい

 いつもお世話になってた近藤さんが辞めちゃった。これからどうしよう。

 辛い これがあと何十年も続くの?

 頼れる人なんていない みんな、わたしを蔑むんだ

 どうして。わたしが悪いことしたっていうの?

 こんなはずじゃなかった!


 眩暈がする。なんなんだ、これは。水瀬さんの言葉なのか。ありえない。だって水瀬さんは――。

 目を逸らすように乱雑にページを送る。開かれたページには、先ほどとは違いきっちりと並んだ文字の列。日付は、僕と水瀬さんが出会った日が記されていた。


六月二十九日

 準備は整った。この日の為に衣装も用意した。白のワンピース。せめて最後だけは最高の自分で終わりたい。場所は、わたしだけが知るとっておきの場所。薬もある。聞いたところでは、苦しまずに幸せな夢を見て眠るらしい。わたしは、どんな夢を見るのかな。

 叶うなら、もう一度


 丁寧な文字の列。だが、そこから空白を挟み、書き殴ったような乱雑な文字が並んでいた。


 死ねなかった。あと少しだったのに。最後にと思って歌なんか歌ってたのがまずかった。覚悟を決めてたのに、危ない橋渡って準備したのに、全部ふいにされた。あの男のせいで!

 名前は清水義孝っていうらしい。絶対に許さない。あいつには必ず、この落とし前をつけさせる。


「どういうことだよ、これは」


 夢でもみているのか。でなければ、ここに書かれているものはなんだ。どうして水瀬さんがこんなことを。普段はあんなに穏やかで優しい彼女が、こんなこと。

 自殺。その単語が、頭の中でぐるぐると渦を巻いている。

 理解できない。考えが纏まらない。日記を持つ手が震える。


「何してるんです?」


 その声に恐る恐る振り返れば、寝ていたはずの水瀬さんが目の前にいた。月明かりの中、唇を一文字に引き結び、視線は冷たく鋭い。普段の優しい表情の面影など微塵も感じなかった。

 早く、何か言い訳をしないと。けれど、焦る気持ちばかりが先行し、言葉が浮かばない。


「えっと、その、違うんですこれは! こ、ここに置いてあって、気になって……今日の分だけです! 見たのは。他は見てないです!」


 あまりに空虚な言葉。これで水瀬さんを騙せるはずがない。分かっていても、頭がまるで働かない。

 彼女は無機質な視線を注いだまま、口端を上げる。笑っているのではない。これほどまでに冷酷な表情を初めて見た。


「そうですか。でも、見ちゃダメって言ったじゃないですか。乙女の秘密を盗み見ようとするなんて、義孝さんも酷いお人です。信じられると思っていたのですが……そうですよね、やっぱり、ダメでしたか」


 彼女はくるりと向きを変えると、再び寝室へ。その途中、振り返ることなく口を開いた。


「まだ夜も深いですから、義孝さんも早く寝ておいたほうがいいですよ。さぁ、早く。折角一緒に泊まってるんですから、並んで寝ましょうよ」


 その言葉に従う他に選択肢は無かった。

 並んで敷かれた布団。奥側に水瀬さんが横になり、隣に寝そべる僕を振り向いた。


「じゃあ、おやすみなさい。また明日も、いい日になるといいですね」


 ゆっくり、瞳を閉じていく。ずっとこちらを向いたまま。目は開いていないのに、ずっと見られているようだった。


「お、おやすみなさい」


 この視線の中、どうして眠れるだろうか。脳内に残るのは彼女の冷たい口調と日記の文字たち。それらがぐるぐると飛び回る。いくら止めろと叫んでも、一向に収まる気配はない。

 やがて、目の前に水瀬さんが現れた。車椅子に乗り、顔を俯かせている。彼女は顔を上げることなく大きく言い放った。


「今までのわたしは、きっと夢を見ていたんです。幸せな、叶わなかった夢。あなたが見せてくれたんです。そして、それを壊したのもあなた。思い出しましたよ、義孝さん。わたし、あなたを絶対に許しませんから」

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