天と悪
「ハァ……ハァ……」
息が切れる。走り続けてどれだけの時間が経ったのだろうか? 既に身も心もボロボロの状態だ。これ以上前に進むことが難しいと本能が警鐘を鳴らしている。
辺りにあるのは骸のみ。先刻まで争い合っていた者達であろうとも、命という宝を失ってしまえばただの肉塊になりはてる。生命の誕生が同じだというならば、その終着点もまた同じものだ。
生と死だけが平等に与えられている世界。
死体達は横をすり抜ける俺に対して何かを訴えかけているようだった。
『お前は何故生きているんだ? ここは死ぬことを強要された世界だ』
「うるさい……」
『お前も時期にこっち側へくる。死は誰にもで這い寄る』
「うるさい……黙れっ!」
頭の中に響いていた声が消え去る。
戦場を生者が駆けていることを許すことができない亡者達は、いつでも俺の足を掴み、引きずり込もうとしている。
どうしてこうなってしまった? なぜこうなってしまった?
俺は誰かを殺すことをしたくはない。
誰かを守るために力を振るうことがあったとしても、死を強要するだけの力を振るうことは傲慢でしかない。だから俺は守るためだけに戦い続けた。自らの力と向き合い続けた。そのはずだった。その考えが甘かったのだろうか? 俺の手の平からこぼれ落ちていく命の雫をすくい上げることはできないのだろうか? 結局は殺戮者としての人生を生き続けることしかできないのか?
「命はかくも美しい」
俺は立ち止まる。
「だが、儚く脆い。それは夢のようだ。実に甘美だが……実に現実味にかける。ただの一撃で何もかもなくなってしまう。命の過去すらも、記憶と記録という曖昧で不完全なものでしか残すことは出来ない。故に、誰もが思う。死ぬことは怖い、と」
奴は笑いながら妹の首筋に剣の切っ先を向けた。猿轡をされた妹が逃げようと体をよじるが、奴の力にかなうわけもなく、危機的状況はまったく好転することはない。
「お前……死ぬ覚悟はできているんだよな?」
「私を殺す? 冗談を言うな。私は知っているぞ。お前は誰も殺せない。守るために戦い続けるなどと謳い、戦いから逃げている臆病者だということを。だからお前は私を殺せない」
奴の足下が爆ぜた。
俺は次の矢を射る準備をしていた。それでも奴はただ笑うだけだ。臆病者だとあざ笑っているのだろう。
「お前は俺を本気で怒らせた」
「なにっ?!」
矢が奴の右腕に刺さる。一瞬ひるんだ隙をついて、妹は奴の腕から逃げ出した。
「なるべく遠くへ行くんだ!」
俺は矢をしまい、剣を取り出す。獲物を殺すことだけに特化した彎曲した剣だ。一度体内に潜り込ませることができれな、抜くことは難しい。無理に抜こうとすれば、剣に付いている突起物が体内をめちゃくちゃに破壊する。
奴は刺さった矢を抜き、俺をにらみつけた。まるでプライドを傷つけられた子供かのような視線だ。
「怒らせたのはどちらだと思っている。お前は私を本気で怒らせた。これだけの敵意を抱いたのは久しぶりだ! あいの人種達を守るために戦った時以来だな!」
「来いよ。それでも天使か?」
「悪魔の分際で笑わせる! 狩人かぶれがっ!」
激突二つの力。悪魔と天使は戦いを続けている。そも、なぜ争っているのか? それは彼らにすらわかっていないのかもしれない。だが戦う。己の意地と信念を無駄に抱き殺戮と言う名前の支配を続けていく。
これは戦いの物語だ。彼らが争う話だ。どちらかが滅び、消え去るまでの叙述詩だ。