#1 夢
何かしたい、何かをしたくて仕方がない。けど、自分に何が出来るのか分からない。
そんな悩める全ての人々へ。
久しぶりに夢を見た。
夢の中の僕は、小説の執筆に夢中だった。文芸誌の編集からの催促の電話の着信音は、携帯を忘れてきたバイト先にむなしく響いていることだろう。
自分の考えていることが、自分の気持ちが、清々しく、淀みなく文章として形になっていく。
まるで魔法みたいに。
ああ、どうしようもないくらいに、何かが頬を伝う。
まずい、原稿濡れるって。いや違う原稿は今キーボード叩いてる通りデジタルか、意識がはっきりしてなくてよく分からない。
でも、そうだ、この感覚は、確かにあの時の……
……
バァン。
さて、ここで寮住まいの読者諸賢に問う。
仮に、部屋のドアを蹴り飛ばしたい衝動に駆られることがあったとする。そんなことは普通無いのだが、あったと仮定する。
そのとき、ドアが他人の部屋のものか自分の部屋のものかとか、他人だとしてその人が何をしているかとか、そもそも寝ているかも知れないとか、だとしたらこの行為によってその人の睡眠を妨げてしまうかも知れないとか、物を壊したら他の物や人に被害が及ぶかも知れないとか、大前提として本来お金を払って利用している共用の設備であることとか、ひとまずそういったことを気に掛けるのではないだろうか。
呆れることに、そんな有象無象は全て、あいつにとっては関係無いのだ。
少しくしゃくしゃになっている目元をこすりながら身体を起こし、読みかけの本……さっきの衝撃で、寝る前に置いた位置から若干ずれている……まあ、ともかく、その上に置いてあった眼鏡をかけ、部屋のドア……だった方を向く。
背丈は150cmほど。ぴょんとはねた髪先は含めない。19歳にして発育が良いとは言えないが、ショートカットと少し日に焼けた肌にいつの通りの白い無地のTシャツと青いスカートが悔しいけどよく似合う。その目は……見るまでもない、いつものように、まるで満天の星空のような輝きを湛えていることだろう。
「不動センパイ、西棟の屋上で連中が何やら面白そうなことをやっているのですが!」
帆波は、いつもこうやって僕をどこかへ連れ出す。
僕が間大学に入学してから二年と三か月が経つ。「間」は「はざま」と読むが、「間大」と書いて「かんだい」と呼ばれることが多く、いくつかの有名大学とよく混同される。実のところ間大も世間的に有名な大学なのだが、その知名度は学力の高さなどに因るものではない。単位の獲得が非常に難しく、卒業するには通常5年以上の歳月を要することがむしろ人気を呼び、モラトリアムの延長を図る親不孝な若者たちがこぞって集まっているのが現状であった。
唯一の良心とも言えるのが、学生の大半が小綺麗なアパートなどではなく学生たち自身が運営する「自治寮」で生活していることだ。その発祥は戦前とも戦後とも、偏屈な工学部生が建てた小屋だとも留学生たちが共同で借りたボロい集合住宅だとも言われているが、いずれも判然としない。
屋内も屋外も非常に雑然としているが、家賃は極めて安い。光熱費などを含めても、たった数時間真面目にアルバイトをすれば払える金額である。その代わりに施設の管理などは学生たちのみで行う必要があるが、彼らにとって、モラトリアムが延長できることに比べたら極めて些末な問題なのだろう。
生活費を自分で賄えるならもう好きにすればよかろう、という親世代の意思も手伝い、住民の総数は年々増加していった。
先に「唯一の良心とも言える」と述べたが、寮生の心のうち、良心が占めるのはせいぜい5%くらいのものだ。
住民の数に比例して、そのただでさえ薄い良心の割合は薄れていく。徐々に秩序を失い、無断で増築に次ぐ増築が繰り返された自治寮は、今日に至るまでに異常とも言える巨大化を遂げたのだった。
めいめいが勝手に増築するものだから、入寮時に配布される館内図は全く意味をなさない。その内部構造の煩雑さと巨大さは九龍城を想起させる。
学生たちは、ほんの少しの良心を片手に圧倒的な自由を手に入れた。
かく言う僕もそこで暮らす学生の一人であり、つまるところは自由奔放な人生を望む身勝手な若者なのであった。
そして、自由奔放を通り越して天衣無縫とも言える存在が今僕の目の前にいる。
「とは言え先輩、ここからあそこまでは遠いですねえ」
廊下の窓に目をやって帆波が言う。
僕も廊下へ出て、窓から西棟の屋上を見上げた。
おお……?よく見えないが確かに大勢で何かやっている。こんなに大きな騒ぎになっているのはあの日以来じゃないだろうか。
「先人たちが寮をめちゃくちゃに作り変えたせいだろう……というか帆波後輩よ、ここを見たまえ。本来ならばこの空間にはドアが存在する」
ドア・跡地を指差し僕がそう言うと、帆波は珍しく物憂げな表情を浮かべて語りだした。
「先輩……世の中は先輩の想像以上に不思議で満ち溢れています。しかし不安に思うことなんてないのです、私たちはその不思議を追ってひた走るだけ……ほら、西棟の連中、あれなんて不思議そのものじゃないですか早く行きましょうよ今すぐに私たちが一番乗りで!」
帆波の珍しさに一瞬でも期待を持った僕が馬鹿だった。
「ともかく、出発はこのドアをなんとかしてからだ」
もっとも、ドアがなんとかなったとしても部屋内部の片付けが残っている。
思わずため息がこぼれたが、帆波の様子はどこ吹く風だ。
「心配ごむようですって」
少しかがんだ帆波が、ドア跡地の足元に手を当てる。
ふと、ただでさえ背の低い帆波がかがむといやに小さく見えるな、と感じた。
それも束の間、帆波の指先が一瞬煌いたと思えばたちまちドアは修復されていった。
こんな滅茶苦茶な光景を見るのにも慣れたものだ。
「はあ……まあ今回は人目が無いからいいが、ほとんどの寮生はそんな力使えないんだ。自衛の為にも……」
「わかってますって、でも『今回は』ってことは、先輩も西棟の様子が気になってるんでしょ。」
変に鋭い奴。
にっと笑って、西方向へずんずん歩き始める帆波。恐らく目下の目的に夢中になって、自治寮の現状を忘れている。
「ところで」
「今の状況下なら、東に向かった方が近道だと僕は思うがな」
帆波は足を止め、ゆっくりとこちらを振り返った。
「やっぱり、やっぱり不動センパイの好奇心は、そうでなくっちゃ!」
こういう瞬間の帆波の目の輝きは、まるで魔法のようだ、と常々思う。
○
現在、自治寮は異常な状態にある。
飽くまでもこれは噂に過ぎないが、約二か月前、在学8年目に到達し、厭世に厭世を重ね干からびかけていた数人の学生たちが、講義にも出ずに暇つぶしである実験を試みた。
彼らは日常的に大学のあらゆる研究室に忍び込み未実施の試験問題の草稿や研究データを盗み、破壊するなどの極めて無為な悪行を繰り返していたが、盗んだ物の中にあまりにも荒唐無稽で秘匿にされていた研究があり、どうせだから手順通りに実験してみて、失敗したらその結果を大々的に公表し、教授に赤っ恥をかかせてやろう、という魂胆で行ったものだったらしい。
不幸なことに、その実験は成功した。
どんな原理かは知りようもないが、「指定した範囲の空間が水平方向にループする」という結果が得られるもので、しかも彼らはそれを自治寮全体に適用してしまった。
自治寮の敷地の外に出ようと、例えば東にひたすら歩いてみたつもりでも、気付いた時には敷地の西端に立っている。北、南についても同様であった。発覚直後は実際にそれを確かめるためにかつてない人数の寮生たちが建物外をウロウロしていたのが印象に残っている。
気が狂ったように数時間同じ方角へ歩き続け、結局元の位置に戻ってきたある寮生がこう呟いた。
「まるで古いテレビゲームのようだ」
それは紛れもなく、僕たちがこの自治寮から出られなくなったことを意味していた。
この事実はあっと言う間に全ての寮生に知れ渡った。
自治寮から出られないのであれば、当然大学に通うことは不可能であり、このことから自然と派閥が別れるようになっていった。
ひとつは、「いくらモラトリアムの延長を望んで入学したとはいえ、メンツや世間体など諸々の理由から卒業はできなければ困る」という人々が属し、専ら自治寮を放棄することを目指す「脱出派」である。『それでも間大生か!』という反発の声も多かったが、世間的に見たら極めて真っ当な主張をしているのは「脱出派」であるのは火を見るより明らかであり、大きな規模を誇っていた。
それと並び立つもう一つの大きな派閥が、「原理主義派」だ。「今の今まで自治寮の存在に散々助けられてきたのに、今さら放棄するとは最早人に非ず」という理念を掲げているが、その実、最早卒業を目指したところで完遂できるか怪しい、もしくは事実上不可能なレベルまで追い込まれた学生の集まりである。
「大学に通えない」という現状はもちろん彼らにとっては好ましい。その保持のため、「脱出派」の活動の妨害ばかりに尽力していた。主に23歳以上の高齢学生たちから支持を集め、こちらも大きな規模を誇っていた。
多くの寮生はこのどちらかに属しているが、そうでない寮生もおり、それらは「無所属」と呼ばれた。
とは言え便宜的に十把一絡げにされているだけで、まとまりがある訳では全くない。むしろその真逆と言っていいだろう。
とどのつまり、自由奔放な人生を望んで間大に入学した学生の中でもとりわけ自身の行動の自由を何より尊重するような人間が、何かの派閥にわざわざ属す訳がない、という単純な話だ。
言うまでもなく、僕と帆波のような人間は「無所属」なのであった。
ただ、まあ、僕たちが自治寮に閉じ込められたその日、それはもう大きな騒ぎになったものだが、正直なところ、大部分の記憶は薄ぼんやりとしている。
僕にとってはもっと重大な出来事が起こったためだ。
その夜、途方に暮れる多くの学生を見下ろしながら、僕と帆波は寮の屋上であずきバーを食べていた。
まだ五月なのに茹だるような暑さだったのを思いだす。
屋上であずきバーを食べるのは、僕と帆波の習慣だった。そのあずきバーの出処はいつだって僕の部屋の冷蔵庫だが。
ふと帆波の目を見ると、多くの学生とは対照的に、気持ちが逸っているように見えた。
僕はこういう、何か大きなイベントが起こった日をあまり好まない。そこに居るだけでエネルギーを消費するからだ。シンプルで平坦な日々は続けば続くだけ良い。いつの間にかそれは僕の座右の銘となっていた。
喧噪から目を背けるように押し黙っている僕を傍目に、帆波は少し目線を落として言い出した。
「……先輩、私、魔法が使えるみたいなんですけど」
何を言い出すかと思えば、何を言い出すんだこいつは。
しかし、これは......帆波のこんな表情は本当に珍しい。冗談みたいに、
「……まあ、今僕たちが陥っているこの状況自体が魔法みたいなものだが。そういう意味では僕も魔法使いと言える」
茶化すか茶化すまいか決めかねて、僕はこんな中途半端な言葉を返した。
すると、僕を強く見つめて帆波が言う。
「いえ、ほんとに、私自身が。」
その目は、まるで満天の星空のような輝きを湛えていて。
「……お前、そんなことで僕を煙に巻いて、この混乱に乗じて僕が時節を問わず貯蓄しているあずきバーを根こそぎ奪うつもりじゃあるまいな」
僕は思わず帆波から目を逸らした。
帆波の言葉が冗談であってほしかった。
「違うんです。……見ててください」
帆波が目を閉じ、ふぅ、と一息つくと、帆波の指先が眩い光を発し始め、僕は一瞬まばたきをした。
次の瞬間にはもう、帆波は宙に浮いていた。
少し照れくさそうな笑みを浮かべながら、帆波は宙を歩いてみせた。
「お前、まさか本当に僕のあずきバーを根こそぎ奪えるんじゃ……」
「ふふ、それはどうでしょうかねえ」
帆波はそのまま、あずきバーを平らげたあとに残った棒をくるくると空中で弄び始めた。
僕の、シンプルで平坦で、なるたけエネルギーを消費しないはずの日常はたった今崩れ去った。
夢でも見ているのだろうか?
僕たち寮生が陥っている状況と、帆波のこの力は何か関係があるのだろうか?
一瞬そんなことが頭を過ったが、すぐにどうでもよくなった。
僕にはただただ、帆波の姿が眩しく見えて仕方がなかった。
○
もっとも、帆波のように魔法を使える人間が現れることは極めて稀だ。僕が知っている範囲では片手で数えきれるほどしかいないし、皆が皆そんな荒唐無稽な力を手にしたことを他言する訳でもない。
帆波は面白がって悪戯半分に力を使う節があるが、それでも僕が口を酸っぱくして注意しているから一応公言はしていない。気付いている人間もどうやらいないようだ。
ならば公言している人物は、と聞かれて真っ先に思い浮かぶのは、やはり「脱出派」を主導している三年の鵜飼と、「原理主義派」を主導している四年の柏原の二人だ。
両者は対立しているが、非常に強力な魔法の力を持ち多くの寮生を率いる者同士、何かしらの感覚が被る部分はあるようだった。
柏原はなんというか職人気質な部分があり、あまり口を開かないが、鵜飼は自身の魔法の力を冷静に分析してそれを公言することに厭いが無い。
そして、折に触れてこう言うのだった。
「この力を使っていると、自身の思考が淀み無く流れ出す感覚で充たされるんだ。」
実を言うと、僕も魔法の力を試そうとしたことが無い訳ではない。
僕の望んでいたはずの日常は崩壊した。ただ、あの瞬間、帆波が宙に浮いた瞬間、不思議にも、あまり悲観的な気持ちは抱かなかった。
自身の思考が淀みなく流れ出す感覚、それはなんだか、僕にとって懐かしい感覚であるような気がする。
するのだけれど、決まって何かが僕の集中を阻んで、感覚が途切れるのだった。
「感覚が途切れた感覚」が残ったまま自室のベッドに身を預ける。そのたびに、どうしてももやもやした気持ちになるのだ。一体これはなんなのだろう?
「何回通ってもこの感覚は不思議です」
帆波がそう呟いて、我に返った。
……感覚?不思議?こいつは終ぞ読心術まで扱えるようになったのか?
顔が強張る僕を見て、帆波は首をかしげながらこう付け足した。
「東端から西端にループするこの感覚ですよ。不思議じゃないですか?」
僕は胸を撫で下ろした。
「僕からすれば不思議なことだらけだよ…….だいたい、君はさっき『世界は不思議で満ち満ちていて、それを不安がることなんてない!』とかなんとか言い放ったばかりじゃないか」
帆波はきょとん、として、それから笑顔でこう言った。
「おや、私としたことが。活気を失った私なんて私じゃないじゃないですか、これは由々しき事態だあ!ねえ先輩?」
「……まったくもってその通りだ」
鋭い奴。
「ふふ、おや、何やら事態の概要が見えてきましたよー」
遠い喧噪が聞こえてくる。
西端にループした僕たちは、西棟の昇降口付近から屋上を見上げた。帆波が何を悟ったのかは分からないが、異常が起きていることは確かだった。
屋上に聳え立つ巨大な何かを、夕日がきらきらと照らしていた。