三日目 お喋り骸骨
私は今日も飽きずに例の学校に足を踏み入れる。下駄箱は相変わらず埃っぽいが、昨日よりも多くの靴が入っていた。何一つ貼られていなかった掲示板にも、一枚古びた紙が錆びた画鋲で止められていた。ボロボロでほとんど読めないけれど、お知らせ、という文字だけが確認できた。
「柏井ー!」
「花子ちゃん」
声の方へ目を向けると花子ちゃんが立っていた。彼女はスカートの裾を揺らし、底抜けに明るい笑顔を浮かべて私に抱き付いてきた。結構な勢いで飛びついてきたので、私ごと倒れないように足に力を入れて小さな彼女を受け止めた。腕の中に収まった花子ちゃんは上機嫌そうな笑顔をこちらに見せた。
「今日はどこに行くの?」
「理科室に行こうと思うの。でも、どこにあるのかわからないんだよね」
「案内してあげる! こっちだよ、おいで」
花子ちゃんは私の手を握って歩き出した。階段をのぼり、いくつもの教室の横を通り過ぎて行く。いくつかの人影が明るい声でおはよう、と声を掛ける。それを一つずつ返していてふと思い出した。
「ねぇ、花子ちゃん。首に包帯を巻いた男の子って知ってる? 昨日会って少しお話して……もう少し、話したいと思って」
「首に包帯の男の子? えー、知らないなぁ」
「そっか」
「あ、ほら着いたよ」
ぱっと手を放したかと思えば花子ちゃんは消えてしまった。呆然としていると目の前の戸が勝手に開いた。理科室、と書かれて吊り下げられた板は風もないのにキィキィと音を立てて揺れている。物々しい雰囲気にずっと引っ込んでいた恐怖が顔を出した。一歩足を踏み入れたとき、足先に何かが当たった。そこに目を向けると。
「きゃあああ!」
白骨死体が転がっていた。無残にもバラバラにされて。逃げようにも腰が抜けて立ち上がることすらできない。鞄を抱き締めて震えていると、どこからか声が聞こえた。
「すまないすまない、怖がらせるつもりはないんだ」
この雰囲気に似合わない、優しくて明るい声。声の主を探そうと辺りを見回したとき、机の上にちょこんと置かれた白骨の首と目が合った。額には「アホ」と赤い字で書かれている。それはカタカタと揺れながらまた話し出した。
「安心してくれ、お嬢さん。私は死体でも何でもない。ちょっとお喋りな骨格標本さ」
「骨格標本は普通喋らないんだよ……」
「はは、確かにそうだな。さてと、これ以上君を怖がらせないためにもちゃんと戻すか」
バラバラだった骨はふわりと浮いて、一つの人の形となった。呆然としている私を他所に、彼は大きく伸びをした。
「いやー、一年もバラバラのまま散らかっていたら、この身に戻るのが怠くなってしまってね。戻る機会を完全に見失っていたよ。動く骸骨、からバラバラの骸骨、って噂が立つところだった」
「一年も、バラバラのままだったの?」
「そうさ。とある子の恋路を邪魔してね、お怒りを買ってあの様さ。額のアホはその子じゃないんだけどね。消せないかな、これ。水で濡らそうにも私の手じゃ蛇口が捻れないんだよ」
白く細い指で額を引っ掻く。しかし文字ははっきりと残ったままだ。……水で濡らしたハンカチか何かで落ちるだろうか。鞄の中からハンカチを取り出して水に晒そうとしたとき、ぐいと腕を掴まれ止められた。
「それで私の額の汚れを取ろうとしているのか? 駄目だよ、折角可愛らしいハンカチなのに。確かこの辺りに雑巾が」
「雑巾で顔を拭くだなんてもっとダメだよ。大丈夫、似たようなハンカチまだあるから」
「……君は優しいね。すまないな、ありがとう」
そう言うと彼は手を放して、頼むよ、と告げた。濡れたハンカチで彼の額に掛かれた文字を拭き取る。すると案外簡単に文字が消えた。取れた、と言うと彼は本当か、と嬉しそうな声を上げた。ハンカチを握る私の両手を骨の手が包み込んだ。
「本当にありがとう。橘の野郎にも見習ってほしいよ」
「橘くんと知り合いなの?」
「知り合いも何も、あいつがアホって書いた犯人だよ。全く、困った子ばかりだ」
骸骨さんは溜息混じりに言う。まるで教師のような言い方で呟き、頬の辺りを白い指で掻いた。
「困った子?」
「そうさ、基本人をからかうのが好きな奴らばかりでね。まだそれだけならば可愛いけど、橘や樋之口は質が悪い。気をつけなさい。出来れば出会わないようにした方が良いよ」
「橘くんに骸骨さんのことを教えてもらったんだよ」
「そうか、もう橘に会っていたのか。変な人だっただろう? 必要以上に近寄らない方がいい」
念を押すように骸骨さんは、わかったかい、と強く言う。どうしてか、ひどく心配しているような声で言われたので頷くしかない。どうしてこうも心配するのだろう。
骸骨さんは安心したように優しい声で、いい子だね、と言った。そして硬い手で私の頭を撫でた。
「そういえば君、どうしてここに来たんだ? こんな気味の悪い場所、人間は嫌いだろう?」
「七不思議を確かめに来たの」
「七不思議? そうかそうか、だから私の元にも来たんだね。今までいくつ見たんだい?」
「二つ。花子ちゃんと橘くんには会ったよ」
「花子に会ったのか。珍しいな、あの子は人間をそう好まないのに現れたのか。運がいいね、君」
花子ちゃんとは本当に偶然な出会い方をしたことを思い出す。もしあのときに会っていなければ、こう何度もこの学校に来ることもなかっただろうし、七不思議の一つも見ることなく、見事無様に何も知ることなく帰宅しただろう。
骸骨さんは顎に手をあて、何かを考えている。
「じゃあ教えてあげよう。全部教えたら面白くないから、一つだけ」
橘くんと同じことを言って指を一本立てた。
「階段の踊り場に大きな鏡があるのは知っているだろう? あそこの鏡には住人が居てね、異世界に連れて行ってくれるんだ。とても綺麗なお嬢さんなんだよ」
「異世界? 面白そう! ありがとう、骸骨さん」
「それと一つ、これはお節介なのだけど。七不思議の六つを知ったらすぐに帰りなさい。君の身を守るためだ。いいね?」
朗らかで明るい声がガラリと変わり、真剣味を帯びた冷たい声ではっきりと告げる。確か昔、怖い話の本で七不思議を全て知ってはいけない、と書かれていた気がする。七不思議の当人が言うのだから、きっと本当に恐ろしいことがあるのだろう。こくこくと何度も頷くと、骸骨さんはふっと笑い出した。
「そう青くなりなさんな。大丈夫、いざとなれば私が助けてあげよう」
「ありがとう、骸骨さん。優しいね」
「はは、当然のことだよ。でも私だっていつでも飛んで行けるわけではないからね。もしかしたらまたバラバラになっているかもしれないし。だから君自信でも注意するんだよ」
まるで口煩くて心配性なお母さんみたいだ。わかったよ、と言うと骸骨さんはよろしい、と先生のように呟いた。でも不思議なことに、声は満足げなのに雰囲気はずーん、と暗い。骸骨さん、と声を掛けると彼は力ない笑い声を漏らした。そして落ち込んだ声でぽつりと言った。
「いやね、丁度去年のこの頃、男の子がこの学校に来てしまってね。私は守ろうとしたのだけど力不足で。君を見ていて思い出して、勝手に悲しくなったんだ」
「その男の子は……?」
「どうなってしまったかは知らないよ。きっとどこかにいるんじゃないかな。この学校の、どこかに」
骸骨さんが首を振りながら落ち込んだ声のまま悲しそうに言った。もしかしたら、橘くんや花子ちゃんなら知っているのかな。次会ったときに聞いてみよう。
「さて、そろそろ帰らないとね。またいつでもおいで」
「うん、ありがとう、骸骨さん。またね」
手を振り、理科室を出る。ぴたりと戸をしめえ顔を上げると、すぐ目の前に礼の包帯の彼が立っていた。情けなく悲鳴を上げると、彼は初めて口の端を上げて笑みを見せた。
「そんなに驚かないでよ。それにしてもよく会うね」
「ね、ねぇ貴方の名前は?」
「僕の名前? そんなのないから好きに呼べばいい。……ここのガイコツに会っていたの?」
「うん、そうだよ」
「そう。元気そうだった?」
「元気そうだったよ。でもどうして私に聞くの? 会いに行けばいいのに」
そう言うと、彼は少し暗い顔をして俯いた。何か会い難い理由があるのだろうか、ちょっとね、と言葉を濁した。
妙な沈黙が流れる。微かなピアノの音が聞こえてくると、彼はぴくりと肩を揺らして私に背を向けた。
「どうしたの?」
「僕も、そろそろ行かないと。君も戻れなくなる前に、早くお帰り」
そう言い残し、彼は足音一つ立てずにその場から去って行った。私も土間の方へ急ぎ足で駆けて行く。下駄箱の並ぶ土間を通り抜け、グラウンドに立つ。一つ視線を感じて振り返ると、二階の理科室の窓から骸骨さんがこちらを見下ろしていた。私が見ていることに気づいたのだろう、骸骨さんは白い手をひらひらと振った。私も大きく手を振って校門の方へと歩き出した。
あの人間がちゃんと帰ったかどうか見ていると、ようやく校舎から出て校庭を歩く姿が見えた。安心して見守っていると、突然あの子は振り返り、じっとこちらを見てきた。ひらりと手を振れば、あの子はまるで幼い子のように大きく手を振って去って行った。
私の脳裏にあるのは昨年、あの子と同じようにここに通い詰めていた少年のことだ。噂によると樋之口に首を斬られてこちらに引き込まれたらしい。あの子が少年と同じようになってしまったら、と考えるとぞっとする。
「君はちゃんと、逃げておくれよ」
願いを込めて小さく呟き、私は窓辺から離れた。