V・L (ヴァージニティ・ライン) ~ある画家の場合~
V・L (ヴァージニティ・ライン)とはなんぞやという方は、前作の短編をご覧下さい。
今回の舞台はルネサンスの全盛期辺りといった感じです。
ある意味異世界なので、そこら辺の時代背景は曖昧です。
今さらですが、これは恋愛と呼べるか少し怪しいので、ジャンルをその他に変更します。
彼は芸術家をめざしていた。
貧乏ではあったが、清貧を心がけ、日雇いの仕事を偶にこなしては、また絵を描く――それが彼の日課であった。
彼には幼馴染がいた。
彼の理解者でもあり、よく絵のモデルになってもらい、彼女をモデルにした絵だけはよく売れていたので、彼は本当に助かっていた。
「ライアン、あなたの絵はとても素晴らしいわ。あなたは必ず大成する。必ずその姿をあなたの隣で見させてね?」
「ああ、マリー。僕は絶対に有名な画家になって見せるよ!」
あるとき、彼の元に一人の男が現れた。
「あなたがライアン・マーディウスですか?」
「はい……あなたはどなたでしょうか?」
「これは失礼しました。私はリチャードというものです。我が主の使いとしてやって参りました」
「主……ですか……?」
「はい、あなたが描いた女性の絵を、我が主は大層お気に入りになりました。是非とも自身の専属画家になっていただきたいと……」
千載一遇のチャンスである。
「ほ、本当ですか?!」
「ええ、ですが条件が二つほどあります」
「条件、ですか……?」
「なに、簡単なことです。一つは絵画の学校へと通い、卒業すること。これは格式ある主の専属画家を、まさか学校も出ていない者に任せるわけには参りませんからね」
これはむしろ願ってもいないことだ。
自分の夢がまた一歩実現へと近付いたのだ。
彼の頭に幼馴染――マリーの顔が浮かぶ。
「そして、もう一つ。あの絵のモデルを是非ともご紹介いただきたい」
「え……? マリーをですか?」
「マリーさんとおっしゃるのですね。ええ、主が是非ともお会いしたいと」
飛び付きたいような好条件であったが、流石に本人の許可なく了承するわけにもいかない。
「……一応本人に訊いてみても良いでしょうか?」
「確かにその通りですね。ですが、紹介いただけないのならこの話はなかったことになります。それだけは覚えておいて下さい。それでは一週間後にまた参ります」
「悩むことなんてないわ! 私がその人と会うだけで、私達の夢に一歩近づくのよ!」
「マリー……ありがとう。僕達の夢と言ってくれて……」
「……当たり前じゃない、私はいつでも忘れたことなんてないわ。あなたのことを……愛しているのだから……」
そう言って目をつぶったマリーの口に、彼は自身の口を優しく当てた。
「ほほう……これはお美しいですね……!」
「お、お褒めいただき光栄ですわ……」
マリーは慣れない口調で精一杯に上品さを演出していた。
「それでは、学校の入学はひと月後になります。寮住まいとなり、卒業の三年後までは帰れなくなります。それまでに荷物をまとめて準備をお願いします」
「え……! そんなにかかるのですか?」
声をあげたのはマリーだ
「ええ、仕方ないことですよ。なに、三年などすぐに経ちます。会えないほど愛は燃え上がるとも言いますしね」
リチャードさんはニコリと微笑む。
「はは……気付かれていましたか?」
「ええ、見ていれば分かりますよ。まあ時間など、真実の愛の前には小さな問題ですから。ライアンさんは三年後に成長した姿を見せて差し上げると良いでしょう」
「そう、ですね……。マリー、絶対に僕は有名になって、君を迎えにくるよ……!」
「ええ、待っているわ。ライアン」
「それではひと月後にまた迎えに来ます。特に何をする必要もありませんが、そのときは主もおいでになりますから覚えておいて下さい」
「マリー……僕のわがままを聞いてくれるかい?」
「ええ、何かしら?」
「三年間、寂しさを紛らわせる為に、君のありのままの姿を絵に残したいんだ」
「……分かったわ、あなたのキャンバスに私の姿を刻みこんで……?」
僕は今の自身の全身全霊を以って、彼女の線を手元のキャンパスと心に、深く刻みつけた
「君がライアン君だね? 今回は私のわがままですまないね?」
「いえ、学校のお金も出していただいて文句などつけようがありません」
将来の主――ヴィンター・U・モンテギューはとても人の良さそうな壮年の紳士であった。
「そして、君があの絵のモデルの……」
「マリーですわ」
「絵画に描かれているモノより、とても魅力的な女性だな。やはり座っているだけの絵では、快活さまでは表現しづらいからな」
躍動感ある絵をライアンが書かない理由は、彼自身が苦手にしているという理由もあった。
そして、マリーは黙っていればおしとやかで秀麗な美女だったので、余計にそういう傾向になったのだ。
「お褒めいただきありがとうございます。ですが、ライアンの実力を貶めるような発言はおよしになっていただきたいものですわ」
ライアンはマリーの発言に驚いた。
ヴィンターの機嫌を損ねたらどうしようかと悩みつつ、彼女の発言を嬉しく思う気持ちもあった。
「おお、これは申し訳ない……。どうやら本当にリチャードに聞いた通りの婦人のようだ。これは実に楽しみだな」
ヴィンターの反応に胸を撫で下ろしつつも、ライアンは彼の発言が気になった。
「……楽しみ、ですか?」
「ああ、彼女の絵に私は君の才能を見たのだよ? 今後描かれる彼女の絵が楽しみになるのも当然のことだろう?」
「なるほど……わかりました。この三年間で必ず腕を上げ、ヴィンター様の期待に添える絵を描かせていただきます……!」
「ああ、実に……実に楽しみだよ……」
そのときのヴィンターの笑顔には、先程までの人の良さとは別の感情が感じられた。
しかし、ライアンにはその正体が分からなかった。
絵にばかり興味を向けていた彼には、人の感情の機微を掴むことは難しかったのだろう。
はたまた彼が大成できなかった理由も、筆に感情を乗せることができなかったことにあるのかもしれない。
「それじゃあ行ってくるよ……待っていてくれ……」
「ええ、ずっと待っているわ、あなたのことを……」
無事学園に入学し、寮生活にも慣れたある日、授業でいつものように裸婦画を描く為に、何人もの人間で一人のモデルを取り囲んでいた。
「……モデルさん、V・Lが途中で切れてますよ?」
ある一人の生徒がそう声をあげた。
「え、ああ……ごめんなさいね。ドローイングするから待っていて」
そう言ってモデルは一度裏へと引っ込んでいった。
「……あれ、書いてあったんですね?」
ライアンは近くで描いていた先輩に話を振った。
「……そりゃあそうだろ? 絵画に描くならV・Lを描くのは常識だからな。あの人もそんなに若いってわけでもないし、経験ない方が逆におかしいだろ?」
「それはそうですけど、V・Lを描くインクなんてあるんですか?」
「ああ、水では簡単に落ちないやつだな。独特な匂いがするから近付けばすぐに分かるぞ? 乾いていない内は、特に強くな」
そんなことを話している内に、モデルが戻ってきた。
確かにこの柑橘系と混じった金属的な匂いは、少し不快に感じた。
しかし、ある種の癖になる匂いでもあった。
「良く頑張ってくれたな?」
「いえ、今日のことを思えば辛くはなかったです」
ライアンは迎えの馬車に乗って現れたヴィンターと共に、馬車で自宅への帰路についていた。
「そうか……早く彼女に会いたいだろう?」
「ええ、きっと更に美しくなっているのでしょうね……」
「ああ、とてもね」
「マリーに会ったのですか?」
「ああ、実にきれいになっているよ。この三年間という期間は、少女を大人の女性に変えるには十分な時間だったからな」
「ああ、楽しみですね……」
「まあ会えば分かるさ……君にもね?」
「マリー帰ってきたよ!」
「ああ、ライアン帰ってきたの?」
結局彼は、家に戻る前にマリーの家へと連れて来てもらった。
しかし、彼女の反応は、三年という長い期間の果てに再会した恋人へと向ける反応にしては、かなり素っ気ないものだった。
「マ、マリー?」
「何よ? どうかした?」
訝しげに彼を見る目はどう考えたところで恋人へ向けるソレではない。
戸惑うライアンの後ろからヴィンターから声がかかる。
「ライアン君、言っただろう? 少女を大人に変えるには十分な期間だったと。マリーは大人になって落ち着きが出たということさ」
ヴィンターの声がした瞬間、マリーの表情が一変する。
三年前まで自分に向けられていた視線……いや、それ以上の親密さを持った視線がマリーからヴィンターへと注がれる。
「まあ、これはヴィンター様、お会いできて嬉しいです!」
ライアンは思った。叫び出したかった!
ヴィンターに、どうしてあなたがマリーを親しげに呼ぶのかと!
マリーに、それは自分自身へ向けるべき感情であろうと!
しかし、言葉が出てこない。
自身の横をすり抜け、ヴィンターへと駆け寄るマリーから香る柑橘系の香りが酷く鼻に付いた。
「そうだ、今すぐに屋敷に来てマリーの絵を描いてくれないか?」
「今から……ですか……?」
「まあ、それはいい考えだわ!」
ライアンの心など関係ないと言わんばかりに、彼らは勝手に話を進めていく。
引き受けたくなどはなかった。
しかし、ヴィンターには恩がある。
学費も出してもらったし、これからは雇い主になる。
ライアンに断る権利など最初からなかったのである。
「そうだな……裸婦画にしよう」
「まあよいのですか?」
少し機嫌を損ねた様子のマリーがヴィンターに尋ねる。
「フフ……君の絵を見て私は彼を雇おうと思ったのだよ? その中には裸婦画は一枚もないんだ。欲するのは当然さ」
「マリー……良いのかい?」
「……ヴィンター様が言うのだもの……我慢するわよ」
ライアンは少し安心した。
やはり裸婦画をヴィンターに見られるのはいやなのだと。
無様な勘違いをしていたのだ。
「それじゃあマリー、服を脱いでくれるかい?」
「ええ、分かったわ。芸術の為だからね。我慢するわ」
マリーはスルリと恥ずかしげもなく肌を晒していく。
三年前、あのときのマリーは、まごうことなき乙女の反応だった。
ゆっくりと、ライアンに肌が見えないように衣服を脱ぐ姿が、恥じらいにより朱に染まる頬の色が、長い別れが待ち受けることを悲しむ表情が、今でも彼のキャンパスに描かれている。
それが今はなんだ?
男に肌を見せることに慣れ切ったような反応。
乱雑に脱がれた衣服。
恥じらうことない顔色。
面倒そうな表情。
三年前と何もかも違う。違い過ぎるのだ。
それでも彼は筆をとる。
それが彼の仕事だからだ。
「……?」
下書きをしているときに、ライアンは違和感を覚えた。
何かがおかしい。
今まで何人もの裸を彼は見てきた。
それは決してやましいものではなく、芸術を昇華させる為、自身の為、マリーの為、彼らの夢の為……だ。
その経験の中で、人体のどこかに違和があればなんとなく気づくことができるようになっていた。
例えば腕、例えば脚、例えば頭、例えば腹部、例えば――
全てを見終わる前に彼は気付いた。
いつの日だったか、同じ授業を受けていた誰かが指摘した箇所。
V・Lが……途切れている……!
嘘だ……!
そんなはずは……!
頭の中で否定をするが、ライアンの不安は消えることはなかった。
おもむろに立ち上がり、モデルの……マリーの元へと近付いていく。
鼻に付く柑橘系と僅かな金属臭……。
全てがあの日の記憶と一致する。
「ライアン、それ以上近付かないでくれる?」
マリーの突き放すような声がライアンを現実へと引き戻す。
「マリー……その……」
声が震え、喉がカラカラになりながらもライアンは告げる。
「V・Lが……途切れているけど……」
マリーの顔を窺い、彼女の返答を待つ。
「ああ、そう? 気付いたの?」
まるで世間話でもするようにマリーは言った。
「だ、誰と……?」
「分からなかったの? あなた未だに人の気持ちに鈍いのね? ヴィンター様に決まってるでしょ?」
「な、なんで……」
「勘違いしないでよね? 私からお願いしたのよ。ヴィンター様はあなたと違って本当に素晴らしい方なの。誕生日にはプレゼントをくれて、困ったときには助けてくれるし、いつでも優しい言葉をかけてくれる。あなたに持っていないモノを全て持ってるの……!」
「僕を待ってるって……」
「ハア……子どもの頃の約束をいつまでも引きずらないでくれる?」
呆れたようなマリーの反応に、彼はもうそれ以上言葉を紡げなかった。
自身の全てが否定された気がしていた。
「あのねライアン……私達はもう大人なの。理想なんていつまでも追いかけてないで現実を見なさいよ。現に私は今幸せよ? あなたみたいなつまらない人間を待ち続けていても良いことはないってことね」
彼と彼女の夢はここで終わった。
他ならぬ彼女の手によって完璧に徹底的に打ち砕かれてしまったのだ。
それからライアンは下書きを元に一枚の絵を描き上げる。
そんな彼の姿は鬼気迫り、描き上げる間は一切の休憩を入れなかったという。
それがヴィンターの家に雇われて初めて描いた絵であり、そして最後の絵でもあった。
その絵は鏡を題材としており、裸の美しい美女が二枚の鏡に映されていた。
ピカピカの大きな鏡台には妖艶な悪女が、古ぼけた手鏡には清廉な少女が映っていた。
因みにそれまで、絵画にはV・Lを描くのが慣習であったが、その絵には少女のみにしか描かれていなかった。
これは『如何な女性であろうと少女の時代があり、二面性を持ち合わせている』ということを表現していたと言われている。
しかしそれは違う。
ライアンは、手鏡には彼自身が愛したマリーの姿を。
そして、鏡台には自身の夢を打ち砕いた彼女の姿を描いたのだ。
専属画家を辞した後、彼は放浪画家として暮らしていくことにした。
もしかしたら、マリーの面影から少しでも遠ざかりたかったのかもしれない。
そんな中、旅先で様々な絵画を描き、その数々が名画として名を馳せることになった。
世の中に絵描きとして認められ、富も名声も手に入れた後、一人の汚らしい女性が昔の知り合いと言い、彼の元へ現れた。
詳しくは分からないが、もう帰る場所がないらしい。
ライアンは彼女をモデルにして一枚の絵を描き上げた後、少しの銅貨を渡してこう言った。
「昔の君ならいざ知らず、今の君のモデル料はそれでも高いぐらいだ」
そのときの女性の姿を描いた絵が、彼の生涯の最高傑作と言われている。
『失われた(少)女』
彼のこの作品は、後世にも名画として末長く残っていくことになる。
彼女の泥にまみれたくすんだ輝きと共に――
ざまあは抽象的ですが、何百年にも渡るものなのでかなりきついでしょう。
ちなみにヴィンターは確かにマリーを手に入れる為に近づきましたが、作中にあるように彼からは手を出していません。
自分のモノになるかはどちらでも良かったようです。
最後も、マリーがライアンに戻る気ならそれでも構わなかったのです。
彼にとってはゲーム感覚ですね。
ですが、彼にも手に入れたからには、最後まで面倒を見る気でした。
彼女が放逐された理由は、ヴィンターが早くに亡くなり、家が没落したからです。
ライアンを裏切った事実を知られた上に、ヴィンターの権力をかさに好き勝手な行動をしていた彼女は町にはいられなくなりました。
一度上の世界を味わうと、まるで自分が偉くなったと勘違いし、もう元の生活には戻れません。
その後、昔の情に訴えて、ライアンの元においてもらおうと画策しますが、受け入れられるはずもなく、追い返された挙げ句、喚き散らします。
最後までマリーはクズでした。大人になるって悲しいことですね。
V・L (ヴァージニティ・ライン)とは鎖骨の少し下の辺りに伸びる途切れることのない線です。
つまり、途切れている場合はファッション処女なので気をつけて下さい!
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