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漆黒をも照らす月明かりの下で 外伝

作者: アクル


わたくし、八咫烏やたがらす)のヤタと申します。

以後お見知りおきください。

いきなりで恐縮ですが、私の名前を安易とは思って欲しくないのです。八咫烏からヤタなのですからそう思われるのも致し方ないのですが、ご主人様に名前を戴きたいとお願いして付けて頂いた名前なのです。その前に「カラス」「トリ」「サンボンアシ」と名付けられそうになり慌てて別の名前をお願いし、若干面倒臭そうにこの名前を考えて頂くという顛末てんまつはありましたが、今では大変この「ヤタ」という名前を気に入っており、誇らしくもあるのです。ご主人様に「ヤタ」と呼んで頂くのが、非常に有難く、たまらない喜びなのです。

それに不適切な名前という意味では私の方がよっぽどご主人様に失礼な呼び名を付けてしまっているのです。あの頃の私がここに来たばかりで、無知だったとはいえです。

私めは、全くそんなことは思わないのですが、周りの方々からするご小主人様はは風変わりなところのある方で、他の方々の輪に溶け込まず、私がお仕えする前からはぐれた場所にいるのを好まれていましたし、お仕えするようになってからもそうした傾向は変わりませんでした。そのため、ご主人様のことを他の方々は「あの子」と呼んでいらっしゃったのでてっきりお名前なのかと勘違いしまして。冷静に考えればお名前の訳などないのですが、あまりにも皆様がそう呼ばれていたので、お名前に違いないと思い込んでしまったのです。

ですのでお仕えする時に、「アノコ様」と呼びかけたところ、一瞬呆気あっけにとられた表情をされたあと、暫くお腹をかかえて笑われ、一頻ひとしきり笑われたのち、いいねそれ、と涙をぬぐいながらおっしゃったのです。以降何がお気に召したのか、アノコと名乗るようになってしまったのです。

さて、アノコ様と私がどういった存在かを端的にもうし上げれば、死神と使い魔でございます。

つまびらかにお話させて頂けるなら、皆様が想像されるそれらとは多少の差異はあると思うのですが、その差異も含めておいおい私共のことをご理解賜れれば充分ですし、そうなれば幸いです。

ただ一点どうしても誤解が生じぬよう説明させて頂きたいのは、死神というのは、何者も殺めないということです。魂が輪廻に乗って正常に転生をするようお手伝いをする存在で、人の死に関わるのは自殺してしまった人の彷徨さまよってしまう魂を正しく輪廻に導く時くらいなのです。

さて、この先は私の愚痴となりますので駄文となります。ですが、もし宜しければ、お付き合いください。


両の翼が風を切る。切った風の上半分は置き去りに。下半分は、広げた翼の下で丸くなって回転しながら翼と躰を支えてくれる。そうした丸い空気の塊が連なって、その上を滑っていくような。---人間の子供の遊具で幾つもの筒状の部品が回転してなめらかにすべらせる滑り台のような。---私の滑空かっくうはそんな感覚を抱きながら、風に乗るもの。


気が重くて常に厚い雲がたち込めるここでの飛翔は太陽の下、青空をを翔けるのと比べれば、物足りなさは勿論あるが、それでも飛んでいるというだけでつまなない猫とのやりあいで生じた苛立ちも少しは晴れるというものだ。

目指すお姿を見つけ、体を左に倒して旋回を開始する。右の翼の下の空気の回転が速まり、右の翼の上の風だけが冷える。左旋回した時のいつも翼に生じ感じる変化。

そのいつも通りの感覚のおかげで、多少緊張をともなう次からの動作にも躊躇ためらいなく移行できる。


目標のお姿を視界の正面にとらえた所で、翼を大きく羽ばたかせ、風を切ることをやめる。

そして両翼を大きく広げ、垂直に立て、今度はすべての通り過ぎる風を受け止める。

風を受け止める度に、ぐんぐん減速し、ぶつかるようだった風は撫でるようになり、まとわりつくように変わる。

そこで受け止め続けた風を前方に送り出すように、大きく羽ばたくと見定めたお姿の左肩へと目一杯に三本の足を伸ばす。

両翼で抱えられるだけ風を抱えると、肩に触れた瞬間しっかり掴まりながら足を深く折り曲げ、抱えた風を翼を畳むことで下に送って最後まで残った衝撃を逃がしながら、舞い降りる。

私が肩に留まったことなど気にされた様子もなく、「やぁ、ヤタ。」アノコ様は気軽に声をかけてくださる。

その気軽さに有難さを感じつつも、言葉を返す。

「『やぁ、ヤタ。』では御座いませんよ。指令が来たのではないのですか。でしたら、お声を掛けてくださいませんと。」

「あー、ごめんごめん、時間的に余裕もあるしもう少しのんびりでも良いかなぁと思ってね。」

形だけとはいえ、お詫びの言葉まで頂いては、私の溜飲りゅういんという程のものではなかったものは、あっさりと下がる。

「それでいつものこの場所にいらっしゃったのですね。おかげでお捜しするのに苦労はしませんでしたが。」

「ふん。」気の抜けた鼻から抜けるような返事を返された後、柵の上についた頬杖に一段深く沈まれる。

途端、アノコ様の非常に特徴的な頭頂部辺りで一つに結わえられた腰まであるつややかな黒髪が揺れる。

男性にしては華奢きゃしゃな体つきと端正たんせいな顔立ちと相まって、お似合いではある。

そのそばに無造作に立てかけられている長大な---アノコ様の身の丈の二倍ほどの---槍は異様に映る。装飾もない武骨ぶこつさが、その印象に拍車をかけるだろう。刃の部分が三日月とそのきらめきを模したような六角形の先端で形成されていることでわずかながらその印象を和らげるかもしれないが。

返事を返してくださった以外微動びどうだにされないご様子に、「何かをご覧になっているのですか。」尋ねてみる。

「うん彼らをね。」

アノコ様の指し示すその先には、大鎌をたずさえ、アノコ様のようにまとめれば良いものをと思わずにいられない黒い長髪を振り乱す少年と彼に飛び掛かる(先程までの苛立ちを私に生じさせたさせた相手でもある)黒猫の姿。

私は思わず首の落ちる思いで肩を落とす。

「何故よりにもよってあの者達などをご覧になっているのですか。」

失礼ながらも呆れた口調を隠し切れない。

「興味深いなぁと思ってね。」

こうしたところが他の方々がアノコ様を風変わりなどと失礼なことを言う理由なのだろう。興味をもってどころか白い目をもってですらあの者達を注視する方など皆無であろうから。

ろくたましいの回収も出来ない言葉は悪いですが、役立たずの死神と使い魔ですよ。アノコ様が興味を持たれるような者達ではありませんよ。」

若干力を込めて発言してしまい、翼をもたげてしまう。私のつまらないくせだ。

「そこなんだよね。」視線を私に向け直しながら、仰る。

「どこでしょう?」

思わず首をかしげながら返してしまう。

「役立たずの部分。」

「申し訳ありません、よく分かりません。」頭を小さく下げて謝意をお伝えする。

アノコ様が体を反転させたので、私は柵の上に避難する。

アノコ様はおおきくのけ反って両肘を柵の上に乗せ、中空を見上げる。

「俺らってさ、指令があって魂の回収に向かうでしょ?」

「そうですね。」

なのに彼らは魂を回収して来ない。」

「えぇ、ですから役立たずなどと呼ばれるのではないですか?」

アノコ様が眉根を寄せて思案顔になる。その一拍いっぱくをおいて応える。「でもさ、彼らだって指令があって現場におもむくってことは、そこに自殺をしようとする人間がいるはずなんだよね。

「その通りだと思いますよ。」アノコ様の謂()い7わんとしていることが理解できず、相槌あいづちだけを打つ。

「でもその現場に彼らの代わりに誰かが駆り出されたなんて話は聞いたことがない。少なくとも俺は知らない。」

「どういうことでしょうか」

アノコ様の思いを汲み取れないことに、申し訳なさはつのるが、訊き返してしまう。

「うん、ってことはさ、自殺するはずの人間がそうではなくなっているってことなんだと思うんだよね。」

アノコ様のお話をここまで聞いて、ようやく私にも理解出来た。

「そういうことですか。あの者達は、役立たずどころか殺戮者ということですね。」

翼を広げそうになるほど持ち上げてしまう。

「うん?」

「あの者達が自殺するはずの人間を直接手にかけて自殺を他殺ということにしているというこですよね。なんて非道な。いやまさしく死神の所業。しかし、何故……まぁあの者達のすることです、指令をこなすのが面倒だから、とかそんな理…由…。」

「アハハ!ハハハハハ」私の発言は、アノコ様の笑い声に掻き消される形で、すぼんだ。

「ハハハ、ヒィーゴホっ、ゴホっ、…。」

お腹を抱えながら笑われるお姿は、初めてアノコ様とお呼びした時を彷彿ほうふつとさせる。涙をぬぐい、落ち着かれるまで暫くの時間を要した。

「ゴメン、ゴメン、そうだね、その可能性もあるね。」

あるまじきことだが、戸惑とまどいが憮然ぶぜんとした態度に出てしまっていたらしい。

いえ、こちらこそ申し訳ありません。」

「いや、こんなバカ笑いされたら、当たり前の反応だと思うよ。でも、彼らが殺戮者さつりくしゃって発想は、…くっ…ゴメン。」

アノコ様は一度吹き出しかけたのを堪えて言葉を締め括る。

確かに、あんな間抜け達にあっさり殺される人間がそうそういるものでもないだろうが。

「では、アノコ様はどう考えておられるのですか?」

わずかばかり、反抗的な物言いになってしまったかと危惧する。

「うーん…」

私の器具など杞憂だったらしく、アノコ様は眉根を寄せて思案顔になると鼻の下に手を当てて中空を見上げられる。

「俺も直接見たわけじゃないから確信はないけど」少々の間があって、思案中に上がっていた視線を私に向けて続けられる「自殺をやめさせてるんじゃないかと思うんだよね。」

さらっととんでもないことを仰るので、返答に窮する。

「人間が自ら死を選ぶなんてよっぽどのことですよね。それをあの者達が止めてるなんて…」

「異論を唱えたい気持ちも分からないでもないけどね。でも、そう考えると辻褄つじつまは合うと思うんだよ。」

「……」

あの者達の話になると、必ずとなってしまったアノコ様の苦笑に、どう思えば良いのかも決められず、そのまま無言を通してしまう。

「彼らは指令を受けても魂を回収してこない。かといって彼らの代わりに魂を回収に行った者もいない。ヤタが言ったように死神が直接手を下して人間を殺めているのなら問題になっていないわけが ないと思うんだよね。なら、彼らがに赴いた先で自殺を止めてるって考える方が自然でしょ。」

「あの者達ですよ。」知らず知らず翼が持ち上がってしまう。

「ヤタは、彼らをを目の敵にしてるからなぁ」

アノコ様の苦笑が胸に刺さるが、抗弁は口を吐いて出た。

「ですけど、ショーセイなんて一人称が“小生”だからってふざけた理由で名付けられた猫のしかも新米の妖怪ですよ。」

「名前に関しては俺らも大概だと思うけどね。」

苦笑いをもう一段深く苦みを増したものにして、洩らされる。

「申し訳ありません。私が“アノコ様”などとお呼びしたばっかりに。」

「いやいや、ヤタが謝るところじゃないでしょ。俺がその呼ばれ方を気に入ったってだけなんだから。」

「前々から一度お訊きしたいと思っていたのですが…」

「アノコって呼び方が気に入った理由?」私の言い澱みを察して続けて下さる。私は首肯して答えとさせてもらう。

「だって、陰でずっと『あの子』『あの子』って呼ばれていたからね。おおっぴらにアノコって呼ばれることになれば、『あの子』って例え陰で言われたとしても、陰口にはならないじゃない?」


首を傾げて、同意を求められるが、はぁ、と生返事を口にすることしか出来なかった。

陰口では駄目で、面と向かってなら問題なしと判断される理由が私には理解できなかったから。

「気持ちの問題だよ。」そんな言葉を付け足して私の戸惑いを解消しようとして下さる。

感謝や敬意を込めてアノコ様の顔を見上げる。と。

「あ、アヤツくんがショーセイくんに蹴られrた。」

蹴られた?

あまりに衝撃的な言葉に、行動を起こす前に、アノコ様の発言を胸中でオウム返ししてしまう。アノコ様の視線を追って、首を捻る。

その先で左後ろ脚を突き出したまま、空中で躰をひるがえす、ショーセイとよろめくアヤツの姿が目に飛び込んでくる。

開いたくちばしふさがらない。

「死神って猫の一撃でよろめくものなのですね。」

回らない頭で、どうでもよいことをつぶやいてしまう。

「…思いがけない一撃だったんじゃない?」

アノコ様が私の戯言に付き合って下さる

「思いがけないのは当たり前ですよ。使い魔から危害を加えられる死神なんて聞いたことがございません。」


自然と翼は持ち上がる。

「確かに。」口元を押さえて、笑いを堪こら)えたアノコ様からそんな答えが返ってくる。

「ショーセイは誰に対しても不遜ふそんな態度をとりますし、主人を文字通り足蹴あしげにする使い魔ですよ。アヤツにしても、そんなショーセイを容認しているような死神なのですよ。お言葉を返すようで、本当に申し訳ないのですが、やはり意図して魂の回収をして来ないのではなく、回収出来ないだけなんだだと思います。アノコ様を惑わすなんて本当に、けしからん者達ですね。」翼を持ち上げたまま、まくし立てた私の言葉を終わりまで聞いて、「lならさ、今度

彼らを尾けてみようか。」そんなッ提案をささる。

「何故、そのようなことをなさるのですか。」

「そしたら、彼らが魂の回収をしに行った先で何をしているのかがはっきりするじゃない?」

「む…」

「む?」

無駄足になるのては、という言葉を言いかけて飲み込む。

先程から口ごたえが過ぎるし、アノコ様と共に人間界を散歩するとでも思えば、悪い時間の過ごし方でもない、と思い至った。

「心得ました。」私はそうした内心の打算をおくびにも出さずに従順に頷いた。


夜の闇というのは、どこまでも果てしなく折り重なり全てをを重く押し潰すようで。その重苦しさに音すらも霧散するのかひっそりとした静寂がひしめきあっている。何かの拍子にそれらすべてがうごめきだすのではという不気味さがある。

闇夜の中空に浮かぶ長大な槍を携えた人影と三本足の烏より不気味な物などそうそうないだろうがな、自嘲気味にそんな風に思考を締め括る。

「ちょっと楽しみだねぇ。」

しゃがんだ姿勢で眼下に見開いたl目線を固定したまま、言葉通り、期待を滲ませ弾んだ言葉でアノコ様が仰る。

胸を高鳴らせたこのご様子は部気味からはほど遠いがな。一旦は締め括った思考にそう付け加えて自嘲を少し緩める。

私の心の変化に合わせるかのように、雲に隠れていた満月が現れ、全てのものを照らし出す。


「あまり期待されない方が、宜しいかと。」

忠告のつもりで声を掛ける。

「なぜ?」

ただただ不思議そうに問い返される。

「期待が大きいと落胆も大きくなるではないですか?」

「ヤタはどうしても彼らが有能とは認めたくないんだね。」

アノコ様の苦笑はさっと吹いた一陣の夜風にさらわれ優しく夜気に紛れた。

眼下でも少し遅れて、風が吹き抜けたようだ。

アノコ様の視線の先、学校と思おぼ)しき建物の屋上で手摺てすりに手をかけうつむく娘の髪とスカートの裾をたなびかせている。

「でもですよ、実際言い争いの後、別れたあの娘は結局こうしてここに戻ってきているではないですか。」

私の翼は持ち上がる。

先日、アヤツとショーセイの後を尾けた際に、今と同じようにたたずんでいた娘。

姿を見せたアヤツとショーセイと言い合いをした後、一度は大人しくここを去った娘だったが、日をおいてまたこうしてここを訪れている。

「姿まで見せて言葉を交わしておきながら、あの娘が再びここに来ている以上、なんの成果も上げられていないということだと思うのです。なのでとても有能とは思えないのです。」私の翼は大きく広がっている。

「結論はそんなに急がなくてもいいと思うんだよね。」

私のまくし立てた言葉をゆるりと受け止めて、こちらに送り返してくる。「自殺を止めるなんてそんな簡単なことじゃないと思うしね。それに、少なくとも彼らが自殺しようとしている人間をあやめようとしているのではなく、関わろうとしていることは分かったじゃない?関わろうとすることが死神として正しいのかは別として、さ。」

「確かにアノコ様の仰る通りですね。私の予想が見当違いであったことははっきりしましたから。」

「別にヤタの考えを正したいってわけじゃなくて、単に俺が知りたいってだけなんだけどさ。」

手摺に手をついたまま、娘は深く項垂うなだれ、長い髪がかかって横顔を隠す。その姿勢で固まったまま、じっとしている。何かのきっかけがなければ、ずっとこのままなのではと危惧してしまうほどの停滞。

そこへアノコ様はすっと視線を降り注ぎ続けている

その目線が優しく映るのは、私の贔屓ひいき目だろうか。

しかし人間とは本当に不思議な生き物だな。望まずとも時がくれば終焉を向かえる己の命を自ら絶とうとするのだから。生存本能は生物である以上人間にも備わっているだろうに、それに抗おうというのだ。理解が出来ない。理解できないから不思議だと思ってしまう、が、分からないからといって、すぐに嫌悪感に繋がったりするわけでもない、ただ興味深いと思う。

アノコ様の眼差しの優しさが私が感じてる興味深いというこの思いと同じところに端を発しているのかは、分からないが。

項垂れたままの娘がいる屋上に続く平坦な道が存在するかのように中空を近所へのお散歩っといった気軽な足取りで、アヤツとショーセイが現れる。満月の降る静寂を壊さぬよう、ただただ音もなくだが。

中空と屋上が地続きであるとの錯覚を裏付けるかのように、変わらぬ足取りで近付いて、娘に声を掛ける。顔を上げた娘は心底嫌そうに視線を向ける。

「信頼関係も何もなさそうですね。」

「確かに。」発せられた言葉には、苦笑の苦みと笑みの朗らかさの中間のようなものがにじむが、アノコ様の視線は二人と一匹から全くれる卯様子はない。

屋上に視線を戻せば、娘がアヤツに詰め寄っているがアヤツは意に介した様子もなく、それがしゃくに障るのか、娘の憤慨ぶりは増すばかりである。

本来助け船を出すなり、仲裁するなりをする役回りであろうショーセイは、我関せずの立場を貫くことを決め込んでいるらしく、寝そべって欠伸あくびなんぞをしている。

娘の言葉を受け流していたアヤツが静かに言い返し始めると、最初は不満顔で聞いていた娘が動揺を見せ出す。

それを振り払うかのように叫ぶように何かを言い返すが、

、アヤツの一言で黙らせられる。

黙ってから、何拍かの時間はかかったものの娘は、アヤツをキッとにらみ返す。

「気の強いお嬢さんだな。;あんな状況でアヤツくんを睨めるなんて。」

アノコ様が少し可笑しそうに称賛の声を上げられる。

すると突然アヤツが大鎌を構える。

まさかここにきて人を殺めるつもりか。

思わず救いを求める心地でーーー大して関わりのない娘の為に何故私がそんな心境になるのかも不思議だがーーー、咄嗟とっさにアノコ様を見やる。アノコ様といえば、しゃがんだ膝に肘を載せ、その先のてのひらあごうずめた姿勢を崩さずにただただ視線を送り続けていらっしゃる。そんなアノコ様のご様子で、私も落ち着きを取り戻せる。

構えられた大鎌を見て娘が反射的に両手をかざし、体をかばい目を瞑って硬直する。その隙にアヤツが大鎌の柄の先端で娘の胸の中央辺りをゆっくり押し込んでいく。すると、、娘の背から透けた娘の体が大鎌の動きに合わせて、せり出してくる。その様はせみの羽化を思い起こさせる。

半透明の体が元の体から出切ると、元の体がストンッと膝から崩れ落ちる。地面に膝を打ち付ける寸前でアヤツが娘の体の下に入り込み、背で娘を受け止める。そして、後頭部を支えながら、ゆっくり仰向けに寝かす。

よくよく見れば半透明と実体の娘の体とが、頭頂部から伸びる線のようなもので繋がっている。その線は半透明の体と同じ色合いをしており、夜ということも相まって遠目にはかなり見づらい。

アヤツが娘を寝かし終えたところで、半透明の方の娘が翳していた手をどかしながらおそるおそる目を開ける。

しばし流離さすらった目線が娘自身の体に辿たどり着くと、ぴたりと泊まる。

その後は、呆然としているのだろう、立ち尽くす。、

そうした半透明の娘にちょろちょろとショーセイが近付いていく。

少しの間があって娘がショーセイに詰め寄る。

あのいつでも尊大な態度を崩さない猫又であるショーセイが、人間の娘に何を言われようと気にすることなどないだろうが。小娘が~、という一言で全てを片づけていそうではあるしな。実際、素知らぬ顔で娘の前をショーセイが横切る。そうした空気をショーセイに輪をかけて、一向に気にした様子もなく、アヤツが娘に二歩歩み寄る。

ふとアノコ様に目を向けると、そんな眼下の様子を微笑ましそうに見ていらっしゃる。

「アノコ様、随分楽しげにご覧になっていますが、あの者達のやり取りは聞こえているのですか?」

「ううん、聞こえてはないよ。単に他の死神の活動なんて見る機会なんてないから、よく見ておこうと思って。それに、話は聞こえてこないけど、愉快そうなやり取りをしてるなぁとは思って見てるよ。」

「あれが愉快そうなのですか?」

私が突然上げた驚きの声を苦笑でやんわりと受け止めてくださりながら、「混ざりたいかって訊かれれば、否って答えるけど、はたから見てる分には面白いよね。そえれと人間と関わる時でも彼らは彼らだなぁって。」

本当に可笑しそうにお笑いになる。

「アヤツの方は知りませんがショーセイは、相手によって対応を変えるなんて高尚なことが出来ないってだけですよ。」

「なるほど、……さて、そろそろ何かを始めるみたいだね。」

アノコ様とそんな会話をしている間に、半透明の娘の方も少し離れた位置に寝かされていた。

ショーセイはアヤツの頭の上に移動し、左前脚で顔を丹念にこすっている。

ショーセイを頭に載せたアヤツは実体の娘と半透明の娘を繋ぐ線をいじっている。どうやら結び目を作っているらしかった。

アヤツは掌を二回ほど打ち付けると脇に置いていた大鎌を拾い上げ、ゆっくり立ち上がる。

アヤツは大鎌の刃にかなり近い部分を両手で持って、娘と娘を繋ぐ線と平行になるよう、結び目の結び目の丁度真ん中あたりに立つ。

線の向こう側に大鎌の刃を振り下ろすと、地面ごと手前に引いて、結び目と結び目の間で線を切断する。

「へぇ~。」

アノコ様の上げる感嘆の声に思わず視線を向ける。

魂と実体を完全に分ける方法があると聞いたことはあったんだけど、あんな風にするんだねぇ~。


「アノコ様でもご存知ないのですか?」

「うん、だって魂を回収してくるだけなら、そんなことする必要ないでしょ?」

特にとがめたつもりもないのだが、アノコ様に弁解めいたことを言わせてしまう。

アノコ様のお顔を拝見するのもしのびなくなって、あの者達に視線を戻す。

ショーセイは変わらず、アヤツの頭の上におり、寝ている半透明の娘の頭の傍にアヤツが立っている。

アヤツが大鎌を正眼に構えると、面倒臭そうにショーセイんがアヤツの頭から飛び降りる。

地面と垂直に眼前に持ち上げた大鎌から、アヤツがパッと手お離す。屋上に大鎌の柄の先端が触れた瞬間、そこを中心に半径5メートルほどのにぶく紫色に光る二重のーー半透明の娘とアヤツとショーセイだけを囲う円ーーが生じる。

大鎌が一瞬だけ直立する。その後、バランスを崩し倒れ始めたところをアヤツが右足で柄を払う。大鎌が回転しながら浮き上がってきたところを、アヤツは右手を振り下ろし、左手を振り上げ回転を速める。

回転速度を増した大鎌の柄の先端と刃の付け根に紫色の光が灯る。

「ほぉ。」上げられたお声に思わず盗み見たアノコ様は、僅かに身を乗り出しいる。

紫色の光の円を描くようになった大鎌にアヤツは無造作に右手を突き出す。

綺麗な真円の軌跡を残していた大鎌は、アヤツの右肘を中心にいびつに円を二つ重ねたような軌跡に変わる。紫色の光に他照らされるアヤツは奴にしては珍しく真剣な眼差しで大鎌を凝視している。大鎌の回転に煽られるからなのか長髪が浮き上がって、そよいでいる。

大鎌の回転の支点を、右肘、右の二の腕、右肩、首、左肩、左の二の腕、左肘、左手の甲へと澱みなく、ずらしていく。

左手の甲でで数回転させると、大きく宙へと大鎌を跳ね上げる。

「綺麗だね。」

ハッと我に返る。不覚にもアヤツの舞いに見惚みとれていた。。その事実にささやかにも抗いたくて「それほどでもないですよ。」心中とは裏腹な言葉発する。

「そっか。」私の発言は、アノコ様の微苦笑びくしょうを誘っただけだったが。

跳ね上げた大鎌を背に回した右掌で回転を維持したまま受け止める。後ろ手に数回転させた大鎌を回転させ続けて右腕を大きく回して、頭上にかかげる。

大鎌の回転が水平になると、地面の円と共鳴を始め、輝きを増していく。それはいつしか、円錐の先端部分を切断したような、上面が底面よりかなり狭い、円柱状の光となる。その中に閉じ込められた形になっている、アヤツとショーセイと半透明の娘が紫に照らされる。二人と一匹を囲んだ後も、円柱はどんどん輝きを増し、闇夜をどんどん払い除ける。直視もままならないまばゆさになった数瞬後、紫色の光源は音もなく掻き消える。寝かされた実体の娘だけを残して。

「時をさかのぼったね。」

実体の娘が横たわる少し先、あの者達がいた虚空に視線を送り続けながら、アノコ様がポツリと洩らす。「始めて見たよ。こんな能力ちからなんて持ってて、どうするんだろうと思ってたけど、使い道ってあるもんだねぇ。」感心しきりといったアノコ様の発言が面白くない。

「あの者達では有効活用出来るかははなはだ疑問ですが。」何故か負け惜しみじみた響きで、私の喉を震わせる。

「ヤタは彼らに対して一貫して辛辣だなぁ。」

あまりにも苦笑いさせ過ぎた為固まってしまったのか、苦笑の口元、目元のままおっしゃる。

「…ですが…。」

抗弁を口にしかけた時に、アノコ様の視線の先で紫色の光が灯る。

その光から、ショーセイを肩に載せたアヤツと娘が馴染みの喫茶店に入店するような気楽さで、出てくる。

二人と一匹が光を通り抜けると、音もなく閉じるように紫色の光が消失する。強い光源がなくなった視界は、月光だけが照らすたおやかな光景だ。

当たり前なのかもしれないが、月の光は出来損ないの死神とされるあんな者達でもほっとかないのだな。

ただ強く目を惹かれたのは、アヤツでもショーセイでもなく、その脇をトボトボ歩く娘の方だ。

月光をまとい、赤く腫らした目ながらも高く目線を保つその姿に。手摺を前に項垂れていた娘と同一人物と疑いたくなるほど、凛々しく映る。

「あの光の向こう側で、いったい何があったんだろうね?」

アノコ様も私同じ印象を抱いたらしく、そんなことを口にされる。

「ですね。」

「あの様子だと、彼らは今日も魂の回収に失敗ってことにないそうだね。」

「ですね。」

月光でも形を与えられない一陣の風が、アノコ様の穏やかな言葉と間抜けにも同じ言葉で同意した私の返事を攫っていった。


「近寄んなって言ってんだよっ。」

キンキンと耳障りな叫び声が淡く満月の光に照らされる屋上に響き渡る。

先日、ショーセイとアヤツと娘が時を遡ったのとは、別の屋上。

人間の胸の高さの手摺が囲い、正方形のコンクリートのパネルが一面敷き詰められている。その隙間の数箇所で生命力の強い雑草が顔を覗かせている。特に変わり映えするわけではないが、あの時の記憶が鮮明なので、逐一相違点を見つけるまでもなく、“違っている”と認識してしまう。

わめいた男もアノコ様も手摺を越え、屋上の狭いふちに立っている。

人の目に触れると面倒だから、静かにしてもらえないだろうかと、冷ややかに見てしまう。

人の目に触れずども既に面倒なことになっているのは、ショーセイとアヤツの所業を見届けた後のアノコ様の「俺たちにもああいうこと出来ないかな?」って発言に端を発している。

私は悪い予感がするのを禁じえなかったが、アノコ様の好奇心を気分を害されずに収めて頂く方法を見つけられず、こうした事態を向かえていた。

どうすれば良かったのか、手摺の上で自分の鉤爪を見下ろしながら思いを巡らせてみるが、アノコ様の機嫌を全く損なわずになどと都合の良い選択肢を捜している以上、有効な反省にはならなそうなので、途中で放り投げる。

人語を解す烏などが、口を挟めば目の前の男の混乱は深まるばかりだろう。せめて黙しておこうとだけは、はっきりと心に決めた。

「俺は一歩も動いてないけどねぇ。」男の半狂乱ぶりとは対称的に、落ち着いた声音でアノコ様が応じる。

「うるっせぇ、なんなんだよ、お前は。」

五月蠅いのはどう見聞みききしても、男の方だが指摘したい気持ちを抑える。

「おいおい、俺らに会いたいと思ってくれたから、こんな時間、こんな場所にいるんだろ?」

「はぁ?」

訳が分からないという風に問い返してくる。

口の利き方は気に入らないが、静かになるのなら、と黙殺しておく。

「俺らは俗に言う死神って奴だから。」

アノコ様は簡単に告げると、これみよがしに長槍の柄で地面をトンッと突く。

男は、あんぐりと口を開けるとそのまま固まる。

「……し…。」

「し?」

「…し、死神って、大鎌でも骸骨がいこつでもないじゃねぇかっ。」

また叫ぶのか、苦々しい思いを視線に込めて、男を見る。

少なくとも外見には分かりやすい特徴のない男だ。人間の集団に紛れてしまえば私には、二度と見つけられないだろう。服装は人間の男が仕事中に直用してる一般的な物で、酷く着崩している。たまに強く吹きつける風に、服装のそこかしこが大きくはためく。その様も音も五月蠅く、風にぎ取られてしまえ、と思わないでもない。

「人間が勝手に決めたイメージを本物こっちに押し付けるなよ。それに、大鎌だろうと長槍だろうと与えられる痛みも振るった後の結果も変わらないよ。」

アノコ様の言葉を裏付けるように、満月の光を反射して研ぎ澄まされた刃特有のきらめきを放つ。

「……」

刃の圧倒的説得力に男も押し黙る。

「やっと大人しくなってくれたところで、訊いていい?わざわざ俺らがこんなところまで出向かなきゃいけなかった理由を。」

語気は強まらない、なのに有無を言わせない強さが宿る。

槍の説得力を借りずとも。

「お、俺が呼んだんじゃねえから知らねえよっ。」

虚勢はそれと分かってしまっては、効果が薄いだろうに、そう思う。金切り声からも、穂先から外せない目線からも、のけ反って距離を少しでも稼ごうとする様からも、、恐れ、怯えているのは明白だからな。

しかし不思議なものだ、死を決意してここにいるのだろうに、長槍に怖れを抱いたりするのだな。

都合が良いのでどうでもよいが。

「あんたのやろうとしている、つまらないことのせいで俺らはここに呼び出されている。だからあんたが呼びつけているも同義だろ。」

槍の切っ先で地表を指し示して、アノコ様は冷たい視線を男に送る。


「なんで…」

「あんたがここから飛び降りようとしていると知った経緯を、なんで俺が説明してやらなきゃいけないんだ?」

男の言葉をさえぎってアノコ様が言い放つ。

横柄や横暴とは違う、それでも言葉を向けられていない私の背筋も伸びる鋭利さで飛んでいく。

「……」

絶句して言葉を失った男は泳いで溺れる寸前なのでは、と思わず憂える目線をなんとかアノコ様に向ける。

「そもそもあんたの問いに答えるために声をかけたわけじゃない。」

そうした視線を向けられることももわずらわしいと言わんばかりの、物言い。普段のアノコ様もこうであったら、私も心をへし折られそうではある。

「でも、あんたの話なら聞いてやってもいい。」

男は沈んでいた視線を上げて、ぽかんとした顔をアノコ様に向ける。

「あんたがそこから飛んで魂を回収するだけで、こっちは仕事完了だけど、この場に立ち会っってしまった手前、遺言くらいは聞いてあげるよ。」

そういえば、登場するタイミングを見計らうアノコ様は、「まだかな、早いかな、もうかな、まだ早いかな。」珍しく決めあぐねていて、失礼ながら可愛らしかった。

「…それなら、ここに。」


そんな可愛らしいアノコ様を知らない男は、怯え、震える手で、靴の下敷きになってはためく封筒を指し示す。

「聞・い・て・あ・げ・る・よっ。」

語気を強めらて、アノコ様が仰る。アノコ様、漢字の読み書きは苦手でいらっしゃるからな。アノコ様の数少ない弱点かもしれない。

「…別に聞いてもらわなくても」

消え入りそうな声で男が反論を試みるが。

「あんたが死にゆく姿を見届ける俺らが、最期の言葉を聞いてあげるって言ってる。話していきなよ。ちょっとでも心残りを減らした方がいいだろ。」

語気を緩めたのにかえってつよさを増した発言に、一段と空気が張り詰める。

「………いろいろあったんだよ。」

観念したらしい男は、重々しく語り始める。

へろへろとへたりこんで、手摺に背を預ける。

アノコ様も数歩、男に歩み寄ると視線を合わせるためだろうかがみこまれる。

「俺は、本当にモノを知らなくて、考えなしだったから全然気付いてなかった。自分が度を越した怠け者だってことに。」

恨みがましく見つめる男の視線と先をううながすアノコ様の視線とが、近くなったその距離の中間ほどでぶつかる。その辺りの空間をぼそぼそとした男の声が埋めていく。

顕著けんちょに現れだしたのは、高校の頃だったけど、中学の頃には表面化ただしなかったってだけのことだったんだと思う。」


「部活も三年間続けたし、高校受験もつつがなく終えられたから。」

これは、身の上話を聞かされるのか、げんなりと溜息を洩らす心地だ。

アノコ様が熱心に耳を傾けていらっしゃるので、、ただただ諦めるしかない。

「でも、それは部活の顧問が怖くて俺がへたれだから、さぼったり辞めたり出来なかったっていうだけだったし、親がずっと塾に通わせてくれていたから相応の成績を取ることが出来ていたってだけだったんだ。環境が変わって、そういうたがが外れた高校では、すぐに部活を辞めたし、成績もあっという間に地に落ちた。

中学の頃、成績に関しては、勉強の原動力だった成績が落ちたらどうしようとか勉強がが分からなくなったらどうしようとか、そういった恐怖心も、失くしていたしな。」

男の視線がかくんっと落ちる。

「それでも俺がへらへら生きていられたのは、俺には過ぎた彼女がいてくれたから。彼女さえいてくれれば、なんとでもなるって思ってた。」

聞き耳をたてるアノコ様に向けてというより、独白めいたつぶやきは、いささか聞きとりづらくなったが、風と風にはためくもの以外に邪魔な音のない静かな夜だ。聞き逃すことはなさそうだった。それがさいわいとは思えなかったが。

「でもなんの努力もしない俺に、そんな彼女もついには愛想をつかして、去っていった。……当然の帰結なんだよなぁ。」

激しい後悔を取り戻せない過去に向けてもどうにもならないから、自虐で散らすしかないのかもしれない、そんな濡れた響きで男の声は風をかき分けて私にも届く。

「その後の俺には尚更、頑張る意味も理由もなくて、ただただ楽な方に流れて。そんな状態だったから当然のように大学の受験に失敗して、何もない俺が出来上がった。」

アノコ様は口を挟まない、ただただ黙して、男が黙れば視線で先を促すだけだ。

「その後もフラフラ生きた。それでも何とかつとめることが出来た。」

足元一面に草が生えていたら、むしりながら、話していそうなほどには、アノコ様の目線を避けながら、男はこぼす。

「そこでやっと誰かの為にって思えるようになって、それがやりがいみたいになっ、て、かなり無理しながらだったけど充実した日々を過ごすようになった。」

話の内容は、幾分明るさを取り戻したように聞こえるが、男の口調は、変わらずに沈んだままだ。

「そんな矢先、新しく赴任してきた上司に、君がいると他の人間の仕事の邪魔になるって、…言われた。」

男が噛みしめるように絞り出す。ここまで重い言葉だと、風にも吹き飛ばされず、その場に落ちるのだろうか。小声になってもはっきりと耳を打つ。

「どういう理由で、邪魔になるって言われたの?」

アノコ様の問いに、男は目を伏せたまま首を振って言いたくないと返す。

アノコ様は、その様子をただ見守っている。

男の目が届かないところでは、普段のアノコ様らしいアノコ様だ。

「…結構残業も休日出勤もして、他の人の負担を軽くしようとしていたつもりだったんだけどな。」

そんなアノコ様の様子には、多分気付いていないだろう、男の独白は続く。

「感謝して欲しかったとか、昇給みたいな対価が欲しかったとか、そんなことよりも、さっきも言った通りやっと見出せたやりがいだったんだ。でも俺が頑張れば頑張るほど、誰かの役にたつどころか他の人達の邪魔になってるんだったら、俺の頑張る意味なんてないよな。」

同意を求めたわけではないのだろう、訴えるわけでもなく沈んでいく声。

「それからは、どんどん人と一緒にいるのが辛くなった。心療内科とかにも通ってなんとかしようとしたんだけど、どうにもならなかった。こんな俺が生きていく意味ってなんだよ。」

男の独白が止んだ。

「知らないよ。」

すぐさま、アノコ様が突き放す。先ほどまでの見守る視線が嘘だったかのように。

「知らなくて結構だ。そんな意味のない命なんて、ここで終わらせようと思ったんだよ。もういいだろ、ほっとけよ。」

唾棄だきするように男は長かった話しを締め括った。

「ねぇ、ヤタ、俺らはこんなくだらない理由で死のうとしている人間の為に、こんなところまで来たの?」

呆然と顔を上げた、男がうつろな視線でアノコ様を見る。

「そうなりますね。」

アノコ様に声を掛けられれば、口を開かないという誓いに固執するわけにもいかない。

「こんなくだらない理由で死のうとしてる奴の面倒を見なきゃいけないなんて冗談じゃないんだけど。」

不機嫌そうに、侮蔑を込めて聞こえるアノコ様のお声が男の頭上を通り過ぎて、私の耳に届く。

「そう言われましても、これが今回の任務ですから。」

男の視線は私に定まると、虚ろな視線の目が見開かれる。

「だってさ、俺、笑いものになっちゃうよこんなのの魂なんか回収してったら。」

実際は、魂の回収をしてそしられたり、あざけられたりすることなどありえない。魂の回収ができずに見下されている存在ならいるが。

「例え、そうなるとしても、任務を放棄するよりは、幾らかマシかと思います。」

「でもヤタだって、こんなゴミを本当に輪廻りんねに戻していいのか疑問にもなるでしょ?」

アノコ様の意図するところは、伝わり過ぎるほど伝わってきているので、内心、溜息を吐く心地だ。私に演技なんてものができるのだろうか、と。

「どんなにゴミカスな人格だろうと、魂自体に優劣はございませんから。」

私の“ゴミカス”って単語で、アノコ様に意図を汲めています、と主張しておく。主張になっていない、とは思いたくはない。

「でもさぁ、正直アホらしいよね。人生がうまくいかなかったからって、やり直し感覚で自殺するクズ人間の為に、態々(わざわざ)俺らが出張でばらなきゃならないなんてさ。」

男の目に少し、光が灯る。例え怒りであっても、強い感情は、生への執着になることもあろう。悪く転がることも勿論あろうが。

「ごもっともですが、致し方ありません。私共にクズの魂を選別する権限など有りませんから。」

「でもさ、自分の命をここまで軽率に扱った魂なんて輪廻にいる?」

「個人的には、全く必要ないと思いますが、私共の判断することではありませんので。」

呆然と持ち上がっていた目線は足元に落ちて、男は小刻みに震えている。

「でも今回一点だけ良い点があったね。」

「どんなところでしょう?」

アノコ様がそう切り出されたので、尋ねる。

「普通さ、いくら見慣れていても、誰かが自ら命を絶つ瞬間には『なんで…』って惜しむ気持ちが芽生えるもんなんだけどさ。」

含みを持たせたままアノコ様が言葉を結ぶので、私が引き継ぐ。「なるほど、そういう意味では僥倖でしたね。惜しむ気持ちなど一切抱いだかずにすみますから。」

「だよね。」

アハハハハハハ

アノコ様が大いに笑われるので、アァーカァー、普段上げない鳴き声を二回ほど上げておく。

っざっけんなよっ、ふざけんなよっ

立ち上がりながら、とうとう男が絶叫する。

図星をつき過ぎちゃった?」

アノコ様は屈んだま、見上げる形になってもなお、見下す視線でもって、男に告げる。

「くそったれ。」

男が叫びながら屋上の縁に足をかけ飛ぼうとした刹那、男の眼前に穂先が現れる。「まだ早いよ。」落ち着いたアノコ様の声が響く。男が怯んだ隙に、アノコ様が時計回りに捻った体を戻しつつ、槍の上下を入れ替える。

踏みしめた右足の体重を左足に移し始めながら、再度、時計周りに体を捻りだす。その勢いを乗せ、長槍の柄に近い部分を握る右手を突き出す。

男の腹に長槍の柄の先端がめり込む。

「ぐぇ。」

汚らしい声を上げ、男の体が手摺を越える。

畏怖いふを抱いてそれどころではなかったのだろうが、アノコ様に危害を加えようとしなかったところだけは評価できる。反応の早さを見る限り、男の行動はアノコ様にはお見通しではあったらしいが。

どさっ

男の体が屋上に背中から落ちる。うぐっ小さなうめき声も聞こえたかもしれない。

「よいしょ。」

軽い掛け声とともにアノコ様が軽々と手摺を越える。

「何を俺の言葉から逃げようとしている。」

そして、男の前に立ちはだかったアノコ様が仰る。

「…て、めぇ…」

体が痛むのか、切れ切れの声で男が恨みがましくそれだけを口にする。

「笑わせんなよ。あんた、人生がうまくいかないからなんてそんなつまない理由で本当に俺の手をわずらわせようとしてたんだな。『ふざけんなよ。』は、こっちの台詞なんだよ。」

男に覆い被さるようにアノコ様が迫る。

「あんたの人生をどうしようとあんたの勝手だが、その命まであんたの自由にできるなんて思うなよ。」

男が言い返せない間にアノコ様が畳み掛ける。

「俺の命だ、…俺の勝手だろ。」

痛みを堪えながら、絶え絶えにもなんとか形にした男の言葉が風に乗る。

「何が『俺の命』だ、勘違いすんなよ。」アノコ様が屈んで、男を喰い殺すのではと思うほど顔を近づけて吠える。「人生と同じように、その命までもあんたの自由に出来るなんて思い上がるなよ。」

私も今まで一度も目にしたことのない、怒りにまかせ叩きつけたかのようなアノコ様の怒声。

「…俺のもんなんだ。俺の自由にできて当たり前だろ…うが。」男がなんとか体を起こす。そのまま後ずさることすら許さないよう、アノコ様が立ち位置を変えられる。

「その命はあんたのもの?なら、あんたがその命を得る為に払った代価はなんだ?」

「代価?」

「あんたがその命を所有しているっていうなら、その所有しているってあかしをみせろって言ってんだよ。」

「証?そんなものあるか、そんなものがなくても俺のもんに決まってるだろ。」

「決まってる?何がどう決まってるんだ?あんたのその命は、あんたが産み出したのか?違うよな、人間は新しい命を授かるのに、男女二人揃わないと無理だからな。産んでもらって、成人するまで育ててもらって、それでもあんたのその命をあんたのものだって、何をもって主張するんだよ?」

歯の隙間から怒りが漏れだすようなアノコ様の唸り声。

「…うっせぇ、俺の自由に出来る命なんだ、俺のもんなんだよ。」

「自由?その気になれば、無理矢理命を終わらせられるから、生きようと思えば必死に命を繋ぎ止められるから、だから命を自由に出来てるってこと?」生まれ方も選べない、どんなに生きたいと願っても、終わりをまぬがれることも出来ない。それが命を自由に出来てるってこと?笑わせんなよ。」

「うるさい、うるさい、生き方ぐらい自由に選ばせろよ。」

「さっきから勝手に生きろって言ってんだろ。ただ『生き方』に『死に方』は含まれねぇんだよ。『生まれ方』も選べないのに『死に方』が選べるわけねぇだろ。」

「俺だって…好き好んで生まれてきたわけじゃねぇ。」

「あんたが、産まれてくることを待ち望んだ人達がいて、あんたと生きることを望んでくれている人達がいて、できるだけ長くあんたと同じ時間を生きたいと願う人達がいるのに、あんたが産まれたくなかったかもなんて、あるかないかも分からない理由、あんたが生きていくことを否定するには些細過ぎるだろ。それに、あんたが産まれた瞬間、お母さんに会えて良かったって泣いた可能性だってあるんだから、なんの理由にもなんないよ。」

アノコ様が長槍をかつぎなおす。それが何故か刀を鞘に納める侍の姿と重なる。

「俺にはこの命を自由に出来ないなら、この命は誰の者なんだよ。」

「そんなの知らないよ。でも、命なんて誰か一人でかかえきれるほど軽いもんじゃないんじゃない?そして抱えきれなくていいってことなじゃない?だから、あんたら人間は寄り添い合って、暮らしてるんじゃないの?」

鞘に収まったアノコ様は、男を見守りながらそっと言葉を落とされる。

「こんな俺にどうやって生きろっていうんだよ。」

男は顔を上げ、すがるようにアノコ様を見る。

「それも俺は知らないよ。でも少なくとも、産んで育ててくれた人達にあんたとの死別を経験させるのが、あんたの望んだ生き方ではないだろ、あんたとともに生きたいと願う人たちに「一緒に行きたかった」って無念さを押し付けるのが、あんたが選びたい生き方ではないだろ。なら、それ以外の生き方をするしかないんじゃない?」

男は項垂れ、言葉なく突っ伏す。

「とりあえず、あんたは死神に見捨てられたってことを忘れないでいてよ。」

この言葉を置き去りに、アノコ様が男から離れ始める。

私も手摺からアノコ様の左型飛び移る。

「ねぇ、ヤタ。」すぐさま、小声で問いかけられる。

「なんでしょう?」

「これで良かったのかなぁ?」

思わずアノコ様の左肩から滑り落ちそうになる。

「『あんたは死神に見捨てられた』って宣言されていたじゃないですか?」声が大きくならないよう細心の注意をはらいつつも、翼は持ち上がってしまう。

「まぁ。そうなんだけどさ。アヤツくんやショーセイくんのようにはいかないもんだね。」

あの者達より短時間で同じ結果を出してるのです。アノコ様の方が優秀だというだけではないですか?」

「うーん。」私の言葉に、納得はして頂けなかったようだ、首をしきりに捻っていらっしゃる。

「とりあえず、帰りませんか。あの男もあの様子では、再度飛ぼうなどという気は起こしそうにありませんし。」

一先ず提案してみる。

「そうだね、帰ろうか。」

男には低くなった満月から相変わらず包むような光が注いでいる。稜線越しの空は、微かに白み始めている。

きっと、もうすぐ夜が明ける。


こうしたこことがあって、私共ははいつもの場所に

いるのですが、悪い予感は的中しました。

はぁー

重い溜息が聞こえます。

ここ最近は、聞き慣れつつあるアノコ様の溜息です。

お悩みの内容は、「死を無理矢理諦めさせたのと、生きる決意をさせるのでは全然違うよなぁ。」とのこと。

私にはよく分からないので、声をお掛けすることも出来ずに、少し離れてふさぎ込むアノコ様を見ているだけです。

「フンッ、小生らに役立たずなどと言っておきながら、魂の回収をしそこなった阿保ガラスがおるわ。」

不快な声が聞こえます。

「もともと普通の猫の分際で、ただただ長生きしたってだけで妖あやかし)になったものが何か言ってるな。自分の寿命にも気付かない図太い猫に、場違いだと気づけという方が無理な注文か。」

嘲る気持ちをそのままに、声にしてみます。

「現在は同じ立場であるにも関わらず、生い立ちを引き合いに出さないと、自分の優位を主張できないとは、虚しいのぉ。」

小賢こざかしいことにこの猫は口だけは達者なのです。

「今回、たまたま魂の回収を見送ったアノコ様と毎度毎度、魂の回収が出来ないアヤツを同等などと思ったことはない。当然その使い魔も同じくだ、猫。」

魂の回収をしないことで、このショーセイがつけあがることが、簡単に想像出来たのです、これが私の悪い予感です。

「一回だろうと何回だろうと出来なかったことに変わらんだろう。おんし達もこれから、出来損ない死神だな。」

勿論、アノコ様は、出来損ないなどではありません。

「アノコ様を愚弄ぐろうするな」

私は舞い上がります。この猫と地上戦をするには分が悪すぎますので。

「なんだ、本当のことを言ってしまったか?悪いな。」

表情などないはずの猫に、笑われた気がします。もう我慢なりません。

充分な高さまで高度を上げると、ショーセイにに向かって急降下します。この鉤爪で一撃でも加えてやれば、少しは大人しくなるでしょう。

翼を広げ地面との衝突を避ける軌道に修正しながら、ショーセイに向かって足を伸ばします。

ところが私の必殺の鉤爪を、ショーセイはさっとかわします。

忌々(いまいま)しいことに、ショーセイは目が良く、身体能力も高いです。

慌てて、ショーセイの行方も確認せず、私は大きく羽ばたきながら、急上昇します。

と、一瞬前まで私がいた空間をショーセイが通り過ぎていきます。少しでもショーセイの行方を目で追うなどして、上昇の速度を緩めていたら危ないところでした。

無駄に高い身体能力のせいで、とんでもない高さまで飛ショーセイはび上がってきます。ですが、その跳躍力があだになりました。空中で無防備なショーセイの背中に今度こそ一撃を加えるため、向きを整え滑空します。

間違いなく一撃を喰らわすことができると思った刹那、ショーセイの躰が翻ります。危険を察知してショーセイの脇を通り抜ける軌道へと修正します。

スっショーセイの爪が、私が到達するはずだった空間をぎます。

本当に忌々しい、私共の領域である空中でも一方的な展開にならないのですから。地上に降り立ったショーセイが一撫で左前脚で顔を洗います。私も大きく羽ばたきます。私とショーセイのこうした争いはいつものことですが、ショーセイなんぞに、つけこませる隙を作ってしまったことが歯痒はがゆくて仕方たないのです。アノコ様のご判断は勿論、尊重しておりますが、ショーセイに、そこをつつかれるのが堪え難いことなのです。

これが私の愚痴です。お付き合い頂きありがとうございました。今こそ、ショーセイと決着をつけてしまいますので、ここらで失礼いたします。

(了)


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