二日目 絵を描き続ける男子生徒
私は今日もまた、あの古びた校舎の前にいた。土間に行くと昨日は一つも無かった靴がいくつか並んでいた。でも埃は相変わらず積もったままだ。
やっぱり静かな廊下を歩く。花子ちゃんの言っていた橘、という人は美術室に居るとは言っていたけれど……。右を見てもすぐ左を見ても教室ばかりが立ち並んでいて見つかりそうもない。困っていると目の前に何かが現れた。
「はっ……花子ちゃん!?」
「柏井、本当に来てくれたのね!」
花子ちゃんは天井から上半身だけを生やしている。嬉しいな、と言って逆さまの状態のまま、幸せそうに笑っている。これだけ素直に喜ばれると、何かこちらまで嬉しくなる。逆さまの彼女の桃色をした柔らかい頬をつつくと、彼女はくすぐったそうに笑った。
「ねぇ花子ちゃん、美術室ってどこにあるの?」
「美術室は四階の一番奥だよ。ごめんね柏井、私少しやらないといけないことがあるから、一緒に行けないの。ごめんね」
「ううん、大丈夫だよ。ありがとう」
手を振って花子ちゃんと別れる。すぐ近くにあった階段を昇って行く。古びた階段の端には小さな蜘蛛の巣ができていた。階段をのぼり切り、ようやく四階に辿り着いた。何だかワイワイと楽しそうな声だけが聞こえる。
しかし一つだけ、影が見えた。それは学ランに身を包んでいて暗い顔をしていた。首元には白い包帯が巻き付けられている。私と目が合うと、彼は目を真ん丸にしたが、すぐに目を逸らして俯いた。隣を通り抜けるとき、ねぇ、と声を掛けられた。振り返ると彼はじっとこちらを見ていた。
「橘に会いに行くの?」
こくりと頷くと彼は虚ろな目でこちらを眺めたまま、冷たい声でただ一言、そう、とだけ呟いた。しばらく沈黙が続き、そろそろ彼に背を向けようと思ったときだった。
「気をつけて」
それだけ告げると彼は私に背を向けて歩き出した。呼び止めようと手を伸ばしたが、彼はすっと音もなく消えてしまった。
私も美術室へ向かおうと、再び歩き出そうとしたときだった。
「わっ」
「うわぁ!?」
すぐ目の前に一人の少年が立っていた。あまりに驚いて尻餅をつくと、彼はくすくすと笑いながら手を伸ばした。
「はは、ごめんごめん。大丈夫?」
「だ、大丈夫」
幽霊は悪戯好きが多いのだろうか。彼は優しく私の手を掴んで立ち上がらせた。私が礼を言うと彼は目を細めたまま、どういたしまして、と柔らかい声で言った。そしてじぃっと私を見つめると、さらりと髪を揺らして首を傾げた。
「ここでは見ない子だね。他所から来たの?」
「うん、この学校の生徒じゃないよ」
「へぇ、そうなんだね。どこに行きたいの? 案内してあげるよ」
「本当? 助かるよ。あのね、美術室の橘くんに会いに行きたいんだ」
私がそういうと彼は目を丸くした。数回瞬きを繰り返している彼を見て、今度は私が首を傾げる番だ。彼はふっと笑うと紳士よろしくの柔和な笑顔を浮かべた。
「俺に会いたかったの? 嬉しいね。俺も君に会いたかったよ、柏井さんでしょ?」
「えっ、どうして」
「花子から聞いていたんだよ。立ち話も何だから、こっちへおいで」
彼はひらりと制服の裾を翻して前を歩き出す。そして少し行った先の扉に手を掛け、カラカラと開いた。扉の上には美術室、と書かれた板が吊り下げられている。中にはいくつもの机が規則正しく並んでいた。窓辺の一つの机の周りに、筆やパレットが散らかっている。机の上に置かれた紙には、遠目からは確認できないけれど、何か描かれているようだ。
「あれは……?」
「俺の絵だよ。これでも美術部員だからね」
窓辺の散らかった机の近くの椅子に腰を下ろして彼は微笑んだ。私も彼のすぐ近くにある椅子を引いてそれに腰掛けた。
「ところで君はどうして俺の所に来たの?」
「花子ちゃんが、橘くんなら七不思議全部知っているんじゃないかって言っていて」
「あぁ、七不思議を知りに来たのか。花子と俺で今二つなら、あとは五つか」
「知っていれば教えてもらいたいなって思って」
「うん、知っているよ。でも全部教えても面白くないから一つだけ教えてあげる」
橘くんは白い指を一本立てて微笑んだ。その笑顔はどこか悪戯な子供のようにも見えた。一本指を立てたまま、彼は少し顔を近づけた。人の良い笑顔が一瞬でくるりと怪しげに変化した。驚いて固まっていたが、彼はお構いなしで、低い声で囁くように言った。
「理科室の動く骸骨。夜な夜な人の肉を求め、校内を彷徨っているんだよ」
想像の遥か上をいく怖さだ。血の気が引いていき、背筋にぞくりと悪寒が走る。すると橘くんはふっと笑い、元の悪戯好きな少年みたいな笑顔を浮かべて私の鼻先をつん、とつついた。
「冗談冗談。ただのお喋りな骨野郎だよ。……会いに行くの?」
「た、食べられないなら」
「ははは、食べない食べない。ちょっと鬱陶しいだけだよ。大丈夫、悪い奴じゃないよ。少なくとも、俺よりは」
満足そうに微笑んだまま、彼は筆を手に取り机に向かう。そしてじっと絵を見つめて、その絵に色を加え始めた。彼の描いているものを覗き込む。彼の絵は優しく淡い色で塗られた景色が一面に広がっていた。まるで橘くんの人柄を表すようだ。
「ねぇ、橘くんも七不思議のうちの一つなんだよね。どんな噂なの?」
「死んだ美術部員が毎日毎日生前に描いていた絵を完成させようとしている、っていう噂。面白くないだろう?」
「よっぽど大切な絵だったんだね。そういう怖くないやつの方が私は好きかな」
「そう? 柏井さんがそう言うなら、いいか」
橘くんが今描いている絵が生前に描いていた絵なのだろうか。優しい色で丁寧に描かれた風景の中にぽつりと一つの影が立っている。人影はただ一つそれだけで、小さく描かれているにも関わらず、妙に目立っていた。橘くんは私の視線が向いている先に気づいたのか、彼は人影を白い指で撫でた。
「この人はね、俺が昔片想いしていた子がモデルなんだよ。大好きだったんだ」
「そうだったんだね。でもどうして一人ぼっちなの?」
「どうしてだろうね」
声だけが急に低くなった。機嫌を損ねてしまったかと慌てて彼の顔を見る。しかし彼の顔は愛おしいものを見つめるかのようにただただひたすらに甘ったるいものだった。甘い目つきの奥深くにドロドロとした狂気を感じたのは気のせいだろうか。
呆けていると、橘くんが私の顔をじっと見つめ、どうしたの柏井さん、と不思議巣に首を傾げた。もう目の奥の狂気らしきものはすっかりと消えて無くなっていた。何でもない、と首を振ると、彼はそっか、と微笑んでまた絵に目を向けた。
「困ったことにね、行き詰っているんだよ」
「そうなの? こんなにも綺麗なのに」
「うーん、でもあの子の住む所はもっと美しくないと、似合わない」
口元に手を当てて難しそうな顔をしている。じっと絵を睨み付けて指でなぞる。何が足りないのだろうか。色も風景も唯一の人影も、一つ一つが丁寧で綺麗だ。充分すぎるくらいに美しいと思うのだけど。
「いつもこうなんだよ。どうしても、何かが足りない。困っちゃうよ」
そう言うなりポケットからカッターを取り出して絵を切り裂いた。小さく切られた絵は満杯のゴミ箱に乱暴に詰め込まれた。
「橘くん!?」
「気に食わなくて。たぶん、あのまま描いていても満足できるものはできなかったよ」
「新しく描き直すの?」
「うん、そうだよ。もうかれこれ何回目だろうね」
未練も何もないような顔立ちで真っ白な新しい紙に向き合っている。どうしようかな、と小さく呟いて鉛筆をくるくると回している。しばらくはじっと紙を見つめていたが不意に私の方へ視線を向けた。そして私をじっと凝視し始めた。まっすぐな視線が少し照れ臭くて私は目を逸らした。
「ふふ、そうやって照れるところも似ているね。可愛い」
「似ている? 誰に?」
「さっき話した、俺の想い人に。可愛くて綺麗で、他人を褒めるのが上手なんだよ。君みたいに」
凝視している目の奥の奥に、ひどく甘くて優しい色がちらりと見えた。一瞬背筋に冷たいものが流れ落ちるような感覚が走り抜けた。
あ、と橘くんが窓の方を見て声を上げた。彼の視線の先に目を向ける。窓の向こう側の暗い空には月が上り切っていた。もう帰らないと。
「橘くん、私そろそろ帰らないと。素敵な絵、見せてくれてありがとう」
「うん、またいつでもおいで。歓迎するよ」
私は立ち上がってお礼を言う。橘くんはにこにこと微笑を浮かべながら手を振った。その視線から逃げるように背を抜けて美術室を出て行った。戸を閉め、一つ溜息を吐いた。確かに、あの包帯の男子生徒の言っていたように……。
「変な人だっただろう?」
顔を上げると例の包帯の彼が立っていた。目は虚ろなまま、私を見据えていた。
「あいつの行動は読み難くてさっぱりわからない。気をつけて」
「貴方は、橘くんの友達なの?」
恐る恐る尋ねると彼は初めて目に生気を宿した。そして少し怒ったように眉をひそめて首を振った。聞いてはいけないことだったのかと思い謝ろうとすると、彼は口を開いた。
「友達なんてものではない。君を僕の二の舞にしたくないだけだよ。僕は、あいつに、あいつのせいで面倒事に巻き込まれたんだ」
「面倒事?」
「君は知る必要のないことだ。さっさとお帰り、戻れなくなるよ」
どういうこと、と尋ねようとしたら彼は薄れて消えてしまった。ひんやりと冷たい風が髪を揺らす。私は一歩踏み出し、土間へと歩みを進めた。
一つの窓から少年が外を眺めている。一つの影が校舎から出て校門をくぐって出て行くのを頬杖をついて見つめていた。門の向こう側に言った彼女の姿が完全に見えなくなると、少年は口元に弧を浮かべた。
「可愛らしい子だね、君によく似て」
布で隠された絵の向こう側に話し掛ける。するりとその布を取ると、そこには綺麗な女性が椅子に腰掛け、静かに目を閉じていた。しかしその目から一筋の水が流れた。
「柏井……あの子も君みたいに絵にしたいくらいの可愛らしくて美しい人だ。手に入れたいね」
橘は恍惚とした表情で絵を眺め、女性の小さな頬を指で撫でる。女性は顔を覆い、絵の中で音もなく泣き続けていた。彼はその様子を優しい笑顔で見つめていた。その絵に再び布を掛けると、白い紙に目を向けて上機嫌そうに鼻歌を歌いながら鉛筆を滑らせていた。